『神道集』の神々

第三十七 蟻通明神事

欽明天皇の御代に、唐から神璽の玉が『大般若経』に副えられて伝来した。 この玉は天照大神が天降った時に第六天魔王から貰い受けた物で、国を治める宝である。 代々の帝に伝えられたが、孝昭天皇の時に天朔女がこの玉を盗んで天に上り、玉は失われた。

玄奘三蔵は『大般若経』を伝える為に天竺の仏生国に渡った。 大般若守護十六善神の秦奢大王から経典を賜り、崇神天皇の御時に伝えられた。 この事は『大般若経』が伝えられた後、玄奘三蔵の記文により初めて披露された。
其の故を委しく尋ねると、玄奘三蔵が仏生国に渡る途中、流沙で一人の美女と出会った。 三蔵は「『大般若経』を東国に伝えようと思います。特に『般若心経』は私の志であり、その為なら屍を流沙に曝しても良いのです」と言った。 女は八坂の玉を取り出し、「この玉に緒を通せたら、あなたを仏生国に送りましょう」と言った。 その玉の中の穴は七曲りしていた。 三蔵が思案していると、木の枝にいた機織虫が「蟻腰着糸向玉孔」と鳴いた。 三蔵は悉曇の達人なので、これを聞いて理解し、蟻を捕まえてその腰に糸を結び、玉の穴の口に入れた。 やがて蟻は一方の口へ通り抜け、緒を通す事ができた。
女は鬼王の姿を現し、「私は大般若守護十六善神の一人、秦奢大王である。汝は過去七生にも『般若心経』を伝えようとしたが、私が大事にしている経典なので、汝の命を七度奪ったのだ」と言い、頸に懸けた七つの髑髏を見せた。 秦奢大王は「これほど汝が志しているのなら、私が守護して送ってやろう」と言い、三蔵を肩にかついで仏生国に送り、『大般若経』と『般若心経』を与え、また東国に送り返した。 そして、「この玉を汝に与えよう。仏法東漸の理により『大般若経』と『般若心経』も日本に渡るだろう。この玉は元は日本の宝で、天朔女が奪った物なので、『般若心経』に副えて一緒に日本に渡そう。私が所持していた玉なので、私はそれに先立って日本に渡り、般若部の守護神となろう」と誓った。
この言葉の通り、欽明天皇の御代に玉と経典が伝わった。 この玉は代々の帝のご誕生の時に胞衣に副えられ、神代から伝わる三種の重宝である。 約束通り、秦奢大王は先立って日本国に神として顕れた後、紀伊国田辺に蟻通明神として祀られている。

延喜帝の御代に紀貫之朝臣が紀伊国に補任された時、社前を通ろうとすると馬がすくんで動かなくなった。 里の者は「此の社は蟻通明神と申し、般若守護十六善神の中の秦奢大王が応迹された御神です」と言った。 貫之はこれを聞いて、蟻通の昔の玉の緒の話を思い出し、
 七わたに曲れる玉のほそ緒をば 蟻通しきと誰か知らまし
 かきくもりあさせもしらぬ大空に 蟻通しとは思ふべし
と詠み、『般若心経』の読誦と奉幣を行うと、馬は再び立てるようになった。

本朝の御神が内裏の内侍所を守護する時、蟻通明神はこの玉を預かり守護する。 太平の祈請で赤繭の糸を数珠の緒にして祈念すれば必ず所願成就すると云う。 赤繭の形が神璽に似ているからである。

蟻通明神

蟻通神社[和歌山県田辺市湊]
祭神は天児屋根命。 一説に御霊牛頭天王とする。
旧・村社。

『紀伊国名所図会熊野篇』巻之四[LINK]には、
「蟻通明神社 湊村の西二町にあり 境内周囲五十間、当村の地主神にして例祭は九月九日なり、祭神は御霊牛頭天王と伝ふ、古へ天禄三年[972]の勧請なる由」
とある。

『和歌山県田辺町誌』[LINK]には、
「天児屋根命と決定したのは明治維新の際、祭神を明白にするの要に迫り、当時の神職等が考定したもので、それ以前は単に御霊牛頭天王とし又蟻通の神といひ、又長夜思兼命ともいふた」 「蟻通神社の勧請、鎮座の年代を知るを得ぬ。文化九年[1812]の書上げに「古き御厨子の裏に天禄三年壬申秋九月勧請、文永八年[1271]未九月御厨子再興、寄付甚左衛門」とあつたといふ」 「往古は何神といつたかは不明であるが、元禄の書上げ以後は御霊牛頭天王といひ、寛政以後の書上げには「御神体は蟻通明神の由」を記してゐる」
とある。

清少納言『枕草子』[LINK]によると、唐土の帝が日本の帝に出した三つの難題の最後の一つが、七曲りの孔を有する玉に糸を通す事だった。 孝心の深い中将は老親の智恵を借り、蟻に糸をつけて玉を通してみせた。 中将は大臣に昇進し、その後に蟻通の明神と成って「七曲にまがれる玉の緒をぬきて ありとほしとは知らずやあるらむ」と託宣した。
また、後段の紀貫之の逸話は上記の『枕草子』をはじめ、『紀貫之集』巻十[LINK]や謡曲『蟻通』[LINK]などでも広く知られている。
ただし、これらの説話における蟻通明神については、和泉国の蟻通神社[大阪府泉佐野市長滝]に比定する説も有力である。

秦奢大王

『大般若経』の守護神で、通常は深沙大王・深沙大将・深沙神王などと表記される。

『望月仏教大辞典』の深沙大将の項[LINK]には、
「常暁和尚請来目録[LINK]に「深沙神王像一躯。右唐代玄奘三蔵、遠く五天竺に捗りて此の神を感得す。此れ北方多聞天王の化身なり。今、唐国の人揔じて此の神を重んず。災を救い益を成し、其の験現前たり。一人として依行せざる者あることなし。寺裏人家に皆此神あり、自ら霊験を見るに実に不思議なり。具なる事記文の如し。請来件の如し」とあり。之に依るに此の神像は小栗栖常暁の請来に係るものなるを知るべし。就中、玄奘渡天の時此の神を感得すると云へるは、大慈恩寺三蔵法師伝第一[LINK]に師が沙河を渉らんとする時、四夜五日一渧の水を得ず、幾んど将に殞絶せんとし、遂に沙中に臥して観音を默念するに、忽ち涼風を感じ、且つ其の夜睡中に一大神を夢みたることを叙し、「第五夜半に至り忽ち涼風ありて身に触る。冷快にして寒水に沐するが如し。遂に目明なるを得、馬亦能く起つ。体既に蘇息し、少睡眠を得。即ち睡中に於て一大神を夢む、長さ数丈あり。戟を執りて麾いて曰く、何ぞ強行せずして更に臥するやと。法師驚き寤めて進発す」と云へるを指せるものなるべく、随つて又深沙の名は沙河に因めるものなるが如し」
とある。

覚禅『覚禅鈔』(深沙神)[LINK]には、
「神、頸に七の髑髏を懸る。是れ玄奘七生の首也」
とある。

『大唐三蔵取経詩話』[LINK]では、深沙神は前世の三蔵法師を二度喰らった(二個の髑髏を入れた袋を首にさげている)魔物として登場する。 深沙神は今生の三蔵法師に降伏されて前非を悔い、金橋を架けて一行が沙河を渡る手助けをした。
このエピソードが発展し、小説『西遊記』における沙悟浄が成立したと考えられている。

『神道集』では「我は是れ大般若守護十六善神の中の秦奢大王なり」とあるが、通説では深沙大王は十六善神には列しない。
『新纂仏像図鑑 天之巻』の般若守護十六善神の項[LINK]には、
「般若経の守護を誓へる夜叉神なるも、後世は真言・天台・禅等の顕密両宗にて、大般若経を転読する際、此の十六善神の像を安置する風習を生じ、画像法も本経と合致せざるに至れり。古来十六善神の名義及び形相については異説多し」 「般若守護十六善神王形体[LINK](真偽疑ある書)には下の如く列名せり。提頭攞吒善紳、毘廬勒叉善神、摧伏毒害善神、歓喜善神、増益善神、除一切障難善神、抜罪垢善神、能仁(能忍)善神、吠室羅摩努(吠室羅摩拏)善神、毘廬博叉善神、離一切怖畏善神、救護一切善神、摂伏諸魔善神、能救諸有善神、獅子威猛善神、勇猛心地善神。然して後世行はるゝ図像は、両側に十六善神、下部に法誦、常啼の二菩薩、梵王帝釈、玄奘三蔵並々深沙大将を図せり。玄奘三蔵は大般若経の翻訳者、深沙大将は、三蔵の西遊せる時、往返の途上に於ける守護神たりしより之に加わるなり」
とある。
垂迹本地
蟻通明神深沙大将

神璽の玉

三種の神器の一つである八坂瓊曲玉を指す。 現在は、草薙剣(形代)と共に皇居内の「剣璽の間」に安置されている。

『日本書紀』巻第一(神代上)の第七段一書(二)[LINK]には、
「玉作部の遠祖豊玉者には玉を造らしむ」
とある。

第七段一書(三)[LINK]には、
「中枝には、玉作の遠祖伊弉諾尊の児天明玉の作れる八坂瓊の曲玉を懸け」
とある。

斎部広成『古語拾遺』[LINK]には、
「櫛明玉神をして、八坂瓊五百箇御統玉を作らしむ」
とある。

『太平記』巻二十五の「伊勢より宝剣を進る事 附黄梁夢の事」[LINK]には、
「神璽は天照太神、素盞烏尊と、共為夫婦みとのまぐはひありて、八坂瓊の曲玉をねぶり給ひしかば、陰陽成生して、正哉吾勝々速日天忍穂耳尊をうみ給ふ。此玉をば神璽と申す也」
とある。

第六天魔王

参照: 「神道由来之事」第六天魔王

天朔女

『日本書紀』巻第二(神代下・第九段)[LINK]によると、高皇産霊尊は天稚彦に天鹿児弓と天羽羽矢を与えて葦原中国に遣わした。 天稚彦は顕国玉命の娘の下照姫を娶って葦原中国に留まり、高天原に復命しなかった。 高皇産霊尊は怪しんで名無しの雉を天稚彦の許に遣わした。 その雉は天稚彦の門の前に立つ湯津杜樹の梢に止まった。 それを見た天探女が「奇しき鳥来て杜の杪に居り」と告げた。 天稚彦は天鹿児弓と天羽羽矢でその雉を射て殺した。 その矢は雉の胸を通って高皇産霊尊の座の前に届いた。 高皇産霊尊はその矢を見て「是の矢は、昔我が天稚彦に賜ひし矢なり。血、其の矢に染れたり。蓋し国つ神と相戦ひて然るか」と宣い、矢を取って投げ返した。 天稚彦は新嘗した後に寝ていたが、胸に矢が当たって死んだ。

同段の一書(一)[LINK]によると、天照大神は天稚彦に天鹿児弓と天真飲児矢を与えて豊葦原中国に遣わした。 天稚彦は勅を受けて天降ったが、国つ神の女子を娶り、八年経っても報命しなかった。 天照大神は思兼神を召した。 思兼神は「また雉を遣して問ひたまむべし」と申した。 天照大神はこの謀に従って雉を遣わした。 雉は天稚彦の門の前の湯津杜樹の梢に止まり、「天稚彦、何の故ぞ八年の間、未だ復命かへりこともうさぬ」と鳴いた。 その時、天探女という国つ神が雉を見て「鳴声悪しき鳥、此の樹の上に在り。射しつべし」と云った。 天稚彦は天鹿児弓と天真飲児矢でその雉を射た。 矢は雉の胸を通って天つ神の所に届いた。 天つ神は「若し悪き心を以て射ば、天稚彦は必ず遭害まじこれなむ。若し平き心を以て射ば、恙無くあらむ」と呪詞を述べて投げ返した。 天稚彦は胸に矢が当たって死んだ。

『万葉集』巻三[LINK]には、
「久方の天探女が石船の 泊せし高津は浅せにけるかも」
を載せる。
下河辺長流『続歌林良材集』巻上[LINK]はこの歌の注には、
「津国風土記に云、難波高津は、天稚彦天下りし時、天稚彦に属て下れる神、天の探女、磐舟に乗して爰に至る。天磐船の泊る故を以て、高津と号すと云々」
と記す。

天朔女が神璽の玉を盗んだ話の典拠は不明。

玄奘三蔵

隋の仁寿二年[602]に河南省陳留郡で誕生。 俗名は陳褘。 十三歳で得度、玄奘の法号を名乗る。 西天取経の為に朝廷に出国を請願するが却下され、唐の貞観三年[629]に密出国。 出立から約2年後にインドに到着。 各地の聖跡を巡礼し、ナーランダー寺院で戒賢(Śīlabhadra)に師事して有相唯識派の教理を学んだ。 貞観十九年[645]に長安に戻って訳経所を開設、『大般若経』『解深密経』『瑜伽師地論』『大毘婆沙論』『成唯識論』『倶舍論』等の経論の漢訳に尽力した。 麟徳元年[664]に入寂。
なお、『大般若経』の漢訳が完成したのは龍朔三年[663]で、日本への仏教公伝とされる欽明天皇十三年[552]より百年以上後である。

流沙

ここでは、玉門関と伊吾(クムル市)の間に広がる莫賀延磧(沙河)を指す。
慧立・彦悰『大慈恩寺三蔵法師伝』巻第一[LINK]には、
「長さ八百余里。古き人は沙河と曰ふ。上に飛鳥無く、下に走獣無し。復、水草無し」
とある。

内侍所

参照: 「神道由来之事」内侍所