「新編武蔵風土記稿」巻之二百十
(埼玉郡之十二)
上清久村
白幡権現社
白幡光明雷王大権現と号す、
古へ足利高興白幡を納めしより、かく号せし由をいへど、高興の名聞くことなし、伝への訛りしならん、
祭神は雷電神本地十一面観音、立像にて丈七寸余、行基の作、
常徳院の持、
什物 雷槌一本 龍ノ牙一 石一 弘法大師、雨乞の石と云
「埼玉の神社 北足立・児玉・南埼玉」
雷電神社
久喜市上清久668(上清久字白幡)
歴史
当社の由来については、三つの説がある。
一つは、氏子の口碑で、「この地には雷がよく落ちるため、群馬県板倉の雷電様の分霊をいただいてきて雷除けとして祀った」というもの、もう一つは、元名主の飯島家に伝わる話で、「八幡太郎義家が奥州征伐の際、この地を通りかかり、当社に参詣して戦勝を祈願したところ、その晩、戦勝するとの霊夢を見た。これに気をよくした義家は、意気揚々と奥州に向かい戦勝を果たした帰途、当社に白幡を献じて行った。以来、当社は白幡大権現という」というものである。
三つ目は、安永四年(1775)に別当常徳院が著した「清久村白幡山雷電社縁起」に載るもので、「当地は、昔、源平の戦場となり、鎮座地は源氏の陣が置かれたことから白幡山と号するようになった」という。
信仰
祭神は別雷命で、覆屋を兼ねた流造りの社殿の中には春日造りの本殿が納められている。
この本殿には卍の紋が付いているが、それは江戸時代の当社は隣接する常徳院の祈願所であったためで、当時は白幡光明雷王大権現」と称し、本地仏として行基の作と伝える十一面観音の立像を祀っていたことが『風土記稿』の記事からわかる。
一方、別当の常徳院も、白幡山権現寺と号するところから、両社は江戸時代には密接な関係にあったことが推測される。