神社名 海南神社
現在の祭神 藤原資盈・藤原盈渡姫
[配祀] 天照大御神・豊受気比売大神・速須左之男大神・菅原道真公・天之鳥船命・筌龍弁財天
【疱瘡神社】源為朝
所在地 神奈川県三浦市三崎4-12-11
風土記稿の記事

巻之百十一(村里部 三浦郡巻之五)

三崎村

○海南明神社  本郡の惣社なり、 藤原朝臣資盈の霊を祀ると云ふ 神体は束帯の座像(長一尺五寸)、 又地主神と称する神体あり(長五寸、十徳の如きものを着す、 社伝の略に資盈は太宰大貳広嗣四代の孫なり、 貞観六年、伴大納言善男、左大臣源信を亡さんとの企ありて資盈を語らふ、 資盈肯がはず、善男怒りて資盈謀叛の聞えありと讒す、 此に於て資盈を追討すべきの勅あり、 資盈九州に居事を得ず、父子三人郎等五十三人を具して、海に浮び十一月一日、此地に着す、 時に房総の海賊民家を煩はす、資盈是を討て、殃を除く、土民尊敬浅からず、 同八年十一月一日夫婦郎等四人相共に死す、 其死骸を海に沈め、祠を建て神に祀ると云ふ、 按ずるに此事歴国史に所見なし、 系図に據に、広嗣は宇合の子、天平十二年、謀叛の聞えありて誅に伏す、子孫に資盈の名を載せず、 又善男は、貞観八年八月二十三日、伊豆国に配流せらる事国史に見ゆ)、 【東鑑】に、文治五年四月三崎社神事の事見ゆ、則別当社の事なり、 今例祭六月十八日 此日神輿を海に浮べ、御座磯に船を艤し神事を行ふ、 又十月初申の日社前に市を立つ、 天正十九年社領五石(其地は金田村にあり)の御朱印を賜はる、 又文禄中長谷用七左衛門免田(一段六畝余)を寄附す、 幣殿・拝殿(正一位海南大明神の額を掲ぐ、吉田兼敬の筆)建続けり、 社前の銀杏樹を神木とせり、
[中略]
△末社 伊勢両宮 二十一社合殿 御霊 金毘羅 疱瘡神 稲荷天王海功明神合社
△神主大井頼母 吉田家の配下なり、 先祖刑部助物部恒光神職となりしより世々其職を保つ(古は別当海潮寺ありしが後廃すと云ふ)、 社家二人あり(小坂因幡 篠沢数馬)