赤山禅院 |
京都府京都市左京区修学院関根坊町 |
比叡山延暦寺別院 天台宗修験道総本山管領所 |
「神道集」巻第三
赤山大明神事
そもそも赤山大明神とは、本地は地蔵菩薩なり、
その本地の名を尋ぬれば、武答天神王なり。
これ牛頭天王と一体応迹の変作なり。
その故は、経文を引て云く、
牛頭天王菩薩はまた武答天神王菩薩と名づく、
牛頭天王に三つの称名あり。
一は牛頭天王と名づけ、二は武答天神王と名づけ、三は薬宝賢明王と名づく。
この三種の名、三諦一諦、非三非一の法門なり。
これ則ち妙法蓮華経なりと云々。
また仏説武答天神王秘密心点如意蔵王陀羅尼経に云く、これ義浄三蔵の所訳なり。
またこの天王に十種の変身あり、
一は武答天神王、
二は牛頭天王、
三は倶摩羅天王、
四は蛇毒気神王、
五は摩耶天王、
六は都藍天王、
七は梵王、
八は玉女、
九は薬宝賢明王、
十は疫病神王等これなり。
この十種の変身は皆これ一体にして、衆生を利益す云々。
「源平盛衰記」巻第十
赤山大明神事
赤山大明神と申すは、慈覚大師渡唐の時、清涼山の引声の念仏を伝へ給ひしに、此の念仏を守護せんとて、大師に芳契を成し給ひ、忽ち異朝の雲を出て、正に叡山の月に住み給ふ。
されば大師帰朝の時、悪風に逢て其舟あやふかりければ、本山の三宝を念じ給けるに、不動毘沙門は艫舳に現れ給へり。
此の明神は又赤衣に白羽の矢負つゝ、舟の上に現じ給ひつゝ、大師を守護せられけり。
山王は東の麓を守り給へ、我は西の麓に侍らん、閑なる所を好む也とぞ仰せられける。
赤山とは、震旦の山の名也、彼の山に住む神なれば、赤山明神と申すにや、本地地蔵菩薩なり、太山府君とぞ申す。
「都名所図会」巻之三(左青竜)
赤山の社
赤山の社は修学寺村の東、山下にあり。
慈覚大師唐土より帰朝のとき、明神は白羽の矢負ふて船の上に現じ、天台守護となりたまふ。
神託によつてこのところに勧請しけり
(転宅の節、当社の神札をうけて家に張れば、鬼門金神の祟りなしとぞ)。
神前に迦字の梵字を三所にかくる。
本地堂は地蔵菩薩にして、慈覚大師の作なり。
「仏像図彙」
三十番神
赤山大明神(二十五日)
赤山は支那に太山府君と称す今叡山の西の麓にあり
本地地蔵
[図]
真鍋広済「地蔵尊の世界」
地蔵本地垂迹考
(7) 赤山大明神
赤山大明神は比叡山の西麓京都一乗寺の赤山禅院に祭祀せられる遊行神で、「山州名勝志」によれば本体は素盞嗚尊であり、「源平盛衰記」(巻十)に従えば慈覚大師が唐から帰朝の際に海路安全を守護した中国(シナ)赤山に住む神で『彼の山に住む神なれば赤山明神と申すにや。本地地蔵菩薩なり。太山府君とぞ申す。』と見え、地蔵尊の垂迹として信仰せられたが、その相貌は「源平盛衰記」には『赤衣に白羽の矢負ひ』(巻十)『赤色の戦袍を身に纏ひ、右手は胸前にて白羽の一節を握り、左手には弓を執り、頭には鍬形一本柱の冑を戴き』(巻十七)一見して毘沙門天の如き、武将の装束をした神像であるが、これは勝軍地蔵の一異態のようにも思われ、除災延命の神、或は財神として信仰せられた神である。