白磐神社 山形県寒河江市田代 国史現在社(白磐神)
旧・無格社
現在の祭神 大己貴命
本地 薬師如来

「葉山古縁起校定」

葉山三山五嶽縁起

抑も出羽の国村山の郡葉山三山五嶽の濫觴は、夫れ天地草昧の時、神霹靂の斧を運び之を削り天を開き、造化之を炉陶す、陰陽の精気積て自然に葉山有るをや。 八山を截り七山を塞き平正にして掌の如く。 晴天の時霞衣を曳き、陰雨の時雲裳を移す、源と阿字の大空より出でて三観一心の旨を示す。 峯は円頓実相を冥し、三密同体の理を顕す。 田里前に続き国邑聚富を呈し、長山後に連て松柏枝葉の栄を為せり。 高嶺白雲を帯ひ、天台四明の洞を模し。 巌窟左右に峙て華頂仏滝の嶮に似たり。 伝ひ聞く昔し天地開闢の始め、天神第一の皇子国常立尊高嶽に開く五色の華是れ則妙法蓮華経の五字なり。 故に天より降て垂迹す、葉山地主権現と云云。 本地東方浄瑠璃世界の教主医王善逝の霊場、像法転時の導師也。 依正冥に乾坤に契り感応ある者をや。 東に聖天山は一石の霊像在す、聖天明王化現の勝窟也。 是れ則ち富智円満の天神、七珍万徳の明王也。 効験神徳正に明々たり、利生尊像傷た巍々たり。 謂は所る本地十一面観自在尊、濁末応化の為めに此の石像と顕れ、十種の勝理を施し、六趣の含識を化す。 一子の慈悲を垂れ、修羅の闘諍を誘く。 大悲抜苦の華は、匂を十方の衆生に吐き、普門示現の月は、光を六趣の群類に耀す。 本地垂迹効験新なる者をや。 西に立石山とは二石の霊像在す、是れ則ち唯識土沙竭羅竜王、跋難陀竜王。 狗楼孫仏と観音薩埵とを勧請し奉ると。 謂は所る此の内証を尋ね奉るに、七仏薬師、濁末済度の為めに、無始終の石尊と顕れ玉ふ。 一石の塔婆般若流通分と顕書し、一石の塔婆一乗妙法華と現書す。 其の像三摩地門にして、含蔵虚空の阿字、不生不滅の妙体也。
[中略]
風に聞く、人王の元祖神武皇帝自ら叡観あって、此の霊窟に在して、詔して葉山と号し、叡信の輪言に答え、王候卿相信心の誠を為す。 茲に因り貴賎道俗之を崇め、田夫庶民踵を継く。 尓自り以降、星霜稍奮り霊徳猶を新なる者をや。 恵日弥明かに照用倍明なり。 中ん就く当峯とは、人王四拾二世文武帝の御宇、役の小角冨士禅定に在て、生仏一躰凡身即極の秘行を 附弟行玄沙門に口伝附属し、金色の三鈷を加持して、艮に向ひ之を投すれは、遙に雲中に入りて飛ひ紫雲靆く。 茲に因て大宝二壬寅の歳、行玄沙門瑞雲に随て、創て当峯に入り、親しく地主権現を拝し、踊躍歓喜しき 故に緑苔を藪つて、三所和光の権扉を排き、刹柱を建てて、日域無雙の霊場と崇む云云。

大友義助「羽州葉山信仰の考察」

羽州葉山開山縁起

 羽州葉山に関する国史上の記録は、『三代実録』貞観十二年八月二十八日項「授(中略)出羽国白磐神須波神並従五位下」が初見である。 すなわち右の白磐神が葉山に当ると考えられるのであるが、全く疑問がないわけではない。 たとえば『出羽国風土略記』は、 「白磐神所在祭神詳ならず(中略)白岩館の守護神なりけるにや」 としている。 しかし『乩補出羽国風土略記』は、 「白岩の郷の内にて、葉山といへる高山也、山伏入峯の古跡にて、羽山峰入の山伏とて、一流を立つ(中略)白谷神とハ葉山の事、須波神とハ朝日嶽の事也、古へハ大地ニて社領三千石と有しか、乱世の時領内不浅慈恩寺へ奪ひとられしと言伝へたり、今ハ土民葉山ハ薬師と覚来る、別当も薬師仏也と言ながら、守札等ニハ葉山大権現と書也」 として、白磐神は葉山であること、山伏の一派をたてていたこと、古くは広大な社領を有していたが乱世の時代に慈恩寺に奪われたこと、本地仏は薬師であること等が記してある。
 一方「葉山古縁起校定」によれば、葉山開山の縁起は次の如くである。 同書は「葉山三山主中興医王山金日寺大円院現在伝灯大法師舜誉」が古くからの縁起をもとにして記したもので、特有の文飾はなはだしい漢文であるが、いまその骨子だけを記してみると、
 葉山は天地開闢のはじめ、天神第一の皇子国常立尊が高嶽に五色の華、すなわち妙法蓮華経の五字の開きたるをみて、天降りて葉山地主神となられた。 本地は東方浄瑠璃界の教主医王である。 これによって天地の神々は感応され、東の聖天山には一石の霊像、すなわち聖天明王化現したまう。 その本地は十一面観自在尊である。 西の立石山には二石の霊像、すなわち沙竭羅竜王と沙竭羅竜王が鎮座され、狗留孫仏と観音菩薩とを勧請された。 その内証をたずぬるに、七仏薬師ともども濁末済度のために無始無終の石尊として顕われたものである。
 また風に聞くに、人王の元祖神武帝みずから叡感あって、この霊窟に在し、勅して葉山と号したもうたともいう。 これによって王侯卿相それぞれ信心の誠をつくし、貴賤道俗、田夫庶民に至るまで、みなみな踵を接してこの霊山を崇敬した。
 この後文武帝のとき、富士山頂にあった役小角は弟子行玄沙門を召して、生仏一躰凡身即極の秘法を口伝し、金色の三鈷を艮の方向に投じた。 大宝二年、行玄はこれを追って葉山に入り、まのあたりに地主権現を拝して踊躍歓喜して、緑苔をはらい、三所和光の権扉をひらいて刹柱をたて、日域無双の霊場となした。
[以下略]
としている。 同じ縁起書の類に、寛政十年の「葉山金剛日寺大円院再建化縁簿序」がある。 大要は前記「葉山古縁起校定」と同様であるが、天地開闢のはじめ、国常立尊は「作神地主大権現」として垂迹されたとし、その恵みは広大無辺にして七難苦厄を除き、七福即生の利益を与えているが、 「殊に御手洗八方に流れ田里の苗を潤し五穀成就の沢を蒙らずと言ふ者なし」 と記して、葉山が作神たることを強調している。