「讃岐国名勝図会」巻之六上
熊野三所神社〈松縄村にあり。社人平岩隆之進。社領三石。新宮祭礼八月十三日、本宮九月十五日、那智九月十七日〉
末社〈天照大神宮・山王大権現・新良明神・相殿流石八幡宮并びに境内にあり〉
当社は嘉祥年中、智証大師勧請なり。三社相去る事各百歩、今に至るまで祭礼怠らざりける。
また熊野清光と云ふ者勧請すともいへり。
文明年中、宮脇越中守長定再営して祭田を寄附す。
この時紀州熊野山より白梅一株・唐木一株を移し植ゑしが、今も社前に繁茂せり。
その後元亀・天正の兵乱によりて社殿も頽廃せしを、元和年中生駒正俊朝臣より当殿再興ありて社領をたまへり。
光明寺〈同所にあり。飛竜山成等院。天台宗、京都聖護院末寺〉
本尊阿弥陀如来〈新宮本地〉薬師如来〈本宮本地〉観世音〈那智本地、并びに智証大師作〉
弥陀三尊〈恵心僧都作〉聖観音〈行基菩薩作〉額〈国祖君御筆、御寄附〉
当寺は嘉祥年中、智証大師草創なり。
その後応仁已来兵乱によりて堂宇破壊に及びしを、文明年中宮脇長定再興せり。
天正年中兵火にかかりて、慶長年中無量寿院沙門泉弘寺社を守りしが、元和年中生駒家より寺領十五石をたまひ、一院を興して大光坊といふ。
寛永十五年今の寺号に改め、寛永年中国祖君の命によりて真言宗を今の宗しなせり。
明治二巳年、御一新によりて帰俗して平岩隆之進と改め、社人となりて廃寺とはなりぬ。