武蔵御嶽神社 | 東京都青梅市御岳山 | 式内論社(武蔵国多摩郡 大麻止乃豆乃天神社) 旧・府社 |
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現在の祭神 | 櫛真智命・大己貴命・少彦名命 [配祀] 広国押武金日命(安閑天皇) |
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本地 | 釈迦如来 |
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神職は大宮司と称す、金井氏、 社僧は世尊寺と号す、新義真言宗、山城醍醐三宝院の末なり、
[中略]
本地堂 向ひて右の方、鳥居と仁王門との間にあり、
本尊釈迦木座像、堂三間半四面、
世尊寺 社僧寺あり、本地堂の向ひ右の方にあり、本地釈迦堂は則此寺の本尊本堂なり、
[中略]
蔵王殿本社 檜皮葺、八尺四方、三重垂木、箱棟、菊桐の滅金なる紋六ツ、扉に唐花二ツ、内陣外陣御紋三ツ、御戸帳白地金襴御紋二ツ、四方絵絹障子、鶴亀松竹梅の画は探幽法印の筆なり、左右の脇障子昇竜降竜の高彫あり、又、几帳錦の蓋あり、
神体、蔵王権現の垂迹なり、社伝云、行基菩薩の作る木像一挈手半なるを鎔として鋳造る金像なり、一挈手半といふは今の二尺余なりと云、
祭神 大己貴命・少彦名命・日本武尊・神秘一座三神合一なりといふ、
拝殿 鐘楼より凡十歩許登り、又、石階二十五級有り、東向、是より本社、其余の社ある所は当山の頂上なり、 仁王門の辺より杉檜生ひ茂り、別して拝殿・本社の四面大杉多く社頭を囲繞す、 屋根厚板葺、四間に八間、向拝、千鳥破風、正面は關伽棚、惣垂木作り、殿前左右に石狗あり、
[中略]
人皇十二代景行天皇四十年日本武尊東征の砌、夷賊悉く御退治在て甲斐国酒折の宮に御凱旋ありしか、いまた信濃・北越の夷賊皇化に伏せされは、又、夫より武蔵を歴て上野の国に赴かせ給ふ時、 当山に来り給ふ官途にして、山鬼祟りをなし、白鹿と化して道を遮りけれは、是邪神なる事を占し給ひ、蒜を投付給へは、忽闇夜の如くなりて、君臣途を失ひ給ふ所に、狼狗数頭出て凱啼しけれは、忽然と霧晴けり、 則神狗の導に任せ当山に至らせ、猶東夷叛かさる御祈誓ありて、御鎧を此岩倉に納させ給ひ、武器を蔵る国なれは、武蔵国と号するの始なり、 武尊蒜を以て鹿の目を弾き給ふ謂れにて、此山を越る人及ひ牛馬に至るまで蒜を嚼て塗時は山鬼を除き、又節分の夜を挿て鬼は外、鬼の目を打と呼んて豆蒔事当山の古式なり、 神狗の末裔当山に連綿して権現の使者となり、火盗退除の神狗といふは是なり、 其後、蔵王権現安置の事は、人皇四十五代聖武天皇の勅願に依て天平八丙子年社稷政祭万民豊楽の為に、時の大徳行基僧正に勅有て、則一挈手半の金像を造らせ、住吉の霊場を尋て当山に安置し奉るゆへに、東国社稷総社、五穀成熟の勅願所にして、宝殿堂舎甍を並へしに、 其後当国兵革の事屡起り兵燹の災にかゝり、既に及ひし故に、霊像・宝物等を携へて真蔵坊尼といふもの、同国黒沢の郷へ移し奉る、 又其後、文暦元年前摂政道家卿の吹挙に依て四条院の勅命を奉して散位大中臣国兼中興開基し、将軍源頼経公御造営の時、堂舎を神社に移し代るに依て、麓なる大麻止乃豆乃天神と神秘一坐を加へ三神合一に鎮座奉り、行基勅作の霊像を垂跡として御嶽大権現と称し奉り、本迹縁起神道を伝へ給ふ
御嶽山の修験道の歴史は、聖武天皇の天平八年、行基によって開かれたとされているが、平安末修業僧源教上人によって、こうした修験者たちの廻峯修業の拠点として堂舎が開かれたのにはじまると考えられる。 いま、江戸時代新義真言宗醍醐三宝院の末と称せられた、金峯山世尊寺社僧の系譜が伝えられている。 この第一世源教より江戸時代中期第二十世日応まで、その寂年月日が記録されている。
第一世源教上人は、鎌倉時代はじめ建久八年(1197)に入寂し、次を継いだ第二世法印慶悦は文暦元年(1234)に没している。 これよりのち、第三世法印崇啓にいたるあいだ、無住の空白がある。
これを補うものとして、建長八年(1156)の縁起一巻が伝えられているが、それによれば、久しく神明に奉仕し、山林に修業した散位大中臣国兼が、霊夢によってこの御嶽山が、蔵王権現が垂迹した場所であることを告げられ、草庵を営み搗鐘をこしらえ修業を重ねた。 三尺の金銅の金剛蔵王権現の御神体を鋳造して、法のごとくに八尺の宝殿を建て、瑞垣を四面に廻らせ、赤巌両師・勝手子守の護法の四神の祠を整え、垣の表には一間の小堂を造り五尺の不動を安置するなど、堂塔は整備され、参拝拝観の人つづき、文暦元年より建長八年まで二十三年の精進勤行によって繁栄するようになったという。 国兼は御嶽山中興の祖と仰がれ、また神主家(大宮司家)の祖とされている。
国兼がなくなってからおよそ五十年、武蔵国の古い豪族と思われる壬生氏女によって、久しい間御嶽大権現の神助を蒙り、八十歳の生涯をまっとうしてきたが、なお余生の安穏を願い、神の加護を頂いて来世の弥陀の来迎にあずからんとして二階の楼門を建立し、金色の釈迦如来像一体、彩色地蔵菩薩像六体、金剛力士像二体を造り、尊像は階上に安置し、仁王は階下にたてた。 これは現在の随身門のはじめである。 また法華経六十六部五百二十八巻を書写して、諸国および当山に奉納し、正和三年(1314)鎌倉極楽寺の長老を導師に乞うて法養をいとなんだという。 これらは壬生氏置文と称される正和三年縁起一巻にのべられているところである。 壬生氏女はこれより先、徳治二年(1307)長三尺径二尺五寸の梵鐘を造り、これを納める鐘楼の造営もおこなったのである。
[中略]
信仰形態が変化し、本地垂迹説が衰えはじめるなかにあって、社殿修復のため宝暦十三年(1763)社木を伐採したことで、明和三年(1766)、神主・社僧と御師も処罰されたのであるが、これをきっかけに二十世つづいた社僧世尊寺の日応は引退し、天明八年(1788)別当の世尊寺は廃寺となり、何百年もつづいた御嶽山の神仏共存の歴史もついに破れるにいたったのである。
[中略]
こうしたなかでやがて明治維新を迎え、明治元年(1968)、神仏分離令に際しても、他の山岳宗教地にみられるような混乱もなく、これに応える形で神道への移行がおこなわれた。
すでに八十年前廃寺となっていた世尊寺本地釈迦堂は取りこわされ、釈迦像は根ヶ布の天寧寺に移し、徳治二年の古鐘はつぶされ、鐘楼は鼓楼と名称を変え、山門から仁王をはずして随身門とし、神主御師の菩提寺正覚寺は土地・建物・什器を整理して住僧は山上を去り、その檀家は神主(大宮司)金井氏が引き継いで、金井氏も御師の仲間入りをしたのである。