健御名方富命彦神別神社 長野県長野市箱清水1丁目 式内論社(近江国水内郡 健御名方富命彦神別神社〈名神大〉)
旧・県社
現在の祭神 健御名方富命
本地
年神堂(八幡宮)阿弥陀如来

「府県郷社 明治神社誌料」中巻

県社 健御名方富命彦神別神社[LINK]

 創立の年代を詳にせず、されど崇神天皇七年勅して八十万群神を祭り、仍て天社国社神地神戸を定められし由あれば、蓋し本社亦其中の一なるべし、 又続日本紀に持統天皇の朝六年八月辛西使者を遣し、龍田風神、信濃国須波水内等の神を祭りしことも見ゆれば其勧請の古きを証すべし、 延喜式水内郡健御名方富命彦神別神社とあるもの是なるべし、 大日本史神祇志、建御名方富命彦神別神社、又曰水内神、祀彦神別神、合祀其考妣建御名方富命、八坂刀売神、持統帝五年、遣使祭之、延喜制列名神大社、後世本社大衰、属善光寺城内、
[中略]
信濃奇勝録、年越宮、本堂〈善光寺〉の後背に有八幡宮を祠ると云、善光の姓は本田正字は誉田、応神天皇の御諱を誉田別尊と申奉るより出ると云、毎年十二月申日夜半に遷宮あり、俗説に八幡宮は本地弥陀如来にて此夜は如来八幡宮となりて年をとらせ給ふと云伝ふ、 又近藤芳樹の陸路廼記に、寺〈善光寺〉はいと古くよりありて、初は水内郡の奥山なりしを詣つる人の便あしとて今の地に移せりとぞ、いまのところは、もと神明式に建御名方富命彦神別神社とある名神大の御社の境内なり、かく尊き神のうしはきませる処とも憚からで、そをばかたへのものとなして、つひにかく中子のすみかにうばひとられたる、禍津日のしわざこそうたてけれ、〈中略〉 さて水内神のおほんことをも正さんとするに、うしろのかたに、鎖もて閉たる所あり、何ぞとゝへば、こは昔より更に開きたる例なければ仰にも従ひがたしと云つれど、下司らいたく声はげまして叱りつるにおぢて、皆額をつき、膝折ふせたりしかば、鎖を引放ちてみけるに、このうちにぞ誠の水内神社の神体はおはしましける云々と、阿部連稲といふ人のかける善光寺正実記といふものにみえたり、 これをむかしより年神堂と唱へて、即ち水内の神にておはしますを、今は八幡宮と呼かへて、此地にゆかりもなき神となしつれど今もさすがに殊なる祭どもありて、境内にたぐひのなき神なり、
[中略]
其他信濃名所考信濃名勝誌等いふが如く、本社は善光寺の北裏にありて如来の年神堂と唱へ、〈世俗八幡宮と称す〉徳川四代将軍家綱寬文六年再建の証文、十代将軍家治安永八年修繕の棟札あり、 年中の用度は善光寺領千石の内三十六石を以て之に充てたり、 斯の如く千載仏徒の為めに其神威を潰されたりしも、時運茲に到り、明治十一年六月善光寺両住職に議り、年神堂移転再興の端緒を開き、尋で翌十二年十二月遂に本殿を字城山に遷せり