礼殿 和歌山県田辺市本宮町本宮 熊野本宮大社の経供養所(廃絶)
本地 弥勒菩薩 八字文殊

「長秋記」

長承三年[LINK]

二月大

一日辛亥
[中略]
招先達、問護明本地、
丞相、和命家津王子、法形阿弥陀仏、
両所、西宮結宮、女形、本地千手観音、
中宮、早玉明神、俗形、本地薬師如来、
  已上三所、
若宮、女形、本地十一面、
禅師宮、俗形、本地地蔵菩薩、
聖宮、法形、本地龍樹菩薩、
児宮、本地如意輪観音、
子守、正観音、
  已上五所王子、
一万普賢、十万文殊、 勧請十五所、釈迦、 飛行薬叉、不動尊、 米持金剛童子、毘沙門天、 礼殿守護金剛童子ゝゝゝゝ也

「修験指南鈔」

第八 十二所権現御本地之事

本宮証誠殿 法体 本地阿弥陀(婆羅門僧正顕之也)。
西御前 女体、結尊・伊弉冊尊 本地千手(弘法大師顕之)。
中御前 俗体、号早玉尊・伊弉諾尊 本地薬師(伝教大師顕之)。
 已上、三所権現(号結・早玉二社於両所権現)。
若宮女一権現 女体、号若殿、依為両所之一王子天照太神御身云云、深秘也 十一面(智証大師顕之)。
禅師宮 法体 本地地蔵菩薩(源信僧都顕之)。
聖宮 法体 本地龍樹菩薩(千観内供顕之)。
児宮 童男形 本地如意輪(静観僧正顕之)。
小守宮 女体 本地聖観音(同僧正顕之)。
 已上、五体王子。
一万 俗体 本地文殊(慈覚大師顕之)。
十万 俗体 本地普賢(同大師顕之。一所并座也)。
勧請十五所 俗体、雅顕長者是也 本地釈迦(婆羅門僧正顕之)。
飛行夜叉 夜叉形 本地不動(智証大師顕之也)。
米持金剛 夜叉形 本地毘沙門(同大師顕之)。
 已上、四所明神(眷属神也)。
満山護法(新宮)、本地弥勒(智証大師顕之也)。
礼殿執金剛(本宮)、本地八字文殊(智証大師顕之也)
湯峯(本宮)、虚空蔵(婆羅門僧正顕之)。
神蔵(新宮)、愛染明王(伝教大師顕之)。
阿須賀(新宮)、大威徳明王(智証大師顕之)。
飛瀧権現(那智)、千手(裸形上人顕之)。
凡本宮、本本地、新宮宗垂迹、那智本迹不二也云云。 又云、熊野三山者、法報応三身也矣。 或日本第一大霊験所根本熊野三所大権現云云。 凡漢家祖廟大廟本朝天神地神、未有尊自熊野。 権現之垂迹、無先自熊野之霊崛矣云云。 倩案之、熊野之権現者、或本朝宗廟、或西天大祖、又伊弉諾・伊弉冊・天照太神、御同体、皆上記因茲得日本第一佳名者也。

「神道集」巻第二

熊野権現事

所以に十二所権現の内に、先づ三所権現と申すは、証誠権現は、本地は阿弥陀如来なり。 両所権現の、中の御前は薬師、西の御前は観音なり。
五所王子の内に、若一王子は十一面、禅師宮も十一面、聖宮は龍樹なり。 児宮は如意輪なり。 子守宮は請観音なり。
四所明神と申すはまた、一万・十万、千手・普賢・文殊なり。 十五所は釈迦如来。飛行夜叉、米持権現は愛染王、または毘沙門とも云ふ。
那智の滝本は飛龍権現なり。 本地千手にて在り。
総道にて八十四所の王子の宮立ちたまへり。
また飛行夜叉は不動尊。
これを十二所権現とは申すなり。
新宮神蔵は毘沙門天王なり。または愛染王とも云ふ。
雷電八大金剛童子は、本地弥勒なり
阿須賀大行事は七仏薬師なり。

「熊野山略記」巻第二(新宮)

[中略]
礼殿執金剛童子、本地弥勒菩薩、智証大師顕し給ふ
湯峯金剛童子、虚空蔵菩薩、婆羅門僧正顕し給ふ。
発心門金剛童子、大白身観自在菩薩、麁乱神降伏の躰也。
 此神は三山に各顕御す者也。
湯河金剛童子、陀羅尼菩薩。
石上新羅大明神、文殊、香勝大師垂迹。
 湯河石上二大明神は、新羅国の神也。
地津湯金剛童子、精進波羅密菩薩。
滝尻金剛童子、不空羂索、慈覚大師顕し給ふ。
切目金剛童子、義真和尚顕し給ふ、十一面観音。
藤代大悲心王童子、千手垂跡。
稲葉根、稲荷大明神、新宮、阿須賀一ツ垂迹也。
飛鳥大行事、大宮、大威徳明王、六頭六面六足、魔縁降伏の為也。
摩訶陀国にては権現の惣後見也。 飛鳥・稲葉根稲荷は同躰也。

「大菩提山等縁起」

本宮礼殿執金剛童子(智証大師顕御躰也) 本地弥勒菩薩 右手三古取、印云々、左手開押、右足モクリ、赤色身也
湯峯金剛童子(婆羅門僧正顕御躰) 虚空蔵菩薩垂跡 左蛇取、棒上、黄衣着、右手□取、
発心門金剛童子 大白身菩薩垂跡 左手三古印、右中指無明指甲トル、白衣着、
湯河金剛童子 多羅菩薩垂跡 左手三古取、右棒モツ、赤面色、紺衣着、
石上新羅国神(智証大師語言云々) 文殊垂跡 老大臣形 右手 ス尾取、スキエホシキタリ、
地津湯童子(安恵参顕御坐) 精進波羅密菩薩 青衣着 右手ハウツク、髪巻上形川立躰也、
滝尻童子(慈覚大師参顕給) 不空羂索垂跡 黄躰童子 右剣取、左手小児ササク、
稲葉根 稲荷神形□青水干白袴着 左肩稲荷右手杖ツク、
切目金剛童子(義真和尚返了) 十一面垂跡 黒炎躰 右蓮花形棒取、左念珠モタリ、左足□右コフラヲフム、
藤代大悲心王子 千手垂跡 形童子ヒツラ、左右手取尾モツ、吉形也、

梅沢恵「熊野曼荼羅に顕れた雷電神」

二、姿の諸相 -図像の揺らぎ

 ではここで、いくつかの熊野曼荼羅を例にして「礼殿執金剛」の姿を具体的に見てみよう。 図は錦織寺所蔵の熊野曼荼羅である。 画面の中央を社殿に見立てて、垂迹神の姿をした熊野の祭神が整然と描かれている。 礼殿執金剛は画面下方に社殿を守るように階の手前に立ちはだかっている。 付された短冊には「礼殿執金剛神文殊菩薩」7と記される。 赤身の夜叉形で髪を逆立て(焔髪)、牙をむく恐ろしい形相をし、右足を大きく踏み上げて丁字立ちの姿勢をとる。 足下に踏割蓮華を踏むことから、仏の眷属となった夜叉神であることがわかる。
[中略]
 なお次に掲げる表は、熊野曼荼羅の主要な作例について、執金剛の像容・名称などをまとめたものである。 A分類は夜叉形で描かれるもの、B分類は本地仏である八字文殊菩薩の姿で描かれたものである。 礼殿執金剛の本地仏は弥勒8と八字文殊の主に二説があり、異同がみられる。

表 熊野曼荼羅に描かれる執金剛一覧
A 夜叉形で描かれるもの
所蔵制作年代像容(持物)上げ足身色短冊銘備考
聖護院A(京都)鎌倉時代八臂(宝剣・三鈷杵等)(判読不可) 
那智大社(和歌山)鎌倉時代八臂(宝剣・三鈷杵等) 
仁和寺(京都)鎌倉時代二臂(鼓・撥)雷電執B表も参照
聖護院D(京都)鎌倉時代二臂(鼓・独鈷杵)(判読不可) 
錦織寺(滋賀)鎌倉時代二臂(鼓・撥)礼殿執金剛神文殊菩薩本地:文殊
高山寺(京都)鎌倉時代二臂(鼓・撥) 
熊野本宮大社(和歌山)鎌倉時代二臂(鼓・独鈷杵)礼殿 
温泉神社(兵庫)鎌倉時代二臂(鼓・撥)[ ]執金剛 
根津美術館(東京)南北朝時代二臂(鼓・撥)赤茶 
西南院(奈良)南北朝時代二臂(鼓・撥)雷電手 
ボストン美術館(米国)南北朝時代二臂(鼓・撥) 
和歌山県立博物館(和歌山)南北朝時代二臂(鼓・撥)(判読不可) 
静嘉堂文庫美術館(東京)南北朝時代二臂(鼓・撥)[ ]執[ ] 
西明寺(滋賀)室町時代二臂(鼓・撥)執金剛童子 
個人蔵(東京)A室町時代二臂(鼓・撥)弥勒 雷電執本地:弥勒
明石寺(愛媛)室町時代二臂(鼓・撥)礼殿金剛童子 
個人蔵(奈良)室町時代二臂(鼓・撥)(飛行夜叉) 
六萬寺(香川)室町時代二臂(鼓・撥) 
個人蔵(東京)B室町時代二臂(鼓・撥)礼殿執金剛 
竹林院(奈良)室町時代二臂(鼓・独鈷杵) 
B 本地仏の姿(八字文殊)で描かれるもの
所蔵制作年代像容(持物)  短冊銘備考
仁和寺(京都)鎌倉時代文殊菩薩  礼殿守A表も参照
青岸渡寺(和歌山)南北朝時代文殊菩薩    

三、礼殿という空間

 ところで、礼殿執金剛に関わる興味深い記事は院政期の参詣記の中にも見出される。 『後鳥羽院・修明門熊野御幸記』は、両院の建保五年(1217)の熊野参詣に同行した四辻頼資の日記であるが、本宮での奉幣次第に関して「酉刻、上皇御宮廻(礼殿入御の時、御宮廻一巡、礼殿金剛童子より廊戸に直ぐに出御、定事也)」と記している。 当該箇所は上皇が礼殿に入る際の定例の宮廻に関する注記であるが、注目したいのは、この記述から礼殿に金剛童子なるものが祀られていたことが想像されるという点である。
[中略]
 ここまでみてきたように、礼殿は神を祀った社殿を遥拝するための単なる拝殿ではなく、三所がそれぞれ独自の本尊を擁する多目的な堂宇であった。 また、一時期本宮の礼殿には金剛童子が安置されていた可能性が高い。

四、類似する像 -執金剛か金剛童子か

 多くの作例の短冊墨書銘にも記されるように、この礼殿執金剛という尊格のベースは「執金剛」あるいは礼殿を守護する「金剛童子」であったと考えられる。
 やや時代が下って十四世紀頃の成立とされる『修験指南鈔』第八「十二所権現御本地之事」をみると「礼殿執金剛(本宮)本地八字文殊菩薩(智証大師顕之也)」と記され、注記で本宮の尊格とされていることも注目される。 またここでは『長秋記』の「礼殿+守護+金剛童子」が「礼殿+執金剛」となり、金剛杵を執る尊格、執金剛へと変化している。
[中略]
 いずれにせよ、礼殿執金剛のベースは観音眷属としての執金剛の姿であると考えられる。 前章でみたように、院政期には「金剛童子」と呼称されていたが、熊野曼荼羅の現存作例が制作された鎌倉時代以降には「執金剛」という呼称が主流になったのであろう。

六、新たな意味づけ -東国の「ライデン」

 なお伊豆山神社の根本縁起とされる「走湯山縁起」巻第四には「雷電」という尊格に関する記述がある。 縁起はこの祭神を「雷電金剛童子」と称し、また「南山熊野王子」とする。 各地の修験系の寺社縁起が熊野との関係を説くのは常套であるが、伊豆山縁起の場合には、雷電王子がもとは熊野の礼殿執金剛であるとして熊野とのつながりを築こうとする意図がみてとれる。
[中略]
 また『神道集』巻第二ノ六「熊野権現事」で熊野の祭神が列記される箇所には、礼殿執金剛について「雷電八大金剛童子、本地弥勒」と記述され、ここでは「礼殿」ではなく「雷電」という字が当てられている。 同じく『神道集』巻第二ノ七には「二所権現の事」が集録されるが、伊豆山の祭神の本地に関する記述では「雷殿八大金剛童子」が登場する。 これは明らかに雷の「雷電」と建物の「礼殿」の融合型である。
[中略]
 さらに、仁和寺に伝来する『諸神仏曼荼羅』には梵字で図示された熊野曼荼羅が収められている。 像容に関しては何も言及がないものの、礼殿執金剛はここでも先述の『神道集』の伊豆山の「雷殿八大金剛童子」と同じく「雷殿」と記されている47
 なお、仁和寺所蔵の熊野曼荼羅では、円相に本地仏である八字文殊が描かれ、短冊墨書銘には「礼殿守」とあり、一方、太鼓と撥を持つ夜叉形の短冊墨書銘には「雷電執」と記される。 つまり仁和寺本においては、画中に礼殿執金剛の本地形と垂迹形の両方を描くことで、造形化を阻む両義性の解決を試みているのである。
原注
7 礼殿執金剛には八字文殊菩薩あるいは弥勒という本地仏が設定されている。 後述するように、姿の源をたどれば本来仏教尊格のはずであるが、熊野の眷属神としては、神とも仏ともつかない曖昧な存在であるといえよう
8 本地仏として弥勒を描く作例もあるが、礼殿執金剛と満山護法のどちらの本地仏を描いたものか特定できないため、今回は除外した。
47 本地仏は弥勒・八字文殊ではなく、「大黒」とある。