『神道集』の神々
第十四 稲荷大明神事
稲荷明神は、上御前は千手、中御前は地蔵、下御前は如意輪観音である。 ある人の日記によると、下御前は如意輪、中御前は千手、上御前は命婦という辰狐で本地は文殊である。そもそも辰狐菩薩とは、本地は大日如来、文殊菩薩、普賢菩薩、多聞天王、如意輪観音である。 閻浮提の衆生を利すため、仮に辰狐王菩薩の化用を現す。
先ず外用の徳であるが、一は諸病を除く、二は福徳を得られる、三は愛嬌を得られる、四は主君に重敬される、第五は家が栄えて資財が具足する、六は五穀を豊穣とする、七は衣装が豊かになる、八は牛馬など六畜が成就する、九は眷属が満足する、十は端正な子が生まれる、十一は衆人が愛敬する子が生まれる、十二は利根自在の子が生まれる、十三は持念者が病気の家に行って病鬼を退出させる、十四は持念者が難産の家に行って諸魔縁を払いお産を安穏にする、十五は盗賊の難を除く、十六は本姓が劣っていても高位に昇る、十七は軍陣に至ると怨軍が逃げ去る、十八は呪詛を本人に返す、十九は一切の霊験を自在にする。 これらの願いを叶えるために衆生の頼むべきところは、すべて辰狐王菩薩の利益である。
次に内証の功は衆生の心精の為に穢土の荒野に住む事である。 種子は阿字、三昧耶形は如意宝珠である。 能乗は金色微妙の天女、所乗は白色殊勝の辰狐王である。 能乗(天女)と所乗(辰狐王)は定恵一体である。 金剛の実智を顕す故に、文殊菩薩である。 胎蔵の真理を示す故に、辰狐王菩薩である。
本地は文殊菩薩である故に、三世諸仏の覚母である。 如意輪観音である故に、心王意識は阿弥陀である。 毘沙門天王である故に、大定相応すれば不動尊である。 普賢菩薩である故に、一切衆生の菩提願行の身である。
この菩薩には四人の王子がいる。
天女子は、左手に弓を取り、右手に矢を取る。 これは定恵二界の弓箭である。 不吉祥の事を万里に払って、福徳円満の天如意珠の宝を方寸の内(胸中)に満たす。
次に赤女子は、左手の拳に諸愛敬の玉を蔵し、右手に鉾を抱え、不会厄難を除去する。 理の拳には胎蔵の真理を納め、智の鉾には金剛の実智を顕す。
次に黒女子は、左手の拳に利益太平薫芳広大の果玉を入れ、右手に剣を把り、悪霊・邪気・蚖蛇・呪詛・怨敵を降伏する。 理の拳は真如の大地、刀剣は妙理の空智である。
次に帝釈子は、右手に筆を取り、左手に黄紙を取る。 智の神筆を取って、生々の罪障を滅し、現世の豊楽を注す。 理の黄紙を取って、世々の善法を成し、未来の成仏を写す。
息災・増益・敬愛・降伏は、この四大王子の所為である。 一切の天魔・地魔・常随魔はこの天の化作である。 或いは木火土金水の五性を現し、春夏秋冬の四季を示す。 或いは王相死囚老の五行を成し、相尅の力用を成す。 一年十二月・一日夜十二時の守護の天である。
また、この明神の眷属には八人の童子がいる。
第一の童子は、妄語不実の衆生の為に不妄語の心を起こさせる。
第二の童子は、邪見の衆生の為に善心を起こさせる。
第三の童子は、正直の道を示す。
第四の童子は、一切衆生の為に邪見の道から離れさせる。
第五の童子は、一切衆生の病の為に不死の薬を与え、福徳を増長させる。
第六の童子は、底下の人民に治病の術を授ける。
第七の童子は、一切衆生の為に諸の陰陽の法術を以て願をかなえる。
第八の童子は、機に随って法を説き仏道に会入する力用無量である。
八大童子の名を挙げると、守屋神は、舎宅を安穏にする。
奪魂魄神は、疫病を消除する。
破呪詛神は、怨念の呪詛を破る。
護人大神は、高官の栄耀を得させる。
挑我神王は、愛敬を得させる。
未称神王は、功徳を得させる。
愛敬大神は、国王守公の愛念を得させる。
このように、八王子は一切の所願の心に随い、影のように行者を守護すると云う。
また、この明神には二人の式神が仕えている。 二人の式神とは、頓遊行神と須臾馳走神である。
頓遊行神は、十二時に他人の福徳を求め、持者に与える。
須臾馳走神は、十二時に他人の寿命を奪い、行者に施す。
後生守護の本地を尋ねると、稲荷大明神の本地は大聖文殊師利菩薩、久実(久遠実成)の如来である。 垂迹は陀枳尼明王、等流の化身であり、濁悪の教主である。
辰狐王菩薩は如意珠王菩薩である。
この天は奪精と名づけ、一切衆生の心精を奪って、如来の万徳の心臓に納める。
命婦
稲荷大明神の眷属である霊狐は「命婦」と呼ばれ、伏見稲荷大社の末社・白狐社に命婦専女神の名で祀られている。 また、稲荷大明神自体としばしば同一視される。『稲荷流記』の「命婦事」[LINK]には
昔洛陽城(左京)の北、船岡山の辺に老狐夫婦有り。 夫は身の毛白くして、銀の針をならべ立たるが如し。 尾の端あがりて、祕密の五古(五鈷)を、さしはさめたるに似たり。 婦は鹿の首、狐の身あり。 また、五の子をたなびく。 各異相せり。 弘仁年中の比、両狐、五の子を伴ひて稲荷山に参て、各神前に跪きて詞を顕て申さく、「我等畜類の身を得たりと雖ども、天然として聖智を備ふ。世を守り物を利する願深し。然而我等が身にては、此望をとげがたし。仰願は今日より当社御眷属となりて、神威をかりて此の願をはたさん」と。 時に神壇忽ちに感動して、明神宣直して曰く、「我、和光同塵の善巧を顕て、化度利生の方便を廻らす。汝等が本誓、又不可思議也。今より長く当社の仕者となりて、参詣の人、信仰の輩を扶け憐べし。夫は上の宮に仕まつるべし、其の名を小とある。芊 とつくべきなり。婦は下の宮に候すべし、其名をは阿古町といはん」とのたまふ。
中世には命婦として小薄(本地は普賢菩薩)・黒烏(本地は弥勒菩薩)・阿古町(本地は文殊菩薩)が祀られていた。 現在の白狐社は阿古町の後身である。
垂迹 | 本地 | |
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稲荷大明神 | 下社 | 如意輪観音 |
中社 | 地蔵菩薩(または千手観音) | |
上社 | 千手観音(または十一面観音) | |
田中社 | 不動明王 | |
四大神 | 毘沙門天 | |
命婦(辰狐) | 文殊菩薩 |
辰狐王菩薩
吒枳尼と稲荷大明神が習合した尊格。 本来の吒枳尼の形相は夜叉形であるが、辰狐王菩薩は狐(または野干)に騎乗した天女形で表される。例えば、『頓成悉地盤法次第』の道場観には
辰狐王菩薩の身は蘇抜那色(金色)にして端厳微妙の天女也。 左手に三弁宝珠を持ち、右手に理智の剣を執る。 首へには一課(一顆)の宝珠を戴き、野干に乗る。 其の野干の色は白玉色の如し。とある。
また、『頓成悉地大事等』には
辰狐王菩薩は文殊の所反なり。 剣は本地の智徳三障を断除することを表す。
天女形の姿は定門の徳を表す。 身色の白肉は可愛の智徳なり。 其の所乗の白色は本地の智徳を表す。とある。
四大王子・八大童子
四大王子(四使者)・八大童子は辰狐王菩薩に仕える眷属で、吒枳尼法関連の祭文や聖教に説かれる。金沢文庫の称名寺聖教の中に「頓成悉地法」という標題をもつ次第書がある。 吒枳尼を祭って祈願を成就する修法で、天人地の三重の盤を本尊として用いる。
『頓成悉地盤法次第』の道場観や『盤法本尊図』によると、以下の諸尊が勧請される。
天盤 | 辰狐王菩薩 | |
人盤 | 巽 | 天女子 |
坤 | 赤女子 | |
乾 | 黒女子 | |
艮 | 帝尺使者 | |
地盤 | 寅方 | 守宅神 |
辰方 | 稲荷神 | |
巳方 | 米持神 | |
未方 | 愛敬神 | |
申方 | 破呪詛神 | |
戊方 | 奪魂魄神 | |
亥方 | 駈使神 | |
丑方 | 護人大神 |
『頓成悉地大事等』には
三女子は定門の理也。 謂い台蔵界(胎蔵界)の三部の義に当れり。 帝尺使者は金界(金剛界)の義門に当れり。 法界智を表す。
問、三女子を以て三部に配つること如何。
答、三女子を以て三苦を対治せしむ。 其の三苦と云は世間の三重苦也。 天女子は仏部、仏部をは身蜜(身密)に配つ。 眼前の諸苦は身に依て有るが故に、仏部の天女子、苦々の能治たり。 [中略] 次赤女子は蓮花部に配つ。 蓮花部の義は語蜜(語密)に当れり。 壊苦の能治は語蜜の法門也。 [中略] 次黒女子は金剛部に配つ。 金剛部の義は意蜜(意密)の智徳也。 意蜜の智なる故に行苦の能治たり。
次天帝尺は智徳の義門也。 悉く本形を改めて冥官の相を現す。 筆を執り札を持て善悪の事を記す。 其の記録の札を捧て辰狐王に奏す。とある。
『渓嵐拾葉集』巻八十二(卍字秘決)[LINK]には
とある。
卯神は帝釈之使者、午神は赤女子、酉神は天女子、子神は黒女子、丑未辰戌は辰狐王菩薩、此の五大五行は悉く行者の一身に所具の法門也。
『三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集』巻三の神上吉日の条[LINK]には
己巳は辰狐王の三女子、此国に飛来り、天女は厳島、赤女は竹生島、黒女は江島、三州に垂迹せらりし日也。とある。
『乙足神供祭文』には
昔し大唐国に大女(大汝)小女(小汝)代(世の)の政を成す(為す)時、辰狐使と成り、日本国にとある。指 。 難波を渡る剋、大鯰に呑まれて、各々難存命し、而に秦乙足、其の鯰を釣り上げて、八柱御子命を存せしむ。 其時、各々存命の由を悦て、八柱の御子、同音に誓て言く、「我等、乙足の奴僕と成て、子々孫に至て相従はん。縦ひ山野を越へ、又江河を渡らんに、今より以後必ず所願を成せん。[以下略]」。 本誓此の如し。 利生誰か疑はん。 昔の御子達は今の辰狐王なり。
また、『頓成悉地口伝集』には
吒枳(吒枳尼)八人の子息を天竺より日本に衆生利益の為に来也。 悪風に遇ひて入海し、又大なる鯰此の八人の子を呑みつ。 ある翁、天王寺にて此鯰を釣りて腹を裂きて見ば、此八人の子有り。 仍て天王寺土答(土塔神社[大阪府大阪市天王寺区大道1丁目])と云処あり。 此等を祝ひたる。 天王寺鎮守は吒枳尼也。とある(引用文は一部を漢字に改めた)。
二人の式神
西岡芳文「ダキニ法の成立と展開」にはダキニ天・四使者・八大童子は階層をなして配置されるが、その体系には属さずに飛び回るのが頓遊行式神・須臾馳走式神の両式神である。 両手に剣を立てて持ち、翼をもつ人面の式神と、烏天狗の容貌で、右手に宝棒、左手に巾着をもつ式神が描かれるが、容姿を記述した聖教がないため、呼称との対応関係ははっきりしない。 日光山伝来の「飯綱曼荼羅図」の摩耗した短冊形の残画から判読すると、人面が頓遊行式神、烏天狗が須臾馳走式神に当たるらしい。とある。
(西岡芳文「ダキニ法の成立と展開」、朱、57号、pp.154-181、2014)
陀枳尼明王
通常は明王部ではなく天部に分類する。 元来はインドの鬼神ダーキニー(Ḍākiṇī)で、荼吉尼・吒枳尼などと音写され、略して吒天とも呼ばれる。『密教大辞典』の荼吉尼天の項[LINK]には
大疏十[LINK]によらば、荼吉尼は大黒神の眷属たる夜叉の類にして、人の心肝を取り食ふ。 牛に牛黄あるが如く、人身中に人黄あり、若し之を食ふ者は能く大成就を得て、意の欲する所すべて得ざることなし。 荼吉尼は人の死を六ヶ月以前に予め知り、術を以てその心を取る、然れども彼の法として人を殺すこと得ざるが故に、余物を以て之に代へてその人を死せざらしめ、死すべき時に至りて方に壊る。 毘盧遮那仏彼を除かんと欲し、大黒神に化して諸の荼吉尼を召して之を呵責し、「汝常に人を噉ふが故に我汝を食ぶべし」と、即ち之を呑む、而しも死せざらしめ、降伏し已つて之を放つ。 彼れ仏に白して言く、「我は肉を食ふによりて生けるもの、之を禁ぜられてなば如何して生存せん」と。 仏彼に死人の心を食ふことを許す。 而も人の死する時は大夜叉争ひ来りて彼の力及ばざる故に、仏彼の為に真言法を説きて、六月以前に予め知りて、他の為に損せらるゝ畏なく、命終を待ちて取り食ふことを許せりと。とある。
如意珠王菩薩
『渓嵐拾葉集』巻第六(山王御事)[LINK]には天照太神、天下り給て後、天岩戸へ籠り給ふと云は、辰狐の形にて籠り給ふ也。 諸畜獣の中に辰狐は身より光明を放つ神故に、其の形を現し給へる也。
辰狐とは如意輪観音の化現也。 如意宝珠を以て其の体と為す故、辰陀摩尼王と名づくる也。
辰狐の尾に三古有り、三古の上に如意宝珠有り、三古は即ち是れ三角の火形也。 宝珠又摩尼の燈火也。同書・巻第六十八(除障法)[LINK]には
तकिनि(takini)は、亦は真陀摩尼王と名づく。 凡そ欲界の衆生は、貪欲強盛也。故に如意珠王と現じ、衆生の満願を成せしむる也 。如意珠は南方宝部三昧耶也。同書・巻第百五(仏像安置事)[LINK]には
त(ta)天は真陀摩尼珠と名づく。 欲界の衆生は貪欲強盛也。 仍て手に摩尼珠を持し、万宝を雨 して衆生に施し給う也。
稲とは宝幢の上の如意珠と習う也。故に大論に云、古仏の舎利変じて米穀と成る也。とある。 辰陀摩尼・真陀摩尼はCintāmaṇiの音写で、如意宝珠の事である。
『辰菩薩口伝』には
奪一切衆生精気女を如意珠王菩薩と名づく。 亦は辰狐王菩薩と名く。 亦は吒枳尼王と名く。
私云、吒枳尼王如意珠王菩薩は塔中の大日の覚悟し給ふ所、本覚の中の智法身如来の示現也。 故に生死の軍中に在て、中道の甲冑を着て、四魔邪敵を降伏す。 蜜塔の中に入て、中道の善力を持て、二怨を遮ぐ中道の将軍王也。とある。
稲荷大明神
伏見稲荷大社[京都府京都市伏見区深草薮之内町]下社(中央座)の祭神は宇迦之御魂大神。 一説に大市姫命とする。
中社(北座)の祭神は佐田彦大神。 一説に宇迦之御魂神とする。
上社(南座)の祭神は大宮能売大神。 一説に素戔烏尊とする。
中社摂社(最北座)の祭神は田中大神。 一説に大己貴命とする。
下社摂社(最南座)の祭神は四大神。 一説に五十猛命・大屋津姫命・抓津姫命・事八十神とする。
式内社(山城国紀伊郡 稲荷神社三座〈並名神大 月次新嘗〉)。 二十二社(上七社)。 旧・官幣大社。
史料上の初見は『続日本後紀』巻第十三の承和十年[843]十二月戊午[4日]条[LINK]の
吉田兼倶『延喜式神名帳頭註』[LINK]には とある。
『稲荷流記』[LINK]には とある。
光宗『渓嵐拾葉集』巻三十九(吒枳尼天秘決)[LINK]には とある。
『稲荷五所大事聞書』[LINK]には とある。
稲荷社の祭神には異説が多い。 『特選神名牒』[LINK]では、
と諸説に疑問を呈し、
と述べる。