太宰府天満宮 福岡県太宰府市宰府4丁目 旧・官幣中社
現在の祭神 菅原道真
本地 十一面観音

「菅家御伝記」

安楽寺学頭安修奏状云、太宰府安楽寺者、贈大相国菅原道真公喪薨之地、十一面観世音大菩薩霊応之処也。 延喜五年八月十九日、味酒安行依神託立神殿、称曰、天満大自在天神。

「筑前名所図会」巻之四

太宰府天満宮

知行二千石ハ公儀より御寄附、同二千石ハ国君より御寄附
太宰府安楽寺天満宮と申奉るハ、忝くも菅丞相の御神廟なり、 天原山庿院と号す、 (菅公の御社安楽寺の地に建し故、後まても境内を安楽寺と号す)
[中略]
延喜三年二月廿五日、太宰府にて薨し給ふ、 御齢五十九御尸を四堂の宅兆を定て安屠し奉らんとしける程に、輌車途中に動かす、 是によって其所をしめて御墓所とす、 今の神廟の地是なり、
[中略]
神殿 延喜十九年、藤原仲平紫震殿を下されて庿殿の西覆とす、回録の仮殿なりしを、今の神殿ハ小早川隆景より建立ありしなり
楼門 石田治部少輔三成当国の代官なりしとき達と云
回廊 長政公御建立なり、長さ百八間門六ヶ所あり
大講堂 則ち安楽寺の仏殿なり、本尊薬師如来、春日の作天智天皇四年乙丑草創あり、開山不詳、今ハ安楽院司とる
仁王門 治安年中都督帷憲これを建
浮殿 頓宮なり、八月御神幸の時御輿入あり、二十四日の夜還御ある也
本地堂 本尊十一面観世音菩薩池中の島多宝塔に安置し奉る、延喜中に味酒安行建立四度の回録に免かれ昔のまゝの古作也、甚精工にしてたくひなし
上の鳥居 いつれの時に建しといふ事しれす麤工なれともまた古雅なり
下の鳥居 元禄九丙子年国君綱政公御建立
金銅の鳥居 天明元辛丑年肥前唐津の人常安九右衛門寄進す
小鳥居 連歌屋丁と小町との角にあり
山上口の鳥居 山上町のはつれにあり近年建
東法華堂 本尊毘沙門天、天暦元年建立、むかしハ護摩供を修せし堂といふ、今は此堂にて太鼓を置て時を打ゆく、俗に是を時打堂といふ
西法華堂 本尊威徳明王脇士ハ普賢文殊、後一條院御願にて万寿四丁卯年、都督帷憲建立中法華堂ハ今廃す
鐘楼 此鐘ハもと観世音寺の什物なり、観世音寺鐘楼頽顛して後こゝに懸ける也、俗に鐘か岬の鐘と入子にして渡りしと云、信するにたらす
文庫 検校坊快鎮建其側に軒をならへて学問所とす
宝蔵
径蔵 白河院永暦元年建立明暦の回録にかゝれり今の経蔵は享保年中再建施主ハ(後略)
御供所
連歌堂 下の会所といふ連歌の祈祷此所にてあり
絵馬堂 三間に七間文化年中予源之発起して四方に募りて是を建り
神馬厩
能舞台 常にハなく、御忌のときあらたに建つを古例とす、所ハ上の鳥居の前なり、能やんて又取のそくるなり
楓宮 菅公北の方田口氏にて、吉祥姫と申奉る、京都吉祥院の里に住給ひし故にかく申奉る
玉尊社 尼尊社 柳尊社 此の三社ハ菅公の御子十四人を祭るといへり
福部社 菅公の御親類田口逹音を祭り御葬送の時絶死すといふ
老松大明神 菅原是善公の御弟嶋田忠臣を祭る、菅公の叔父なり、御葬送の後悶絶殉死すとそ
安行社 山上町鳥居の右にあり、菅公の忠臣なり、宮司三ヶ寺ハ此人の後胤なり、宮司の説に曰、菅公筑紫にさすらへ給ふとき、只一人召具すへきよし勅許あり、故に伊勢の白太夫も明石より引かへしたるゆへ、安行一人めしつれ給ひしといふ、康保元年九月朔日卒年百二十一とそ
貴船大明神
法性坊 比叡山延暦寺第十三代座主尊君を祭る也
太神宮
御霊社 御親類を合し祭るといふ
若宮
新羅大明神
山王社
荒人社
宝満社
高良明神
金比羅権現社
人丸大明神 昔ハ上の会所といふ僧成了の作なりしハ天正の兵火に焼失す、今の像ハ其後に再興せり
宰相社 菅公四世の孫輔正公祭る、此公天元四年太宰大貳に任し下向し、一山の塔婆を建立し、寛弘十六年十二月十五日に逝す、其後神と現し寿永二年正一位加階ありしとそ、四世といふハ菅公五淳茂其子在躬其子輔正なり
和泉社 菅公六世定義公を祭る、菅公御嫡子高観[高視]、其子雅観[雅規]、其子資忠、其子孝標、其子定義なり
安養院 白河院永宝二年、大宰帥藤原資中建立なり俗説に原山の仏殿ともいへと左にはあらす、八坊の預りにもあらす、浦の坊の預りなり
志賀大明神 御池の中のしまにあり
聖徳太子堂
藤太夫社 藤原広嗣を祭れり、或説にハ広嗣建立ともいへり
理趣院 満盛院内ニ有後冷泉院永承三年の建立也
櫛田大明神
大日如来 石仏なり
弁財天 如水公御建立なり
三十三所観音 近年諸人力を合て建立せり
四天王堂 下の鳥居の右にあり
金王社 同上
小太良左近社 下の鳥居の左にあり
太良左近社 蓮の池を出て筑後豊後へゆく道あり、今訛りて太良しやくと称す

久保田収「神道史の研究」

天満天神信仰の発展

観音を本地とするのは、北野天神に限られるのではなく、太宰府天満宮も同様であつた。 『菅家御伝記』に『安楽寺学頭安修奏状』を収めてゐるが、この中に「太宰府安楽寺者、贈大相国菅原道真公喪薨之地、十一面観世音大菩薩霊応之処也。」とある。 太宰府天満宮も十一面観世音を本地としてゐたのである。

西田長男「高良大社縁起の基礎的研究(―)」[LINK]

 然らば、縁起に収められている、上の「高良玉垂宮本地垂迹」なる一條は、いつ頃の成立にかかるものなのであろう。 それについては、次の如き高良記、「カヰサウ(改造)ノ次第之事」の一齣が参考になろう。
一、左宮、宇佐八満(マヽ)大菩薩、
一、中宮、玉垂大菩薩、
一、右宮、住吉大明神、
[中略]
一、九州五社之次第、
 阿蘇十二宮、क{ka}本地十一面、
 宝満大菩薩、क{ka}本地十一面、
 天満大自在天神、क{ka}本地十一面
 志賀大明神、मं{maṃ}本地文殊、
 河上大明神、क{ka}本地十一面、
  九州七社ト申ハ、九州五社ニ大善大菩薩・千栗八満(マヽ)大菩薩ヲアイソヱ申、九州七社トハ申ナリ