風土記稿の記事 |
巻之七十 (村里部 鎌倉郡巻之二)
鶴岡 一
抑此地を鶴岡と唱ふる事は、治承四年、源頼朝由比郷鶴岡に鎮座ありし、若宮(鶴岡若宮と号す)を爰に移し、旧に依て鶴岡若宮と号す、
又建久二年若宮の背後、松ヶ岡(【詞林采葉集】曰、昔大蔵冠鎌足、いまだ鎌子と申せし頃、宿願の事に依、鹿島参詣の時、此由井里に宿し給ひける夜、霊夢を感じ、年来所持し給ひける鎌を、今の大蔵の松ヶ岡に埋給ひけるより、鎌倉郡と云、按ずるに、当所後背の山を、今も大臣山と称するは此故なり)に稲荷(松岡明神と号す)社ありしを、北方丸山に移し、其蹟に宮祠を建、八幡を勧請し、是をも鶴岡八幡宮と称す、
[中略]
○鶴岡八幡宮
康平六年八月、伊予守頼義、石清水の神を勧請して、瑞籬を当郡由比の郷に建(【東鑑】治承四年十月十二日條曰、本社者、後冷泉院御宇、伊予守源朝臣頼義、奉勅定征伐安部貞任之時、有丹祈之旨、康平六年秋八月、潜勧請石清水建瑞籬於当国由比郷、原註に今号之下若宮とあり、按ずるに由比宮の旧地は、由比浜大鳥居の東にあり、今に小社を存し社外の末社に属す)、
永保元年二月、陸奥守源義家修理を加ふ、
治承四年十月、右大将源頼朝鎌倉に到り、由比の宮を遥拝し、
同月、此地を点じて仮に宮廟を構へ、由比の宮を遷せり、今の下宮是なり、
建久二年三月(四日)神殿以下、悉く回禄に罹る、
四月頼朝、下宮後背の山上に、新に宝殿を営作す、是別に八幡宮を、勧請せしが為なり、今の上宮是なり、
十一月上下両宮及末社等に至まで、造営成就して、遷宮の儀を行はる、
是より両宮となれり
巻之七十三 (村里部 鎌倉郡巻之五)
鶴岡 四
○上宮
祭神三座、
中央は応神天皇、
右は神功皇后
左は比咩大神
(応神天皇の姉、鶴岡八幡宮記に、上宮三所、中は応神天皇、東は気長足妃、応神の御母神功皇后也、西は姫大神、応神の御姉也)、
本社(桁行六間三尺二寸、梁間三間六尺六寸)、
幣殿(桁行三間二尺五寸、梁間二間五尺九寸)、
拝殿(桁行四間六尺、梁間六尺二寸)建続けり、
建久二年新に勧請ありし社是なり、
四月上棟の儀あり、
十一月、遷宮の式を行はる、
[中略]
△楼門 拝殿の前にあり(桁行四間五尺二寸、梁間二間五尺二寸)、
八幡宮寺の額を掲ぐ(曼殊院二品長恕法親王筆、背に、金剛入道二品親王長恕書之、寛永六己巳年三月八日壬巳日と題す)、
左右に豊磐間戸・櫛磐間戸の神を安ず(運慶作)、
[中略]
△座不冷壇所 廻廊中の巽隅にあり、日夜不断勤行の所にて、天下安全国土豊穣を祷れり、本尊は秘仏にて御正躰と号す(【鎌倉志】曰、御正躰と号して壇を構へ、鏡に弥陀の像打付たる物を厨子に入、鍵ををろしてあり)、又十一面観音、金銅薬師等を安ず、其修法は本地供六座(弥陀・薬師・不動・愛染・正観音・十一面観音)、仁王講八幡講各一座、新古大般若経各十巻、最勝王経一巻、五部大乗経五巻を転読す、
[中略]
【末社】
△武内社
本社の西、瑞籬の内にあり、
武内宿禰を祀る、
神鏡を置、
[中略]
毎年正月朔日尊供あり、
御殿司職持、
△白旗明神社
本社の西にあり、
頼朝を祀る、
木像あり、
左右に住吉・聖天を合祀す、
頼家の造建なりと云ふ、
元旦に尊供あり、
正月十三日神事を行ふ(神楽三十六座を興行す)
[中略]
御殿司職司となれり、
△柳営明神社
白旗社の西にあり、
右大臣実朝の霊を祀る、
将軍頼経の創建と云伝ふ、
至徳・応永の頃は本社の別当兼帯せしが、今は浄国院の管する所なり、
△丸山稲荷社
本社の西山上(丸山と号す)にあり
古上宮の地に稲荷の社あり、
松ヶ岡明神と号せしを、建久中本社造営の時、此地に遷され丸山明神と唱ふ、
後星霜を経て頽廃せしかば、寛文中二王門前にありし稲荷社を爰に移す、則今の社是なり、
其頃は十一観音と、酔臥人の木像(大工遠江と云る者、甚酒を好て、此像を寄進すと云ふ)を安じ、酒の宮と号せしが、酔臥の像は非礼なりとて是を廃し、観音を以て本地仏とす、
社人岩瀬一学持、
△愛染堂
楼門の西にあり、
像は運慶の作(長三尺)、即八幡の本地仏なり、
又地蔵を置(長三尺許、政子の守護仏と云、古は赤橋の東方に別堂あり)、
承仕山口栄存預れり
同巻之七十四 (村里部 鎌倉郡巻之六)
鶴岡 五
○下ノ宮
若宮と称す、
上宮石階の下、東方にあり、
若宮大権現の額を掲ぐ(青蓮院尊純法親王筆)、
祭神四座、中央は仁徳天皇、右は久礼、宇礼(仁徳帝の姉妹)左は若殿(是も帝の妹なりと云、二十二社註式曰、若宮八幡四所御事、若宮仁徳天皇也、宇礼姉、久礼妹、別本云、姉妹祭則別称姫若宮、是に據れば、若殿は即今宮にて宇治王子なるべし)、
本社(四間五尺に、三間)、
幣殿(三間四尺五寸に、二間六尺)、
拝殿(四間五尺八寸に、二間五尺九寸)、
向拝等あり、
三十六歌仙の額を扁す(画は住吉広守筆 歌は日光准后公寛法親王の筆なり)、是元文御修理の時、造らるゝ所なり、
治承四年十月、源頼朝由比郷より移して建立ありし社なり、
[中略]
【末社】
△熱田・三島・三輪・住吉合社
下宮の東にあり、
東四社と唱ふ、
古は各自に社あり、
熱田明神は元暦元年七月、源頼朝の勧請あり、
[中略]
毎年二月・十一月の初卯、及び八月十六日、三島・熱田両社の神事あり、
社人追川俊蔵持、
△天神・松童・源大夫・夷三郎合社
下宮の西にあり、
故に西四社と唱ふ、
古は各自に社あり、
天正の修理図を閲するに、三島の東に続きて松童・天神・源大夫の三宇相並び夷社は別に上宮西門外の西にあり、
【東鑑】建長五年八月、西門の脇に三郎明神を勧請せし由を載たるは則此社なり、
[中略]
松童は八幡宮記に、牛飼也と見ゆ、
[中略]
源大夫は八幡宮記に、八幡の車牛を祀れりとあり、或は元大夫とも書り、
社人金子泰亮預れり、
△高良明神社
階下東方にあり、武内宿禰を祀る(八幡記曰、又玉垂の大神と号す、応神の臣也)、
建長三年三月の大風雨に社殿損す、
是も泰亮預れり、
△神明宮
階下西方にあり、
職掌小坂伊予預れり、
△弁天社
二王門外、東池の中嶼にあり、
古は琵琶橋の辺にありしを、養和元年爰に移せりと云、
神躰は運慶作、長三尺余、背に文永三年九月の銘あり、
天文九年、北條氏再建す、
伶人八員の預る所なり、
△薬師堂
下宮の東方にあり、
薬師三尊及十二神将を置(天正の修理図には、御本地堂と載す、鶴岡八幡宮記曰、応神の御父、仲哀天皇は、何れの処に座し給へる乎、曰く神宮寺に、本地垂跡合体にて座し給也、上宮三所は、阿弥陀の三尊の義に依也、仲哀天皇は、本地は薬師なる故に、奉除之也)、
【東鑑】等に神宮寺或は神護寺などと載たるは、則此堂なり、
[中略]
△新宮
大臣山の西麓にあり、
宝治元年四月、後鳥羽院の尊霊を勧請し奉り、順徳院及護持僧長賢を合祀す、
[中略]
至徳・永享の頃は社務職の者、当社別当を兼帯す、
今は供僧浄国院進退し、毎年二月二十二日神事あり、
社後に六本杉と呼ぶ老樹あり、昔天狗の栖し所なりと云伝ふ、
応永三十年九月社辺に天狗の怪ありし事、【神明鏡】に見えたり、
境内に飯綱社あり、
新宮勧請以前よりの旧社と云ふ、
△諏訪社 二
西方馬場町の山上にあるは上の社なり、
小別当持、
大臣山の東麓にあるを下の社とす、
恵光院管す、
△山王社
巽方鳥合原にあり、
△由比若宮
由比ノ浜大鳥居の東、辻町(大町村属)にあり、
下宮の原社なり、
康平六年八月頼義の勧請せし事は社の総説に見えたり、
【東鑑】仁治二年四月由比大鳥居辺の拝殿、逆浪の為に流失せし由載せたるは即当社の拝殿なるべし、
我覚院管す、
△佐介稲荷社
佐介谷にあり(扇谷村の属、)
建久中頼朝の勧請と云ふ、
例祭二月初午、
延文の頃は供僧等覚院当社の別当を兼帯す、
応永二十五年二月、相承院九世珍誉、当社の別当に補せらる、
此頃は社領ありしなり、
今は社僧華光院持
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