「府県郷社 明治神社誌料」中巻
創立年代を詳にせず、されど旧記に徴するに、此地は上古より憑里〈頼母里とも書けり〉と号し健南方命諏訪国に臨ませらるゝ前、今の伊奈路より遷りて、暫く此地に御坐し給ひし霊地なりと云ふ、
[中略]
往古より信濃二ノ宮と称し、国造を始め国守地頭、皆正租を以て社殿を造営し、祭事を弁ぜりと云ふ、
昔時大社と号し、中古大社大明神と称せし事あり、
神護寺には長久寺ありしも、天正の頃武田氏に背き、無住地となりて遂に廃寺す、
又本地堂と号して、空海上人の発願に依りて建立せりと云ふ薬師堂ありしが、維新の神仏混淆を禁ずるの令に因りて取除きたり
「日本の神々 神社と聖地 9 美濃・飛騨・信濃」
小野神社(赤羽篤)
小野盆地の中央よりやや北寄りの通称「頼母の森」のなかに、矢彦神社(別項)と並んでその北側に鎮座し、古くから「小野宮」「小野大明神宮」などと呼ばれ、また矢彦神社とともに「小野南北大明神」とも称して信濃国二の宮と崇められてきた。
祭神は健御名方命で、境内に八幡宮・胸肩社・子安社・稲荷社・剣社・水神社・天満宮などの摂社がある。
社伝によると、健御名方命は信濃に入国し、諏訪に入ろうとしたが洩矢神がいたので入れず、しばらく小野の地に留まってこの地方の統治にあたったことにより、ここに祀られたという。
[中略]
正徳三年(1713)の記録によると、本社や摂社のほかに本地堂の薬師堂・鐘楼・観音堂・十王堂・地蔵堂などがあり、本地仏は薬師如来で、奥社御射山社の本地仏は虚空蔵菩薩であったという。