鳴無神社 高知県須崎市浦ノ内東分 旧・郷社
現在の祭神 一言主命・級長津彦命・級長津姫命
本地 十一面観音

武藤致和「南路志」巻二十一
(闔国第九ノ一 高岡郡)

奥浦村 鳴無大明神[LINK]

鳴無大明神  祭礼七月三日・八月二十三日  別当源光寺・社人北代河内
本地十一面観音  社地四十代山林共御免許、神田弐反、宮御作事。 本社九尺に弐間、舞殿弐間三間、拝殿弐間五間、廊下壱間九尺。
○社記曰当社味鉏高彦根尊と申伝、則淡路廃帝天平宝宇年之頃より之御神と申伝。 尤一宮大明神と同体、則大明神鳴無へ御幸之節、金剛丸と申御舟に召船越と申山を越御来鎮、依右船越山と于今申伝。
[中略]
一 鳴無宮祭神味鉏高彦根命(鎮座年暦不知、神鏡五面亘り七寸、厨子一尺四方) 本地仏十一面観音、木像長九寸、厨子一尺三寸に六寸

「府県郷社 明治神社誌料」下巻

郷社 鳴無神社[LINK]

創立年代詳ならず、神社牒奧浦村東分〈一ニ鳴無村〉の條に「高貴茂大明神但正一位又鳴無大明神共唱右勧請来歴不相知但縁起等宝永四支年大変に流出」とあれども、 又或書に「廃帝天平宝字三年庚子〈月日未詳〉此神像一宮より流て鳴無の社地に至る、爾後毎歳七月三日の祭礼には必神輿を船に載せて行処に至る、土俗伝て御舟遊と云」〈鳴無紀行鳴無古厨子裏書○神体流て其地に至リ神輿を船に載せて鳴無に至る等の文鳴無紀行に據る〉とあり、 又神社牒並国幣中社土佐神社縁起等にも同一の趣を記されたれば、本社は其古社たること知るべく、要するに国幣中社土佐神社を勧請せしものなるが如し、
[中略]
又神体記に「正一位高賀茂大明神但鳴無大明神共、神体□□本地十一面観音、南路志云、鳴無神社は和洲吉野蔵王権現を勧請したるものならん、権現は一言主尊にて祭礼、八月廿三日沓形の餅を奉る儀式有、又鳴無宮祭礼も八月廿三日にて、今に至る迄海旅所にて沓形の餅を奉る也云々、七月三日之御祭シナ子祭と申伝、御舟へ神興奉乗、又一宮大明神も右之通、御舟に召御出船被成、浦内青木灘にて御逢被成、夫より御船遊被成、両神御対面御神楽有之由申伝、然所何の比にや難風御逢社人数々相果、夫より御申台を以両神御出合止り申由」

「日本の神々 神社と聖地 2 山陽・四国」

鳴無神社(高木啓夫)

 仁淀川河口からやや西方に、周長50キロ・奥行12キロ(三里)の細長い入江があり、「横浪三里」の呼称で県下の佳景の一つとして知られている。 鳴無神社はその最奥部にあり、もと鳴無大明神と称していた(旧郷社)。 祭神は一言主命(味鉏高彦根命)で、龍田風神である級長津彦・級長津姫命を合祭している。 本地仏は十一面観音。勧請年代は不明であるが、次のような伝承がある。
 雄略天皇に逆らって流された一言主命は横浪三里の入江近くに漂着した。 その地を神崎といい、炊煙の上った所を竈ヶ硝という。 この煙を見た人々が行ってみると一言主命で、その御座船金剛丸を担いで船越山を越えて玉島(現鎮座地の山をいう)に迎えた。 社を建立して大神を安置したが、金剛丸を埋めた所を御舟山といい、いまも巨石があって不入の聖地であり、祭事の神酒はまずここに供えてから戴く慣習となっている。 また金剛丸を担いできた家十二軒は社人といって代々神役を勤め、大神を迎えたのが年の暮れで門松を立てる暇もなかったと伝えられるところから、今日も正月に門松を立てない。
 その後、大神はこの石の落ちた所に祀りかえよといって大石を投げた。 その落下地点が現在の土佐神社で、当の石は土佐神社の礎石であるという。