猿江稲荷社 |
東京都江東区猿江2丁目 |
本覚山妙寿寺の旧・地主社 |
望月真澄「法華勧請の稲荷と祈祷 —江戸の稲荷を中心に—」
法華勧請の稲荷の存在形態
江戸における各宗派の寺院内に祀られる神仏の存在については、「文政寺社書上」「御府内備考続編」等がある。
前者は文政期、後者は幕末期に編纂されたものである。
ここでは、神仏の記載が詳細になる後者の史料に着目し、登場する稲荷の中でも特徴的なものを紹介してみたい。
[中略]
②妙寿寺(猿江・後に世田谷区烏山に移転) 猿江稲荷大明神
鎮守稲荷社 土間造・間口二間・奥行二間半 拝殿三間四方 神体・長六寸五分
猿藤太木像
武州葛飾郡猿江村稲荷大明神略縁起
抑稲荷大明神と奉申は本地久遠成道ノ釈迦仏也。
人皇四十三代元明帝ノ御宇、和銅年中ニ山城国飯成山ニ始テ示現マシマシ五穀豊穣ノ神ナリ。
因茲諸国村里ニ年ヲ重ネテ奉勧請、当社ソノコロナラムカ、年暦不詳。
又猿江村鎮守奉ル崇ハ、人皇七十代後冷泉院ノ御宇康平卒年ニ源頼義公奥州征伐ノミキリ、重手ヲ負ヒ還陣セル人ナルカ甲冑ヲ帯シタル武士ノ死骸当地ノ江ノ辺ニアリテ、毎夜光ヲ放ツ。
諸人アヤシミ寄テ改メミルニ、鎧ノ引合ニ猿藤太ト記シ、懐中ニ一部一巻ノ法華経ヲモテリ。
光明ノ奇瑞難黙止故ニ、則其侭稲荷ノ祠ノ後口ニ葬リ、年フリテ其塚ハナシトイヘトモ卯ノ松実ハ今ニアリ。
故ニ往昔ヨリ猿藤太ノ猿ト江ノ字ヲトリ、猿江村ト号ス。
凡今年マテ七百年ニ及へり。
其後柳営ヨリ稲荷勧請ノ年暦不知トモ、古跡ナルカ故ニ地面三百余年坪除地ヲ賜ハル。
依テ天下泰平国家安全ノ御祈祷ヲ奉勤、並ニ氏子繁栄諸施主息災延命ヲ祈畢。
為悦衆生故現無量神力ナレハ、和光同塵ハ信心渇仰ノ頭ニ宿ラセタマヒ。
神力フシノ験著シタマフト云云。
追加(中略)
安永二癸丑年五月
本所猿江別当 妙寿寺
最初に稲荷の概念として、元々五穀豊穣の神で、本地が釈迦仏ということが掲げられ、仏本神迹といった本地垂迹説に立脚していることが記されている。
次に、稲荷が仏教の守護神としての位置づけが説かれている。
猿江稲荷は、猿藤太と記された甲冑の懐に法華経があったことから、法華勧請の稲荷として祀られることになった。
祈願は、「天下泰平・国家安全・氏子繁栄・息災延命」といったことが掲げられている。
妙壽寺は、稲荷の別当として後に同地に移転して別当寺となったものである。
妙壽寺は、寛永八年(1631)、江戸谷中清水町に開創されたが、三十一年を経て本所猿江村に移転し、同地の猿江村鎮守稲荷社別当となった。
神仏習合により、仏の本体が垂迹して神の形に変わり、神体となるという考え方から、寺院と神社が合併することが多くあった。
猿江稲荷社と妙壽寺の場合、このような神仏習合が進んだ形態で、鎮守稲荷の神体は「猿藤太木像」であり、本地は「本地久遠成道の釈迦仏」とある。
これは法華経に説かれる教主釈尊で、法華勧請による稲荷社であったことを示している。