奈良神社 埼玉県熊谷市中奈良 式内社(武蔵国播羅郡 奈良神社)
旧・村社
現在の祭神 奈良別命
[合祀] 火産霊命・建御名方命・大国主命・大日孁貴命・彦火火出見命・木花咲耶姫命・素盞嗚命・豊宇気毘売命
本地
熊野社阿弥陀如来・薬師如来・観世音菩薩
奈良神社不動明王

「新編武蔵風土記稿」巻之二百二十九
(幡羅郡之四)

中奈良村

熊野社

奈良四村の惣鎮守なり、 本地弥陀・薬師・観音を安ず、 古は修験円蔵坊の持なりしが、成田氏下野国烏山に移る時、円蔵坊も随て移り、 古記録も彼地へ携去し故、当時の伝詳ならず、今は長慶寺の持となる、 社内に奈良神社を合せ祀る、奈良神社は神明帳当郡四坐の一なり、 想に旧章衰廃の後、熊野三社を合祀し、郤て地主神を圧せしなるか、 又別に奈良神社ありしが、破壊に及れ此社へ遷せしかなるべし、 何様官社なれば、自余の社と混ずべからず、 故に次條別に神社の目を立つ、見るもの誤て二所とするなかれ、

奈良神社

【神名帳】幡羅郡小社四座の一なり、 今配祀する熊野社地平坦の地にて、喬木もなければ古跡とも思はれず何様変革ありしなるべけれど伝を失へり、 祭神詳ならず、 本地不動の像を安ず、 是中絶し神職退転の後に、別当寺の習合せし態ならん
末社 稲荷二宇 天神 金山 以上熊野の末社なるべし

「埼玉の神社 大里・北葛飾・比企」

奈良神社

  熊谷市中奈良1969(中奈良字寺家)

歴史

 社伝によると当社は、下野国の国造の任を終えた奈良別命が、武蔵野の尾花の原(当地)を開いて美田となし、奈良郷の基を築いたことから、命が亡くなると郷民がその徳を偲んで建立し、祀ったものであるといい、また、当社東北1キロメートルの所にある横塚山と呼ばれる前方後円墳は、奈良別命の墓所であるという伝承がある。
[中略]
 中世、当社は全国的に隆盛した熊野信仰の影響を受け、社名を奈良神社から熊野神社に変更した。 この社名変更の理由について『風土記稿』は、奈良神社は『延喜式』神名帳に収載される神社であるが、衰退して熊野神社を合祀したためか、あるいは、奈良神社が別の地にあって、それが破壊されたため熊野神社に合祀されたためかのいずれかであろうと記載している。。
 戦国期、当社の祭祀を行ったのは、幸手の不動院配下の年行事職を務める本山派修験円蔵坊で、同坊は、忍城主成田氏所領のうち、騎西、幡羅を檀那場としていた。しかし、円蔵坊は長く続かず退転したため元空坊がその坊跡を継いだ。
[中略]
 円蔵坊の跡を継いだ元空坊も長くは続かず、更にその後に僧長慶が入って長慶寺を建立し、以来同寺が江戸期を通じて当社の別当を務めた。
[中略]
 明治期に入ると、当社本殿の熊野神の本地である弥陀・薬師・観音の三尊は、長慶寺に移され、代わって神鏡が奉安された。