八幡神社 東京都日野市百草  
現在の祭神 誉田別尊(応神天皇)・息長足姫命(神功皇后)・武内宿禰・源義家
本地 阿弥陀如来

「江戸名所図会」巻之三(天璣之部)

慈岳山松蓮寿昌禅寺

高幡より十二町ばかり東南の方、百草邑にあり。 黄檗派の禅林にして、江戸白銀の瑞聖寺に属せり。 昔は天台宗にして増井山と号す。 天平年間道璿の高弟釈道広大勧進し、はじめて七堂全備の精舎を創建す。 その後、康平五年伊予守頼義奥州下向のとき、この地をよぎりたまひ松蓮寺に投宿し、八幡宮を再興ありて朝敵追罰の御祈願あり。
[中略]
八幡宮本地仏阿弥陀如来の像、金銅一尺四寸あり。 土中出現の物にして、仏体の背に鐫るところの銘文あり。

「新編武蔵風土記稿」巻之九十九
(多磨郡之十一)

百草村

八幡社

除地、九万坪、 村の西の方にあり、 入口に石階二十級を設く、 その上に鳥居を立、 本社は三間に三尺五寸にて、五間四方の上屋あり、 又其前に三間に五間の拝殿あり、 神体は六躰にて共に木像なり、 其一は長三寸二分、背に王仁源義家納と記す、王仁を配祀すること其故を詳にせず、 一躰は長六寸許の女体の坐像なり、後に神功宮大神直御作凌岱納とあり、 又此余立身の木像四躰あれど、朽損して其形も見分らず、銘も有べけれど剥落したれば、何の神体なることは知らず、 社伝云当社は、聖武天皇の御宇天平年中釈の道璿の高弟道広と云僧の創立にて、 後康平五年鎮守府将軍源頼義、奥州阿部貞任・宗任を征し、凱旋の時此地を過られ再建する所なり、 又其男義家も此比父に従ひ下向せしかば、今の神体を造立ありしも、此頃の事なるか、 又頼義常に所持し玉ふ所の、観音の像一躰を納め玉ひしとて、今も別当寺に蔵せり、 かく頼義・義家二代共信じ玉ふ社頭なるにより、右大将頼朝も深く渇望し玉ひ、手づから法華経一部を書写して寄附ありしと云、
[中略]
例祭毎年八月十五日、 村民こぞりて神楽を奏し、神酒等をさゝげてまつれり、
別当松連寺 社の北に住す、黄檗宗江戸白銀瑞松寺末山なり、慈岳山と号す、[中略]この余八幡の本地仏なりと云、重さ八貫目許の銅像一躰あり、背後に銘文を刻す