『神道集』の神々

第三 正八幡宮事

『八幡由来記』によると、八幡大菩薩は善紀元年〈壬寅〉に大唐国より日本に来て御住所を求められた。 『正八幡宮本記』によると、震旦国の三皇五帝より百五十七代になる陳の大王の姫宮・大比留女は七歳にして男の子を生んだ。 姫宮は侍女に「私もこの因縁を知りません。ある日、やんごとない人が来て懐に入る夢を見ました。夢から覚めると、日の光がいつもよりも柔和に私の上に差し覆いました。それ以外の子細は有りません」と云った。
三・四年経ち、大王は「これは人間の仕業ではない、東宮ではあるが化物であろう」と椌船を造り、印鑰を持たせて、母子をその船に乗せて海に放った。 王子を八幡御前と名付けたので、船が着いた磯を八幡崎という。
王子は海人たちに秘密にするよう云い、「我はこの国の主で、日本人皇十六代応神天皇である」と名乗った。 その後、王子は垂跡して正八幡宮として顕れた。

善紀元年〈壬寅〉は日本人皇二十七代継体天皇の十六年である。 応神天皇の崩御より二百三十年後、仏法東来の三十年前である。 異朝より因縁を求めて顕れ、初めての和光垂跡である。 和漢の時代には不審がある。 本朝の善紀元年は梁の高祖・武帝の次、梁の第二帝(太宗)の普通三年〈壬寅〉に相当する。

正八幡宮の御殿は南向である。 武内・高良は共に廻廊の内に在る。 若宮も南向で御殿の東に並んでいる。 武内・高良も東に並んで西向である。
御殿から東北に二町くらいの所に、高さ三尺程、広さ二尺程の石が有る。 石の面に「昔於霊鷲山説妙法華経、今在正宮中示現大菩薩」という文字が顕れた。 御殿を造ってこの石を覆い、石体権現と名付けた。

御殿の南に一里離れた海岸から五・六町の所に一つの島があり、名を武香島と云う。 元正天皇の御宇、養老四年〈庚申〉に新羅軍が日本に攻め寄せた時、大菩薩は天地四海の諸神を集めて一夜の内に新羅国に着かれ、「武勇を成して、未来に異国の軍敵を寄せず、果して防ぎ返す故、此の島を築垣と為す」と託宣した。

正八幡宮

鹿児島神宮[鹿児島県霧島市隼人町内]
祭神は彦火火出見尊・豊玉比売命で、品陀和気尊(応神天皇)・息長帯比売命(神功皇后)・帯中比子尊(仲哀天皇)・中比売命を配祀。
式内社(大隅国桑原郡 鹿児島神社〈大〉)。 大隅国一宮。 旧・官幣大社。

『今昔物語』巻十二(本朝 付仏法)の「石清水に放生会を行ふ語 第十」[LINK]には
初め大隅国に八幡大菩薩と現はれ在して、次には宇佐の宮に遷らせ給ひ、遂に此の石清水に跡を垂れ在まして
とあり、八幡大菩薩の最初の垂跡を大隅国としている。

『八幡愚童訓(甲本)』巻下[LINK]には
震旦国の陳の大王の娘大比留女の、七歳にして御懐任在りしを、父の王恠んで、「汝未幼少也。誰人の成す所にかある。慥に申すべし」と仰ければ、「我誠幼稚なれば、人に膚を触る事なし。仮寝マドロミたりし時、朝日の光胸に差掩と覚へて、孕処也」と申させ給ければ、弥驚て、御誕生の皇子と共に空船に乗せて、「流れ着ん所を所領とし給へ」とて、大海に浮べ奉る。 日本大隅国磯の岸に寄り着き給ひけり。 其太子を八幡と号し奉るに依り、御船の着し所をば八幡崎と名付たり。 是は継体天皇の御宇なりき。 大比留女は筑前国若椙山へ飛入り給ひき。 後には香椎の聖母大菩薩(香椎宮[福岡県福岡市東区香椎4丁目])と顕れ給へり。 皇子は大隅国に留りて、正八幡と祝れ給へり。 爰に大隅国の本の住人を隼人と名付く。 敵心を成し八幡を追却し奉んとて、陣を張り合戦すと雖も、隼人打負けて頸を切らるゝ。 故に悪縁と成り、其の難を致すに依り、御行の前には二百人の兵騎を随ひ奉る。 隼人を打取り給ふ御鉾を号して、隼風鉾と名付たり。 実の長さ八尺、広さ六寸也。 仲哀天皇の御子として、皇后の御腹にして異賊を滅し、大比留女の御子としては、幼年の御身にて隼人を討平げ給ふ。
とある。

『大隅国鹿児島神社社記 正八幡宮之御伝記』によると、欽明天皇五年[544]七月十一日に大隅国桑原郡鹿児山の麓の岩が崩れ、雷の様な音がした。 人々がこれを見ると、金色の光が有り、大石が顕れていた。 不思議の思いをなし、鹿児島神社の祭主隼人正が神主となり御神楽を奏し奉ると、「我丑寅の角に現し玉ふは、仲哀帝、神功帝、応神帝也。吾朝を守らんためか為、今石体と現し賜ふ也」と神託が有った。
祭主隼人正が参内し此の旨を奉ると公卿の僉議が有り、勅使が下されて鹿児島神社の御宝殿に八幡宮を崇め賜った。 仲哀天皇・神功皇后・応神天皇、並びに本主彦火火出見尊・豊玉姫命の五神を合わせ、八幡大神と申し奉る。

『年月日不詳大隅正八幡宮神社次第』(桑幡家文書)には
当社本地垂迹之事
 正八幡宮三所大菩薩 神社次第
  本宮御宝殿
  一宇三所御坐ます。
一、東 本地聖観音  垂迹女体。
二、中 本地釈迦如来 垂迹法体。
三、西 本地阿弥陀  垂迹俗体。
とある。

『大日本国一宮記』[LINK]には
鹿児島神社〈大隅正八幡宮と号す。兼右云ふ、神功皇后也〉大隅桑原郡
とある。

『三国名勝図会』巻之三十一(大隅国 曽於郡 国分之一)の鹿児島神社の条[LINK]には
鹿児島神社 内村に在り。 亦正宮とも称す。 今正八幡宮とも云。 祭神彦火々出見尊、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后四坐。 [中略] 延喜神名式、大隅国桑原郡一坐〈大〉鹿児島神社と載せしは、当社なり。 初め彦火々出見尊一坐にて神武天皇の勧請と云。
井上氏蔵正宮伝記曰、此処は即彦火々出見尊大宮を建て、都し給ふ旧址にて、其田址は石体宮是なりと。
正宮社家伝曰、石体宮は、彦火々出見尊の山陵と相伝ふ。 今の正宮は、和銅元年[708]御建立にて、其以前は、石体の地即宮床なり。
とある。
また、八幡神を配祀する由縁[LINK]を、
欽明天皇五年、鹿児島神社の上に雷電おひたゝしく、人皆奇異の思ひをなしけるに、八流の幡降り来り、示現の奇特ありて、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后を合祭す。 是当社を八幡と称ずるの張本なり。 其出現の所は石体宮なりしと云、実に八幡垂跡の最初にして、大隅州一宮なりとす。
とする。

武内・高良

摂社・武内神社
祭神は武内宿禰。

神吽『八幡宇佐宮御託宣集』名巻二(三国御修行部)には大隅宮三所の条[LINK]には
西向 武内 高良
とある。

『大隅国鹿児島神社社記 正八幡宮之御伝記』には
武内社権社 高良大明神并住吉大明神也。
とある。

『年月日不詳大隅正八幡宮神社次第』には
武内本地 十一面観音、異説毘沙門、垂跡大明神。
とある。

『三国名勝図会』[LINK]には
武内宮 前條同所(本社の左)にあり、武内宿禰を祀る。
とある。

若宮

摂社・四所神社
祭神は大雀命(仁徳天皇)・石姫命・荒田郎女・根鳥命。

『大隅国鹿児島神社社記 正八幡宮之御伝記』には
四所社 応神帝の御子仁徳天王なり。 難波帝と号す。
とある。

『年月日不詳大隅正八幡宮神社次第』には
四所本地 普賢・文殊・地蔵・龍樹、垂跡童男・童女、御身異説多也。
とある。

『三国名勝図会』[LINK]には
四所宮 本社の左にあり、大御前・若宮・若姫・宇礼姫の四坐を祀る。 或曰、大御前は豊玉姫、若宮は葺不合尊、若姫・宇礼姫、此二姫、盖し出見尊の皇女か。 一説には、大御前を云はず、久礼姫を加へて四坐とす。 諸神記に、八幡若宮四所御事、若宮・若姫・宇礼・久礼。 又云、若宮四所とは、応神天皇の皇男女也云々。
とある。

石体権現

摂社・石体宮
祭神は彦火火出見尊。

『六郷開山仁聞大菩薩本紀』[LINK]には
御殿の丑寅の方に当て、二町余去て、高さ三尺広さ二尺の石、自然に湧出せり。 里民是を怪み見るに、銘文有。 其の文に曰、「昔於霊鷲山、説妙法華経、今在正宮中、示現大菩薩」と鮮に有り。 然ども深く秘し玉ひて、殿を造り覆ひ玉ふ。 ゆえしる人なし。〈其後四百四年に相当り、仁王七十五代崇徳天皇の御宇長承元壬子年[1132]初、是を拝見する者あり。則帝に奏聞し、勅定により御造営有る。大隅一之宮石躰八幡宮と崇敬し奉る〉
とある。

『三国名勝図会』[LINK]には
石体宮 鹿児島神社の東北三町許にして、鬱然たる林樹の中に崇奉す。 この石体は即、出見尊の初都し給ひし宮址にて、此所に神廟を建て、石の御神体を安置し奉らる。 是、鹿児島神社の原処なり。 今の地に遷宮ありて、神石は猶旧のごとくこゝに留め祀られるなり。 土人の説に、此神体の石は坤軸際より生出たるを以て、人力の能く動すところにあらず、因て本の宮地に斎き奉り、欽明天皇五年、八幡垂跡ありしも此処なりと云へり。 むかし豊前州宇佐の宮の神官等、此八幡の事を信ぜず、三使を遣して是を焼かしむ。 何れの歳を詳かにせず、四月三日来りてこれを焼く。 石体忽ち決裂して、中に正八幡の文字あらはれたり。 三使大きに恐怖して逃帰る、一人は立どころに死して、一人は途中に死し、一人は宇佐に至りて死す、皆神罰を蒙れり。
此石体は、秘物にて藁薦を以て其体を覆ふ。 毎年其薦を更の例にて、祠官桑波田氏潔斎して内陣に入り、薦更の式あり。 しかれども深く密封して、他人敢て近き覬ふを得ず。
とある。

上記の正宮社家伝では石体宮を彦火々出見尊の山陵とするが、『三国名勝図会』[LINK]では
出見尊は、此宮内を皇居となしゐひたるを、尊其兄火闌降命、山幸海幸を互に易し時、尊其鈎を失ひしを、其兄より鈎を返すべしと責められ、憂苦して、海畔に行吟しゐひしに、塩土老翁問て、其故を知り、是を憐れみ、無目籠を作り、尊を駕せ奉り、海宮に至らしむ。 蓋し尊是より沿海南を指し、穎娃邑開聞の地より発して、海宮に到りゐふ。 [中略] 居ること三年にして、本土に帰りゐふや、内之浦邑辺に着き、都城邑の地に遷都し、此地は火闌降命に賜りし。
と述べ、
社家の説、石体宮を尊の山陵なりといへるは、正しき據は無し。
尊の御陵は高屋山上陵と称じ、内之浦にあり。
と否定している。

垂迹本地
正八幡宮応神天皇釈迦如来
神功皇后聖観音
仲哀天皇阿弥陀如来

『八幡由来記』

未詳。
『八幡宇佐宮御託宣集』名巻二(三国御修行部)[LINK]には
香椎宮縁起に云く、善紀元年〈壬寅〉[522]、大唐従り八幡大菩薩日本に還り給ふて見廻り給ふに、人を知らざる間、御住所を求め給ふて、筑紫国香椎に居住し給ふ。
とある。

善紀元年

善紀は私年号の一つで、「善記」とも表記される。

本文中に「本朝の善紀元年は、大宋の梁代五主の内、梁の高祖・武帝の次、梁の第二帝の普通三年〈壬寅〉の年に当れり」とあるが、善紀元年=普通三年は梁の武帝の治世である。

『正八幡宮本記』

未詳。
上記の『八幡愚童訓(甲本)』巻下の正八幡宮縁起を指すか。

三皇五帝

参照: 「神道由来之事」三皇五帝

陳の大王

『八幡宇佐宮御託宣集』名巻二(三国御修行部)[LINK]には
陳王元年〈甲子〉は、欽明天皇五年[544]なり。
とある。 この年は中国では南朝・梁の武帝(蕭衍)の大同十年に相当する。

『六郷開山仁聞大菩薩本紀』[LINK]では南朝・陳の武帝(陳霸先)とする。 同書には
震旦国三皇五帝の御末一百八十有余代は、陳の武帝と申奉る。 御諱は霸先、字は興国、姓は陳、呉興の人也。始は梁の諸修(諸侯の誤記か)たり。 梁の禅りを受け、永定元〈丁丑〉年[557]即位し玉ひ、陳の代となる。
とある。

「宇佐八幡宮事」では晨旦国の太宗とする。

大比留女

『六郷開山仁聞大菩薩本紀』[LINK]によると、大比留女は宇佐神宮の二之御殿に祀られている姫大御神である。 同書には
神功皇后崩御し玉ひて後、梁中大同元年[546]に相当て、陳の武帝の姫宮と再誕坐す。 是神功皇后霊行也、御名を聖母大比留女と号し奉る。 即ち八幡の御母也。 成長まします所に、七歳の御年御懐妊坐す。 [中略] 月日重り臨月に満る其日、異香室に薫じ、紫の雲たなびき、天より八つの白幡降り下る。 程なく御産の紐を解き給ふ。 則ち皇子御誕生有り。
とある。

天照大神も「大日孁貴オオヒルメムチ」と呼ばれる。 これについて、折口信夫「古代人の思考の基礎」[LINK]には
天照大神は、日の神ではなく、おほひるめむちの神であつた」「ひるめと言ふのは、日の即、日の神の・后と言ふことである。ひるめは、である。
とある。
(折口信夫『古代研究 第一部 民俗学篇』、「古代人の思考の基礎」、大岡山書店、1930)

八幡崎

大隅正八幡宮と深く係わる湊に鳩脇八幡崎がある。
国分平野の西端に、現在は清水川と呼ばれる川がある。 この川はかつて鳩脇川と呼ばれており、川の西に隣接する丘陵には 「破戸脇」 という小字名が残っている事から、鹿児島県霧島市隼人町野久美田清水の場所が 「鳩脇八幡崎」 に比定できる。
(重久淳一「中世大隅正八幡宮をとりまく空間構造 —社家館跡の調査から—」、地域政策科学研究、7号、pp.159-177、2010)

武香島

桜島(旧名は向島)を指す。

『八幡宇佐宮御託宣集』威巻七(小倉山社部下)[LINK]には
称徳天皇五年、神護景雲元年〈丁未〉[767]十一月二十四日、託宣したまはく、
「大唐・新羅国の軍を、滅亡せんが為に、天衆・地祇・海神・水神・山神等を召集して、忽に海中に嶋を造り給ふ。軍の来らん時には、西北の風を吹かしめて、吾が城の内に入らしめて、滅亡せん」
私に云く、此の嶋は、霊行の往年に造り給ふ所にして、今御託宣有るのみ。
同書・薩巻十六(異国降伏の事下)[LINK]には
時に彼の大隅の海中に造りたまふ嶋、これを鹿児嶋と号く。 御殿(鹿児島神宮)の南の陸地一里許り去れば海なり。 此の海面を五六十町去つて、件の嶋有り。御殿に向ふ故に、向嶋と名づく。 又敵軍に向ふ故に名くなり。
とある。

『八幡宮寺巡拝記』巻上の第一条「大隅正八幡」[LINK]には
御殿の南一里斗去ては海路也、海面五六丁を去て、高広の嶋あり。 是は元正天皇の御宇養老四季[720]に、新羅の国の軍兵に本を傾ふけんとて、此国に来し時き、大菩薩天神地祇を召し集めて、一夜に築かれし嶋也。 御託宣には忽に海中に嶋を作て、軍の来時には西北の風を吹かしむと云ゑり、向嶋と名く。
とある(引用文は一部を漢字に改めた)。

なお、養老四年は隼人の乱が起きた年である。 『八幡宇佐宮御託宣集』霊巻五(菱形池辺部)[LINK]には
一に云く、薩摩国鹿児嶋明神(鹿児島神社[鹿児島県鹿児島市草牟田2丁目])、宇佐宮に申して言く、「他国の神共、隼人と云ふ神来つて、我が国を打ち取らんと欲ふ」と云々。
という記述がある。 同様に『神道集』の編者も隼人を他国(新羅)と誤認していた可能性が有る。