「白岡八幡宮畧縁起」
抑白岡八幡宮と申し奉るは、
下野国手洗久保にてご出生ましませし慈覚大師かたじけなくも人皇四十五代仁明天皇の御宇嘉祥二(己巳)年当社草創の勅命を蒙り此地に下らせ給ひ、
上は院宣の重きを戴き、下には万民の望を達せんと杉の木に丹精を抽んで、終日通夜信心堅固に加持護念なし給ふに、
一七日に満る頃不測や虚空に音楽聞へ西の方より紫雲たなびき、赫灼たる光明四方に輝き、
正八幡宮若宮姫宮の三社の御神躰、ならひに本地弥陀薬師の御尊像出現ましませしハ、実に誠心神仏の冥慮にかなふことなり。
此神徳を末世に伝へ蒼生衆生を救ハざらんやと、感涙肝に銘し龔しく三拝九拝し給ひて、もつたいなくも此御尊像を模し彫刻し奉り給ふ一刀再礼の御作也。
「埼玉の神社 北足立・児玉・南埼玉」
八幡神社
白岡町白岡899(白岡字茶屋)
歴史
「白岡の八幡様」として名高い当社は、『八幡宮縁起』や『八幡宮来由』によれば、慈覚大師が仁明天皇の御宇に霊場草創の勅を蒙って東国に下向し、当地にて加持を行った際、正八幡宮・若宮・姫宮の三神と本地仏である阿弥陀仏・薬師の二尊が出現したことに感得して神宮を建立したことに始まるという。
時に嘉祥二年(849)、併せて白岡山西光寺正福院という一寺を建立して当社の別当とした。
[中略]
一方『風土記稿』は、当社について白岡村の項で「八幡社 村の鎮守なり、正八幡若宮・八幡姫宮・八幡三座を勧請せり」と述べた後に、「社伝に云」として由緒を記している。
これによれば、当社は建久六年に右大将頼朝の命により、鬼窪某の奉行で造立され、併せて百余貫の社領も寄進された。