七沢神社 神奈川県厚木市七沢 旧・村社
現在の祭神 木花咲耶姫命
[合祀] 大山祇命 <山王社>
[合祀] 誉田別命(応神天皇) <八幡社>
本地
浅間社大勢至菩薩
山王社薬師如来
八幡社阿弥陀如来

「新編相模国風土記稿」巻之五十八
(村里部 愛甲郡巻之五)

七沢村

山王社

村の鎮守なり、 神体石顆を置、 社伝に上杉氏七沢在城の頃(城蹟社の西にあり)四隅の鎮神として勧請ありし四社(東は当社、西、白山、南、八幡、北、諏訪)の一なり、 明応年中社頭兵火に罹り、記録を烏有すと云、 天正十九年社領二石の御朱印を附せらる、 徳雲寺持、
△末社 榛名 天神 金毘羅 秋葉 八幡 稲荷
△神楽殿
△鐘楼 安永九年鋳造の鐘を掛

八幡社

是も村の鎮守なり、 上杉修理大夫定正勧請の棟札あれど文字漫滅す、(按ずるに、山王社伝に云る、上杉氏が七沢鎮護四社の一なるべし) 永禄十年三月中村玄蕃、同源太郎等(子孫今村民にあり)願主として再建す、其棟札今に存す、 神体木像、別に慶安の頃附ありし神体あり(乗馬の像にて、長六寸三分、宮殿の扉に八幡皇太神像、寄納于相州七沢鎮守本地、専祈武運長久、東照大権現四代末孫、従四位下行羽林次将源朝臣と記し、上に葵御紋あり、土人は肥州侯と伝れど誤なり、年代及位官を以て考ふれば、松平越後守光長、同越前守光通等の内なるべし) 村持、 △末社 稲荷 牛頭天王 疱瘡神
△本地堂 弥陀を安ず、
△鐘楼 文政五年再鋳の鐘を掛

浅間社

鐘ヶ嶽にあり 神体銅華鬘三筒(一は弥陀、一は薬師を鋳出す、一は漫漶して見えず、延宝八年土中より出る所なり)を置、 元禄二年僧宥映の記せし縁起に據に孝元帝の御宇初て此地に垂跡あり、 遥の後扇ヶ谷上杉修理大夫定正社頭以下造営あり、 延宝八年村民等修理を加ふ、 此時土中より華鬘三を得(今の神体是なり) 又社傍より勢至の木像を得たり、 其頃木食空誉弾阿、此辺山中に(字一ノ沢と云所なり)在て専ら浄業を修し、高徳の聞えあり、 貞享四年当社の霊夢を蒙て当山に移り、禅法寺(別当なり)に住し、且神託に依て山を大応嶽と名づけ、自ら勢至の像を彫刻して本地仏となす、
[中略]
△末社 稲荷
△鐘楼 延宝八年鋳造の鐘を掛、
△奥院 不動を置、
△勢至堂 本地仏なり(長六尺空誉作)
△仁王門(像は空誉作、長六尺五寸)
△別当禅法寺 鐘掛山尊聚院と号す、天台宗(大住郡日向村浄発願寺末)

徳雲寺

吉祥山と号す、臨済宗(鎌倉建長寺末)[中略]本尊正観音又薬師(山王本地仏)虚空蔵(長七寸五分定朝作)等を安ず
明治6年、日枝神社(山王社)・八幡宮を浅間神社に合祀し、七沢神社と改称。