冠嶽神社 鹿児島県いちき串木野市冠嶽 旧・郷社
現在の祭神
東嶽神社櫛御毛野命・大国主命・豊受大神
中嶽神社予母津事解男命
西嶽神社速玉男命
本地
東宮阿弥陀如来
中宮薬師如来
西宮千手観音

「三国名勝図会」巻之十

冠嶽[LINK]

串木野村上名にあり。 此嶽は日置薩摩の両郡に連り、其層巒嶂、東は入来邑、南は市来邑、西北は当邑に蟠りて、当邑の内、青峰特に秀抜して、三嶽の名を分つ。 東にあるを東嶽といひ、西にあるを西嶽といひ、中にあるを中嶽といふ。 西嶽最高く、東嶽の方は漸次に低くして、東嶽大岩聳へ起ること高さ二町許、中嶽も高二十間許の危岩あり。 三嶽の四面、高岑環抱し、奇嶽擁立して、殊状詭観、具さに述べからず。 三嶽の上は、皆熊野権現社を建つ。 其登路先ず西嶽に上りて、後に東嶽に至るあり。 西嶽の形、風折烏帽子に似たり。 故に冠嶽と称ず。 隈之城仏生橋の道路、及び市来薩摩渡瀬橋の堤より是を望に冠の状をなすといふ。 又一説に孝元帝の御宇、秦の徐福来て王冠を留めし故、冠嶽と称ず。

冠嶽三所大権現社[LINK]

東嶽、中嶽、西嶽の三所にあり。 故に三所権現といふとぞ。 祭神熊野三所権現。 当社は熊野三所権現垂跡の霊地にして、用明帝の勅願に因り、蘇我馬子宿禰建立せり。 三所権現社の別当、東嶽の上にあり。 頂峯院といふ。 参詣の徒東嶽に至り、次に中嶽次に西嶽に登るを順路とす。 其次序に隨て、是を記す。
冠嶽の南麓に祓川あり。 東より西に流る。 此川下流にては五段田川といへり。 東嶽路此川に沿ふ。 此路を東行すれば、一澗水あり。 花川といふ。 東嶽より来り、北より南へ流れて、祓川に入る。 其路花川合流の処より、花川に沿て、北に折しき行を半町許、頂峯院二王門あり。 行を一町許にして、花川を渉る。 華表あり。 華表の内石を甃て路とす。
行を二十間余、即東嶽熊野権現社なり。 俗に東宮と呼ぶ。 例祭年中六度、其中正祭九月九日。 別当頂峯院は、東宮の東側にあり。 左右樹竹翠を交ゆ。 本地堂華表の内にあり。 本尊阿弥陀仏にして、秘仏とす。 又稲荷大明神東宮の東側にあり。 此外本社の南に小社若干あり。
本社の後は巨巌危崖列峙層立す。 其子ノ方三十間許に、仙人巌あり。 高さ二町許、西北絶壁直立して、創成が如し。 東面は山に接して、崖頗る低し。 南面樹木鬱然として、登路あり。 頂峯院開山阿子丸仙人、此巌にて苦行す。 故に仙人巌と号す。 嶽頂頗る平にして、竪二尺、横一尺五寸、深さ一尺許。 霊水漲て、四時共に不増不減なり。 硯の水と名づく。 童子此水を用ひて書を習へば、書を善くすとて、汲帰る者多しとぞ。 文明中、桂庵和尚来て詩を賦す。 仙人巌の西面、絶崖七丈許の内、三が一下に窟あり。 濶さ一丈、深さ二三間、窟内に不動明王の像を安して、不動窟と号す。
仙人嶽の南面下に西嶽路あり。 東より西に通す。 又仙人嶽の西面下は花川上流なり。 花川に沿て路を分ち、北行すること一町余、宝生洞あり。 仙人嶽とは別嶽にて一谷を隔つ。 宝生洞の奇状、仙人嶽に類す。 其西南面に、下たり三丈許の処に、虚空蔵洞あり。 洞深さ七八間、洞口縦横一丈許、長梯長さ四間なるを架す。 洞中に虚空蔵像を安す。 以て名とす。 側に護摩石あり。
是より仙人嶽南の西嶽路に廻て、嶽路を取る。 西行すること十二町許、路より北二十間許に装束嶽あり。 高さ七丈。 此嶽下往古熊野権現を守下し時、装束せし処なる故に名づく。 毎年十二月二十九日、椎木を立て祭をなす。 猶西行すること二町許にして、中嶽に至る。
其路分て北に転じ、登ること二十間許にして社あり。 即中嶽熊野権現なり。 俗に中宮といふ。 例祭六度、正祭九月九日。 本地薬師如来を安す。 中宮より北四十間許に中嶽岩あり。 高さ二十間、周廻一町許。
西嶽路に返り、西行三町半許、路北十五間許に白山嶽あり。 嶽下に白山権現社を建つ。 白山嶽の後三四十間に、不動石あり。 石形不動像に類す。
又西行半町許、路南の側に大嶽窟あり。 屹立して形状特に奇なり。 其嶽高さ三十間許、嶽面三分一の上に窟あり。 濶さ五間、深さ三間、高さ一丈許。 窟内に小祠を安す。 大岩戸権現といふ。 祭神霧島開聞彦山の諸神を勧請す。 窟内の上巌に塩気を生して色白し。 嘗れは鹹し。 窟に入るには崖面横に徹し耳巌あり。 其巌稜を攀て至るべし。 其路極て危険なり。 大岩戸の旁に洞穴あり。 天生の煙草あり。 実熟て落れば隨て生し、四時共に生継て絶えず。 土人蘇我烟草と呼ぶ。
是より西行すること三町許、路北二三町許に材木巌あり。 嶽石重畳して、材木を積むに似たり。 因て材木額と号す。 又夜叉ノ材木とも呼ぶ。 土俗の説に此嶽往古材木を積たりしに、一夜忽変して石となるといへり。 其嶺に石小祠を建つ。 材木嶽権現と称す。
西行すること二町許、路南二町許に経家山あり。 山上石あり。 其石巻軸を積累たるか如し。 是より西行すること二町許にして西嶽に至る。 東嶽より西嶽まで、凡一里。
西嶽孤秀し、其状東よりは漸々に上り、急峻ならず。 西は懸崖数百仭なるべし。 懸崖より西は山勢次第に下り、当邑の治下に通ずる路あり。 其路急険なり。 此絶嶺に平地あり。 竪十二間、横八間許。 西嶽熊野権現社其上にあり。 俗に西宮と称す。 例祭六度、正祭九月九日。 本地千手観音大士、並に不動明王を安ず。 西宮は延宝六年、丙午、十月四日夜、火災に罹り、神社仏躯一時に焼亡す。 天和三年、当社を営造す。 貞享四年、千手及ひ不動の像を、京師仏工に命して彫刻し、安置せり。