八幡神社 比企郡嵐山町鎌形  
現在の祭神 誉田別尊(応神天皇)・比売神・神功皇后
本地 阿弥陀如来

「鎌形村八幡宮縁記」[LINK]

武蔵国比企郡松山庄鎌形村正八幡宮は、人皇五十代桓武天皇の朝、坂上田村丸勅命を蒙り、関東に赴かれし砌り、当所塩山の絶景を感じ、延暦十二年癸酉、仮初に宮柱太しき立て、筑紫の宇佐宮を爰許に勧請し給ひ、同十六年丁丑、陸奥出羽の国司として征夷大将軍に補し、再下向ありし時、重て修営の功を副られ、近隣此の神を崇て、其神徳の巍々たるを恭敬す。 相次で八幡太郎義家、木曾左馬頭義仲、右大将頼朝卿、尼御台所並に信仰ましまし、華構の飾をなさしめ、神田地を寄せられしより、代々の将軍家造営を加へられ、大社と謂ひ繁昌と謂ひ、霊験日々に新に、道俗の信仰歳月に増せり。 尊像は応神帝大菩薩の御形を現はし、御飾を落させ給ひて、円頂法服を着せられ、左に念珠、右に干珠、満珠の宝顆を持せらる。 伝教大師の刻彫、秘し伝へて開帳する事なし。
[中略]
抑八幡大菩薩は東方君子国の宗廟、辱も皇統十五代応神天王の御垂跡、御本地は西方寂光土の本主阿弥陀如来にして、外には魔軍征伐、怨敵退散の稜威を示し、四海安寧、万民快楽の衛護を本とし給ひ、内には八相成道の形を備て、善巧方便、済度利益の巨多なる事逐一に記し難し

「新編武蔵風土記稿」巻之百八十一
(比企郡之六)

鎌形村

八幡社

村の鎮守にして、又田黒村玉川郷等の産神なり、 天正十九年社領二十石の御朱印を賜はりしに、寛文四年焼失せしが、貞享二年再び御朱印を賜はり、 正徳年中に当住某が記せる社伝あり、其中に延暦十二年坂上田村麻呂勅命を蒙り、東奥の夷賊退治として関東におもむきしとき、当所塩山に勧請せり、 相続て伊予守頼義・八幡太郎義家も、東征のみぎり所願をこめ、其後義賢・義仲・頼朝・尼御台所等信仰浅からず、神田若干を寄せらる云々、
[中略]
又銅華曼二つを神宝とす、 一は円径五寸五分、弥陀の坐像を鋳出し、傍に安元二丙申天八月之吉清水冠者源義高とあり、 一は円径四寸八分、薬師の坐像を鋳出す、左傍に貞和四戊子七月日、大工兼泰とあり、右傍に四の文字あれど磨欠して読得ず、 当所へ置るゆえんは伝へず、
別当大行院 本山修験、幸手不動院の配下なり、鎌形山真福寺と号す

「埼玉の神社 大里・北葛飾・比企」

八幡神社

  嵐山町鎌形1993(鎌形字清水)

歴史

 当社の創建は、正徳六年(1716)に別当大行院秀繁が記した「鎌形八幡宮縁起」(『八幡神社文書』)によると、延暦十二年(793)に征夷大将軍坂上田村麻呂が塩山に筑紫の宇佐八幡宮を勧請して八幡太郎義家・木曾義仲・源頼朝など源氏の武将たちの崇敬を受けた。 その後の戦乱により、社殿が兵火に罹り灰燼に帰したため、現鎮座地に移り再建されたと伝える。 神像は、円頂法服の応神帝大菩薩で、伝教大師の作とされるが、現在は所在がわからなくなっている。
 当社は、二面の懸仏を奉安している。 一面は、径15センチメートルほどで阿弥陀如来像が鋳出され、「奉納八幡宮宝歬 安元二丙申天(1176)八月之吉 清水冠者源義高」の陰刻がある。 奉納者の義高は木曾義仲の嫡男である。 もう一面は径18センチメートルほどの薬師如来像で、「渋河閑坊貞和二戊子年(1348)七月日施主大工兼泰」と刻まれている。