『神道集』の神々
第十 香取大明神事
香取大明神は下総国の一宮である。 本地は観世音菩薩である。また、玉崎明神は二宮である。
香取も玉崎も同じく本地は十一面観音である。
垂迹 | 本地 |
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香取大明神 | 十一面観音 |
玉崎明神
玉崎神社[千葉県旭市飯岡]祭神は玉依姫命で、日本武尊を配祀。
旧・郷社。
明治神社誌料編纂所『府県郷社 明治神社誌料』上巻の玉崎神社の項[LINK]には
創建は社伝に據るに、景行天皇の御宇、日本武尊東征の時、海上難に逢ひ、妃弟橘姫命海中に入り、依りて無事着岸させられたるが、尊、御船印を当社に留め給ふと云ふ、然れば其以前の創建なるべし。とある。
『飯岡町史』に引用する「玉ヶ崎明神行幸元由記」[LINK]には
当社は人王十二代景行天皇の御子日本武尊東夷御征討に付、相模走水より上総国に渡らせ給ふ。 其時御船海上にて暴風逆浪に逢ひ殆んど覆沈せんとす。 愛妃橘媛命曰く、之れ海神のなす所なりと王に替りて、入水す。 故に風浪穏に上総国に上陸す。夫より又海上下総芦の浦を経て玉の浦を横切り、陸奥え渡らせ給ふ。 其神験を賽し大綿積命の御女玉依媛命を此の玉ヶ崎え斎き奉る。 因て玉ヶ崎明神と尊称す。とある。 また、玉崎神社の由緒[LINK]には
当神社は景行天皇紀の四十年[111]日本武尊の東夷征討の砌、海上安穏夷賊鎮定の為、玉の浦の東端玉が崎に海神玉依姫命を御祭神として創祀せられたと伝えられる御社であって、竜王岬の地名は即ちこれによって起っている。 降って戦国争乱の世の天文二年[1533]、積年の海触を避けて神域を現在の地に移した。とある。
垂迹 | 本地 |
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玉崎明神 | 十一面観音 |
香取大明神
香取神宮[千葉県香取市香取]祭神は経津主大神。 通説では伊波比主命と同神とする。
式内社(下総国香取郡 香取神宮〈名神大 月次新嘗〉)。 下総国一宮。 旧・官幣大社。
史料上の初見は『続日本紀』巻第三十四の宝亀八年[777]七月乙丑[16日]条[LINK]の
『香取神宮古文書集影』所収の正和五年[1316]の大禰宜実長申状案[LINK]には、神武天皇十八年[B.C.643]の創建と伝える。
『日本書紀』巻第一(神代上)の第五段一書(六)[LINK]には 第五段一書(七)[LINK]には とある。
『先代旧事本紀』巻第一(陰陽本紀)[LINK]には とある。
『天書』逸文[LINK]〔卜部兼方『釈日本紀』巻第六(述義二)[LINK]所引〕には とある。
『日本書紀』巻第二(神代下)の第九段[LINK]には 第九段一書(一)[LINK]には 第九段一書(二)[LINK]には とある。
『出雲国造神賀詞』[LINK]には とある。
『常陸国風土記』の信太郡の条[LINK]には とある。
存覚『諸神本懐集』[LINK]には とある(引用文は一部を漢字に改めた)。
『三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集』巻三の神上吉日の条[LINK]には とある。
香取神宮の本地仏・十一面観音立像は諏訪山荘厳寺[千葉県香取市佐原]に移管されている。
郡司幹雄『房総の古彫刻』[LINK]によると、この十一面観音立像の修理銘には「御願主征夷大将軍正二位内大臣源綱吉公奉再興香取大神宮本地十一面観音一躯 脇立廿八部衆」「元禄十三年〈庚辰〉[1700]八月吉辰」とある。