『神道集』の神々
第二十二 出羽国羽黒権現事
出羽国鎮守の羽黒権現は三社から成る。中御前の本地は請観音である。
左は軍陀利夜叉明王である。 この明王は南方宝生如来の化身である。
右は妙見大菩薩で、東方阿閦如来の化身である。
羽黒山は能除大師の草創で、人皇三十四代推古天皇の御代に顕れた。
垂迹 | 本地 | |
---|---|---|
羽黒三所権現 | 伯禽州姫命 | 聖観音 |
羽黒彦命 | 軍荼利明王 | |
玉依姫命 | 妙見大菩薩 |
能除大師
羽黒派修験道の開祖。『羽黒山縁起』[LINK]は崇峻天皇の第三皇子と伝える。
皇室関係の諸系図には崇峻天皇の子を蜂子皇子と錦代皇女の一男一女とするが、第三子のあった事は記されていない。
江戸時代の初期になると、羽黒山の別当であった宥俊や、その弟子で別当職を継いだ天宥は、能除は崇峻天皇の第三子ではなく太子であるとして、朝廷の文書・記録の中から、その証拠となる資料を求めようとしたが成功しなかった。 それから二世紀後に羽黒山の別当となった覚諄が、能除は崇峻天皇の長子である蜂子皇子であると主張して、これに菩薩号を贈られんことを奏請した。 しかし、朝廷は能除を蜂子皇子とは認めず、能除聖者に対して照見大菩薩という諡名を授けた。 それ以後、羽黒山では開山を蜂子皇子であると称するようになり、開山堂には梶井宮法親王の染筆になる「蜂子皇子照見大菩薩」という額を掲げた。
明治政府は蜂子皇子が羽黒山の開山者であることを認め、その墓所を羽黒山上に治定した。
(戸川安章『日本の聖域(9) 出羽三山と修験』、出羽三山とその開祖[LINK])
神仏分離により開山堂は摂社・蜂子神社となった。
【参考】出羽三山
羽黒派修験道では羽黒山・月山・葉山の三山を現在(観音)・過去(阿弥陀)・未来(薬師)に配し、湯殿山を三山の総奥之院としていた。 戦国時代に葉山が三山から離れた後は、湯殿山に薬師岳の薬師如来を勧請合祀し、羽黒山・月山・湯殿山を三山としている。月山・湯殿山は冬期の参拝が困難であることから、羽黒山頂の羽黒山寂光寺大堂に三山の本地仏(観音・阿弥陀・大日)を安置した。 神仏分離以降は大堂を三神合祭殿と改め、月山神社・湯殿山神社を合祀している。
月山神社[山形県東田川郡庄内町立谷沢]
祭神は月読命。 一説に鸕鷀草葺不合尊とする。
式内社(出羽国飽海郡 月山神社〈名神大〉)。 旧・官幣大社。
史料上の初見は『新抄格勅符抄』巻十(神事諸家封戸)大同元年[806]牒[LINK]の
月山神 二戸 出羽国〈同年同月(宝亀四年[773]十月)符〉月山本宮は月山山頂に鎮座する。 本宮は御室とも呼ばれ、神仏分離以前は暮礼山月山寺と称した。
『羽黒山縁起』[LINK]には
太子、有難く思し召し、推古天皇の御宇、吉貴元〈癸丑〉年(推古天皇元年[593])四月八日、深山に分け入り給へば、補陀落の如来は、金色の光を放つて山林を照し、十方世界を浄土とし、山顛の阿弥陀は済度苦海の教主、三身円満の覚王也。 今の月山寺暮礼山是也。 月山は、能除、峰の頂上によぢのぼり給ふと等しく、如来来迎ありて、能除、意に思ひ差悪、過・現・未共に影向の光りにあらはる事、鏡に物の浮ぶがごとし。 此の時、四十八大願を授り給ふ。 鏡は月に似り。 殊更、夜を司る神なれば月山と号し、垂跡の神。 仍して奥院に銀鏡を崇ふ。 暮礼山は夜を主とる神にて、今に至りて、来迎も昼より暮るる迄也。とある。
『羽黒山伝』[LINK]には
安曇磯良。 二人の姫宮、此界え出府し玉ひ、厥の御迹を慕ひ、此界え出府し玉ふ。 月山権現是也。
月山は鸕鷀草葺不合尊。 羽黒山は伯禽洲姫宮。 下居は玉依姫宮。とある。
『月山開帳之来由』には
抑、此の本地尊の来由を尋ね奉るに、西天竺勿俄大王、宿願有に依て扶桑国月山に奉納す。 かの大王、遥に月山の霊崛を知り、本地仏像を寄納するといへども、海路幾千万里の辺とて唐土に留滞せり。 然るに吉備公渡唐の時、難に逢て月山の神慮を念じければ、不思議の観応ありて唐朝武皇帝もまた天竺国王奉納の尊像に遅々たり。 速に彼の山に到らしめよと霊瑞蒙りしによって、吉備公帰朝の時、伝来せるとなり。
八股の鹿の角、権現の神宝たる所以は、昔、山下の邑人隆待次郎といへる猟師、三山に往来して狩猟を業とし、朝暮、山野を家とす。 ある日、月山の辺りに一の鹿出たり。 次郎、もとより目に当る鳥獣射殺せざると云事なければ、弓矢打番へ放つ矢、彼の鹿の頭上に負ながら深山に走り入りければ、隆待、遥の山に追ひ行く程に、遂に月山の神殿に追入ける。 その時、彼の鹿、忽然として形を変じ、矢は八股の角と成る。 之に因て、次郎、奇異の思をなし、神前を顧れば、正身の阿弥陀如来、五色の雲に乗じ、虚空に声ありて、「鹿と見へしは我なり。汝を仏門に入らしめんとして此の山に誘ふなり」と。 光明赫々たり。 隆待、宿因開発の時なるか、地に伏し、涙を流し、合掌して六根罪障の慚愧して如来を拝し、八股の角を神殿に捧げて開山の教示を蒙り、一世行人と成り、三山参詣の道俗を導く。
月山開帳、本尊は阿弥陀如来。 御長五寸弐分。 総黄金の像にて天竺より渡らせ給ふ尊像なり。とある。
『出羽国風土記』巻二の月山の条[LINK]には
頂上に祠あり。 月読尊を祀る。 此山郡中の最高にして湯殿山其の半腹にあり。 羽黒山是か麓なり。 之を三山と称す。
羽源記を見れば、金剛界上品上生之阿弥陀伊弉諾尊にして月山の頂上に出現と有り。 塩土老翁武内宿禰へ告給ひしと云ふ文を見れば、此峯に出現し給ふは葺不合尊にして、神祠は皇野に建しと見えたり。 按するに、仏家葺不合尊は伊弉諾尊の再誕、諾尊は弥陀の再誕なりと、例の三世に附会したる説なるべし。とある。
湯殿山神社[山形県鶴岡市田麦俣六十里山]
祭神は大山祇命・大己貴命・少彦名命。 一説に彦火火出見尊とする。
旧・国幣小社。
湯殿山本宮は湯殿山の中腹の梵字川渓谷に鎮座する。 神域には社殿は無く、巨岩を御神体(御宝前)として祀る。
湯殿山大権現の御神体と仰がれる巨岩は、清川(梵字川の上流)に臨んで屹立し、岩塊の至るところから温湯を噴き出し、大小二つの頭をもっている。 二つの頭のうち、やや低くて小さい方を金剛界大日如来、少し高くて大きい方を胎蔵界大日如来と仰ぎ、二つの頭をもつ岩が一つに結ばれていることから、羽黒山の先達は胎金一致の大日如来と拝し、真言四ヵ寺の行人は金胎両部の大日大霊権現と崇める。
(戸川安章『日本の聖域(9) 出羽三山と修験』、三山の信仰と歴史[LINK])
『羽黒山縁起』[LINK]には
大日に逢奉らんと、谷の草深きを凌ぎ、光静に香識処を怪しく御覧すれば、有難き来迎、肝に銘じ、昼を主り給へば、今に至る迄、辰巳の間に来迎有り。 権現の尊像を拝さんと下り給へば、一つの嶮岨なる坂有り。 下るべくもなかりしに、光明頻に向ひ来て、少しも危ふからず。 今、此の坂を合向と書き、むなかいと読む事、秘事也。とある。
権現に逢奉り給へば、御身より火を出し、能除太子の膚へに燃つき、煩悩・業・苦の三毒を消滅し給へば、火は則天に上りぬ。 権現の膚への火は、則、宝珠と成る。此の玉を意に隨へて所作せよとて、或は暖湯滴り、思ひ侍るに五味を出し給ふ。 今に絶ざるによつて湯殿山とせらる。 其の時、太子、五味をあぢわひてより以来、湯殿別行をはじめ、一期の間、別火を用ひ、袈裟に四十八大願を結ひて掛け、ゆどの宗旨をひろめらる。 去程に、ゆどの別行と申すは、太子の跡を学び、羽黒の峰を行ひて、其の後、別行究むべし。 寺号は秘事也。習べし。 或は火を出し、或は浄土・地獄をあらはし給ひて後、珠を太子にあたへ給ふ。 太子、珠を懐中有て、衆生利益のために荒沢に納め、不動と地蔵を本尊とし給ふ。 今の常火是也。 然に地蔵の善巧方便として、常火、容易に消る事を悲み、地蔵の額より火を出し給へば、不動の臂を切り、法火となし、火をとどめ給ふ。今の切火是也。常火とは刹那も消理せざる誓願也。 暫くも断絶有則は常火にあらずと也。切火は法火にとどめて、仮初の行法に用ゆ。 湯殿山を月山・羽黒・葉山の三山の奥院として、秘所と定めらる。
『三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集』巻三の神上吉日の条[LINK]には
乙丑は法身大日垂迹、山羽国大梵字川の水上に和光し、五味薬湯の源に置居し、湯殿権現と顕れ給ふ日也。とある。
『出羽国風土記』巻一の湯殿山大権現の条[LINK]には
殿舍なし。 月山の南を経て遥に西へ下れは大なる沢あり。 沢の辺に熱湯の沸出る所あり。是を湯殿大権現の宝前と云ふ。
祭神大己貴命少彦名命二柱を祭り、大日孁尊を合せ祀る。 社領社家なし。 大網村に注蓮寺・大日坊とて両別当あり。 外に衆徒あり。 注蓮寺は大日坊より草創久敷きにや。 守札に根元執行別当と書す。 山城醍醐報恩院の末寺とそ。 一山の寺号を日月寺と称し、月山の奥院と云ふ。 大日坊は注蓮寺より半里許り山入にあり。 両寺堂塔数多あり。
三山雅集に湯殿権現垂跡大山津見命也。 或云大己貴命なり。 又謂彦火々出見尊なりと。 其中の正意は最初の説大山祇命也。 羽源記曰、湯殿山大日応身覚王也云々。 又宝永年中鶴ヶ岡伊勢屋といへるもの板行したる名所旧跡伝来記に、湯殿山の濫觴を尋来るに大日孁の尊神八大金剛童子御本地大日如来なりと有り。とある。
湯殿山側では弘法大師の開山による真言宗の法流を主張し、羽黒山(天台宗)と度々争論した。
『大日坊由来』[LINK]には
抑々出羽国湯殿山大権現と申奉るは大梵字川の水上に和光して顕れ給ふ、本地法身の大日如来なり。
開基の人師は弘法大師。然に延暦二十三年[804]桓武天皇の御宇、大師密教求法の御為に御入唐有りけるに五台山に登り給ふて、文珠(文殊)大士に逢ひ奉る。則ち文珠告て曰く、大日本国東北の山に当て大権現鎮座の霊窟法身の大日如来の浄嶺有る由、文珠菩薩の教を感行し、大同二年[807]平城天皇の御宇御帰朝の後、秋津島の内残る所もなく御巡錫有りけるに、漸く出羽国田川郡に尋ね入せ給ふに一つの河有り。 是れ八久和川の下流なり。 則ち大梵字川と云ふ也。 此の川に大日五字の真言浮き流を御覧じて、いよいよ信心決定なされしとなり。 その源を御尋ありけるにより櫛引河と云ふ有り。 岸々に石窟あり、是にしばらく通夜なされしとなり。 其時衆生済度の地蔵菩薩出現し給ひて大師に告げて曰く、仏法興隆の霊地を教へ給ふ。 則ち大網の邑に至て清浄の霊地を御覧じ、天長地久天下安穏の御為に大日勧請の護摩御修行なされ、鎮護国家の御為に一宇の伽藍を建立して、湯殿山表口別当滝水寺金剛院大日坊と号す。
扨て御山へ尋登せ給て、新に法身の大日如来に拝謁し、旧望の御願円満して、此の時末世の道俗参詣の軌則に、梵天上火井切火注連等の密儀直に大日如来より御伝受有けると云ふ。とある。
『亀鏡志』[LINK]には
注蓮寺の新山権現は則湯殿大権現にて候。 本来の御山を新たに移故に新山権現と申候。 弘法大師此山を開き給う事は八大金剛童子出現して上火之行法を大師に授給ふ也(八大金剛童子は即湯殿山大権現也)。
大師御入唐の時五台山の文珠菩薩、大師に向つて曰く日本出羽の国大梵字川の水上法身の如来鎮座します山有としめし給ふに依て御帰朝の後当国に下り大河を尋ねて酒田の港に着。 [中略] 此瑞相に依て赤川を上り給ふ。 五六里あつてアビラウンケンの五字水の上に浮びたり。 是大聖文珠の告給ふ大梵字と歓喜礼拝し則ち鳥井を立給ふと伝へ云也。 [中略] 対面石とて二つあり、則ち権現の座、大師の座也。 大師此処に至り給ふ時守護神(龍神夜叉神)礙をなして留めんとす。 四山鳴動し氷雹石を摧く。 偏に黒闇とす。大師は石上に座し定印に安住し給ふ。 暫有て風鎮り天晴れ四面明かに成事元の如し。 爾れ後権現石上に現じたまふ。 八大金剛童子也。大師に向て上火の作法軌則を悉く説き授け給ふ。 大師は教の如く其儘立帰り上火行を修し給ふなり。
則此注蓮寺之境内は八方に峯立連り八葉の地なり。 此の故に此所に来り結界し地をそゝぎ八葉中台に壇を立火炉に定め金剛童子の教の如く形を改め七五三冠上衣梵天等の軌則を調べ始て上火を行い給ふなり。とある。
羽黒権現
出羽神社[山形県鶴岡市羽黒町手向]祭神は伊氐波神・倉稲魂神。 一説に伯禽州姫命、玉依姫命、あるいは羽黒彦命とする。
式内社(出羽国田川郡 伊氐波神社)。 旧・国幣小社。
三神合祭殿に月山神社・湯殿山神社(後述)を合祀していることから、出羽三山神社と通称されている。
『羽黒山縁起』[LINK]には とある。
『羽黒山伝』[LINK]には とある。
荒井太四郎『出羽国風土記』巻二の羽黒大権現の条[LINK]には とある。
同書の皇納賀原の条[LINK]には とある。
同書の阿久谷の条[LINK]には とある。
『羽黒三山古実集覧記』[LINK]には とある。
羽黒権現の垂迹神について、戸川安章は以下の様に述べている。
(戸川安章「天宥別当の生涯とその事蹟(2)」[LINK]、斎藤報恩会時報、178号、pp.157-170、1941)
(戸川安章『日本の聖域(9) 出羽三山と修験』、三山の信仰と歴史[LINK]、佼成出版社、1982)
羽黒山は無本寺であったが、寛永十八年[1641]に羽黒山別当の宥誉が天海の弟子となって天宥と改名。 以後、羽黒山は天台宗(山門)に帰属し、本山派・当山派とは異なる羽黒派修験道として独自の伝統を主張した。
明治初年の神仏分離により羽黒山寂光寺は廃され、大堂は出羽三山神社の三神合祭殿となった。 羽黒山五重塔は末社・千憑社(祭神は大国主命)となり、その他の堂舍もほとんど廃絶もしくは摂末社に転じた。
羽黒山奥の院の荒澤寺は修験寺院として存続し、昭和二十一年[1946]に羽黒山修験本宗として独立。 現在、羽黒派修験道は出羽三山神社と羽黒山修験本宗に分かれ、それぞれ独自に峰入修行を行なっている。