愛宕神社 京都府京都市右京区嵯峨愛宕町 旧・府社
現在の祭神
本宮稚産霊命・埴山姫命・伊弉冉尊・天熊人命・豊宇気毘売神
若宮雷神・迦具槌神・破无神
本地
愛宕大権現勝軍地蔵
太郎坊権現阿弥陀如来

「愛宕山両社 太々百味略縁起」

夫以は和光同塵は結縁之はしめは相成道は利物の終り、 抑当山両社大権現は母子の二神なり、 本地垂跡あらたにして和光の利物貴賎男女の隔なく豊葦原の中つ国に施し給へり、 本社愛宕山大権現は伊弉冊尊是天神第七の陰神なり、 則天照太神月読の尊蛭児太神素戔嗚尊軻遇突智尊これ母神也、 爰に本地を尋るに勝軍地蔵大菩薩也、 若宮太郎坊大権現は本社第五の皇子火神軻遇突智尊又者火産霊尊共申也、 祭り而本地は弥阿[陀]如来なり、 蓋し弥陀如来は娑婆有縁の教主にて此国に生るる衆生一人も捨給はす成仏させしめんとの大悲願なり、 亦地蔵菩薩は忍辱慈悲の薩埵にて誓願諸尊にこえ普く大地によく万物をのを持て漏さず捨玉はざる故なり、
[中略]
茲に当山口の院にて大権現は所謂伊弉冊尊天地開闢の尊妣大陰神にて古今無双の鎮火神なれは、火災消消を祈る事此神にしくはなし、 殊更木火土金水の五形神およひ五穀神等の産給へは、則五穀守護万物の産神成る事明か也、
[中略]
奥ノ院の若宮太郎坊大権現所謂太陽神にて火霊誕生まします其時母神をたき給ふ、 よつて伊弉諾尊忽ち十握剣を抜て火産霊を三段に斬る、 其血赤き霧りとなりて天地に飛ひ散り、天狗神大凶星と化し千里破軍天変火災妖害の機をつかさとり、 ややもすれは禍乱を招き兵革を動し強て勝負を挑をみし快とす、 或は山背国怨児山に住給ふ故に本社前に遮而鎮に彼火神を静め給ふ、
[中略]
往昔橿原宮天皇(神武天皇の御事也)十二月癸巳朔月の丙申日に、長髄彦神を撃給ふに戦て勝を得給はす、 其時軻遇突智尊金色の霊き鵄とげんじ飛来て皇の弓はずに止り光りを曄煌玉へは敵軍は皆亡たり、奇成哉、 問曰、鳶神何国から来る、 答曰、吾は是日国たかまがはら三軍幡みたむろのはた也、吾常に軍戦の業を守るが故に天照太神の神勅ありて今来て天孫をすくふ、 又答曰、鳶神何の所住来る、 答えて曰、吾は山背国怨児山に住なりとの給ふ、 然は諸魔天狗神を領し長く其山に住て王法を守り国家を守護し玉へと祈誓あらしめん、 和朝の守護最上の勝軍神と仰き崇み給ふなり、 此外当社神道深々の習へ数多有りはへれ共神非故是を略せり、 其後大宝元年人王四十二代文武天皇の御宇遷都の勅願ありて役行者泰澄大師はじめて此山に登り給へは、清滝の上に雲起り山下に雷鳴り進むへからす、 依而秘咒密言し祈攘れは黒炎変じて白雲となり天晴れ朝日さして勝軍地蔵不動毘沙門富楼那龍樹出現ましまし、 中にも勝軍の尊躰は金色之甲冑を着し利剣と旗とを護持し給ひ、葦毛の馬にまたがらせ給ひて各光明を放ち大杉の上におよひ、 且亦三鬼王あり名乗らせ玉ひて曰、吾は日本之大天太郎坊、吾は唐土の大天善界、吾は天竺の大天日良なり、 眼前に九億四万余の眷属を将ゆ、吾に二千年前に霊山会場之仏の附属を持て、天狗神かしら太魔王となり久しく此山を領し郡生を利益すと言訖てみへす、 樹頭樹下かは只あらしの吹おろし残りけるとなん、 夫より山に登りて一宇の神社を造営し朝日峰亦は八咫の峰白雲寺と号せり、 其後天応元年人王四拾九代光仁天王奈良之都を今の平安城へ遷せん事を叡慮ましまし、山城の戌亥に当る山を祭りて王都守護之為となさらんとの勅願ありて、 大安寺慶俊僧都に勅して山城国愛宕郡大社を朝日峯白雲寺に遷座し鎮護国家の道場を仰き、愛宕護山勝軍地蔵大権現と諡なしたまひ、 神社を和気の清麿卿に課て造営あらしめ、五千之坊舎を建立し当院を別当と為成給ふ、 依而慶俊僧都を中興開山とせり

「都名所図会」巻之四(右白虎)

愛宕山のやしろ

 愛宕山のやしろは王城の乾にして、朝日山白雲寺と号く。 一の鳥居より坂路五十町ありて、はじめに試みの峠あり。 清滝川・渡猿橋・火燧ちの権現は十七町目にあり。 樒が原は北の麓にして、南星峰とは乾のかたの嶺をいふ。 鉄の華表の額は表を「朝日山」、裏を「白雲寺」と書す (ともに竹裏良恕法親王の筆なり)。
[中略]
 本殿は阿太子山権現にして、祭るところは伊弉冊尊・火産霊尊なり。 本地は将軍地蔵を垂跡となり、帝都の守護神として火災を永く退けたまふなり。 久代は鷹が峰のほとりにありしを、光仁天皇の御宇天応元年に慶俊法師この山をひらきて勧請したまふ (一説に天竺の日羅・唐土の是界・日本の太郎坊、この三鬼は衆魔の大将なり。 文武帝の御宇大宝元年、役小角・泰澄の両聖人、かの悪鬼を退治せんとて、当山の幽谷般若の石屋に籠りて霊験を祈る。 愛宕山はつねに黒雲靉いて絶えず。 両聖人山頭に登るに黒雲たちまち変じて白雲となる。 ゆゑに白雲寺となづく。 その石屋の中に地蔵・龍樹・布留那・毘沙門天、おのおの出現したまふ。 訶字の尊像は甲冑を帯し、将軍の形を現じたまふなり。 当社の建立は勅を蒙りて和気清麿いとなみしとぞ)。

「仏像図彙」

愛宕権現

軻遇突智神を祭る
斯神為火所灼薨故有救火誓
奥院太郎坊後将軍地蔵を本宮と為す
[図]

真鍋広済「地蔵尊の世界」

地蔵本地垂迹考

(1) 愛宕明神

 地蔵尊の本地垂迹信仰のうち最も異色のある歴史を有し、かつ最も深広な崇敬を集めたものは、愛宕明神は戦捷をもたらす勝軍地蔵尊であるとする信仰で、武士階級の興隆に伴って特に足利将軍一家によって尊崇された。
[中略]
愛宕勝軍地蔵については僧必夢の「地蔵経直談鈔」巻三第五十八(1696年成る。)に『本朝勝軍地蔵ノ根元ハ山城国愛宕山ナリ。所謂愛宕権現ハ一座ハ軻遇突智神ヲ祭リ、又一座ハ素盞烏尊ヲ祭ル(中略)光仁天皇天応元年(781)慶俊勝軍地蔵ヲ彫刻シテ、前ノ二神ニ並祭シ玉ヘリ。然ルニ地蔵ニ本勝軍ノ名ナシトイヘドモ、本朝ニハ武士尊重スベキ義ヲ慶俊作意シ玉ヒテ、勝軍地蔵ノ威相ヲ現シ、先ノ二神ヲ奥院太郎坊ト号シ、地蔵権現ヲ本宮トス。此権現ヲ崇ム人、必ズ勝利ヲ得ル。依茲武家専ラコレヲ尊崇シ奉ルト(雍州府志ニ見エタリ。)』とあり、天応元年のこととしてる