伊波比神社 |
埼玉県比企郡吉見町黒岩 |
式内社(武蔵国横見郡 伊波比神社) 旧・村社 |
「埼玉の神社 大里・北葛飾・比企」
伊波比神社
吉見町黒岩347(黒岩字屋敷)
歴史
当社は、和銅年間(708-15)の創建と伝え、『延喜式』神明帳に収録されている式内社である。
嘉祥二年(849)に伊波比神が従五位の叙せられ、次いで貞観元年(859)に磐井神として官社に列格された。
平安時代においても、朝廷からの班幣の対象社として重んじられ、地方の有力社と認められていたことがわかる。
中世の当社の様子は不明であるが、当地は平安時代から鎌倉初期にかけて、源頼朝の弟の範頼の所領となり、その子孫が吉見氏として四代続いた。
そして当社の東南約600メートルの地に吉見氏の城館跡があるところから、時の為政者により在地信仰の中心として重要視されていたと思われる。
それは社号からも推察されるが、かつて当社は岩井八幡宮と称しており、現在も社号額は旧社号のまま残されている。
『風土記稿』に「或は岩井八幡とも称す、祭神誉田別天皇天太玉命、今の神体馬上に弓箭をとる像なり」と記されており、恐らく中世から範頼などの武将達が武運を願い八幡信仰をもたらしたのであろう。
軍神として八幡神が勧請された後に誉田別尊が主祭神となった可能性が高いのである。
元来の祭神は、他の出雲伊波比神社(毛呂山町・寄居町)との関連で、武蔵国造の遠祖を斎い祀る出雲系の神とする説が有力である。
当社の祭神を『神祇志料』は大己貴命、『比企郡神社誌』は天穂日命・誉田別尊と載せており、出雲系の神を主祭神としている。
現社地の西方の台地は八幡台と呼ばれる旧境内地である。
その続きの観音山にある観音堂には正観音像が安置されており、当社祭神の本地仏であった。
観音山は吉見村の除地で息障院の所有であった。
同院が応永初年(1394年ごろ)に現在の御所の地に移ったとされ、その際に当社も現在地に移転されたと考えられる。