『神道集』の神々
第三十三 三嶋大明神事
伊予国三嶋郡から荒人神が顕れた。 その神を三嶋大明神という。 此の御神の由緒を委しく尋ねると、以下の通りである。昔、伊予の国に、平城天皇の末裔で橘朝臣清政という長者がいた。 清政は財産には不自由が無かったが、子宝には恵まれなかった。
清政夫妻は大和国長谷寺に大船六艘分の財産を寄進し、十一面観音に参籠した。 三七日の満願の夜、夢枕に観音が示現し、「汝ら夫婦は昔は牛だった。この御堂を造立した時、淀より材木を運んだ牛が庭に繋がれた。その時、我が前に一本の菊が有った。玄弉三蔵が中天竺の摩訶陀国から花の種を持ってきて、長安城から日本の内裏に伝わり、我が宝前に移植された。天下第一の宝だったが、この菊の花を妻の牛が食べ、汝が角で根を掘って枯らしてしまった。御堂の材木や供養の布施物を運んだ功徳により、人間に生まれて長者となったが、菊を枯らした罪により子種が無いのだ」と告げた。 夢から覚めた清政は泣きながら「自分で腹を切り、仏の頸に食いついて狂死したい。この御堂を大魔王の住処として、参詣する人を取り殺そう」と云った。 再び夢枕に観音が示現し、「別の女に授ける子種が有る。お前の財産をこの女に与えるなら、替りにその子種をお前に授けよう」と云った。 これを聞いた清政が承諾すると、観音は水晶の玉を授けた。 清政はこれを女房に与え、女房がそれを口に入れると目が覚めた。
間もなく女房は懐妊し、美しい若君が生まれた。 清政はこの子に玉王と名付けた。 観音との約束で財産はすべて無くなったので、わずかに残った錦と絹で産着をこしらえた。 清政は山で木の実を拾い、女房は野辺の若菜や浦のワカメを取って暮した。
ある日、女房がワカメを取っていると、赤子が鷲にさらわれてしまった。 鷲は伊予・讃岐・阿波・土佐の四ヶ国の境にある白人城を飛び越えて、与那の大嶽に入った。 清政夫妻は必死で山谷を探したが、赤子の骨すら見つからなかった。
鷲は与那の大嶽を飛び越え、阿波国板西郡の頼藤右衛門尉の庭先の枇杷の木の三俣に赤子を挟んで飛び去った。 頼藤右衛門尉は玉王を五歳になるまで育て、阿波の目代(国司代理)がこの子を貰い受けた。 七歳の時に阿波の国司が貰い受け、十歳の時に帝が貰い受けた。
玉王は十五歳で内蔵人になり、十七歳で太宰大弐に補され、西海道の九国と二島を賜った。 領国検分のために筑紫に下向しようとしていると、四国から京見物に上った人々が自分の噂をしている所に遭遇し、自分が鷲にさらわれた子である事を知った。
玉王は実の父母を探すために国司として四国に下向した。 国司は阿波国の頼藤右衛門尉の邸で七日七夜の不断経を開き、人々に集まって聴聞するよう命じたが、その中に鷲に子供を取られた人はいなかった。 次に伊予国三嶋郡尾田の清政長者の旧宅で不断経を開いたが、やはり鷲に子供を取られた人はいなかった。 一人の役人が、与那の大嶽の南の真藤の岩屋の老夫婦が不断経を聴きに来ていないと報告した。 国司はその老夫婦を連れて来るよう命じた。
役人は山に入って老夫婦を捕らえ、伊予国三嶋郡の国司の所に連れて来た。 国司が尋ねてみると、老婆は生後百日余りの赤子を鷲に取られたと云った。 老婆が胸をはだけて左の乳房を搾ると、その乳は国司の口に飛び入った。 国司は老夫婦に自分が鷲にさらわれた玉王であると名乗った。
国司は都に戻って帝に報告し、老いた実の父母に孝養を尽くしたいと願った。 帝は玉王を四国の惣追捕使に任じて、伊予国三嶋郡を領地とした。
その後、玉王は伊予中将となった。 中将が三十七歳の時、清政夫妻が亡くなった。 その三回忌が終わって中将は都に戻り、帝の婿に決められた。 中将は父母の墓所の上に神社を建て、三嶋大明神と号して祀った。
その後、中将夫妻は伊勢太神宮に参詣して神道の法を受け、四国に下向した。 御年八十一歳にして神明として顕れ、「我が生国なので、この国に住もう」と云って伊予国一宮となった。
讃岐国一宮は中将の乳母の高倉蔵人の女房である。
阿波国一宮は玉王の養父の頼藤右衛門尉である。
三嶋大明神は「我が子は枇杷の枝に捨て置かれて助かったので、氏人は枇杷の木を疎略にしてはならない。我が子は鷲にさらわれ、後に民の王となった。その鷲を疎略にして良かろうか」と託宣した。 鷲も神道の法を授けられて鷲大明神と号し、伊予国一宮の御殿の前に祀られた。
その後、三嶋大明神は東国に渡り、伊豆の国に移り住んだ。
鷲大明神も東国に飛び移り、武蔵国太田庄の鎮守となった。
垂迹 | 本地 |
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大山積大明神 | 大通智勝仏 |
三嶋大明神(伊豆国)
三嶋大社[静岡県三島市大宮町2丁目]祭神は大山祇命・積羽八重事代主神で、阿波神・伊古奈比咩命・楊原神を配祀。
式内社(伊豆国賀茂郡 伊豆三嶋神社〈名神大 月次新嘗〉)。 伊豆国一宮。 伊豆国総社。 旧・官幣大社。
『伊豆国神階帳』[LINK]には「正一位 三島大明神」とある。
史料上の初見は『新抄格勅符抄』巻十(神事諸家封戸)の大同元年[806]牒[LINK]の
伊豆三島神 十三戸 伊豆国〈宝字二年十月二日九戸 同十二月四戸〉
『日本後紀』逸文の天長九年[832]五月癸丑[22日]条〔『釈日本紀』巻第十五(述義十一)[LINK]所引〕には
伊豆国言上す、三島神・伊古奈比咩神、二前を名神に預る、此神深谷を塞ぎ、高巌を摧き、平造の地二千町許、神宮二院・池三処を作し、神異の事勝計すべからず。とあり、伊豆三嶋神社は元々は伊古奈比咩神社[静岡県下田市白浜]と同所に祀られていたと考えられる。
秋山富南他『増訂 豆州志稿』巻之九上(神祠 三)の伊古奈比咩神社の条[LINK]には上記の引用に続けて、
即此地にして神宮二院とは此二神の宮殿なるべし。 (寛保度までは二院並ひ立り。延享度[1744-1748]改造の時より一院とす)と付記する。
三嶋大明神に関しては伊予国からの遷祀説があり、例えば『三島宮社記』[LINK]には
同年(宝亀十年[779])冬十二月、大山積大神、伊豆国加茂郡に勧請す。とある。
『伊予三嶋縁起』[LINK]には
四十二代文武天王位大宝元年〈壬丑〉[701]、東国済度を為す。 第一王子本地薬師如来也。 伊豆国に祝ひ奉る、三島大明神是れ也。とあり、大山積大明神の第一王子とする。
『予章記』[LINK]には
(伊予皇子の)嫡子の御舟は伊豆国に著く。彼の所に大宅有り、爰に御生長有り。 即ち大明神と現じ給ふ。従一位諸山積大明神と申すなり。 御本地は阿閦如来なり。伊豆国は歓喜国なるべし。とあり、諸山積大明神と同体とする。
一方、『三宅記』[LINK]では三嶋大明神を三宅島からの遷祀とする。
孝安天皇廿一〈己酉〉年[B.C.372]に嶋を焼出し始玉ふ。 彼の神達詮議ありて申されけるは、「龍神達を頼て海中に大き成石を三つ置玉は、火の雷焼せ玉へ、夫儘島と成へし」とて、夫の如にこしらへ、水火の雷一日一夜焼き玉へば、一島出現しぬれば、大明神御覧ありて大きに喜び玉へり。 白浜と云所に住玉ふ龍神海底より亦石を上給ば、神達此石を取りて一所に積置玉へば、火の神是を焼玉ひ、又一島出現せり。 扨神達彼の島に集まり、又先の如く海中に石を置て、七日七夜に十の嶋を焼出し玉ひて、 [中略] 大明神島々へ通て遊び玉ふ中にも、常には大島・三宅島・新島の三処におはしましける。 去れとも三宅島に宮作り有て大明神と申奉ぬ。又壬生の御館に仰ありけるは、「爰に早や凡夫少々出来たり、丸が姿を見せん事彼が為に恐れ有ければ、凡夫の姿を石に写して垂迹と成べし」とて、推古天皇五〈丁巳〉 年正月三日、大明神壬生の御館を召れて仰ありけるは、「我已に劫つきて此八日に蔵るゝ」とて、午の時計りに御嶽へ上り玉ひ、壬生に仰けるは、汝は神集島大別当の娘雨増の姫にとつぎ子をまうけて、我后々王子を守護せしめよ。是を手印に与ふとて、天竺にて王子の体を石の笏にゑり入て、御身はなさす持玉ひけるを壬生御館へ与へ、 [中略] 重て壬生の御館に仰有けるは、「丸が姿を石に写し置きては、能く能く精進有ん時声ばかりにて諌むべし」と仰られけり。 推古天皇二〈甲寅〉年[594]正月八日午の時、凡夫の姿を石に写して垂迹となり在す。
「我此の島を広く成んが為に常に焼べし。末世の衆生おそるゝ事なかれと云伝べし。此の島焼時は丸も亦神々も其苦しみ有。一日に三度御供参すべし。此の事末世の衆生に伝べき也。 我れは常に白浜に在るべし」とて白浜へ飛ばせ玉ふ。
吉田東伍『大日本地名辞書』の三島の項[LINK]所引の旧神官矢田部氏系図には
大化五年[649]、賀茂郡の海中に火炎出づ、焼出る島を興の島と号す、時に大明神此島に現ず。 慶雲元年[704]又申島を焼く、これを大島と号す、伊豆国司矢田部宿禰金築を惣神主として、興島より大島に遷座す。 天平七年[735]、神告により府中に遷祠す。とある。
『宴曲抄』巻中の「三嶋詣」[LINK]には
豊崎の宮の古[652-686]は興津島根に跡を垂れ、文武の賢き御代[697-707]には幼稚の童男に託して、暫く賀茂の郡に鎮座す。 それより以来終に聖武の御宇には、天平聖暦[729-749]の事かとよ、叢祀を府中に遷され、枌楡の影を仰いしより、神徳年々に威光をそへ、威応益々盛なり。とある。
『曾我物語(真名本)』巻第七[LINK]には
当社明神と申すは、神威掲焉、天地感動して神火大海を焼きしより以来、人王四十代天武天王の御宇、朱鳥元年とある。〈乙酉〉 年[686]、始めて伊豆国の鎮守と顕れ給ふ。 その時より以還、代々の帝も崇敬し奉り給ふ。 その後人王五十三代淳和天王の御時、天長六年〈己酉年〉[829]、七月八日の夜半ばかりに、信濃国水内郡中条郷(長野県長野市の中条地区)竹葉村の上人法泉沙門と云人に託宣して、「我はこれ伊豆国の鎮守三嶋大明神これなり。本地は薬師なり。后妃は十一面の観音なり。王子はまた本地地蔵尊これなり。今は伊豆国賀茂郡河津の里(静岡県賀茂郡河津町)に立てり」。 およそ三嶋の大明神の部類眷属委しく申せば、大明神の御本地は大通智勝仏なり。
『平家打聞』巻第五[LINK]もほぼ同内容だが、上人の名を「法衆」とする。
『大日本国一宮記』[LINK]には
三島大明神〈大山祇命〉伊豆賀茂郡とある。
『二十二社本縁』の賀茂事[LINK]には
葛木の賀茂は鴨と書けり。都波八重事代主の神(鴨都波神社[奈良県御所市宮前町])と云。 賀茂家の陰陽道の祖神とて斎き奉る也。 此地神にて坐す。 伊豆国賀茂郡に坐する三島の神、伊予国に坐する三島の神、同躰にて坐すと云えり。とある。
平田篤胤は『古史伝』二十五之巻[LINK]にこれを引用して、
此書にのみ、葛木鴨神と同体と云ること、最も珍しき説の正説にぞ有ける。と述べ、三嶋大社の祭神を事代主神とする根拠とした。
萩原正夫『事代主神御事蹟考』[LINK]には
事代主神此世を避けましゝ後の事蹟、古典にも載せじ、世にも伝はらねども、多くの証跡によりて考ふるに、此神眷属随従の諸神を率ゐ、出雲国より、伊豆国海中の三島に渡り来まして、宮居を構へ給ひ、此ところにて后妃の御腹に、あまたの御子を生ましめ給ひし事、疑ふべきもあらず。
かく世を避け隠りましゝ後の事なれば、おのづから真の御名は伝はらずして、人々たゞ三島の神とのみたゝへまつりしならむ。 さて後に、三宅島に祠を建てゝ鎮め祭りしを、白浜の地に移し、復国府の地に遷祀せるにて、今三島町にある官幣大社三島神社これなり。 然るに従来、此神社を伊予国三島より遷したりと云ひ、大山祇神を祭れるなりと伝へたるは、いみじき謬なり。とあり、明治六年[1873]一月六日付[LINK]で祭神を大山祇神から積羽八重事代主神に変更した事が記されている。
(現在は大山祇命・積羽八重事代主神の両神を祭神としている)。
垂迹 | 本地 |
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三嶋大明神 | 薬師如来 |
伊予国一宮
通説では伊予国一宮とは大山祇神社を指すが、松本隆信は『神道集』における三嶋大明神と伊予国一宮を別の所の神と考え、後者を新居浜の一宮神社に比定した。(松本隆信「本地物草子と神道集 —三島の本地をめぐって—」、文学、44巻、9号、pp.98-109、1976)
一宮神社[愛媛県新居浜市一宮町1丁目]
祭神は大山積神・雷神・高龗神。
旧・県社。
『一宮社記』〔太田亮『姓氏家系大辞典』の新居の項に引用〕[LINK]には
当社神主、昔越智宿禰守興が第二の子にて、越智宿禰玉守と号す、是れ元祖也。 父守興、異賊退治の為め、在唐の時、兄玉澄・玉守と同じく彼の土に生るゝ也。 守興帰朝の後、二子守與を追墓し、各々一船を営みて日本に渡りて、守興を尋ね、難波津に漂泊して数日に及ぶ。 此の時、越智守興の長子玉興(守興、予州に在りて生む所の子にして、玉澄・玉守が異母の兄也)、京に在りて聊か逆鱗に遇ひて本国に退んかと欲して難波津に至り、便船を求む。 偶ま玉澄・玉守に遇ふ、然りと雖、其の異母の兄弟なるを知らず、玉興先づ便を玉守に請ふ、之を許さず、又玉澄に請ふ、玉澄之を許して纜を解きて備前の海上に至る。 時に風雨に遭ふ、数日止まず、舟中水に渇す、二船甚だ之に窮困す。 玉興、丹心を起して神明に祈リ、且つ本国守護神三島大神に誓して、冥助を請ふ。 時に一少船ありて、老翁二人、其の中に在リ、一人は矛を携へ、一人は弓矢を持ち、船舷に寄りて曰く、「汝等必ず水に苦しむ勿れ、吾当に水を授くべし」云々。矛を携ふる老人、「吾は是れ伊予国越智郡三島に住む所の神にして、汝家の守護神也」と、また矢を持つ老人、語リて日はく「吾は是れ伊予国神野郡王円浜に住む所の神也」と。とある。 王円浜は新居浜の古名である。
『愛媛県新居郡誌』[LINK]には
当社は孝霊天皇第三皇子彦狭島命(一名伊予皇子)の創設に係ると云ふ、後ち推古天皇の御宇[593-628]越智益躬(伊予皇子裔)社殿を造営し、建武年中[1334-1336]河野九郎左衛門尉、観応年中[1350-1352]河野対馬入道、明徳年中[1390-1394]金子氏皆共に相次で崇敬し、後ち元和六年[1620]毛利長門守に至りて更に社殿を建立す。とある。
讃岐国一宮
田村神社[香川県高松市一宮町]祭神は田村大神(倭迹迹日百襲姫命・五十狭芹彦命・猿田彦大神・天隠山命・天五田根命)
式内社(讃岐国香川郡 田村神社〈名神大〉)。 讃岐国一宮。 旧・国幣中社。
史料上の初見は『続日本後紀』巻第十九の嘉祥二年[850]二月癸丑[28日]条[LINK]の
讃岐国の田村神に従五位下を授け奉る。
『讃岐国大日記』[LINK]には
元明帝和銅二年[709]、讃岐国香川郡大野郷に、始て正一位田村定水一宮大明神の社を建る也。 典祀伝に云ふ、此の神は、孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫也。 神殿の下に深淵有りと雖も、今古の人見ること無し。とある。
香西成資『南海通記』巻之十九[LINK]には
閭巷の説に曰、此の地は往古川淵也。水神在て邑里の不浄を咎め祟りある事酷し、故に其の淵を清浄にして、水中に筏を浮べ其の浮橋に社を造り、供物を饌て祭祀を拝奠す。 是れ其の始め也と云へり。とある。
これらの伝承に有る深淵は「定水井」と呼ばれ、現在も奥殿の御神座の下にある。
元は四国八十八箇所の一で、澄禅『四国辺路日記』の承応二年[1653]十月十八日条には
一ノ宮、社壇も鳥居も南向。本地正観音也とある。 神仏分離後の札所は神毫山一宮寺[香川県高松市一宮町]となった。
垂迹 | 本地 |
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田村大明神 | 聖観音 |
阿波国一宮
一宮神社[徳島県徳島市一宮町]祭神は大宜都比売命・天石門別八倉比売命。
式内論社(阿波国名方郡 天石門別八倉比売神社〈名神大〉)。 阿波国一宮(論社)。 旧・県社。
史料上の初見は『続日本後紀』巻第十の承和八年[841]八月戊午[21日]条[LINK]の
阿波国の正八位上天石門和気八倉比咩神、対馬島の無位胡禄神・無位平神に並びに従五位下を授け奉る。であるが、この天石門和気八倉比咩神が現在の一宮神社・上一宮大粟神社[徳島県名西郡神山町神領]・八倉比売神社[徳島県徳島市国府町矢野]の何れに該当するかは未詳。
佐野之憲『阿波誌』巻之三(名東郡)[LINK]には
一宮祠 一宮山上明神峯に在り。天正以後北麓に移す。 或は阿波女神と称す。 即ち神領村一宮(上一宮大粟神社)の別廟なり。 下一宮と称す。 旧鬼籠野村(名西郡神山町鬼籠野)に在り。 其神大宜都比売命、又埴生女神と称す、又大粟姫命と、又保食神と。 『古事記』[LINK]に云ふ、「伊予の二名島を生む、身一にして面四あり、粟国を大宜都比売神と謂ふ」と。とある。
『名東郡一宮村一宮大明神』[LINK]には
当社は大宜都比売命を祭り奉る社にして御座候。 此神、粟を創り初め給ふ故、大粟姫命とも申奉る。 御神系は伊弉諾尊・伊弉冉尊二柱の御神の御子にして、伊予国大三島に御鎮座。始は伊予国丹生之内より神領村に御鎮座あり。 其後鬼籠野村に御鎮座ありといへども年月不分明。 其後人皇十三代成務天皇御宇[131-190]、日本武尊の御子息長田別皇子、阿波国造となり給ひ、府中村(徳島市国府町府中)に在し給ひし時、大宜都姫神を崇敬し給ひ、一宮村に鎮座なさしめ給ふよし。
其後四十五代聖武天皇勅願として、天平年中[729年-749]諸国に一宮国分寺に建立ましまし候節、大宜都比売命を阿波国一宮大明神と成らせらる候由。 之に依り地名も則一宮村と申候。其後五十二代嵯峨天皇御宇弘仁年中[810-824]、弘法大師四国順拝の時、一宮大明神を十三番札所に入。則詠歌に、とある。
阿波の国一宮とはゆふたすき かけてたのめよこの世後の世
『四国辺路日記』の承応二年[1653]七月二十五日条には
一ノ宮、松竹の茂たる中に東向に立玉へり。 前ニ五間斗のそり橋在り。 拝殿は左右三間宛也。 殿閣結構也。 本地十一面観音也。とある。 神仏分離後の札所は大栗山大日寺[徳島市一宮町]となり、本地仏の十一面観音像は同寺の本尊となった。
阿波国一宮に関しては大麻比古神社[徳島県鳴門市大麻町板東]とする説もある。
垂迹 | 本地 |
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一宮大明神 | 十一面観音 |
鷲大明神(伊予国)
現在の大山祇神社または一宮神社には該当する摂末社は存在しない。古名を「神野山」と呼ばれる鷲ヶ頭山は、大山祇神社と深い結びつきのある信仰の山として古くからあがめられてきた。 愛媛県の有形文化財に指定されている大山祇神社の古図は、曼陀羅形式で描かれており、天部には三つの山があってそれぞれ本社(神野山)・上津社(安神山)・下津社(小見山)に比定されている。
鷲ヶ頭山の由来については、仏典にその起源を求めるものもあるが、神道集「三嶋大明神の事」によると考えるのがより具体的である。
(『大山祇神社略誌』、第1章 大山祇神社、第4節 鎌倉時代、第1項 鷲ヶ頭山、1997)
鷲大明神(武蔵国)
鷲宮神社[埼玉県久喜市鷲宮1丁目]祭神は天穂日命・武夷鳥命。
別宮(神崎神社)の祭神は大己貴命。 一説に天穂日命荒魂とする。
旧・県社。
史料上の初見は『吾妻鏡』巻第十二の建久四年[1193]十一月十八日辛巳条[LINK]の
武蔵国の飛脚参り申して云く、昨日当国太田庄鷲宮の御宝前に血流る、凶怪たるの由と。 則ち卜筮するの処、兵革の兆しと。
『天文鈔本新古今倭謌集』には
此煙(室の八島の煙)は昔こゝに長者あり。 娘あり。 国司に約束する。 有間王子此所に流浪ありし時、立寄り給ひしなり。 逗留ありし。 此娘に琴を教へ給ふ。 相対あり。 懐妊す。 国司しきりに所望有し。 長者此女頓死すと申て、王子連れて御出有し也。葬送の儀式を為して、このしろと云実を焼く。 其煙なり。又は水の煙とも云。然に王子女房を連れにひし時、琴を横にしてわたりし。 こゝを琴橋と云。下総国にあり。武蔵野の草のもとにて産出し。 有時、国の侍狩をしけるに、此女房を見付けて連れていぬ。 子をば捨る。此子を鷲がとりて育てたるとかや。 太田の鷲の明神是也。とある(引用文は一部を漢字に改めた)。
(片山享「『天文鈔本新古今倭謌集春夏』について」[LINK]、甲南国文、30号、pp.1-14、1983)
『林羅山詩集』所収の「癸巳日光紀行」[LINK]には
幸手の辺半里許り、鷲宮有り、古来の霊社也。 我、其の名を聞き、其の社主を知ると雖も、路の迂なるを以ての故に往かず。 我、嘗て其縁起を見るに十巻許り有り。 云く、有間王子・良岑安世、此に来て神と為る云々。 その本地釈迦也云々。 室の八州の事、此に起る、且つ富士山の神・奥津の神・其の余処々、この神と同体云々。とある。
『武州崎玉郡太田庄鷲宮本地釈迦略縁記』には
鷲宮大明神本地釈迦如来は、源頼朝公開運成就守本尊也。
于時人皇七十八代永暦元年[1160]初春、頼朝公伊豆の蛭が子嶋に遠流せさせ給ひて廿一年の春秋ををくり、或夜丑三つ頃老翁来て寝扉をたゝく。公怪みて見給ふに、齢八十有余の翁也。 頼朝公に向て曰く、「身命大切にいたすべし。前世宿縁あるによつて此釈迦を与ふ。誠に三国伝来の霊像なり。謹而信心いたす時は開運すみやかに成就す」といへり。 貴方は何地より来る。 翁曰、「西天釈尊則東土之天穂日命、鷲大明神」と云て立去行方をしらず。とある。
『鷲宮迦美保賀比』[LINK]には
旧事紀に見えたるごとく、上代大国主神天羽車の大鷲に乗て天の下を経営し給ひしをりから、此地に幸御魂の鎮りまりしゝより、鷲の宮の号は起れるなりけり。 されば世に鷲宮と称する社所々にあれど、当社を以て本とする故に、皇国本宮といふ也。 この郡の名も此神の幸魂の御稜威四方に暉き、諸民霊徳をかゝふりけるゆゑ、広く郡の名におひしを、和銅の勅宣によりて、埼玉とは書あらためしものなり。 扨神典に見えたることく、天穂日命は高皇産霊尊の勅によりて、大国主神の祭祀をつかさとらむかために此所に御遷幸
十二代景行天皇の御世倭建尊、東夷御征伐の御時当社の神威をあかめ給ひ御造営あり、 其とき天穂日命は当国造の遠祖神なるを以て御舎をもことにいかめしく作り給ひて、天夷鳥命を祭り添給ふ。 是より大国主神の幸御魂を神崎社と斎祭て、祭主は穂日命の遠裔も武蔵国造なりしか、世々をかさねるに随ひ、国造の官名もいつかすたれしにより、先代庁に告て大宮司となれり。とある。
(池尻篤「鷲宮神社の祭神 —近世における祭神変容の一事例—」、駒沢史学、76号、pp.99-114、2011)
『新編武蔵風土記稿』巻之二百十一(埼玉郡之十三)の鷲明神社(鷲宮村)の条[LINK]には
当社は式内の神社にはあらざれど、尤古社なり。 祭神は天穂日命にて、大背飯三熊之大人天夷鳥之命を合祀す。 【日本書紀神代巻】[LINK]に曰、「素盞嗚尊、乃ち轠轤然に、其の左の髻に纏かせる五百箇の統の瓊の綸を解き、瓊音も瑲瑲に、天渟名井に濯ぎ浮く。其の瓊の端を囓みて、左の掌に置きて、生す児を、正哉吾勝勝速日天忍穗根尊。復右の瓊を囓みて、右の掌に置きて、生す児を、天穂日命。此出雲臣・武蔵国造・土師連等が遠祖也」と是なり。 故に土師宮と号すべきを、和訓相近きをもて、転じて鷲明神と唱へ来れりといへり。
神崎神社 社伝に天穂日命の荒魂を祝ひ祀る。
本地堂 鷲明神の本地仏釈迦を安置す、座像長三尺。 こは昔右大将頼朝南都招提寺へ寄附の像なりしを、後年故ありて当所へ移し安置すと云。とある。
垂迹 | 本地 |
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鷲大明神 | 釈迦如来 |
橘朝臣清政
『予章記』[LINK]には彼の唐浜にて便船を進めざりしは家の兄なれども、其の時の恨に依て、玉興と御中違ひ也。 然れども玉澄心得にて当国に渡り、新居郡に居住して新居とぞ申ける。 明神も河野の朝日弥高、新居の夕日弥低と仰せけるを恨み申して、其の比、橘長者清正と云ふ人、当国々司にて下りけるに契約して、姓をさえ橘と改めらる。とある。
『一宮社記』『矢野系図』など〔『姓氏家系大辞典』の橘の項に引用〕[LINK]には
玉守-益興-益連-実連-実遠(是の時、勅により神野郡を改めて新居郡と為す。 之により実遠の家名を改めて新居殿と称する也) 弘仁二〈辛卯〉年[811]、伊与国神野郡一宮神に勅して正一位を叙し、神額を献じて正一位一宮大明神と云ふ矣。是の時の勅使、当国々司橘長者清正也。 此の御宇一宮を尊崇する、余の社に異れり。 是の時、実遠、越智姓を改めて橘姓と為す。とある。
『越智系図』『予章記』『矢野系図』『一宮社記』などの資料に、伊予国の国司として橘長者清正の名が見え、新居殿(越智玉守またはその玄孫・実遠)に橘姓を賜ったとされる。 この橘長者清正は実在の国司ではなく、説話上の人物が伊予橘氏の系図に関連付けられたと思われる。
(松本隆信「本地物草子と神道集 —三島の本地をめぐって—」)
長谷寺
豊山神楽院長谷寺[奈良県桜井市初瀬]本尊は十一面観音(長谷観音)。
真言宗豊山派総本山。 西国三十三所観音霊場の第八番札所。
『長谷寺縁起文』[LINK]によると、朱鳥元年[686]、天武天皇の勅願により、道明上人が初瀬山の西丘(本長谷寺)に三重塔を草創した。
それ以前、近江国高島郡三尾の白蓮華谷に長さ十余丈の楠の倒木があった。 継体天皇十一年[517]、洪水でこの木が流されて大津に漂着し、里人に祟りを為した。 その後、この霊木は大和国当麻郷から初瀬郷に曳き置かれた。 徳道上人が十一面観音像を造る為にこの霊木を貰い受け、神亀六年[727]、稽文会と稽主勲という二人の仏師(地蔵菩薩と不空羂索観音の化身)に十一面観音立像を彫刻させた。 暴風雨により初瀬山の東丘(後長谷寺)の地中から金剛宝磐石座が出現したので、十一面観音立像をその石座に安置し、聖武天皇の勅願により伽藍を造立した。
白人城
『予章記』[LINK]には(小千御子は)天帝に礼忠節有て諸民に仁恵を施し、国家安全に治め給ふ。 此時土佐の鬼類をとある。虜 、白人城に蔵給ふ。
『予陽郡郷俚諺集』[LINK]には
白人城〈土佐境に有〉 開化天皇御宇、田上の昆谷と云八十鳧師、国中をなやまし王命に叛く。 依て大矢田の根雄大将として、節刀を賜ふ。 当国に下り、此城に数日を送り給り、終に根雄討死す。 小千御子、有田藤市主と云者を以て計策をなし、昆谷を生捕、此城に押籠給ふ。 帝叡感あつて南国の大将に任ず。 此時有田には此城を預らる。土佐の吏部に定たりとぞ。とある。
【参考】『三宅記』
天竺の帝王に光生徳女という后が有ったが、子宝に恵まれなかった。 后は薬師如来に祈願して懐妊し、王子を産んだが、その子が七歳になる頃に亡くなった。 王子は継母の讒言により父王の不興を蒙り、天竺を出て唐土・高麗を経て、孝安天皇元年[B.C.392]に日本に到着した。王子は富士の絶頂で神明に出会った。 神明は王子が日本に住むことを許したが、「此地狭くして住み憂かるべし。海中を如何程も参らすべし。地をも焼出し心良く住せ玉へ」と云い、その前に天竺に戻って父王に勘当を解いて貰うよう勧めた。
王子は天竺に帰国して勘当を解かれた。 その後、恒河に沈められて大蛇と化した我が子と対面した。 大蛇は一尺ほどの薬師像に変じ、王子はそれを錦の袋に入れ身につけた。
王子は日本に戻り、宿を求めて柴の庵を訪れた。 そこには年老いた翁媼が住んでいた。 翁(天児屋根命)は媼に「此御方は只人にましまさず。薬師の化身にて在すぞ」と云って王子を泊め、その夜の暁に「殿は天竺の王子にて在ますが、東の海伊豆国の沖中に地を焼出し住玉ふべし。殿の名をば三嶋大明神と申奉へし。正体は薬師如来にて在ますとの御告を蒙りたり」と申した。
三嶋大明神は翁媼の息子の若宮・剣の御子と娘の見目の三名を伴って伊豆に着いた。 若宮は火の雷・水の雷、剣の御子は山の神や高根大棟梁など大小の神々、見目は海龍王に命じて多くの龍たちを集め、孝安天皇二十一年[B.C.372]に島を焼き出し始め、七昼夜で十の島々(初島・神集島・大島・新島・三宅島・御蔵島・沖ノ島・小島・ヲウゴ島・十島)が焼き出された。
三嶋大明神は三宅島に宮を作り、見目・若宮が五人の后を連れて来た。 波布の大后(波布比咩命)を大島に住まわせ、太郎王子(阿治古命)と次郎王子(波治命)が生まれた。 御途口の大后(久爾都比咩命)を新島に住まわせ、大宮王子(多祁美加々命)と弟三王子が生まれた。 長浜の御前(阿波咩命)を神集島に住まわせ、タダナイとタウナイが生まれた。 天地今宮の后(阿米都和気命)を三宅島に住まわせ、アンネイゴ(飯の王子)とマンネイゴ(酒の王子)とが生まれた。 八十八重の后(優婆夷神)を沖ノ島に住まわせ、五人の王子が生まれたが、五郎の王子(許志伎命)だけが島に居る。
箱根の湖辺に三百七十歳になる翁姥と三人の娘が住んでいた。 翁(唐土では八大執金剛童子)は湖に釣りに出たが魚が得られず、「此湖の底に主有ば魚を得させ玉へ。 其悦には三人の娘の中にて何れ共とも心に任せ与へん」と云った。 大蛇はこれを聞いて翁に魚を与えた。 翁の三女は鳩の姿になって逃げ、富士の絶頂で三嶋大明神に助けを求めた。 大明神は三女を三宅島の御嶽に隠した。 大蛇が御嶽に追って来ると、見目がこれを出迎え、飯の王子・酒の王子が飯酒を進め、大蛇が酔ったところを、剣の御子・大宮王子・弟三王子が斬り殺した。
三嶋大明神はこの三姉妹を新たな后とした。 嫡女(伊賀牟比売命)を三宅島の酉の方に住まわせ、四人の王子が生まれたが、御途口の大后を嫉み、幼少の王子を抱いて伊ヶ谷の海に飛び入って石と成った。 次女(伊波乃比咩命)を未の方に住まわせ、二人の王子(ウラミ子と二ノ宮)が生まれた。 三女(佐伎多麻比咩命)を丑寅の方に住まわせ、八人の王子(南子命・加弥命・夜須命・氐良命・志理太宜命・久良恵命・片菅命・波夜志命)が生まれた。
富士の絶頂に壬生御館という人がいた。 天竺の波羅奈国から日本に渡り、東遊駿河舞の技芸を習得していた。 壬生御館は三嶋大明神が島々を焼き出した話を聞き、大明神に随って来島した。
役行者が葛城明神と諍論して大島に流され、数多の神々が行者を訪ねて来臨した。 その中で、ある神が太郎王子に「吾は是凡夫にては伊予の国三島の郡に橘の清政と申せしが、四十に余る迄子を持たざるにより、大和国初瀬(長谷)の十一面に願ぬれば、夢の御告に、汝に於ては更更子種とては無けれども、我が持つ処の宝に替へて子種を与ふと有しより、男子一人をまうけて喜ぬる処に、伊予の国しやくの浦(未詳)にて鷲に取られ、[中略]十六年の間山中に籠、我が身願ひの有儘、行事其劫積て垂迹と成、伊予の国三島の郡と云処に三島大明神と云けるが、此度役行者を尋て参りぬ」と語った。
三嶋大明神は壬生御館に「凡夫の姿を石に写して垂迹と成べし」と仰り、推古天皇
壬生御館は雨増の姫を娶って子息を儲けて実正と名づけ、祭祀の心得と東遊駿河舞を伝えた。 五百三十七歳になった壬生御館は大明神の手印を実正に譲り、本国に帰ると言い残して姿を消した。
文武天皇元年[697]から大宝元年[701]にかけて、島々の后や王子たちも誓願を立て、姿を石に写して顕れた。 王子たちは皆薬師如来、波布の大后は千手観音、御途口の大后は馬頭観音、神集島の后は如意輪観音、天地今宮の后は聖観音、八十八重の后も聖観音、伊ヶ谷の后(三姉妹の嫡女)と坪田の后(同次女)は女躰で顕れた。
三嶋大明神は壬生実正に亀卜の術や物忌の教えを授けた後、「我此島を広く成んが為に常に焼べし。末世の衆生おそるる事なかれと云ひ伝べし。此島焼時は丸も亦神々も其苦しみ有り。一日に三度御供参すべし。此の事末世の衆生に伝べき也。我は常に白浜に在るべし」と告げて、白浜に飛び遷った。
三嶋大明神(伊予国)
大山祇神社[愛媛県今治市大三島町宮浦]祭神は大山積神。 一説に天神第六代の面足尊・惶根尊とする。
式内社(伊予国越智郡 大山積神社〈名神大〉)。 伊予国一宮。 旧・国幣大社。
史料上の初見は『続日本紀』巻第二十七の天平神護二年[766]四月甲辰[19日]条[LINK]の
『日本書紀』巻第一(神代上)の第五段一書(七)[LINK]には 第五段一書(八)[LINK]には とある。
『伊予国風土記』逸文[LINK]〔卜部兼方『釈日本紀』巻第六(述義二)[LINK]所引〕には とある。
『予章記』[LINK]には とある。
『三島宮社記』[LINK]には とある。
神供寺の創建について、『三島宮御鎮座本縁』[LINK]には とある。
土居通安『水里玄義』[LINK]には とある。
(鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』化城喩品第七[LINK]によると、大通智勝仏の十六王子の第一は阿閦如来であるが、この仏はしばしば薬師如来と同一視される)