楊田神社 石川県羽咋市柳田町 旧・村社
現在の祭神 菊理姫命・天照皇大神・天手力男命・大己貴命
本地
白山神社聖観音
荒御前社(タカミヤ)不動明王
荒御前社(ウラミヤ)不動明王

「羽咋市史 中世・社寺編」

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楊田神社 柳田町
鎮座地 柳田町の東出、ジゴジの台地に南面して鎮座する。 これを前宮(前社)とし、その後方すなわち北方約200メートルの地にある宮の山の円墳上に小祠が建ち、南面している。 今これを奥の宮(奥社)と称しているが、往時はタカミヤとよばれたという。 また、もとは円墳の南東麓にも神社があってウラミヤ(シタミヤ)とよばれたという。 [後略]
祭神 明治十三年の神社明細帳では、祭神を菊理媛命だけとしているが、現在の明細帳には、
 奥社(天手力男命・大己貴命)
 前社(菊理姫命・天照皇大御神)
となっている。
社名 由緒の条で記したように、柳田にあった三神社を明治になってから合わせて白山神社と称し、後に楊田神社と改称したのである。 楊田神社の社名は近世初期の『能登国式内等旧社記』にも見える。
社格 明治初年に村社となり、大正十二年十一月に神饌幣帛料供進神社に指定された。
由緒 柳田地方は早くから文化のひらけたところであることは、その古墳群・古窯跡・寺院址などからも知られる。 神社も一社だけでなく数社が祀られていたようである。 宝暦十一年(1761)の書上によれば
 (1) 荒御前社(国常立尊) 神主は深江の宮谷氏
 (2) 菊理姫大明神     同右
 (3) 神明宮        同右
 (4) 荒御前社(大穴持命) 神主は堀松の宮谷氏
となる。 このうち(3)の神明宮は、柳田町新保の神社(現在の新保神社)であろう。 残る三社が柳田にあったもので、そのうち(2)の菊理姫大明神は文政三年(1820)の書上にある掛白山宮に該当し、嘉永末年の高免家数人数等書上に「観音」と記されているものにちがいない。 もと西北方の谷間のドガケにあって、カケの観音とよばれた。 それを神主が掛白山宮と称したのである。
[中略]
 残る二社は、いずれも荒御前社となっているが、これがタカミヤとウラミヤに該当することになる。 古老の伝承に両宮とも不動明王を祀っていたという。 嘉永末の高免家数人数等書上を見ると、不動が二つ記されているし、ウラミヤの神輿(天保六年のもの)の紋が不動明王にゆかりのある八鋒の輪宝であることを思えば、この推定はまちがいないであろう。 宝暦十一年の書上で祭神を国常立尊としたのも不動の文字にちなんでのことであろうし、文政十一年の書上で祭神を手力雄命としたのもこれと無縁でない。
かように柳田はタカミヤ(不動)・ウラミヤ(不動)・白山(観音)の三社があって、おのおの氏子を別にしてタカミヤ門徒・ウラミヤ門徒・観音門徒とよばれ、別々に祭祀をおこなってきた。 これでは経費がかかるというところから、明治初年に三社を統合して祭祀を一つにしようとしたのだという。 当時規模のととのっていたのが円墳の南東麓にあるウラミヤであった(地番は字四九の197番地で、明治十三年の神社明細帳以降、今日までそうなっている)。 そこでウラミヤをもって柳田の産土神とし、社名を白山神社と称したが、しばらくして楊田神社と改めたのである。 しかしここは在所から離れて参拝に不便だったところから、その後ウラミヤの建物を在所の方に移築した。 これが現在ジゴジにある前宮だという(地番は字四九の150番地)。 移築の年代は明治二十年頃だと伝えられている。 現在、円墳上に祀られているタカミヤすなわち奥の宮には古神像が祀られているという。
 明治初年、楊田神社が産土神となってからドガケの白山(観音)は廃せられ、奉祀されてきた聖観音等は村内の善正寺に預けられたという。 それまでタカミヤ・ウラミヤに祀られていた不動明王も神仏分離によって同様に処置されたことと思われる。 しかるに明治十年頃に上野に観音堂を再建し、関係の諸仏を安置することになった。 これが現在の観音堂で、聖観音および不動明王のほか大日・阿弥陀如来も安置されているが、これらの由来は明らかでない。 なお二躰の不動明王のうち一躰は、昭和初年に、柳田町猫ノ目の猫目神社に移されたという。 ちなみに右の観音堂は能登三十三所第十七番の順札札所として毎年七月十日には、観音まいりの巡礼者で賑っている。