霧島神宮 鹿児島県霧島市霧島田口 式内論社(日向国諸県郡 霧嶋神社)
旧・官幣大社
現在の祭神 天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊
[配祀] 木花咲耶姫尊・彦火火出見尊・豊玉姫尊・鸕鷀草茸不合尊・玉依姫尊・神日本磐余彦尊(神武天皇)
本地 十一面観音

「三国名勝図会」巻之三十四

西御在所霧島六所権現社[LINK]

田口村霧島山西面の半腹にあり。 社西南に向ふ。 祭神正殿四坐、瓊々杵尊、彦火火出見尊、葺不合尊、神武天皇。 東殿一坐、国常立尊、高皇産霊尊、伊弉諾尊、天照大神。 西殿一坐、大己貴命、国狭槌尊、惶根尊、神皇産霊尊、伊弉冊尊、素盞嗚尊、正哉吾勝尊。 是十五体の神像を分ち、六坐として六所権現とす。 本府神官、本田親盈、【神社考】、并に【神社選集】に曰、西御在所霧島六所権現は祭神六坐、瓊々杵尊、彦火火出見尊、葺不合尊、木花開耶姫、玉依姫、神武天皇是なり。 当社の祭神十五体は、今現在の奉祀なるに、親盈が説と所異かくの如し。 其故を詳にせず。 然れども霧島六所権現は、瓊々杵尊、彦火火出見尊、葺不合尊、三夫婦の神を崇て、多くは六所と称ず。 前條霧島神社総数の題下に記すが如し。 然るに今所は十五体といへども、親盈が説は六体とあれば、蓋往古は六体なりしを、後世に増加して、十五体とせし者なるに似たり。 今両説を並べ記して参考に備ふ。
当社は霧島権現六社の一なり。 又当社は、吾藩朝歴代の邦君特に帰敬したまひて、宮殿の壮麗も、他廟に超へ、万民の尊崇も亦勝れたり。 因て世俗に其所を指さずして、霧島宮といへは、野人牧豎も当社の事と思へり。 是古よりいひ習はせし言の然らしむるにて、当社に帰依する者の多きを見るべし。
祭祀は年中二十五度あり。 其内大祭二度、二月初酉日、十一月初酉日是なり。 中祭三度、正月元日、八月二十五日、九月十九日是なり。 正月元日の晨朝には、神前の斎庭に、三枝の榊を敷き、社吏手に真榊を持て四方に向ひ、祝辞を唱へて米を散す。 是神代よりの故事なりとぞ。 【日向風土記】に散米の事見ゆ。 又是を宇知末伎といふ。 今散銭といふは散米の代にせるにて、散米銭の略語なり。 小祭四度、正月七日、五月五日、九月二十九日、十月亥日、是なり。 下祭十六度月日略す。 闔藩の人民、参詣する者常に絶へず、九月九日、十九日、二十九日には、参詣する者、特に多し。 就中十九日最盛なり。
当社別当華林寺の記に云、欽明天皇の時、慶胤上人なる者、此山を開闢し、当社及び梵刹を創建す。 其後山上火を発し、寺社焼亡して、多くの星霜を歴たりしに、村上天皇の御宇に、性空上人此山に登て、法華経を持誦すること若干年、当社を建立し、六所権現と号す。 六観音を感見して、其本地とせり。 初め上古の神社は、今の社地より東一里十町許に当る、当社の嶺矛峯と火常峯との中間、背門丘にありしが、天暦中、性空背門丘より今の地に神社を遷し、併せて、別当寺を新建す。 性空は天台宗の徒なり。 故に別当寺も台宗にて、性空より第二十一代住持道果に至て、凡二百八十年、台宗相承せしが、文暦元年、甲午、十二月二十八日、山上又火を発して、神社寺院及び什宝文書等悉く焼失す。 其後二百五十年許の間は、神社寺院共廃して、唯仮宮あり。 其仮宮を、待世行祠と云、下に見ゆ。 文明十六年、甲辰、円室公、真言宗の徒、兼慶法印に命して、神社及び別当寺を造営し、兼慶をして廟務を掌らしむ。 於是兼慶大願を発し、矛峯の絶頂に登て持念す。 但橋本某一人従ひ行く。 即今の社司の先祖なり。 既にして祈願満ち、往古の社地を求得て、神廟を建立し、六所権現を遷宮し、且本地六観音の像六体を社内に安置す。 堂宇巍然として、往古の壮麗に復れり。 即今の地は、村上天皇の時、性空が神社を遷徒せる処なり。 因て兼慶を以て中興開山とす。 是より真言宗となりて、今に至る。 文明後、宝永二年、乙酉、十二月十五日、神社及び寺院火災に罹る。 別当社徒神体等を奉して火を避く。 則ち仮殿を営んで是に遷祀す。 正徳五年、乙未、浄国公御重建ありて、壮麗旧に倍す。 即ち今の神社なり。
白尾国柱云、神廟背門丘に在りし時は、高千穂神社と称せしにや。 凡そ瓊々杵尊の廟号を、高千穂と称せし例は、日向国児湯郡妻神社の内、高千穂宮ありて、瓊々杵尊を祀りしにて知べし。 【続後紀】、承和十年、九月甲辰、日向国無位高智保皇神、奉授従五位下。 又【三代実録】、天安二年、十月二十二日、授日向国従五位上高智保神従四位上。 是単に日向国と記されて、郡名なければ、詳ならずといへども、上古背門丘にありし時は、日向国内なれば、即此社なるべしと。 按に小林邑霧島山中央六所瀬多尾権現社は、往古背門丘にあり。 山上発火の後、山下処々へ移し、終に今の地に遷宮するといふ。 然るに又当社も、上古背門丘にあるとす。 何れが是なるや。 若し背門丘の神廟は、当社たらば、【続後紀】に、承和四年、八月、日向国諸県郡霧島岑神預官社と見ゆるも、当社ならん。 旧説には、是を高原邑東御在所社なりといふ。 然れども彼社は、山上に非らず。 故に岑の字に契はざるが如し。 今当社を西御在所社と号するは、高城邑東御在所社に対しての称なるのみ。
【霧島霊応記】云、弘安四年、閏七月朔日、蒙古入寇の時、当宮に奉幣ありて、奇瑞の事を載せたり。 又当社は、大中公、貫明公、松齢公の御時、邦家の大戦大事ある毎に、当社へ御祈念ありて、御願文を進られ、或は仏経を転読せしめられ、或は夢想を受られ、或は吉凶の神鬮を拈り給ひ、其霊応顕著なること、挙て計ふべからざる。 故に邦君崇仰したまひ、喜捨の香火田、或は甲冑器仗の類甚多し。 社司橋本氏、別当華林寺。
[中略]
○本地堂 本社の西方一町許にあり。 本尊十一面観音一躯(木像中興兼慶作)、夾侍二十八部衆(木像同作)。 往古性空上人、当山六所権現社を建立するや、六観音放光示現あり。 此時十一面観音其先に在り。 故に此堂には、六観音の内、十一面観音一躯を安置すといふ。 供養正月五日、九月初午日。
○十一面観音堂 本社の南十間にあり。 当社の本地十一面観音の画像を安置す。 真如親王の筆にて、当山第一の霊像とす。 世に不出の宝品といへり。
○鎮守堂 本社の西二町許にあり。 当山の鎮守とす。 本尊両部大日如来。 供養五月二十八日、正月二十八日。
○仮殿 本社の西二十間許にあり。 祭神天満天神荒神。
○多宝塔 本社に南二十間許にあり。 本尊五智如来(金彩色木像)。 慶長十九年、甲寅、十一月、松齢公御立願にて創建したまふ。
○香堂 本社の西二町許にあり。 本尊十一面観音を安置す。 曼荼羅堂と号す。 上古より、歳時昼夜となく、不断香を焚接く所なり。 社記に云、性空神霊より命を受て、此式を行ふと。 大供養正月六日。
○護摩堂 本社の南十間許にあり。 本尊十一面観音。 毎年秋彼岸より、冬十月初亥日まで、当社に華林寺の住持寓止し、十一面観世音護摩供を、毎日一坐づゝ修す。
○不動明王石像 本社の南二十間許にあり。 矛峯神体の代りとして此に建つ。
○税所祠 本社の西十二間許にあり。 社記曰、宇多天皇の皇子篤房親王、五世の孫、正五位下藤原篤如、後一條天皇の時、国分正八幡宮と、霧島神社の神職となり、治安元年、辛酉、三月、大隅国に下着し、神領の租税を司り、税所を以て氏とす。 当祠は篤如を祭れるといふ。
○待世行祠 田口村、待世にあり。 本社を距つこと南一里十八町許にして、本社の境内に係る。 祭神本社に同し。 上古の本社、山上にありし時、文暦元年、山上に火発して、一山焚燃す。 神体及ひ神代よりの不断香火を此地に移し、爰に在ること二百五十年許なり。 文明十六年、圓室公今の地に遷宮す。 此行祠の跡を仮宮といへり。 十一月初辰日、祭祀をなす。
○野上六社権現社 本社の属社にて、本社の西南二十町許にあり。 田口村に属す。 祭神天御中主尊、高皇産霊尊、天照大神、天万栲機千々姫、天忍穂耳尊、玉依姫の六坐なり。 本社の御祖神と称す。
○天子明神社 本社の末にて、本社の西一里許にあり。 田口村に属す。 祭神蛭児命、天忍日命、天穂津大来目命の三坐なり。 【姓氏録】曰、天孫瓊々杵尊神籠之降也、天押日命、大来目部立御前於日向高千穂峯、然後以大来目部為天靭負部云々。 此地に此二神を祭る事、理ありといふべし。 祭祀九月十九日。
○稲葉神社 本社の末にて、本社の西南一里余にあり。 田口村に属す。 祭神木花開邪姫命、倉稲魂命、猿田彦命、是なり。 社記に曰、此地は開闢の初、自然に稲始て生せし処といへり。 荒古瓊々杵尊、高千穂峯に天降の時、霧暗かりしに、此処の稲穂を取て、四方に散したまひしかば、天忽開明すと。 故に此地の稲を不蒔稲といひ、日本国中稲の根本なり。 当社は此縁故にて建たり。 今其稲穂を取て、毎年八月十五日、新嘗の神供とす。 又二月初酉日、新年の祭に、千穂を備ふ。 御田の神を祭るとす。
○市岐明神社 本社の末にて、本社の東南二里、大窪村にあり。 祭神天神玉命、天八坂彦命。
○飯富明神社 本社の末にて、本社の離方一里半余、大窪村にあり。 祭神岐志爾保命、天日神命。
○七社明神社 本社の末にて、本社の兌方二里、川北村にあり。 祭神八十枉津日命、神直日命、大直日命、天伊佐布玉命、天表春命、天背男命、経津主命。 飯富七社の二祠は、往古は許多の神田を寄附ありしとぞ。
○亀石坂 本社に詣の道にて、前條香堂と鎮守堂の間より、登るの坂をいふ。 坂の傍に、一奇石あり。 亀の形に似たり。 亀石あるに因て、坂の名を得たり。
○風穴 亀石坂の側にあり。 嶽穴より常に風を出す。 嶽上に観音の石像を安置す。
○御手洗川 水源は本社の西二町許の下、嶽天より出。 潴滀して池の如し。 其池中に小祠あり。 水天弁天を安す。 例祭五月二十日。

巻之三十三

襲之高千穂槵日二上峯[LINK]

日向国諸県郡、大隅国曽於郡に跨れる、大嶽にて、常に霧島山といふ。 日隅両国に連るといへども、此嶽の故事、多く曽於郡の地に出るを以て、此邑に具へ載す。 山麓の周廻凡三四十里、高さ数千丈、天表に聳ゆ。 山脚田口村より、絶頂矛峯に至て、登路六里半也。 是【古事記】、【日本書紀】に見へたる、筑紫日向襲之高千穂槵日二上峯にして、太古皇国開闢の初め、天照大神の皇孫天津彦火瓊々杵尊、天上より始て降臨し玉ひし、皇国第一の霊嶽也。
[中略]
高千穂とは、此峯上古の総称なり。 後世霧島山と通称す。 高千穂の名、高は崇高秀出の義、千穂は、皇孫天降の時、稲千穂を散し玉へる縁に因て名づく。 伝記曰、天孫降臨の時、雲霧晦冥にして、物色を弁ぜず。 天孫稲千穂を以て、四方に散し玉へば、天色忽開晴す。 是に由て高千穂峯と名づくと、是なり。
[中略]
槵日は仮字にて、槵触ともあり。 共に霊異の義なり。 槵触とは、槵日を活用せる言なり。 猶神さび、神さぶると、云が如し。 然るに、【書紀】等槵日の句法を考ふに、或は上に繋て、槵日高千穂峯と書し、或は槵日二上峯と書し、或は是を下に繋て、高千穂槵触二上峯と書し、或は高千穂槵触之峯と書し、錯置して文を互にす。 是槵日槵触とは、蓋此峯の霊異を賛美せる語にて、此峯の名に非ざるなり。 其句法の如き、神代の巻に可美少男といひ、或は可怜小汀と、いふの類なり。【書紀通証】、重遠曰、槵日は即霊(クシヒ)也、高千穂抜于衆山、二峯特秀、故称曰霊之二上。 此説も霊之二上とは、亦賛美の語とするなり。 此峯、古より今に至て、神奇霊威甚多し。 故に槵日の称あり。 一説槵日とは、此峯の一名なり。 高千穂槵日二上とは、其山名を三重て云るなりといへり。
二上とは、此峯の上に二峯あり。 東西に並び聳へ、二頭ある故に二上峯と号するなり。 高千穂とは、其総名なり。 霧島といへる義は、下に霧島山の名称と題して、是を明す。 二上峯の如き、東にあるを矛峯といふ。 西にあるを火常峯といふ。 往古は皆日向国内なりしが、和銅年中、日向国を割き、大隅国を置かるに及て、矛峯以東は、日向国諸県郡に属し、火常峯以西は、大隅国曽於郡に属す。 矛峯一名は、東峯、又本嶽といふ。 矛峯とは、矛を絶頂に建つ。 瓊々杵尊天降の時、斎し玉ひし神代の旧物なり。 因て矛峯と名づく。 火常峯は、一に西峯と呼ふ。 往古矛峯と並び聳へし一峯なりしが、中古以来、嶺頻に火を発し燃へ穿ちて、深坑となり、今僅に其峰形を存ず。 常に火を発するを以て、火常峯と号す。 此二嶺の根、相距ること、二町許、其中間凹にして、馬背の状の如し。 因て其中間を背門丘(セトヲ)と呼ふ。 背門丘とは、凡両山の中間、低き処の形状をいへる名称なり。 又霧島山矛峯の西一里許に、一峯ありて、矛峯と双ひ峙つ。 是を霧島山の西嶽といふ。 又虚国嶽(カラクニダケ)と号す。 当邑と踊邑に分界す。 虚国峯と矛峯とは、一里許相隔るといへども、霧島山は巨嶽なる故、遥に望めば、此二峯近く対して並び秀つ。 因て矛峯を東峯といふに対して、虚国峯を西峯といふ。 今俗に霧島山の二峯とは、此二峯をいへり。 一説【書紀】等に所謂高千穂二上峯とは、此二峯なりとす。 此説亦通ず。 瓊々杵尊の天降ありし所は、即ち矛峯にして、其斎し玉へる霊矛も見在し、神蹤明白なれば、霊矛を神と崇め、攀躋の徒、必ず矛峯に登て、敬礼虔拝せり。
[中略]
○霧島山の名称 【旧事大成経】、切嶼山に作る。 此嶽、本名は高千穂といへども、後来霧島山を以て通称とす。 霧島の名義、種々の説あり。 伊弉諾尊も、我所生之国、唯有朝霧而薫満哉之哉と云玉ひ、又天孫降臨の時、霧深くして物色を弁ぜず、稲穂を投げ散し玉ひしに因て、霧晴れし事、上文にも記せし如くにて、此峯は、特に朝霧夕霧常に深き処なり。 今に至て然りとす。 故に霧島と名づくといへり。
又一説に、皇孫天降の時、霧海を見下し玉ふに、浮たる島の如く見ゆる物あるを、天瓊矛を以てかきさぐり、其処に天降あり。 其矛を逆様に建玉ふ。 是を天逆矛と号す。 今にも雲霧都城の曠野より、高千穂峯の山腰を擁する時は、其中に二峯顕れ出浮たる島の如し。 故に往古より都城の地を霧海といひ、又其地を虚海(カラウミ)ともいふ。 霧島の名は、是より出たりとす。
又一説に、天孫稲穂を撒し玉ひしに、雲霧開き晴れしより、霧島の名起るといへる説あれども、霧島といふ名は、其以前よりの名にて、稲穂の縁により、高千穂峯の名を得しに、今猶霧島といふ名に、呼来るは、却て其旧称にや仍ぬらんといへり。
又一説に、霧島の字、蓋【続後紀】、承和四年より始る、曰霧島岑神預官社是なり。 先是古書の内所見あるを見ず。 【続紀】延暦七年、火を曽の峯に発す。 承和四年に至て、実に五十年なれば、其霧島と名づくる、此間にあるべし。 近比我桜島火を安永八年に発す。 爾後今に至て五十年、猶煙霧を帯ぶ。 是を推て見れば、此峯霧を以て奇を示すが如し。 因て其名を得たるならん。 但島の字を配するは、所謂浮渚に本づくなるべしといへり。
又一説此峯の東、諸県郡高城、東霧島村、東霧島神社の内、伊弉諾尊、火雷を斬り玉ひし址あり。 切霧同訓、故に霧島の名は、是に本づく。 【旧事大成経】、切嶼山に作るは、是に因てなり。 此社あるに因て、矛峯に名つくるにも、亦霧島を以てすといへり。
霧島神社の名は国史及び【延喜式】に見えたり。 【続後紀】、承和四年、八月壬子、日向国諸県郡、霧島岑神、預官社。 【延喜式】云、諸県郡一座、霧島神社。 又【三代実録】、天安二年、十月二十二日、授日向国従五位下霧島神従四位下。 是国史及び【延喜式】に載たるを以て、此山の由緒と、神社との、尊重なるを見るべし。
霧島の名義は、上文に記せる諸説ありといへども、蓋第一條の説の如く、此峯霧深き縁故にて、名つけたるならん。
[中略]
○天逆矛 矛峯の嶺にあり。 今に現存す。 前條に記せるが如く、瓊々杵尊、天降の時、建玉ひし者なり。 蓋此矛は大己貴命の、天孫瓊々杵尊に授けし広矛なり。 大己貴命曰、吾以此矛、卒有治功、天孫若用此矛、治国必平安と、是なり。 [中略] 其霊矛は、震火の為に焼折らる。 是何れの年なるかを詳にすることなし。 近世文禄元年、其所折の鋒を取て、其東南の麓三里許の処にある、荒嶽神社に安置して、神体とす。 其社都城安永村西嶽にあり。 其鋒の長さ一尺余、鋒の如き所に、雲象に似たるもの見えたり。 所々土食し、小指頭許に穿てる痕あり。 今矛峯には其残幹を旧に仍て樹つ。 其長さ六尺、囲り一尺許。 鋒刃に近き所、長鼻大眼の面像を左右に起し成す。 鋒と幹と、共に銅質に似たれども、何金たるを定めがたし。 其状古奇にして、実に神代の遺宝なり。 鋒は黝黒色をなす。 蓋露処と室蔵との異なるべし。
[中略]
○霧島神社総数諸説 霧島神の祠廟、諸邑を併せて、其巨大なる者、凡六社あり。
其一は、曽於郡邑田口村にあり。 西御在所霧島六所権現と称ず。 慶胤上人創建と云。 別当は真言宗にて、華林寺と号す。 開山性空上人と云。
其一は、小林邑真方村にあり。 雛守六所権現と称ず。 性空上人創建といふ。 別当往古は同邑宝光院なりしに、今は別当寺はなく、社司黒木氏のみ也。
其一は、同邑細野村にあり。 霧島山中央六所権現と称ず。 此祠は、瀬多尾六所権現とも称ず。 往古霧島山上背門丘にありしといふ。 因ての称也。 創建審ならず。 別当は天台派修験にて、瀬戸尾寺と号す。 開山性空上人といふ。
其一は、高原邑蒲牟田村にあり。 霧島東御在両所権現と称ず。 創建審ならず。 別当は真言宗にて、錫杖院と号す。 開山性空上人といふ。
其一は同邑同村にあり。 狭野大権現と称ず。 神武天皇の御崇奉と見ゆ。 別当は天台宗にて、神徳院と号す。 開山慶胤上人といふ。
其一は、高城邑東霧島村にあり。 東霧島権現と称ず。 瓊々杵尊の御崇来と見ゆ。 別当は真言宗にて、勅詔院と号す。 開山性空上人といふ。
是を世に霧島権現の六社と称ず。 然るに都城邑の旧説に、今所称の六社の外に、霧島権現六社の一と称する者二社あり。 曰華舞六所権現、曰安原霧島大権現是なり。 共に都城に在り。 此説に據れば、往古の霧島六社は、今所称の六社とは異なりしや。 又都城に荒嶽権現あり。 座主を明観寺と号す。 霧島山の南門なりといふ。 此都城の三社の内、安原権現は、何の故事も伝はらざる小社なれども、華舞権現と荒嶽権現とは、皆重きに係る由緒ありて、記すべき事もある神廟なり。
小林霧島中央権現の別当瀬戸尾寺旧記に、霧島山の四方に、神社寺院ありて、四方門と号す。 四方門とは、東門高原東御在所権現、別当東光坊、南門都城荒嶽権現、別当明観寺、西門曽於郡西御在所権現、別当華林寺、北門小林雛守六所権現、別当宝光院、中央霧島中央瀬多尾六所権現、別当瀬多尾寺と見ゆ。
霧島神社は、【続後紀】、【三代実録】、【延喜式】等にも載たれば、古来殊特なる、尊重の大社なるを見るべし。
又諸邑霧島神社祭神の名、或は一様ならず。 小林霧島中央社、雛守社、高原狭野社の、三箇社は、皆祭神六座にして、其名数全く同じ。 六座とは、曰瓊々杵尊、曰木花開耶姫、曰彦火火出見尊、曰豊玉姫、曰葺不合尊、曰玉依姫なり。 曽於郡西御在所社は、奉祀の神体、凡十五体なり。 十五体を分て六座とす。 因て六所権現と称ずといふ。 祭神十五体にて、文長き故、今神名を略す。 其社の條下に詳なり。 又高城東霧島社は、宗祀伊弉諾尊、合殿に六座あり。 其六座は、前文に所記の、小林霧島中央社、雛守社、高原狭野社の、三箇社の、祭神に同し。 又高原東御在所社は、正殿伊弉諾尊、伊弉冉尊の両座なり。 故に両所権現といふ。 合殿六座、曰天照大神、曰忍穂耳尊、曰瓊々杵尊、曰彦火火出見尊、曰葺不合尊、曰神武天皇是なり。 以上は今所称霧島六社の祭神なり。 又都城華舞社祭神は、全く前文小林高原三箇社の祭神に異なることなし。 又都城荒嶽社は、祭神八座。 其八座は、高原東御在所社、正殿二座と、合殿の六座とを、合せたる名数なり。 又都城安原社は、祭神八座。 其八座の中、二座は伊弉諾伊弉冉の二尊、此余の六座は、前文小林高原三箇社の祭神と同し。 此霧島各社、祭神の同異なり。

「霧島山略縁起」

大隅国曽於郡西御在所
霧島山六宮大権現
[中略]
○当山ハ即高千穂二上峯にして、掛まくも畏天照皇大御神の大詔をもて、天津璽八坂瓊曲玉・八咫鏡・草薙剣、三種の神器を天孫天津彦火瓊瓊杵尊に授たまひ、天孫乃天ノ磐座離レ、天ノ八重雲ヲ排分て天降ましし神跡にぞありける
[中略]
○凡山周廻二十里余、高数千仞、山腰常に雲を帯ハさることなし、 本社(即山ノ半腹也)より絶巓に至ること三里余也、[中略] 東嶽の麓に御池といふあり、大なること湖の如し、 (華林寺より東方四里許の所也、凡周廻二里許、性空上人当山の本地真影を拝せんが為に、此池の上に臨で七日七夜護摩を修せられたるに、水面に十一面観音を先として六観音すべてあらハれ給ふを感見し、正しく御本地を定められたる霊蹤なり、其修法の所を今ハ護摩壇と称せり、此池上西北八町余の所、即東霧島宮なり)
[中略]
○抑当山神社寺宇の開基ハ、人皇三十代欽明天皇の御宇に、慶胤とひし仙人ありて、始て神殿を造立し、 其後神火起て焼亡したりを、村上天皇天暦年中に、性空上人(後に播磨国書写山円教寺を開基し、彼所にて年八十歳にして寂せられたり)錫杖を此処に駐て法華経を読誦し、本地の尊体示現し給ふを感見し、安住せらること四年にして、神社堂寺を造営せられたる故に、院を錫杖と号す、 寺号ハ天孫こゝに天降まして木花開耶姫を皇妃とし給ひし由緒に縁、且ハ法華の字にも便あるにより、華林と命られたり、 性空より二十一世道恵といひしに至まで、台家連続したりしに、文暦元年甲午十二月に神火起り、宮殿寺宇神器霊宝に至るまで、悉焼失せり、 夫より二百五十年を歴て、文明十六年甲辰歳、邦君の命により、真言密宗兼慶法印(柏原備前守橘公資三男也)当山を中興せり
[中略]
○御本地十一面観世音菩薩画像一幅 宝殿に奉納せり、人皇五十一代平城天皇皇子真如親王の御筆にして、当山第一の深秘也、
[中略]
○本地堂 十一面観世音丈余の木像を安す、中興開山兼慶法師の自作也、脇士ハ三十三身ノ形像なり

「宮崎県史 資料編 民俗2」

霧島山の信仰

霧島六所権現ならびに別当などの配祀は、次の通りである。 これにはその時代によって異説が生じているようであるが、 いまは通説によってあげておく。
○霧島山中央六所権現=別当・瀬多尾寺。
 はじめ、矛峯(高千穂峰)と火常峯(御鉢)との中間地点に鎮座。創建不詳。 別当寺は性空上人の開山と伝えている。 天永三年(1112)の韓国岳の噴火をはじめとして、その都度焼失、遷座地を変え、現在の霧島岑神社(小林市細野)がそれと考えられる。 山頂近くにあった同社に参籠中、性空上人は山麓四方に社寺の創建を案出したともいう。 本地堂・大日如来。
○霧島東御在所両所権現=別当・錫杖院。
 現在の霧島東神社(高原町蒲牟田)で創建不詳。 別当寺は性空上人の開山。 標高約500メートルの高千穂峰中腹に鎮座。 南東に火口湖御池をのぞみ、湖畔には性空上人の修行場の護摩壇遺跡を残す。 なお、東霧島神社(高崎町東霧島)の奥の宮とも称したという。 別当錫杖院守護の天狗大津坊の伝承を残している。 近来、神田の「御田植祭」が行われるようになった。 また、修験色を濃厚に残す霧島神楽(祓川神舞)は、県指定の無形民俗文化財である。 本地堂・千手観音。
○西御在所霧島六所権現=別当・華林寺。
 慶胤上人の創建。 背門丘(背多尾)に鎮座の中央権現を天暦年間(947?957)に性空上人が西麓高千穂河原(秩父宮記念碑付近)に移し、社殿および別当寺を造営したともいう。 霧島神宮(鹿児島県霧島町)で、現在、霧島岑神社は同宮の摂社となっている。 山麓に鎮座する社には、特色ある農神事を伝えているが、同宮には「散籾祭」や「御田植祭」がある。 本地堂・十一面観音。
○狭野大権現=別当・神徳院。
 神武天皇降誕の伝承があり、幼名によって狭野と称したという。 開山慶胤上人。 のち性空上人の再興。 文暦元年(1234)に火害をうけ、東霧島に遷奉され、慶長十五年(1610)狭野の旧地に遷座。 同社には「苗代田祭」(ベブがハホ)を伝え、「御田植祭」には「棒踊」「奴踊」が奉納される。 また、「夜神楽」に大日如来を象った御笠をかぶる「狭野神楽」を伝えている。 また、別当寺には、支坊360があったという。 本地堂・千手観音。
○東霧島権現=別当・勅詔院。
 境内故有谷の小池に神石裂磐があり、伝承ではこの石が悪魔となって障ることがあったので、祭神のイザナギノミコトが十握剣によって斬り割いたと伝える。 巨岩・石神の信仰である。 霧島神の鎮魂性の偉大であることのひとつを伝えていよう。 別当は性空上人の開山。 山麓修験道場として諸国に知られ、広く人々の信仰をあつめたという。 当山は、霧島修験の発心門にあたるという。 護法善神を祀り、本地堂・千手観音。
○雛守六所権現=別当・宝光院。
 性空上人が来錫して山中に霊跡を探り、六座の神々を雛守嶽の八合目に勧請したと伝えている。 享保元年(1716)の噴火により、真方に遷座。 のちに、中央権現を合祀した。 別当は慈覚大師の開基と伝え、唐土より帰着の際に引杖し、景行天皇ゆかりの地だとして、霧島山において錫杖を執り、供養したと伝える。 古くは66の支院を持ち繁栄したが、のち衰頽し、宝徳年間(1449?1452)天台僧顕慶上人が再興したという。 本尊・薬師如来。