剣龍神社 山形県飽海郡遊佐町当山 式内論社(出羽国飽海郡 小物忌神社)
旧・郷社
現在の祭神
剣龍神社大己貴命
末社・白山比咩神社伊邪那美神・速須佐之男神・菊理比売神
本地
剣龍山大権現薬師如来
白山妙理大権現十一面観音

「出羽国風土記」巻五

薬師堂[LINK]

本尊は薬師如来なり 当山村上戸に在り 此薬師如来は大同年間より剣龍山大権現本地仏と唱来り 千余年を経り霊像なり

「飽海郡誌」巻十
(第八編 村里 第六章)

剣龍神社[LINK]

字下当剣龍寺ニアリ 大己貴少彦名ノ二神ヲ祭ル 本ト剣龍山権現ト称シ本地仏ヨリシテハ剣龍山薬師堂ト称セリ 古ヘ末社白山神社ノ東方ニアリシヲ年代不詳今ノ位置ニ移転セシト云フ (上野沢安養寺記録ニ当社ヲ剣龍山宇志別神社ト云ヘリ延喜式神名帳ニ據ルニ同社ハ平鹿郡ニアリ是レ猶伊氐波神社ノ北俣愛沢ニ於ケルカ如クナルヘシ) 慶長十四年十月亀ヶ崎城主志村光惟堂宇ヲ再建セラレ(菅原政次記) 寛文十二年八月二十三日焼失(山埼高橋善四郎家代記) 造立ノ年月詳カナラズ 安永八年八月八日炎上 此時本地薬師像ハ烏有ニ属セシモ古来秘仏ト称スルモノハ幸ニ恙カナカリキ 天明四年更ニ薬師日光月光三尊ヲ造リ之レニ安置ス(天明四年薬師如来万人講奉加帳)
明治三年神仏分離ノ際地方官立会シ内陣ニ就キ彼ノ秘仏ヲ納メシテフ箱ヲ開キ之レヲ検スルニ一口ノ剣ト記録アリ
[中略]
之レヲ案スルニ本ト剣ヲ身体トナシ剣龍権現ト称セシヲ弘仁七年沙門弘覚ナルモノ初メテ本地薬師ヲ安置シ剣龍山剣積寺ト称セシモノゝ如シ 而シテ寛文十二年ノ回禄ハ霊剣幸ニ烏有ヲ免レシヲ以テ学頭浄光院別当坊等肝銘ノ余堂宇建立ノ際更ニ之レヲ函ニ納メ古縁起文ト其筋ニ差上ケタル文書トヲモ同ク函中ニ封ジ籠ノ内陣ニ安置セシモノナリ
是ニ於テ本地仏ヲ学頭剣積寺ニ下附シ更ニ剣ヲ霊代トナシ剣龍神社ト称ス

剣積寺[LINK]

字当剣龍寺上戸ニアリ 剣龍山ト号ス 東京真言宗弥勒寺末ニシテ薬師如来ヲ本尊トナス 寺伝ニ慈覚大師ノ開基ニシテ(元禄十七年二月二十一日書上)浄光上人ノ再興スル所ナリト(天保十一年十二月書上)云フト 之レヲ確ム文書ナシ(但出羽風土記略記ニ浄光ノ再興シ延慶元年四月ニ係ルモ據ナシ) 本ト浄光院ト称シ剣龍山衆徒六口ノ学頭タリ故ニ剣龍山剣積寺ノ称号ヲ襲用ス
[中略]
薬師堂 本ト剣龍権現ノ本地仏タリ 安永九年八月八日焼失 天明四年ノ造替ニ係レリ
(天明四年秋薬師如来万人講奉加帳 当寺所蔵) 巳ノ八月上方ヘ注文仕候 薬師如来尊像御姿ふすべ色にて坐像三尺五重台舟後光以上七尺ニ仕候 日光月光等両尊立像にて御長三尺ニ仕 惣金箔ニ御座候
明治三年当寺ニ下附セラレ同四年三月十五日当寺五十二世隨息別ニ堂宇ヲ建立シテ之レヲ安置ス

「府県郷社 明治神社誌料」中巻

郷社 剣龍神社[LINK]

本社の祭神については、種々説ありて一定せず、されど文政十一年子正月調製の由緒書に、
「剣龍山大権現薬師如来は、鳥海一の王子医王尊にて、牛頭天王の本地仏にて、云々」
とあり、之れに依りて観れば祭神は牛頭天王即ち素戔鳴尊なるが如し、 又社家に伝ふる古老の口碑に、本社は小物忌神社なりと称し、由利郡上郷村の須田善三氏の古記録にも、
「(前略)湯殿山磐長姫尊夫より白山妙理大権現白山姫神社伊弉諾命(中略)是一段高き山西方阿弥陀如来月山神社、月夜見尊と称へ奉る、左りの山は鳥海山薬師如来、大物忌神社、日光月光十二神、薬師如来(中略)瑠理光如来を移し奉り、稲村嶽剣龍山大権現本地薬師如来、鳥海小物忌神社、雲龍倉稲魂命云々、」
とあるに依れば、当社の社号は剣龍山小物忌神社にして、祭神倉稲魂命なるが如し、 亦風土略記に據れば、
「下塔村に剣龍権現あり、別当剣積寺、本尊薬師如来なり、落伏永泉寺も剣龍山と称す云々」
とあり、 然れども明治三年までは神仏混淆にして本地薬師如来、脇立日光菩薩、月光菩薩とせり、 又境内に末社白山妙理大権現あり、十二神屋敷と云ふもありしといふ、 然れば当社は小物忌神社たるが如し、 何れそ正説とすべきか尚考ふべし。
[中略]
本社の創建年代詳ならず、俚老の口碑に據るに、平城天皇大同元年に創まると云ふ、 元と白山比咩神社の東の方に鎮座の所、何時か現今の地へ遷座せられき、
[中略]
御神体は剣(一振)、奇石(二個)なり、 御剣は、古老の口碑に往古平城天皇大同年中宝剣鳥海山より飛び降り、当社の旧境内(字ヲカヾミ沢)に止り玉ひたるものにして、是れ即ち当社の神体の宝剣なりと伝ふ、 而して、光格天皇安永八年八月の炎上の節、宝剣自ら箱より飛び出でゝ、境内末社白山妙理大権現の社地に飛び移りて、雲の如きものゝ中に坐しませるを、時の別当之を末社内に奉安し、其後拝殿再建の節、殿内に奉遷し、更に明治十三年現今の社殿に斎き奉れりといふ、 然るに須田氏の云ふ所にては、往古島海山稲倉嶽剣龍山大権現の宝剣は飛出で玉ひしも、其後何所に止り給ひし哉、其座します所を聞かざる由を口碑に伝へたるが、由緒及び社家社家の口碑とを照合すれば、神体の宝剣は正しく稲倉嶽の剣龍山より飛び降りたるに相違なしと云ふ。
[中略]
右二個の奇石は由緒詳ならす、 然れども往古より宝剣の左右に安置し、社殿再建の都度之を宝剣と共に遷座し奉り、宝剣は薬師如来の背後に、二個の奇石は日光菩薩、月光菩薩の背後に常に奉安し来れりと云ふ。
[中略]
境内末社一社、白山比咩神社、祭神三座(伊邪那美神、速須佐之男神、菊理比売神)、
末社の勧請及び遷座等のこと明かならず、 蓋し古社にて、末社白山妙理大権現本地十一面観世音菩薩と称し来りしを、明治三年八月十四日末社白山比咩神社と改称せり。

中山和久「三つの剣龍山 -鳥海山当山修験の背景-」

大物忌神と小物忌神
 御浜から真北へ分岐する稲倉岳は、鳥海山の秘所あるいは奥の院と伝える山で、剣竜はここから出たともいう。 剣積寺が別当を務めた剣龍神社の御神体は一口の剣(雷鉾とも)で、もと鳥海山稲倉嶽剣龍山小物忌神社雲龍倉稲魂命の御神体である宝剣(剣龍の神剣)が飛び出して落下したのを遷し祀ったものだという。
[中略]
「剣竜山」の誕生
 剣竜山という語彙が登場したのは、永泉寺の開創伝承が最初ではないかと思われる。
 「大泉事跡考」には、 「昔鳥海山上に外道住みけるを退治の為大師護摩を修し給ひ火性三昧を念じければ、山上に火発り外道雲に乗りて逃げ行きしを、大物忌の神剣をもつて両断と成し給ふに、その尾此所に落ければ尾落伏と号すといふ」 とある。
[中略]
永泉寺・常恩寺・剣積寺の関係
 永泉寺に落ちた剣竜は、剣積寺に遷されたとする伝説がある。 「荘内名所旧跡伝来記」には、 「鳥海山今よりも高くして手長足長といへる外道此所に住みて往来の人を悩ます、山上に在る時は大物忌の神霊、鳥を遣してむやと鳴かしむ、鬼谷へ出て人を取る事ある時はうやと鳴く、其声を聞けば往来を留む、此谷を地獄谷といふ、うやむやの関は此いわれなり。 /歌に 武士のいるさいづさにしほりつゝ とやとや鳥のうやむやの関 /大師、火性三昧を執行し給へば、猛火鳥海山に登りて山を焼崩し海中に入り一つの嶋と成る、今の飛嶋これなり。 此鬼忽ち空へ飛行せしを大物忌の、神力をもつて彼を二つに切り給ふ。 首の落し所、龍頭寺と号す。 尾の落し所は尾落伏村、剣龍山是れなり、此剣は剣着寺の宮殿に納り給ふ。」 と書かれている。
 これが、先に紹介した剣龍神社の御神体としての、鳥海山稲倉嶽剣龍山小物忌神社雲龍倉稲魂命の剣竜であろう。 剣龍山大権現の本地仏は薬師如来である。 剣龍神社の祭神は大己貴神(大国主神)と少彦名命の二神で、ともに医薬の神とされ、薬師如来を本地とする。
[中略]
 剣竜山浄光院剣積寺(薬師之宮、剣竜山薬師堂)はもと天台宗で、大同元(806)年に慈覚大師が薬師如来(大国主神、大己貴神)を勧請し、本尊に安置して創建されたと伝える。