五社神社 | 埼玉県南埼玉郡宮代町東 | 旧・村社 |
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現在の祭神 | 天之忍穂耳命・天津日子根命・天之穂日命・活津日子根命・久須毘命 |
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本地 | 阿弥陀如来・観世音菩薩・大勢至菩薩・不動明王・毘沙門天 | 阿弥陀如来・不動明王・千手観音・釈迦如来・毘沙門天 |
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抑百間山西光院は行基菩薩の草創、弥陀如来の霊場也。 在昔人皇四十五代聖武天皇の御宇、菩薩遍歴して天平十一己卯の春、当山に到り、其夜菩薩夢らく衣冠正しき老翁五人忽然として出現し告て曰、此土辺鄙にして人民暴兇なり、仏法を信ぜず神威を敬はず、唯放逸邪見のみ、済度利生の善行菩薩宜しくこれを慮べし、我等須く擁護を加ふべし、我等は即熊野三所・山王・白山なりと宣へり。 菩薩乃覚め信心肝に銘じ、因て弥陀堂を建立し、衆生を誘んと欲す。
[中略]
三ヶ年を経て天平十三辛巳の秋、弥陀大堂(今に至て大堂といふ)諸余の伽藍・神殿・坊舍悉く造功畢ぬ。 規模広多にして殆んど東武の甲刹なり。 其安置する所の尊像は菩薩手親一刀三拝して彫刻し給ふ所の阿弥陀如来、観音、勢至、不動、毘沙門也。 菩薩隨喜して曰、弥陀百躰彫刻の宿願今は已に満足す、此尊像百の間其巧最も精妙なりと。 百間の号はそれに依て樹たり。 [中略] 落慶の日、権現影向して菩薩に対面、報謝し給ふ。 其地を今に現面といふ。 宜なる哉熊野三所の本地は弥陀の三尊、山王、白山は不動、毘沙門の垂迹なり。 今の鎮守五社権現是なり。
歴史
創建については、元禄十二年(1699)に西光院住職宗彬法印と弟子の当社別当大蔵坊秀応が、荒廃した当社の改修の寄進を求めるために記した「勧進帳」(西光院蔵)には次のようなことが記されている。
養老年中(717-724)かの行基が当地を訪れたところ、五人の老翁が現れ、「我々は仏法護持のため、様々な霊地に身を置いたが、当地は天地に比べるものがない霊地である。我々は熊野三山の翁・近江日吉の主・白山の厳翁である」と告げて姿を消した。 行基はこの告げに従い、当地に西光院を建立し、境内に寺の鎮守として当社を創建した。
信仰
当社は「権現様」と称され、行基に神意を告げた五老翁を祀り、霊験あらたかな鎮守神として厚く崇敬されている。 祭神は、天之忍穂耳命・天津日子根命・天之穂日命・活津日子根命・久須毘命の五柱で、五間社の本殿の各々の内陣には、金幣と神鏡及び神鏡形の厨子に納められた祭神の本地仏とされる阿弥陀如来・不動明王・千手観音・釈迦如来・毘沙門天の像が奉安されている。 これらの仏像は、元禄十四年(1701)に村の有力者であった鈴木治左衛門・嶋村新右衛門・青井七右衛門・鈴木源左衛門・法印権大僧都宗彬の奉納によるものである。