高賀神社 岐阜県関市洞戸高賀 旧・郷社
現在の祭神 天御中主尊・国常立尊・豊斟渟尊・国狭槌尊・泥土煮尊・沙土煮尊・大戸道尊・大戸辺尊・面足尊・惶根尊・伊弉諾尊・伊弉冉尊・大日霊貴尊・天忍穂耳尊・瓊瓊杵尊・彦火火出見尊・鸕鷀草葺不合尊・天児屋根命・猿田彦命・素盞嗚尊・太玉命・金山彦命・日本武尊
本地 虚空蔵菩薩

「府県郷社 明治神社誌料」中巻

郷社 高賀神社[LINK]

 創建年代詳ならず、社記によれば、創立は遠く霊亀年間にして、其後当高賀山中に光者住みて帝都に往来せしにより、養老元年藤原高光(右大臣藤原諸輔卿の男なりと云)に勅して妖魔を退治せしめ、神祠を山下に建つ、 又延長年中当山に妖魔住みて、近国に往来して人民を悩ますを以て、再び高光をして征伐せしめ、天慶二年社殿を再建せしが、旧称は高賀山大本宮といへり、 新撰美濃志に「高賀神社は高賀村以虚空蔵為神体、 民伝云、養老二年開基、昔者妖魔居此山、高光公戮之、因以建寺、名曰蓮花部寺、為大伽藍、今廃、其説妄誕不足取也、妖化魔為牛形、又作雉声、至今此山不畜牛、且無雉云、美濃国三十三番十一面観音、洞戸村高賀村蓮花部寺、天暦年中藤原高光建立」と見えたり、 濃陽志略に、「摂社若宮八幡、按是本社虚空蔵其本地仏、後世訛為摂社耳、大行司祠、月日宮祠、牛頭天王祠、金剛童子祠、大日堂、此堂内古仏像甚多、朽敗僅存、即知昔日為大利也、岩窟不動在山半腹、岩窟如門、其中安置不動銅像、詣者擁之出窟、礼拝畢又擁之置窟中、峯権現社在山絶頂謂之児宮、社宝大般若経六百巻、有文治二年及貞治年中所写本也、鰐口銘有正和二年字、祠官武藤氏」と志るせり、 軍器考後編玉箒の附録〈松岡牡鹿輔撰之〉に「美濃国武儀郡洞戸村高賀山虚空蔵菩薩、神社宝物伏竹弓一張」と志るせり、今存するや否や、 大日本地名辞書に「洞戸牧川の山谷の中央にして今洞戸村と云ふ、大字市場を以て首里とす、上有知町の西北四里武儀谷の谷合村の東二里半許、市場の東北郡上谷の界嶺を高賀嶽と名づく、板取谷の白谷嶽と相対峙し秀拔敬すべし、山下に虚空堂あり、之を高質明神とす、相伝ふ、天暦年中藤原高光山中の妖魔を誅戮し、寺を建てゝ蓮花部寺と名づく、後世観音堂存す、之を蓮花寺と為す、其他若宮、大行事、月日宮、牛頭天王、金剛童子、大日、不動、児宮などの祠宇多けれど、皆衰破す、鍔口の銘に正和二年と刻し、經卷に文治二年井に貞治年中の写字あり」と見ゆ

「日本の神々 神社と聖地 9 美濃・飛騨・信濃」

高賀山の諸社と虚空蔵信仰(佐野賢治)

 奥美濃にそびえる高賀山(1224メートル)の山麓には、すでに平安時代から社殿や堂宇が散在し、中世初期から近世にかけて「高賀権現」の名のもとに社団として統括・組織されていた。 そして明治の神仏分離に際しても、氏子の強力な反対で神殿のなかに本地仏をそのまま安置した諸社が存続することとなり、虚空蔵菩薩の懸仏を多数保存することから、神仏習合思想の顕著な残存形態として注目されてきた。
[中略]
高賀山信仰も他の山岳信仰と同じく、水分神あるいは祖霊信仰の聖山としての性格に淵源するのであろうが、この地の人々は高賀山諸社の来歴を瓢ヶ岳の妖魔と藤原高光の伝説に求めている。 すなわち、霊亀年間の頃、瓢ヶ岳に牛に似た妖怪が住み。村人に危害を加えたので、養老元年、勅命を受けた藤原高光が粥川(美並村高砂)の鰻の案内によってこれを退治し、藤原高山麓に国常立尊などの諸神を祀った。 さらに天暦年間、高光はその妖怪の亡霊を虚空蔵菩薩の加護によって退治し、そのとき山を取りまく六ヶ所に神社を建立したという。
[中略]
(1)高賀神社  当社には保延五年(1139)から文永七年(1270)に書写され弘安八年(1285)に奉納された大般若経563巻のほか、鎌倉時代の懸仏280面が伝わっている(虚空蔵菩薩31面、薬師如来34面、十一面観音18面、阿弥陀如来11面など)。 虚空蔵菩薩の一面には
奉施入、西高賀御宝前虚空蔵菩薩御正躰一躰。 右為遠近貴賤上所求所(省略)修如件。 嘉禎三年丁酉(1237)正月廿八日。 勧進浄尊
とあり、当社の本地仏が虚空蔵菩薩であったことを示している。 本殿には伊弉諾尊・伊弉冉尊の神像のほか15体の男女神像が安置されているが、このような状況は高賀諸社のなかでは当社だけで、他は本地仏を祀ることから、当社の特殊な性格がうかがえる。 なお、別当寺の蓮華峯寺(真言宗)には十一面観音(天治元年・1124)、地蔵菩薩、不動明王、大日如来などの平安仏のほか、多くの円空仏が伝わっている。