調神社 埼玉県さいたま市浦和区岸町3丁目 式内社(武蔵国足立郡 調神社)
旧・県社
現在の祭神 天照皇大神・豊宇気姫命・素盞嗚尊
本地 大勢至菩薩

「江戸名所図会」巻之四(天権之部)

調の神社

浦和の駅より三町ばかりこなた、岸村といふにあり。 社は街道より右に立たせたまふ。 いま、世に月読の宮ニ十三夜と称せり。 別当は月山寺と号して、浦和町の玉蔵院より兼帯す (新義の真言宗、三宝院の宮に属す)。 例祭は九月二十日なり。 社の向背に掲くる調神社の額は松平定信朝臣の筆跡なり。
祭神 月読命一坐、本地勢至菩薩(この本地仏によりて、二十三夜の称あり)。

「埼玉の神社 北足立・児玉・南埼玉」

調神社

  浦和市岸町3-17-25(岸町三丁目)

歴史

 「調宮縁起」(寛文八年・玉蔵院寂堂法印誌)によると、創建は崇神天皇の勅創とある。 中世の動向については、建武三年(1336)足利尊氏の一族、伊豆山密厳院の覚遍法印は高崎の月宮と当社調宮を遥拝し、尊氏が両社を再建する。 延元二年(1337)二月五日、武蔵国那賀郡広木吉原城主一色大興寺入道源範行を奉行として社頭を復興し神田五か村を寄進する。 貞和・観応の乱により兵火にかかる。 康暦二年(1380)正月、武蔵国足立郡の将、佐々木近江守源持清は同氏の氏神である近江国蒲生郡鎮座の沙々木大明神が調宮明神と同体であるとして社殿を造営し、神田二か村を寄進すると記している。
[中略]
 別当は、古くは真言宗福寿寺が兼帯していたが、いつのころか当社南東の一角に同寺は庵を構え、祭祀に当たっていた。 その後、庵は一寺となり月山寺と号し、福寿寺に代わって別当となった。 『短才見聞録』には、「月読本尊(当社神像)往昔兎乗御座候」とあり、この本地仏は勢至菩薩像であると載る。 元来、勢至菩薩像は月天子の本尊であるから、当社の月読神(調を月に転じた)と共に月待信仰の対象とされたと考えられる。
[中略]
 明治初年、神仏分離により月山寺は廃寺となり、本地勢至菩薩は玉蔵院に移された。