『神道集』の神々

第十五 武蔵六所大明神事

一宮は小野大明神、本地は文殊菩薩である。
二宮は小河大明神、本地は薬師如来である。
三宮は火河大明神、本地は観音菩薩である。
四宮は秩父大菩薩、本地は毘沙門天王である。
五宮は金鑽大明神、本地は弥勒菩薩である。
六宮は椙山大明神、本地は大聖不動明王である。
河越十八所権現大明神とは、武蔵六所・山王七社・八幡三所、二所の物部大明神の本地は釈迦如来、飽満大明神は阿弥陀如来である。 これを十八所と云う。

武蔵六所大明神

大国魂神社[東京都府中市宮町3丁目]
中殿の祭神は大国魂大神で、御霊大神・国内諸神を配祀。
東殿の祭神は小野大神(一ノ宮)・小河大神(二ノ宮)・氷川大神(三ノ宮)。
西殿の祭神は秩父大神(四ノ宮)・金佐奈大神(五ノ宮)・杉山大神(六ノ宮)。
武蔵国総社。 旧・官幣小社。

『武蔵国総社六所宮縁起并社伝』[LINK]には
人王第十二代景行天皇の四十一年五月五日[111]、威神形を現して告り曰く、「吾は是大国魂の大神也。祠を茲に立て能く吾を祭れ。吾を祭らずれば則四海安静ならず」。 郷民等神宣に依りて神籬を営建し、称して大国魂神社と号す。 乃ち相殿五神を祭る。伊弉諾尊・素戔嗚尊・瓊瓊杵尊・布留大神・大宮売命也。 故に六所神社と号す。 後来本地仏九尊を安んず。其の中者、釈迦牟尼仏・聖観世音菩薩・毘沙門天、其の左者、弥勒仏・地蔵菩薩・不動明王、其の右者、薬師瑠璃光仏・文殊師利菩薩・十一面観世音菩薩也。
とある。

『新編武蔵風土記稿』巻之九十二(多磨郡之四)の六所社(六所社領)の条[LINK]には
当社祭る所六神素盞嗚命・大己貴尊・布留太神、共に一殿、是を中殿とす。 瓊々杵尊・伊弉冉尊・大宮女命共に一殿、是を西殿とす。 外に瀬織津比咩・天下春命・倉稲魂太神共に一殿、是を東殿とす。 三殿合せて一社とす。
社伝に景行帝の御宇[71-130]、大己貴尊、小川郷小野里に降臨ありしを、里人私に祠を立て祀れり。 成務天皇の朝[131-190]に及て、兄多毛比尊国造を賜ひて此地に来れり。 庁府を開かれし時、大己貴命に素盞嗚尊等の五神を配して、始て宮社を建て祭れり。 これを六所宮と称せり。
当社後に本地仏を建て、釈迦・聖観音・毘沙門を中殿三神の本地とす。 西殿は弥勒・地蔵・不動、東殿は薬師・文殊・十一面観音なり。
とある。

垂迹本地
中殿大国魂大神釈迦如来
御霊大神地蔵菩薩
国内諸神聖観音
東殿小野大神文殊菩薩
小河大神薬師如来
氷川大神十一面観音
西殿秩父大神毘沙門天
金佐奈大神弥勒菩薩
杉山大神不動明王
参考文献『武蔵総社誌』

小野大明神

小野神社[東京都多摩市一ノ宮1丁目]
祭神は天下春命。
式内論社(武蔵国多摩郡 小野神社)。 武蔵国一宮。 旧・郷社。

史料上の初見は宝亀三年[772]十二月十九日の太政官符[LINK]
天平勝宝七年[755]十一月二日符の中に、武蔵国で幣帛に預る社は四処、多磨郡小野社、加美郡今城青八尺稲実社、横見郡高負比古乃社、入間郡出雲伊波比社。

『新編武蔵風土記稿』巻之九十八(多磨郡之十)の一ノ宮明神社(一之宮村)の条[LINK]には
社伝に云、当社は安寧天皇の御宇[B.C.548-B.C.511]鎮座にして、祭神は当国の国造恵多毛比命の祖、天下春命なり。 配祀五座伊弉冊尊・大己貴尊・素盞嗚尊・瓊々杵尊・彦火々出見尊なり。
本地堂 随身門を入て左の方にあり。 二間に九尺。 文殊菩薩の獅子にまたがりたる長六寸許なる木像を安置す。
とある。
この文殊菩薩像は神仏分離の際に真明寺[多摩市一ノ宮1丁目]に移されて現存している。

『長弁私案抄』[LINK]には
一宮小野大明神者大聖文殊垂迹也。
とある。

小河大明神

二宮神社[東京都あきる野市二宮]
祭神は国常立尊。
武蔵国二宮。 旧・郷社。

『新編武蔵風土記稿』巻之百七(多磨郡之十九)の二ノ宮明神社(二ノ宮村)の条[LINK]には
祭神は国常立尊と云。
伝云、この社は昔田原藤太秀郷武蔵へ来りし時勧請せし。
とある。

『長弁私案抄』[LINK]には
抑当社小河大明神者、当国六所随一、本地薬師如来之応迹也。 忝擺瑠璃界之浄場、武蔵野之草上垂迹露𤁋々」
とある。

『秋川市史 本編』[LINK]によると、昭和四十七年[1972]八月の発掘調査で二宮神社境内から金銅仏薬師如来立像が出土した。 これは小河大明神の御正体(懸仏)の鏡板に鉄留されていた仏像であったと思われる

火河大明神

氷川神社[埼玉県さいたま市大宮区高鼻町4丁目]
祭神は須佐之男命・稲田姫命・大己貴命。
式内社(武蔵国足立郡 氷川神社〈名神大 月次新嘗〉)。 武蔵国一宮(三宮)。 旧・官幣大社。

史料上の初見は『新抄格勅符抄』巻十(神事諸家封戸)の大同元年[806]牒[LINK]
氷川神 三戸 武蔵国〈神護二年[766]七月廿四日符〉

吉田兼倶『延喜式神名帳頭註』[LINK]には
氷川社 日本武東征の時、素戔烏尊を勧請すなり。
とある。

角井惟臣『氷川大宮縁起』[LINK]には
氷川大宮は神代の天津神籬にして、高鼻山の下津磐根に宮柱太敷立、高天原に千木高しりて、鎮まりまします。
人皇五代孝昭天皇猶東国を開き給はんの御志により、同じき御宇三年[B.C.473]四月中の未、素盞嗚尊・稲田姫命・大己貴命三神を祭りそへ給ふ。
とある(引用文は一部を漢字に改めた)。

『新編武蔵風土記稿』巻之百五十三(足立郡之十九)の氷川神社(高鼻村)の条[LINK]には
社記を閲するに、当社は孝昭帝の御宇、勅願として出雲国氷の川上に鎮座せる杵築大社をうつし祀りし故、氷川神社の社号を賜はれり。
とある。
現在は本殿に三座を祀るが、往時の氷川神社は男体社・女体社・簸王子社の三社から成っていた。
男体社 御手洗の橋を過て左の方にあり、[中略]祭神は素盞嗚尊にして、伊弉諾尊・日本武尊・大己貴命の三神を相殿となせり。
女体社 男体の東にあり、[中略]祭神は稲田姫命なり、相殿に天照太神宮・伊弉冊尊・三穂津媛命・橘媛命を祀る。
簸王子社 三鳥居を入て正面にあり、[中略]祭神は大己貴命と云、一説に軻遇突智命なり。
扨当所三社の次第につきて、昔より異論あり。 或は当社大己貴命本体にして、男体女体は彼父母の神なれば、摂社に祀りしものといひ、或はいふしかにあらず男体素盞嗚尊本体にして、簸王子は火神軻遇突智を祀りて、大己貴命にあらず。 よりて当社と女体は摂社なりと。
と三社の関係について議論が有った事を記す。
また、
本地堂 簸王子の東にあり。 氷川の本地仏正観音を安置す。
とある。

『江戸名所図会』巻之四(天権之部)の大宮氷川神社の条[LINK]には
祭神三座、本社の右は素盞嗚尊。〈男体の宮と称す。奥の社ともいふ〉 同じく左は奇稲田姫命。〈女体の宮と称す、これも奥の社と唱ふ〉 本宮は大己貴尊を斎ひ奉る。〈簸王子宮と称す〉
本地堂 神池の北にあり。 観音を本尊とす。 社僧五宇あり。 江戸護持院末、新義真言宗にして、本地供を主務すといへり。
とある。

室町時代以降、当社を武蔵国一宮とする説が有力となり、武蔵国内で広く崇敬された。

秩父大菩薩

秩父神社[埼玉県秩父市番場町]
祭神は八意思兼命・知知夫彦命。 一説に大己貴尊とする。 また、天之御中主神・秩父宮雍仁親王を合祀。
式内社(武蔵国秩父郡 秩父神社)。 武蔵国四宮。 旧・国幣小社。

史料上の初見は『日本三代実録』巻第六の貞観四年[862]七月二十一日戊子条[LINK]
武蔵国の正五位下勲七等秩父神に正五位上を授く。

『先代旧事本紀』巻第十(国造本紀)の知知夫国造の条[LINK]には
瑞籬朝(崇神天皇)の御世[B.C.97-B.C.30]に、八意思金命の十世孫・知知夫彦命を国造に定め賜ひ、大神を拝祠イツキマツル
とある。 現在の秩父神社では、これを以て同社の創祀としている。

『新編武蔵風土記稿』巻之二百五十五(秩父郡之十)の妙見社(大宮郷)の条[LINK]には
人皇四十代天武天皇白鳳四年[675]の鎮座にして、祭神は当国国造の祖知々夫彦命とも、大己貴尊とも云。 又当社天正二十年の棟札の裏書に、欽明天皇御宇、明要六年〈丙寅〉鎮座とあり、明要は逸号なれば、丙寅は即位より七年[546]に当れり。 当今の縁起には、大和国三輪大明神(大神神社[奈良県桜井市三輪])を写など記して、其説定かならず。 按に【国造本紀】「瑞籬朝御世八意思金命十世孫知知夫彦命、定賜国造拝祠大神」とあるに據れば、崇神の朝国造を置玉ひし時より、国神の祀らしめられしなれば、祭神大己貴尊なること疑ひなかるべし。 然に後年知々夫彦の霊も配せ祀りしかば、両説となりしにあらずや。
とあり、主祭神を大己貴尊としている。

一方、平田篤胤『古史伝』一之巻[LINK]には
拝祠大神とある。 此大神は、知々夫彦命の祖神にて、決めて思兼神を祭れるならむ。
とあり、主祭神を八意思兼命としている。

秩父神社には妙見大菩薩が勧請・合祀されており、秩父大宮妙見宮と称された。
上記『新編武蔵風土記稿』には
後年社内に北辰妙見社を勧請して、霊験著しかりければ、終に妙見の名盛に行はれて、本社の旧号は失ひしなるべし。
按に当所へ妙見を勧請せしことは、千葉系譜に據に、天慶年中平高望の五男、村岡五郎良文常陸の国香、下野国染谷川の辺にて、平将門と合戦の時、国香が加勢としてはせ向ひ、難なく将門を追退けし頃奇瑞有し故、良文里老を招て此辺に霊験の神社ありやと問ひければ、里老答て「上野国群馬郡花園村に、妙見菩薩の霊場(妙見寺[群馬県高崎市引間町])あり」と云。 夫より良文同国緑野郡平井へ赴き、秩父へ居を移しせし時、彼花園の妙見を当地へ勧請し、其後又良文下総国千葉へ転ぜし頃、当所の妙見を彼国へ勧請すといへり。
とある。

神仏分離後は妙見大菩薩に替えて天之御中主神を合祀している。

金鑽大明神

金鑽神社[埼玉県児玉郡神川村二宮]
祭神は天照大神・素盞嗚尊・日本武尊。 一説に金山彦命とする。
式内社(武蔵国児玉郡 金佐奈神社〈名神大〉)。 武蔵国二宮(五宮)。 旧・官幣中社。

史料上の初見は『日本三代実録』巻第六の貞観四年[862]六月四日辛丑条[LINK]
武蔵国の正六位上金佐奈神を官社に列す。

『金鑽神社鎮座之由来記』[LINK]には
景行天皇四十一年[112]皇子日本武尊東征の日東国鎮護の為伊勢神宮に於て倭姫命より賜りて常に草薙剣に副ひ佩ひ給ひる火打金を御霊代として、天照大神・素戔嗚尊両神を斎き祭り金鑽神社と称奉らせ給ふて関東総鎮守と崇敬す。 日本武尊は欽明天皇二年[541]尊の大勲を追感あらせられ合祭して勅幣を奉らせ給ふ所なり。
とある。

『新編武蔵風土記稿』巻之二百四十一(児玉郡之四)の金鑽神社(金鑽村)の条[LINK]には
神体金山彦尊或は素盞嗚尊とも云。
三仏堂 弥陀・釈迦・薬師を安ぜり。 薬師は則金鑽明神の本地にて、聖徳太子の作なりと云ふ。
とある。

氷川神社を武蔵国一宮とする場合、二宮は金鑽神社となる。

椙山大明神

杉山神社[神奈川県横浜市緑区西八朔町]
祭神は五十猛命。
式内論社(武蔵国都筑郡 杉山神社)。 武蔵国六宮。 旧・郷社。

史料上の初見は『続日本後紀』巻第七の承和五年[838]二月庚戌[22日]条[LINK]
武蔵国都筑郡の枌山神社を官幣に預る。 霊験を以てなり。
であるが、この枌山神社が現在の何れの杉山神社(西八朔、吉田、茅ヶ崎、大棚など)に該当するかは未詳。

『新編武蔵風土記稿』巻之八十三(都筑郡之三)の杉山社(西八朔村)の条[LINK]には
神体は不動の立像にて長一尺許。
とある。

河越十八所権現大明神

猿渡盛厚『武蔵府中物語』(上巻)の「安養寺」[LINK]には
安居院神道集、等[第]三巻に喜多院の鎮守の神のうちに、六所宮を筆頭に勧請してあることが書いてある。
私云、河越十八所権現大明神ト申 六所山王七社八幡三所並ヘ上ス 又二所物部大明神本地釈迦也。飽満大明神、弥陀如来也。已上十八所ト申ハ即是也。
右十八所権現大明神は、喜多院の鎮守の神として、勧請したもので、其の中で、武蔵総社たる六所宮は、筆頭に挙げてある。
とある。 喜多院の鎮守の中では日吉山王社(日枝神社)が現存する。

日枝神社[埼玉県川越市小仙波町1丁目]
祭神は大山咋神。
旧・県社。

『新編武蔵風土記稿』巻之百六十三(入間郡之八)の東照宮(小仙波村)の別当喜多院の条[LINK]には
日吉山王社 慈覚大師当山開基の頃、比叡山より勧請す。 神体宝剣なり。
とあり、十八所権現大明神の内の山王七社に該当すると思われる。 この他に、弁天社・白山社・稲荷社が挙げられているが、六所宮・八幡三所などは既に退転していたようである。

物部大明神

福島東雄『武蔵志』壱巻(豊島郡)[LINK]には
天神(平河天満宮) 麹町平川丁(東京都千代田区平河町)に座す。道灌築城の時、川越城中の物部天神を遷し祭て御城地に座しか。
主城の川越は物部天神にて饒速日なるか、道灌の比は最早天満天神に奉崇にや。
とある。 また、同書・四巻(入間郡)の河越の条[LINK]には
天神 城内に在、容易社参難し。 (朱書)「物部天神の神社なり 仙場御修補の序に公儀より修造と云」
とある。 川越城中の天神とは、現在の三芳野神社である。

三芳野神社[埼玉県川越市郭町2丁目]
祭神は素戔嗚尊・奇稲田姫命で、菅原道真を配祀。
旧・県社。

『新編武蔵風土記稿』巻之百六十二(入間郡之七)の天神社(河越城并城下町)の条[LINK]には
縁起を閲に足立郡大宮町の氷川大明神は大社にて、国中の鎮守なれば爰に勧請すと。 又云中古神託ありて法華の法味に満足するゆへ、浄土に往来して極楽自在なりとありけるゆへに、本地堂に観音を本尊として地蔵を脇立とす。 後に示現の告ありて十一面観音を本体とし、不動毘沙門を脇立とす。
又いつの頃か北野天満天神を勧請して、此社内に祝ひこめり。 これは北野の本地も同体なれば、かくの如く相殿として祀りしならん。
とあり、物部天神ではなく北野天満天神を配祀したと記されている。
『武蔵志』十巻(高麗郡)の的場の条[LINK]には
物部天神 今菅神と云は誤。
とある。 これは法城寺境内の三芳野天神社を指す。

三芳野天神社[埼玉県川越市的場]
祭神は菅原道真。

『新編武蔵風土記稿』巻之百八十一(高麗郡之六)の法城寺(的場村)の条[LINK]には
天神社 境内にて謂ゆる三芳野天神是なり、 此神体を中頃今の川越城中へ移したりしに、神慮旧地を慕ひ給ふにより、元和六年[1620]再び当寺の境内に移すと云。 神体厨子入にて、印子の立像長一寸八分、これを渡唐天神の腹籠とす。 渡唐天神は白檀香木もて作れる立像にて、長八寸なり。
とある。

飽満大明神

未詳。