西ノ島町誌

●食原稿
●住宅原稿
●水源原稿
●木炭原稿
●植林原稿
●薪原稿
●ラジオ原稿
●テレビ原稿
●電力原稿
●のろし(狼煙・烽火)
●電信原稿
●電話原稿
●西ノ島の寺院(松浦康麿)
●西ノ島の神社(松浦康麿)
●美田地区原稿
●観光原稿
●史跡と伝承(松浦康麿)
●西ノ島の会話原稿
●隠岐島の昆虫(淀江)

食原稿

食原稿
日常の食事
主食
	米飯
	麦飯
	イモ
	その他
		粥
		混ぜ飯
		蕎麦
		幼児の補食
		焼餅
携帯食
間食
コジャ
主食調査
副食
	魚介類・海藻
	肉
	汁
	おひたし
	たきもの
調味料
	味噌
	醤油
	酢
	ダシ
お茶
四季のメニュー
久見の場合
浦郷保育所の場合
晴れの食事
赤飯
巻き酢
粥
餅
ダンゴ・マキ
祝儀、不祝儀の食物
本膳
嗜好品
酒
甘酒
焼酎
ビール・麦酒
焼火山の巡遣使への献立
食生活の変容

日常の食事
 日常の生活の中で、最も変化に境界線の引きにくい分野は、衣食住の領域であ
ろう。西ノ島においても昭和三〇年代を堺に急激に変化していったのが、この部
分ではあったが、また、その記録をとどめていないのも衣食住であった。文献に
とどめてある記録から、我々の食事の変化の粗筋を述べてみたい。
主食
 明治二九年「隠岐国概況取調書」という行政の調査書によると「・・島後地方
は米麦をもって常食とし、島前地方は米・麦・甘藷を常食とす。しこうして沿岸
地方は山村より幾分の上等飲食をなし飲酒等もしたがって多し。その常食物の歩
合は左の如し。島後は米七分・麦三分。島前は米四分・麦三分・甘藷三分・・」
とある様に、島前ではイモも主食に入っていたのである。明治末期の米の生産量
は西ノ島で一人当たり五勺程度であり、その量ではとても日常の食事に具するこ
とはとても不可能であったろう。
 つまり米はハレの日(盆・正月・祭・祝い・不祝儀などの日)の特別な主食と
してあった。その辺の事情を「隠岐島の民俗」(昭和四八年現在)から引用紹介
する。
米飯
「米はわずかしか作らず、しかも一部落にある田圃全部が某家一戸の所有田で
あったという所もあり、そのようなところでは、小作をするか、あるいは消費す
る米すべてを購入する必要があった。かつては半農半漁(現在では二農八漁)と
いわれた豊田でも、半年分は米が 、あったが、あとは安来米を購入したという。
従って、大ダンナと呼ばれるほどの家は別として、ほとんどの家が米皆無の麦め
し、やや米に恵まれた家で、米一割入りの麦めしといった日常の食生活で、いわ
ば米はハレ用の食料であった。・・米をわずかしか消費しなかった頃は、麦、イ
モをもっぱら常食していて、米を食べるのは正月、三、五、九の節句、二十三
夜、大山さん、氏神祭のときぐらいであった。(仁夫)。米を病人に食べさせる
と、薬になるともいわれた(宇賀)いったいにイモで腹の下 ごしらえをして、麦
で押えるという主食の食べ方をしたのだが、村で唯一のダンナと呼ばれる家は、
そのような時代でも全部米の飯であった(崎)。また、船に乗ったときは、三食
とも米が多く入った御飯を食べた。仕事がえらいので、そうしないと力がでない
という(多沢)」

麦飯
「麦はたくさん作った。大麦と小麦とがあり、前者は麦めしに、後者は粉にした
り、麹に作ってエンソ(味噌・醤油)に仕立てるのに使う。他に小量ではあるが
餅麦がある。これは外観は紫色で粉は白色。ひいてオロシでふるって、こねてゆ
がくと、餅のように粘りのある団子ができた(三度 )。大麦は収穫してから、ま
ずカラ竿で叩いて、オロシでおろしたものを、唐臼で搗く。三回搗かねばならぬ
など、かなりの力仕事なので、おもに嫁が搗き、すわっていてイレボウでかき混
ぜるのは年寄りの役であった(薄毛)・・大麦を一ぺん火にくぐらせて、ソウキ
に打ちあけて汁をとり、新しく再び水を入れて、一升の麦に米二合くらいを入れ
て煮る。ソウキに取った汁は、もったいないので畑仕事のときかぶる手拭いやユ
カタの糊に利用する(物井)。家によっては麦だけの家もあり、さらに麦だけで
はもったいないといって稗を混ぜる家もあった(仁夫)」
普段の日は、この様に麦もしくはイモ(甘藷)が主食の大半を占めた。

イモ(甘藷)
「島で単にイモといえば、甘薯のことで、麦作の前にイモを作る。以前はどこの
家でもたくさん作って一年中食べた。収穫後は生のまま貯蔵するほか、イモカン
ピョウに加工してたくわえた。生のイモを収納するイモグラは、昔はイロリの近
くの床下に、スクモ(籾殻)を敷いて、そこに置く方法をとったが、その後、戸
外に横穴(入口は四〇〜五〇cmくらいの角形にし、奥は広く掘る)を作り、中
に藁を敷き、イモを置いてから籾殻でおおう。イモグラはすべて個人持ちであっ
た(全域)イモカンピョウはイモカンペイとも、単にカンピョウと もいう。洗っ
てから薄い輪切りに切って、その一枚一枚をブリキで作った穴アカシで穴をあ
け、紐を通して三〜四日干す。ゆでてから以上のようにすると、とりわけ甘味が
でる(物井)・・丸のまま洗って、羽釜にコザキや板に穴をあけたものを伏せ
て、その上に甑を載せ、この中に入れて蒸すか、五升釜に水とイモを入れてゆで
るかして食べる(全域)カンペイ団子も作る。ナマのイモを春のきつい光で干し
て、唐臼で粉にし、水でこねて沸騰した湯に投じて 、引き上げたものを黄粉をま
ぶして食べる(物井)手間がかかるのでたまにしか作らなかったが、シェー団子
もあった。ブリキ板にプスプスと穴をあけた、大きなおろしようのものを自家製
で用意し、これでイモをすって、水で洗い上げ、でん粉をこして取り、かわかし
て粉にしたも のを、蒸したイモと練り混ぜ、団子にしてウマガタリの葉を両面に
つけて蒸して食べる(三度) 」
 イモに関しては前述の「隠岐国概況取調書」に次の様な伝承が記述されてい
る。「・・知夫里島多沢の里に往時大空藤助と云うものあり諸国を回歴したる際
薩摩より甘薯の種子を得て帰るこれ隠岐国に甘薯あるの始なりと云う現今の戸主
を大空甚八という。藤助五代の孫なり今尚藤助の遺物負ひ櫃叩き鐘及び富士山の
石竹生島弁天の像等を蔵せり。」つまりイモは島前から始まったとされているの
である。それと現在でも島前では「芋代官の碑」というのが多く見受けられる。
これは大森代官井戸平左衛門が薩摩から種を持ち帰り皆に植えさせたという史実
を元にしている。いずれにせよ、島前でのイモは主食として重宝がられたことが
わかる。
昭和二六年の調査においても米飯が中心となっているわけではない。
「高齢者調査表集計表」昭和二六年(一九五一)黒木村
(表1挿入)
「黒木村長寿研究」第二報 昭和三十二年(一九五七)(六〇才以上)
(表2挿入)
米飯がほとんどを占めるのは昭和三〇年代中頃からの事と思われる。

その他
 粥 
 ふだん食べる粥は、麦めしの水分を多くしたていの麦の粥もあったが、たいて
いは他になにか混ぜ入れて作った。小麦の団子や蕎麦を切って入れたり(崎)、
シイラをコゴメといって、これの粉の団子も入れた(物井)。イリコを水に入れ
て、煮立ったらイモや和布を入れて、お 粥にしても食べた(薄毛)
 混ぜ飯 
 米を多く食べるようになってからも、いろいろのものを加えてたいた。自生す
るコゴネをとってきてたき込んだり、和布を刻んで、御飯の蒸し上がる前に入
れ、塩を振ってからむらして掻き混ぜた、和布御飯もよく作った(豊田)。加え
る具がよいものになると、御馳走と しての混ぜ御飯となり、来客の折やモノビ
(特別の日)にセンタ、サザエ、鮑などを熱湯をかけてはがし、米と混ぜて炊き
上げたり、人参、大根、野焼き、椎茸、昆布などを細かく刻んで、だし汁、醤油
とともに入れてたくものもある(豊田、宇賀)加える具は他に干し大根、揚げ、
カマボコなど 任意に入れる。 
蕎麦
 メイタとメン棒を作っておき、平生もよく打って食べた。ネギや胡麻、海苔な
どをかけて、ダシ汁で食べる。(崎)蕎麦粉を練ってのし、切って塩味で煮たの
をニゴミといって、小麦粉でも作った。大根を千切りにして醤油味の汁にして、
蕎麦を切って入れたものをデエコ 、ソバといった。蕎麦粉を熱湯で練った蕎麦の
ネリコもよく作った。( 仁夫)。ネリコを形つくって、中に黒砂糖をアンに入れ
て、アブリコで焼くヤキモチ は、夜食用にした(物井)。
赤児の捕食
 米の粉をいって、篩(フルイ)でふるって、沸騰した湯を入れて、砂糖で味付
けしてさましたものを与えた(物井)
 
焼餅
 焼餅は明治、大正の頃から戦前まではよく焼餅を作ったが、粟、稗、麦、など
で作るもののうち粟で作ったのが一番いいという(多沢) 
携帯食 
 山などに行くときには、コウリやミツに麦飯を入れて、味噌漬やコジョウユを
添えて携帯した(仁夫)。ヤキメシといって、握り飯にコジョウユをつけて焼
き、サンショウの葉や和布の芯をつけたものはおいしい携帯食として好まれた
(豊田)。麦飯をツクネ(ムスビ) にして、手拭の端に包んで行くこともあった
(薄毛)。学校の弁当には、親の使っている手拭に蒸したイモを入れて行った
り、昭和の時代に入って、米をいくらか多く食べるようになると、麦と混炊する
米の、たき上がりを混ぜないで、米のところをすくって持って行った(薄毛、豊
田)

間食「コジャ」
 きつい仕事をする頃には、三度の食事の他にコジャといって軽食をとる。朝飯
(あさはん)の前にひと仕事をするので、仕事を始める前にチャノコをとり、朝
飯と昼飯(ちゅうはん)の間にアサコジャ、昼飯と夕飯(ゆうはん)の間に晩コ
ジャと三回食べる。このほか仕事が夜遅くまで及ぶ時には夜食を食べる。下記は
昭和の初め頃の某家の献立である。(崎)
(表3挿入)

「黒木村長寿研究」第二報 昭和三十二年(一九五七)(六〇才以上)
間食
(表4挿入)
副食

 魚介類「海藻」 
 昔は海苔は自由にとってよかった。今はスを立てるのでおのずととってよい場
所が決ってくる。海苔はまずソウタテ(スを仕掛ける)をしておき、そこに付く
海苔を、コサゲといって、海苔をこそげ取る道具で掻き取る。これを家に持って
きて、細かく切って海水で洗い、海苔ブネに水を張って、型に海苔簀を付けたも
のに海苔を薄く広げてつけ、干す。以前は今の市販のものよりは大きかった。こ
れを一〇枚単位位にしてオヤカタに上げたりした(物井)別に玉海苔も作るが、
これは塩っぱい。採取した海苔を丸めてから平たくし、真中に藁を通 して軒下に
下に下げて干し、使うときは水に入れて柔らかくする。正月の雑煮には欠かせぬ
ものとされている(全域)
 肉 
 昔はなんの肉でも、肉のことをウシといった。牛が針をのんだり、崖から墜死
したりしたのは、肉が新しくてよいといった。鶏や鴨もスキヤキにして食べた
(崎、豊田) 
 「汁」 
 味噌汁は寒いときのほかは、ふだんあんまり作らなかった。味噌汁はイリコを
煮出した汁に、汁味噌をといて入れ、海藻や野菜をその時々に応じて入れる。一
二月頃に長くなったソゾを採って汁の実にする。火の止めぎわに入れて食べる
が、おいしいので食べすぎぬようにしないと、油が多くて頭が痛くなるという。
保存があまりきかず、二日ともたない。水に浮かして置かぬとすぐ焼けてしまう
(物井)ゴジルもちょっと御馳走を食べようか、というときに作るが、手間がか
かるのであまり作らない。味噌汁の中に小麦粉を練ってちぎって入れた汁団 子
も、寒いときに捕食としてよく作った。山芋をカガツですって、ダシでのばすト
ロロもたまに作った。和布蕪のトロロもあって、これはかぶを細かく包丁で刻ん
で湯をかけ、醤油で味をつけて食べる。干したメカブを叩いても作る(物井)
 
おかず
「おひたし」 
 菜、野性の芹をゆでて醤油をつけて食べたり、イヌビユをヒの葉といって、お
盆の仏前に供えるものとしていたし、平生もゆでておひたしに食べたが、最近は
食べなくなった。(仁夫)なお、和布、岩海苔、カジメ、サザエ、ニナなどをた
いて抜いたものの酢味噌あえや、茗荷の茎を刻んで酢味噌であえ、シイラなどの
魚と混ぜあえたものなどを作る(薄毛)
「たきもの」
 野菜をイリコのだしでたき、味噌で味付けしたものは昔も今も変らず作る。例
えば大根と昆布を煮たり、荒目の干したものを水に戻してたき、水に煮だして渋
味を取り、刻 んで油でいためてからたく。夏には南瓜もたいた(物井)ハバと
いって、海苔のようにオカに生えているのを取って、ダシを入れてたいたり、焼
もする(仁夫)

調味料

 納屋の横のエンソ(塩気のあるもの・味噌・醤油など)小屋を作って、味噌、
醤油、漬物などを貯蔵しておく(崎)「味噌」味噌にはなめ味噌と汁味噌とがあ
り、後者は辛味噌ともいう。汁味噌は前は三年味噌がおいしいといったが、この
頃は白味噌がよいといって、半年ごとに作る家が多くなった。麹も昔は麦だけで
あったが、今は米のみを使う。汁味噌はまず麦でハナ(麹)を作る一方、大豆を
かしてたく。このとき煮汁が多い目になるようにし、豆を搗くときこの汁を差し
ていく。ボロボロの味噌にならぬように。麹とたいた大豆と塩とを合わせて唐臼
で搗く。こ れを大きなバンドに入れて貯蔵する。バンドには一斗、三斗、四斗と
各種あった。湯に味噌をとかして牛にも与えるので、大量必要であったため、四
斗バンドを三本くらい作った(仁夫)
 醤油 
 醤油を作るには、まずハナ(麹)をねかす。大豆をホ−ロクでいってひき割っ
て、すでにいってあるからさっと蒸し、これを綺麗なむしろに広げて、その上を
「雨降り」と呼ぶ木の葉(ネバの木)でおおっておく。ねる時期によい八月初旬
ごろであると、一晩もすると真っ青になるので、ハナ一升に塩五合、水一升の割
りに混ぜ合わせて、醤油桶に計って入れておく。翌年の同じ頃に簀を立て、ひ
しゃくで汲んでたき、ひと煮立ちさせたものを瓶に入れておいて使う。こし糟は
灰をまぶして肥料にし、麦蒔きの下に敷く(薄毛)
 酢 
 大麦でハナを作り、ハナ三升に水三升、ハナと同種の麦五合とをハンドに入れ
てねかし、暑いときには一週間、他のときには二週間もすれば酢になるので、晒
でしぼって容器にとって使う(崎)。橙を切って晒布に包んで手でしぼって作っ
たり(物井)、酢酸を買っても使った。
 ダシ 
 鰹以外の魚を使っていても、ダシ用に加工するのをカツオにするという(崎)
アゴ、鰺、鰯をさっとゆがいて、天日に当てて干したものをイリコといい、ダシ
に使う(全域)

飲み物の事
 現在の情況はよく解らないが、昭和三二年には次のような面白い調査があっ
た。
以下の表は黒木村が長寿の村として脚光をあびた時に行った様々な食生活の調査
の一部であり、六〇才以上にアンケートを行った。
「黒木村長寿研究」第二報(一九五七年)
(表5挿入)

四季のメニュー
 以下のメニューは大正の終わりから昭和一〇年代にかけて隠岐島(島後の久
見)で作られていたものである。これを直ぐに西ノ島にあてはめる訳にはいかな
いが、少なくとも一般的家庭の片鱗はうかがえると思われるのでここに揚げてお
く。しかしこのメニューでさえも久見では上の階層に属する家なので、その辺も
ある程度割り引いて考えなければならない。
『島根の食事』から
(表6挿入)

さて、これを現代と比較するために「一九九一平成三年一一月 西ノ島町学校給
食」をあげると
(表7挿入)

 自給自足体制が崩れると、それまでは労働に依存していたものが、貨幣に依存
することに変わり、食品も商店もしくは移入物に依存する様になる。そこで商店
の依存度が高くなってくるのであった。
食事の原料も自給物から商品に変わり、それに連れて加工品が多くなってくる。
広い範囲から集められた食事の商品は季節の物さえ忘れさせてくれるほど広範囲
になる。おかずのメニューは必然的に多くなり、今までのものは、和食というよ
りも郷土食として位置付けられる事になる。日常は和食・洋食・中華の混合であ
り、それが普通とされているのが現在であろう。それに連れて調味料も、味噌・
醤油・塩だけであったものからソース・胡椒・マヨネーズ・ケチャップなど多種
にわたってきた。最も変化したのが主食であろう。隠岐島特に島前では一般的に
は米・麦・甘藷が主であったが、ほとんどが米食を中心とすることになり、朝食
などはパン(小麦)場合も珍しくなくなってきた。しかし、昭和三十年代中ごろ
までは混食(米と麦の混合)が一般的であった。食事は何よりも腹いっぱい食べ
られるのがよしとされていたのが、栄養のバランスを中心に献立を考える様に
なってきた。この傾向は特に学校給食に顕著である。
 わが国でパンが製造販売されたのは明治三五年といわれるが、あんパンのよう
な菓子パンが主流であり、食事として考える者は少なかったといわれる。そのせ
いか菓子パンは食べても食パンは普及しなかった。そのパンが主食として食卓に
あがるのは戦後からである。食パンの先鞭を付けたのは学校給食であった。給食
でお馴染みとなったコッペパンは進駐軍の放出メリケン粉で作られ、全国の児童
に配給されたのがはじまりである。以来学校給食には欠かせないのがパンであっ
た。西ノ島では昭和二四・五年頃からパン製造は行われているがやはり菓子パン
が中心で、食事として普及するのは給食の開始された昭和三九年以降のことと思
われる。パン食に欠かせないバターやチーズも、老人の間では牛くさいと毛嫌い
する者もいたようであるが、日常の食事に調味料として利用されるようになると
次第に慣れていったようである。しかし、肉体労働には不向きでパン食では力が
出ないという者も多い。また、近年では島内の喫茶店でも朝はモーニング(パン
定食)が一般化するようになった。店頭に並ぶ数多くの種類、売れ行きをみて
も、パンは日常の食事には欠かせないものとなっているようである。喫茶店で
モーニングと命名された主食をパンとした洋風定食は、一般家庭の食卓形態をも
物語っている。つまり、朝の食事であるということ、飲み物はコーヒーか紅茶で
あることなどが特徴である。主食としてのパンが普及したといっても、現段階で
は昼食・夕食までもパンが主流になったわけではない。
 昭和三三年にはインスタントラーメンが発売された。これがすぐに西ノ島に普
及したのではないが、以後徐々に、商店から手に入れてすぐに口に入る食品の代
名詞としてインスタントラーメンはあった。昭和四〇年代には各家庭に冷蔵庫が
広まるにともなって、生鮮食料品の長期保存が可能になる。それはレトルト食
品・冷凍食品の発売と相まって現在ではそれをファーストフード(手間をかけず
に、短時間で食べられる食品)と呼ぶ。短い家事時間を効率よく切り盛りする必
需品として、特にご婦人方には重宝がられている。
 家庭の食事ともいいがたく、また晴れの食事とも確定しがたいものが、旅館・
食堂・レストラン・寿司屋などの外食である。元は観光客に対応する必要から
徐々に普及したのであろうが、地元の人にとっても利用されているのがこの方面
の食事であった。旅館などでは晴れの食事を出す場所として観光シーズン以外に
も賑わうが、食堂・レストランは主に日常の家庭料理の息抜きの場所として親し
まれている。この外食は和食・洋食・中華と明確にメニューの区別があり、それ
が家庭料理のモデルとして一層メニューを豊富にする役目を果たしていると思わ
れる。

晴れの食事
 今までは日常の食事であったが、晴れの日(祝儀・不祝儀・祭の日)はご馳走
の出る日という以上に特別であった。その種の資料に乏しいのではあるが、民間
資料からある程度はうかがう事も可能である。『隠岐島の民俗』から、そのメ
ニューを引用する。

コワメシ(赤飯) 
 モノビ(特別の日)にたくという。三度では氏神さんの祭りには、その年に生
まれた子のいる家で、麦の甘酒と赤飯をたいて近隣や親戚に配る。他に盆、節
句、トシイワイなどにたく。 「鮓」 押し鮓、鮓めしを型で抜き、モロブタに並
べて、一つ一つの上に卵焼き、デンブ、ショウガなどを載せて飾る。昔は春菊の
葉も載せた(仁夫、物井)
巻き鮓
 芯に椎茸、卵焼き、デンブなどを入れて海苔で巻く。イカで巻くこともある
(崎)
バラズシ
 モロブタよりこま い桶に、野菜や貝などを煮たものを混ぜた鮓飯を入れ、イサ
キ、鯵などの魚を三枚におろして酢に漬けたものを上に張った(豊田) 
 粥 
 ふだんの麦の粥などと違って、ハレの機会には上等の(タダ米の混合率の高
い)粥を御馳走の一つとして食べた。三度ではシモツキ粥といって、米に小豆を
入れた粥に蕎麦を切って入れた粥(ネゴミ)を作り、霜月の家の大将(戸主)の
干支の日に、大きな鉢やハンボウに入れて親 戚に配る。また、正月と五月一六日
には、トキガユといって、タダ米ばかりの粥を作って仏様に上げ、人々も食べる
(仁夫、崎)。仁夫では男女が寄って粥を煮て会食した。亥の子の日にダイコ粥
といって、大根を細かく切って入れた粥を作り、餅を入れて食べた(多沢) 
餅 
 正月をはじめ、三月、九月、氏神祭、田植のとき、四二才、六一才、八八才、
のトシイワイのときなどに餅を搗く。ボタモチは刈り上げのときつくる(物
井)。他に祝儀、不祝儀の機会にも餅を搗く。これらのうち、正月の準備のた
め、暮れに一番大量に搗く。糯米ばかりの餅のほか、各種の餅を、二〜三斗は搗
く。イレテと搗き手の二人で搗くが、米を蒸す者、餅を形づくる者など人手を要
するので、親戚や近隣で仲間で搗くこともある(物井)。糯米にタダ米(粳米)
を混ぜて搗くと、タダ米が粒のまざった餅ができ、これをアラカネ餅という。フ
キモ チは糯米、粳米半々ずつを粉にしてから蒸して搗くので、リキがない。 大
豆をひき割って混ぜるとこうばしいといわれた。また、大豆を粉にして、蒸すと
き入れると柔らかな餅ができるという。ズイキ芋も搗き混ぜると柔らかくなって
よいといった。甘味がでてよいといってイモも入れる。黍はひいて団子にもする
が、臼で搗きもする。粟はモチアワイを使う。バクモチといって、小麦粉、糯米
の粉、蓮を混ぜて搗く餅もあり、これには蕎麦粉を入れることもある。これらの
餅を全部で一俵くらい搗くとして、そのうち米のものは二斗、粟、稗、黍、バク
モチの類のものが二斗の割りくらいに搗いた。正月の餅はイリコでダシを取り、
餅を 入れた椀に注ぎ、上から丸海苔をかける(全域)。餅を小豆で煮たものをニ
ナガシという(仁夫)。三月三日の節句には、米、粟、蓮を入れて搗き、のし餅
にしてから四すみを切ってシノギ(菱形)に切る。これを屋内の神々や仏に供
え、また三枚をオヤモト(嫁の実家)の神に供える(三度)
 団子およびマキ 
 小麦を石臼でひいて、粉おろし(篩)でおろした(ふるった)粉で作る小麦団
子は、日常補食として作るが、節句や盆などに作る団子類は米の粉も加えて作
る。五月五日の節句にはマキを作る。糯米とタダ米を混ぜて粉にして、水でこね
て団子にし、カタリの葉に包んでから蒸す。葉の色が変色したら蒸れたと判断す
る。五月の節句の場合はオマキも萱の葉を何枚か合わせて包み、藺でぐるぐる巻
いた萱マキにする(物井)。あるいはカタリの葉一枚で巻いてから、萱の葉二枚
で包む(三度)。餡を入れるものも入れぬものもある。田植や盆に はカタリの葉
二枚を団子の両面につけたオマキにする(物井)ホオカムリとよぶ(多沢)。盆
にはネジリ団子も作った。昔は小麦粉で、現在は糯米四にタダ米六の割合の粉を
コネバチに水を差してこね、ネジリの形にして鍋でゆでて、とり出して黄粉をつ
けて食す(物井)。二〇年く らい前までは、モチ麦の粉でもマキを作った。萱に
包んで五個、七個ぐらいづつにたばねてたく(仁夫) 
 祝儀、不祝儀の食物 
 地下に祝儀や不祝儀が生じると、地下の女達が集まって膳のしたくをする。普
通は正月に一度使うくらいのカドの大クドも、このときは使って、豆腐を作った
り、餅搗きの用意をしたりする。豆腐はたくさん作って、袋に入れて井戸に吊し
ておく(薄毛)。 
本膳
 これは高膳で、御祝儀や氏神講のときなどに用意される献立は、次のとおりで
ある。膳の右手前はオツケ椀で、豆腐、ネギの入った味噌汁に上から岩海苔をか
ける。左手前は御飯を入れた椀、二合半くらいの量を高盛りにする。真ん中はツ
ボでゴボウ、人参、カンピョウ、豆 腐、センタなどを采の目に切り、油でいため
てから醤油で味付けをし、海苔や胡麻をふりかける。右奥はムコウツケ、漬物や
ナマスを盛る。左奥はフィラ(ヒラ−平皿)、ワラビ、大根、人参、ゴボウ、豆
腐、コンニャク、昆布を大きく切って煮しめて、器に盛つけるときは、大きい長
方形の豆腐を上からおおうように載せる。 煮物の具の品数が多いほど豪華とみら
れ、また奇数になるようにした(全域)。膳のフィラには手をつけずに、添えて
ある竹皮に包んで各自持ち帰ることになっていた。現在はフィラには魚や果実を
型どった砂糖や菓子を盛るので、紙に包んで持ち帰る(全域)。本膳が出る前
に、餅 入りの吸物、刺身、海の肴の盛り合わせがでるので、取り皿に取っては食
べる。六〇年前に某女が嫁に入ったときは、行ったヨ−サに御飯、ニコミ、汁、
ナマスが出て、翌朝は汁とコウコと残り御飯、昼飯もありあわせを食べ、夕飯に
ツボ、フラ・オツユ、酢のもの、刺身が出て、豆腐を油で揚げて、その下に昆布
を二つ盛り込んだものが出た(崎) 

嗜好品
酒 
 米の酒も少しは作ったが、米の少ないところなので、失敗を恐れてあまり作ら
なかった。米の酒はまず御飯を蒸し、買った麹と混ぜて、こまい壷に入れて一週
間もすると沸いてくるので、その中へ蒸した米をさまして混ぜ、米と同量の割合
の水を混ぜ、蓋をしてさらに 一週間たったらふたたび沸く。これを三回繰り返
す。一回ではイジ(辛味)が出ない。そのうち上のほうが澄んでくるので、竹の
輪の簀を入れて汲み出す(物井)ドブ酒は戦前は作ったが、戦後このかた作らな
かった(多沢) 
 甘酒(アマガユ)
 現在でも、正月に作る。正月にはヤク落しといって、家族に四二、六一才の者
がいると、皆が祝って来るので、このときは二斗ぐらい作ってふるまう(薄毛、
三度)。甘酒を作る機会が、ちょうど寒い時期なので、しろうとでは麹がうまく
いかないので、麹は 麹屋から購入する。餅を柔らかく煮て麹と混ぜてモロブタに
入れておくとすぐできるが、糯米、麹半々の割では甘すぎるので、麹と米と一:
二くらいにする(豊田) 
焼酎 
 麦、甘薯、南瓜などで作った。作り方は皆同じである。このうち南瓜の焼酎の
作り方を示す。麦のハナ(麹)を作り、南瓜はおかずにする程度の大きさに切っ
てゆでる。水を多い目に入れ、ゆで汁ごと(ここが肝腎)ハナと混ぜて三日ほど
置いておくと沸いてくる。これをこして飲む。こしかすをオリという(崎)
 ビール酒、麦酒 
 麦酒ともいう。ビール麦(大麦)を唐臼で二〜三度搗いて白くし、洗って蒸し
てモロブタに入れて、ほやほやするくらいの温度にしておくと、二〜三日から三
〜五日くらいで白いもやがつくので、手返しをする。熱が強いと真っ黒になって
しまう。これでハナが でき上がり、麦を二升くらい蒸してこのハナと混ぜる。ハ
ナが余分に入ったほうがおいしくできる。ハンドにこれらと水を混ぜて入れ、
時々かき回しておくと沸いてくる。できのよいのはさらっと澄んでくる。中へ簀
を入れてかい出して飲む(豊田、三度) 

巡遣使の食事
 島民の晴れの食事ではないが、幕府の高官が隠岐を巡視するに当たって、総勢
四百人以上を引き連れて来島した時の資料があるので、ここに紹介したい。但
し、このメニューは巡見使の一行の中に料理人十人とあることから、地元の住民
が料理をしたのではなく、御付きの専門料理人がこれにあたった。
(表8挿入)
(表9挿入)
(表10挿入)
食生活の変容
 少なくとも昭和三十年代くらいまでの島前の祭・祝い・法事などの日には、ど
の様な食事をしていたのかはある程度推測できるかと思われる。江戸時代から完
全なる自給自足体制であった訳ではなかったが、ほぼそういう形ですべてのもの
が賄われていた。
 「ご馳走」とは、盆・正月・祭など少なくとも戦前において飽食と多数のメ
ニューと米飯の事をいったものであろう。それは、ハレの日の食事であった。
盆歌の口説きに「盆が来たらこそ麦に米混ぜて、中に小豆をチラパラと・・」と
いう文句も理解できよう。ハレの食事は日常の食事のほどは激変はしなかった。
というのは、日常の食事の向上が目指していたのがハレの食事だったからであ
る。そういう意味では食事においては毎日が祭・正月になったのである。日常の
食事と異なることは、儀式の食事が現在でも「吸物をどうぞ」という口上に見ら
れる様にハレの食事は大なり小なり一定の順序に従って献立が出されることに
なっていることであり、煮しめ・マキ・ツボ・寿司・ボタモチ・餅・団子などは
依然としてハレの日のものとして意識されている。
 巡見使の料理で見た様に、それは高膳に盛られてある。次に酒宴となり、いわ
ゆる食事は本膳と呼ばれる。現在は住宅の変化と共に自宅での儀礼・宴会は少な
くなり場所は旅館に任される傾向にあるが、昔ほどには格式ばって無いとして
も、形式の片鱗だけはうかがえるのである。そして、食事だけでなく、衣装、住
宅の飾り付けなどの伝統的な演出によって晴れがましい心持ちが醸し出されたの
であった。

住宅原稿

住宅原稿
幕末の頃
明治から昭和三〇年代
住居の変化
材の変化
家具の変化
間取りの変化
建物構造の変化

幕末の頃
 現在、西ノ島では一戸建て住宅としては十坪というのはありそうもないが、百
七十年ほど前には、村の中でも広い部類に入り、どちらかというと金持ちの家で
あった。一般住宅の歴史的資料というのはほとんどないが、文政九年(一八二
六)には船越から小向にかけて大火が起こり、その時に代官所が調査を行ったら
しく、その調査書が現在残されている。その調査書は幕末の西ノ島の住居に関し
て参考になるので一部引用してみる。
(表1挿入)
 船越・小向全体で六一戸。住居の面積(坪数)の統計は表の通りとなり、さら
に単純化すると七坪以上が二三%・六坪以下の住居は全体の七七%を占めてい
る。因みに雪隠(便所)はすべての住居に付帯しているが、土蔵や納屋は七坪以
上の住居にしか付属していない。すなわち六坪以下が当時の一般的住居の規模と
みて差し支えなかろう。家族数も調査項目に記してあるので、これも平均をとっ
てみると、なるほど小さい住居になると平均人数も少なくはなってくるが、三坪
住居でも五人もいる処もある。端的に言うと当時は一人が一坪の住居空間を占
め、しかも八割近くが六坪以下の住居に住んでいたことになる。この頃の住居の
間取りや、家具に関する記述が無いのでさらに詳しい事情はわからないが、少な
くとも明治が始まる四二年前までは西ノ島ではこの様なものであった。

明治から昭和三〇年代まで
現在、極端な例では、アパート形式の住居であるが、我々の住まいは昭和に入っ
てから驚くほどに変化した。それは生活の変化に付随する大きな環境変化であっ
た。
 戦前までの西ノ島の民家は驚くほどに似通った田の字型の母屋とそれに付随し
た納屋、その周りには畑があったり、カドと呼ばれる野外作業場に囲まれてい
た。別棟には風呂や便所、外流し、まであったのである。戦前までの生活はほと
んどが半農半漁であり、また出稼ぎで本土に出掛けるという状態がこの当時から
始まってもいた。

 さて図の建物の母屋から説明すると
(図面1挿入)(表2挿入)
母屋の前にはカドがある。
(表3挿入)
また母屋の横にある納屋はひとつの職場でもあった。
(表4挿入)
その他には便所や風呂が母屋とは別棟で建てられていた。
(表5挿入)
西ノ島における民家は、大体において以上の様なものであったが、昭和二〇年代
後半から現在にかけて暫時改造が行われたり、新築にされたりして、現今に至っ
ている。
(図面2挿入)
 建築の構造的に顕著な変化が起こったのは、昭和四〇年代の町営アパートの普
及であった。このアパート建設の発端は、各船団から要望があり、先ず浦郷に漁
民住宅が建った事であった。それから次第に一般住宅としてのアパートが増大し
ていく。鉄筋コンクリート建て住宅や木造平屋・木造モルタル造りが主で、旧来
の民家と対極をなすのが鉄筋コンクリート建ての四階である。
(図面3挿入)
(表6挿入)
住居の変化
旧来の民家から現在の改修・新築・アパートへの変化を、機能の面から見ていく
と、
一)納屋は牧畜の衰退と共にダヤが無くなり、倉庫専用の部屋として使用される
か、もしくは、解体されて倉庫専用棟として建てられている場合が多い。
二)野外作業場としてのカドは庭木を植えて庭園にしたり、広場として駐車場に
するケースがみられる。
三)ナカイにあったハンドは、水道の普及と共に台所から消えていった。
四)洗面は民家の時代にはナガシ・外ナガシ・風呂場・井戸・川など特定の場所
ではなかったが、現在の住居では必ず専用の洗面所が付設されている。
五)石油・ガスの普及と共にイロリが無くなる事によって、そこで決められてい
た、家族の地位を表す座(ヨコザ・キャクザなどの)も消滅した。これは、大家
族から核家族への変化にも連動する。
六)食事をする場所を食堂とするならば、その場所はあまり変わってはいない
が、ただ、箱膳から飯台へ飯台からスリッパ履きでテーブルへと変化することに
よってナカエは台所やキッチンと呼ばれることになった。
七)元々、室内は裸足というのが一般であったが、スリッパの使用は台所だけで
なく、廊下や応接間・便所にもおよんだ。
八)水道の完備は各戸に風呂場の常設化を促し、燃料が薪から石油・ガスに代わ
ることによって、風呂はボイラーが一般的になっている。
九)明治一四年の清潔指導法によって、実施された大掃除は、役場・警察などの
監視の中で行われたが、昭和三〇年代に廃止されると共に忘れられた。(大掃除
とは、現在年末に行われる掃除とは異なり、春・秋の天候の良い一定期間に部屋
中の畳を上げて、外に立て掛け、棒でたたいて、埃をとり、畳の下の座板には石
灰やDDTを散布した。また、家の周りの溝の掃除もその時に行った)
材の変化
一)屋根が杉皮葺きから瓦葺きに変わった。
二)木材は地元から切り出していたものから、外から規格化された部分材(プレ
ハブ)を導入するようになる。そして、新建材と呼ばれる材が一般的になってき
た。
三)屋根や壁に大量に使用されていた土は段々みられなくなり、代わりに断熱
材・耐火ボードになる。
四)中の間とオモテ・茶の間とヘヤを仕切っていた中戸(なかど)は襖に変わっ
た。
家具の変化
一)煮炊はイロリで行っていたが、ガスコンロの出現によって消滅し、それに
伴って、イロリの上に櫓(やぐら)をかけて炬燵にしていたが、それは電気炬燵
にとって変わった。
二)食事をする段になると、ナカイでは箱膳を出してそれに盛り付けていたもの
が、丸い折たたみみ式の座る机である飯台(はんだい)に代わり、ついには、
テーブルに椅子の食堂となった。
三)照明は電力の向上によって行灯・カンテラ・ランプから電灯・蛍光灯に変
わった。
四)暖房の面では炬燵・火鉢から電気炬燵・ストーブへ。寝る時の暖房は猫炬
燵・湯タンポ・アンカから部屋暖房をする石油・ガスストーブ、電気ストーブ
へ、電気コタツ・電気毛布へと変わりつつある。
五)夏の過ごし方も変わった。団扇で扇ぐ事だけが涼しいとされていたが、扇風
機が普及して機械的風を起こしはじめ、夜は蚊帳を吊って過ごし、蚊取り線香を
たいたのが網戸へと変わり、今ではクーラーによって部屋自体を涼しく方法に移
行している段階に入っている。部屋の洋間化は寝室にも及び、布団からベッドと
なる。
六)情報機器としては、ラジオ・テレビがまるで家庭の劇場であるかの如く垂幕
付きで、居間に鎮座していたのが、今では極端な場合には各部屋に設置される様
な状況になった。
七)電話も家庭に一台であったのが、ホームテレフォンとして、各部屋に分割さ
れ、ここ四・五年でコードレス・ホーンも普及して野外でも送受信が可能になっ
た。

間取りの変化
一)屋内の作業場でもあり、日常の出入口でもあったニワは作業場は取り払われ
て玄関となり、中の間にあった儀礼用の玄関は消滅する事になった。つまり屋内
の作業と儀礼(結婚式・葬式など)が必要とされなくなったとみるべきであろ
う。結婚式は代わりに旅館・ホテルで行われ、アパートなどでは葬式は親元で執
行されるケースをみると、いづれにせよ自宅での儀礼・宴会は少なくなり、外に
施設を求める風潮に移り変わってきた。
二)今までは専用にされていなかった子供部屋が、必要とされるようにもなって
きた。
建物構造の変化
一)旧来の民家は大黒柱を中心としたほとんどが平屋であったが、数寄屋造りを
基本とした、二階立てになり、洋風建築も増えている。
二)建築の基礎は軒下にジロイシと呼ばれる硬い土台の石を置き、その上に床を
支える柱が縦に木で建てられている開放型から、コンクリートで固められた密閉
型に代わる。
三)窓の少ない家から、ガラスを多用した窓に変わってサッシと呼ばれる建具が
大勢を占めることになる。
四)障子や襖からサッシやドアに代わることは、部屋自体を密閉し、いよいよ暖
冷房に適したものになった。しかし、暖と冷が均等になったわけではない。現在
の建物は暖に適してはいるが、冷には向きが悪くなっている。外光を室内にふん
だんに取り入れた結果、室内の温度が上がり、また壁の土からボードになること
によって外気の遮断率が少なくなる。また土のボード化は屋根の工法にも適用さ
れるとなると、室内の温度はいよいよ高くならざるを得なくなってしまったので
ある。この効果は一階よりも二階に顕著に現れて来た。
五)住宅の少なくとも一室は洋室があり、台所・便所などは今や和風をみること
の方が稀である。
六)風呂は別棟で外にあったものが、内風呂に変わり、五衛門風呂からユニット
風呂へと変化して、燃料も薪からボイラーに移る趨勢にある。
七)便所も風呂と同じく外から内にかわり、以前には肥料として使用されたもの
が、現在では汲取によって処理されると、呼び名も金肥(きんぴ)から屎尿へと
変わった。
八)ナカイは台所もしくはキッチンと呼ばれるようになると、クドではなく電気
釜・ガス釜を使用し薪は不要になる。薪が不要になると、今までは煙を逃すため
の煙突も不要になり部屋には天井が張られるようになる。
九)主要燃料が薪や木炭から電気・石油・ガスになると、当然の如く木小屋は消
滅していかざるを得なくなった。
一〇)ナカエの屋根にあった空窓(そらまど)は無くなって、天井が張られる事
になる。
十一)食器などを収納する戸棚は、水屋などに変わり今では見る事が少なくなっ
た。

 変化はすべて、期を一にして行われた訳ではなく、長期間に渡るものであり、
現在の住居がすべて、この様に変化している訳でもないが、少なくともこの様な
傾向に流れているという指標として記述した。
 以上の変化は、生活の都市化・文明化だけでなく、家業や家族構成の変化の結
果とも言えよう。家業は半農半漁の自給自足生活からサラリーマンを中心とする
貨幣生活への変化であり、生活の場と職場の分離でもあり、家族構成は、四世
代、三世代の大家族から二世代もしくは一世代の核家族化にいたる。出稼ぎと核
家族の関係も相俟って独居所帯・老人ホームへの居住が増大している。現代は、
ほとんどの住宅が改築・新築されており、昭和三〇年代以前の民家は廃屋に、そ
の名残があるに過ぎない。

参考文献
「文政九年隠岐国美田村火災と流人の住居空間」

水源原稿

水源原稿
共同の井戸
 井戸というのは地面を掘って揚水する設備をいうのではなく、流れや川の水を
せき止めた水使いの場のことを指している。
 その内、水を集めたり地面を掘り広げる方法が考えられるようになり、井戸が
掘られるようになった。わが国では六・七世紀頃大陸から技術が入ったといわれ
るが、初めは四角い浅井戸であった。技術の発達と共に掘削が少なくてすむ円形
に変わり、やがて深井戸も掘ることが出来るようになった。江戸時代後期には三
〇メートル以上の掘削に成功したといわれている。近代になってからは機械掘が
行われるようになり何百メートル下の地下水も汲み上げることが可能になり現在
に至っている。
 ところで島前では井戸のことを「カワ」という。こうした呼び方をするのは流
れの少ない地方に多いらしいが、たしかに島前には常時水を湛えて流れる川とい
うのは少ない。生活用水のある場所が「カワ」となり、その「カワ」は各集落毎
に掘られ、共同井戸として利用された。島前の古井戸については『隠岐の文化
財』に詳しく紹介されているので、ここでは西ノ島内の部分のみを引用する。
上がわ・地下がわ(物井)
飯田小路がわ・尾ノ代がわ・川崎がわ・千福寺がわ(別府)
犬屋がわ・上小路がわ(美田尻)
水壽(大山)
龍沢寺がわ・あちだんがわ・そうのがわ(大津)
抜井がわ(小向)
清水がわ(船越)
専念寺がわ・中がわ(浦郷)
清水がわ(赤ノ江)
隠居がわ・学校井戸(昭和六年発掘)(珍崎)
右記の一九カ所が現在報告されている西ノ島古井戸である。
 島民はだいたい共同の井戸を利用して生活していたが、そのうち個人の家庭で
も井戸が掘られるようになった。しかし、どこでも良質、豊富な水が出るとは限
らない。その点、昔からあるカワというのは水質、水量とも優れていたようであ
る。
 昭和三十年代になって簡易水道が普及するようになると、共同井戸の利用は少
なくなり家庭用井戸はすたれていったが、生活文化向上とともに水の使用料が増
加すると水道用の水源は枯渇していった。そこで再び家庭・共同のカワが利用さ
れるようになった。ボーリングがもっとも盛んに行われたのは昭和四十年代。島
中が水不足に悩み、町でも家庭でも生活用水の確保に奔走した。
 昭和五十年代、美田、大山のダムが建設されてから水資源も安定し、井戸の利
用は少なくなったが、それでも旱魃等でダムの水源があやしくなると井戸が復活
する。美田尻の上小路のカワなどは、かつて酒の醸造に使われた名水。いかなる
旱魃にも枯れることなく今でも集落の貴重な共同井戸として活用されている。
 釣瓶のある風景
 「朝顔に釣瓶取られて貰い水」
井戸といえば釣瓶のある光景が思い出される。昔は手桶に縄、竿などを縛りつけ
井戸水を汲んだ。深い井戸には滑車もつけられていた。バケツが普及するように
なってから、ブリキ製の釣瓶が一般的なものとなり、次に手押しポンプがつけら
れるようになった。動力ポンプが家庭で普及するのはボーリングが盛んになった
昭和四十年代である。最近では釣瓶も手押しポンプも見かけなくなった。
 井戸端会議といわれように昔の井戸は主婦達の溜まり場。たしかにコミュニ
ケーションの場ではあったろうが、それは都市の長屋の光景である。農家の主婦
が油を売っている時間はなかったようである。また水汲みはもっぱら子ども達の
仕事でもあった。飲用水は一日でハンド(台所の水瓶)一杯。おおよそタゴ(水
汲み用の桶)四・五杯で一杯になった。
 井戸の信仰
水は貴重なものであるし、それだけに井戸は大切にした。正月が来るとカワには
注連飾りをつけ、元日の朝暗いうちに若水を汲みにでかけた。水を汲むときには
米を持参、井戸の淵に置かれた三方に備えて拝礼、井戸の神様に感謝をささげな
がら汲んだ。若水汲みは全国どこでも行われている一般的な正月行事ではある
が、最近ではその若水汲みも少なくなってきた。しかし、井戸を埋めなければな
らなくなった時などに、米や塩を捧げたりする処をみると、頭の中から記憶が完
全に消え去ったというわけでもなさそうである。

『隠岐の文化財』
『国民百科事典』
『隠岐島の民俗』

木炭原稿

木炭原稿

 薪と同様に木炭も、日常生活には欠かせない燃料であった。
 正倉院に伝わる火鉢の中には当時の木炭が残されているといわれるが、このよ
うに相当古くから用いられていたようである。
 木炭は薪と違って煙が出たり炎が上ったりすることがない。火力が強く火持ち
がよいことが重宝がられ薪と並ぶ燃料として定着した。 
 木炭に用いられる木は、クヌギ、ナラ、カシ、ブナ等のクロキであるが、松炭
も焼かれた。西ノ島では資源の豊富な焼火山を中心とし、旧美田村一体の集落で
生産が行なわれている。戦前の状況は不明であるが昭和三十一年の資料による
と、窯数四十三のうち、半数は大山地区に集まっている。
 そのようにこの地区では木炭製造を専業としている者が多かった。
 島で生産された木炭は島内需要だけでなく島外にも移出された。移出物として
は海産物に次いで重要な地位を占めたといわれ、鳥取、京都、大阪、富山方面に
まで移出されている。当時、木炭流通に関わった人の話によると
 「昭和三十年ごろは、米子から要請が有って炭の移出をしました。炭の質は大
山、波止の炭が良かったようです。というのも、材質の優れたカシ、ツバキの炭
が多かったからでしょう。ツバキ等は五十俵のうち五俵もないほど貴重な物でし
た。(浦郷、池田  談)」
 このように、需要、生産ともに盛んであった木炭も昭和三十五年頃から次第に
減少していった。七輪はガス、電気コンロに、火鉢はストーブにかわり、木炭の
需要は掘りごたつくらい。それも昭和四十年代になると電気こたつが普及し、一
般家庭で木炭を使うことはほとんどなくなった。
 木炭生産の移り変りは別記のとおり。現在は鍛冶などの工業用のほか、調理な
どの燃料として使用されるのみとなっている。

 炭火の時代

 ・七輪にたきつけ(紙、木片)を入れて消し炭を乗せて火を付ける。消し炭に
火がつくと木炭を乗せ火が起きるのを待つ。その間数分、火が起きるのを見計
らってれヤカンを乗せる。炭火の時代はお茶を一杯沸かすのにもそれだけの手間
がかかった。当時はそれが普通であり別に不便とも何とも思わなかったが、ガス
コンロが登場すると、七輪の不便を痛感するようになった。
 また暖房も同様である。火鉢では火力は限られるし薪は煙たくて汚い。ストー
ブが普及しはじめると囲炉裏、火鉢は姿を消した。
 七輪、火鉢、囲炉裏は過去のものとなり現在一般の家庭ではほとんど見かけな
くなっている。千年以上続いた炭火文化も利便性を求める近代生活にはついてい
けなかったようであるが、しかし根強い人気があるのは事実、ことに調理の面で
は炭火ならではのものがある。昔はよく囲炉裏の炭火の上にアブッコ(足のつい
た金網)を架け、魚を焼いて食べたものであるがその味覚は格段に優れていた。
魚に限らず肉、餅、焼きおにぎりなど炭火にかなうものがないという。現在でも
旅館、料理店はもちろん、一般家庭の野外パーティなどで利用されている。
           
 参考
 
 風俗辞典(東京堂)
 西ノ島町勢要覧(昭和三十三年) 
 隠岐の産業
 島根県統計書

植林原稿

植林原稿

 平成六年現在、西ノ島町の山々は紅葉と見紛うほどに松が赤く染まり、また部
分的には赤い松葉も落葉して幹だけが目立つ寂しい景観である。かつては隠岐汽
船からだんだんと島に近づくにつれて、薄紫から濃い緑に代わり最後には黒松や
杉の色が島の色と思うほどに緑の島であった。
 だが、その景観さえも大正時代以降のものであり、それ以前には、現在山林で
あった場所は牧畑であった。牧畑の島は、夏ともなれば麦で黄色に染っていた。
明治二十五年に隠岐島を訪れた小泉八雲は牧畑こそ言及してはいないが、船から
みた知夫里の光景をこう述べている。「山裾の白ちゃけた裸岩から、山は傾斜を
なしてのぼり、その上は低い草や木の生えた寂しい荒地になっている・・中
略・・十軒ばかりの人家が互いに軒を重ねながら、山の窪地をはいのぼっている
のが見え、その上には、荒地のまんなかを耕した段々畑が少しばかりある。それ
だけである。・・後略」
 一般に隠岐島の植林といえば布施村であり、そこでは享保四年(一七一九)に
藤野孫一が杉の植林を始め、以後、隠岐の杉といえば布施とまでいわれるように
なった。しかし、西ノ島でも、それより八〇年以前寛永一八年(一六四一)には
焼火山で杉の植林を始め、安永六年(一七七七)には一〇万本の杉を植えたと記
されている(焼火山近世年表)。元々、島の材木が重宝されたのは、北前船の風
待港として利用された事に起因する。本土で鉄道や車道が完備されるまでは、船
が大量輸送の中心であり、即ち陸地輸送よりも低コストで運搬できたのである。
 当時、一般的に植林が当時そんなに普及したとも思えないが、島前の入会地の
ある焼火山という特殊な場所では木材利用を意識しての事業は行なわれていた。
具体的には、労働力は雑木を地下(里)人に与え、その代わりに植付けの手間を
出してもらうことなどを指示している。雑木が燃料源であった時代、また雑木の
あった場所だからこそ可能な事業であったかも知れない。
 明治一〇年の地租改正は、旧来の物税から金税に変わり、それと共にスライド
方式の税金から固定方式の税金へとも変った。隠岐ではその折りに現金を産み出
さない牧畑から地目変更を行なって森林にした形跡がある。これは商品としての
木材を、より意識させることにもなる。
 西ノ島では基本的に土地は牧畑として利用されていた。『隠岐牧畑の歴史的研
究』の資料によると、西ノ島の場合には大正から昭和初期にかけて、牧畑内の畑
地の割合は減少の一途をたどり、それに反比例して牧畑内の林地の割合は三七〜
七六%と逆に増大している。黒木村は昭和二四年段階で既に牧畑内での耕作面積
は二%に過ぎなかった。牧畑の消滅と共に山林開発もあり、次第に植林地や牧場
へと変っていった。
 黒木村議会決議書を見ると、大正一〇年には村有林を中心にして、村民に労働
供出させて植林を行なったり、下刈りをさせているのがわかる。それも後には労
働の代わりに金納になったようである(黒木村議会決議書)。さらに下がって、
昭和一〇年の黒木村と浦郷村の経済更正計画の林業欄をみると、黒木村は七,〇
四九円、浦郷村は二,三二二円。さらに昭和一五年には黒木村二六,五二〇円、
浦郷村は一,〇〇〇円となっている。これは各村の地形もさることながら、各行
政の政策方針の相違でもある。
経済更正計画の比較(くろぎ・由良から)

この傾向は西ノ島町に合併されるまで続き、現在にも至っている。

昭和三五年(一九六〇)新町建設計画基礎調査書(分析編)P一九〇


 人工的に植えられた黒松などは、現在一〇〇年以上の物は少なく、植林が一般
的に普及したのは大正以降、しかも黒木村を中心に流行したと見た方が妥当かと
思われる。だが、それが全て植林したものでも無く、牧畑を放置した結果、自然
と黒松が育成した場合も多かったであろう。町内には昭和二〇年半ばには苗木を
売る所も出て来ているくらいである。
 特に戦後は乱伐の時代でもあった。昭和二五〜二九年には用材の高騰により、
荒っぽく言えば、木なら何でもよいというような時代であった。戦後の建築ブー
ム(敗戦のために家の需要が大きくなり)と、パルプや杭木のために、特に松が
重宝された。パルプには建築材のように木材の形態・色などは問題ではなく、容
量だけが重宝がられた。杭木はある程度細いものが要求された。それに対して、
杉は建築材木としてのみ利用され、また植生区域が限定されるので、松ほど一般
的には普及しなかったと思われる。
 しかし、本土の鉄道と車道の整備により、隠岐の材木は徐々に価値が低くなっ
て昭和四〇年代には植林事業も衰退していった。
 町の「松喰い虫対策」は昭和五九年くらいから開始され、被害を受けた松の伐
採、消毒の空中散布など懸命に対応したが、成果は芳しくない。これは西ノ島町
特有の現象ではなく、「松喰い虫」の被害に遭った地域はいづれも同じ運命を
辿っている様にみえる。

薪原稿

薪原稿
  
  昔、どこの家庭でも木小屋があって、薪が堆く積まれていた。
  日常の炊飯、あるいは暖房、あるいは風呂に薪は欠かせない。
  「むかし、むかしお爺さんは山に柴かりに・・」桃太郎の昔話ではないが
 農作業の合間にはよく樵(薪取り)に出掛けたものである。
  薪にはクロキと呼ばれる広葉樹のほか、松、杉などの枯れ枝が用いられた。
  昔は、島のほとんどが牧畑である。島民の燃料は焼火山一体で確保していた
 が牧畑の山林化が進むようになると、近くの持ち山やジゲ山(共有林)に出掛
 けて取るようになった。持ち山も共有林もない者は購入しなければならなかっ
 たが、枯れ枝、杉の葉、松葉などは持ち主の許可をもらって、取っていたよう
 である。
  また、山林伐採が行なわれたときは、先を競って枝葉を貰いに出掛けた。現
 在、古い農家を見かけなくなったが、昔は大きな竃と囲炉裏が何処の家庭にも
 あった。いわゆる薪オンリーの生活である。薪は台所の竃には杉、松の枝な
 ど、囲炉裏には火持ちの良いクロキが用いられたが、一斉に焚くと部屋中は煙
 だららけになる。梁や柱は真っ黒け、風の強いときなど屋根裏に貯まった煤が
 よく落ちたものであった。
  薪は山で乾燥させてから自宅に持って帰るが、道路のないところがほとんど
 である。木負いといって背中に背負って搬出した。木負いの用具はニカ(物を
 背負うときの縄)とセナアテ(藁等でつくったクッション)、カルイ(背負い
 の専用用具)が用いられた。
  戦前の小学校には、勤倹、勉学の鑑として二宮金次郎少年の銅像が立てられ
 ていたが、薪を背負って本を読んでいる。木負いの仕事は大体女性か子どもが
 分担していたようであるが、結構きつい労働で木負いをしながら本を読むなど
 考えられなかった。山で樵っておいた薪は雪の積もらないうちに搬出して正月
 を迎えたようである。
  昔の人は木小屋に木がなくなることをもっとも嫌ったという。食糧と同様に
 燃料を常時確保しておくことは、農家にとっての常識であった。
  戦後、竃の改良によって小量の薪で炊飯出来るようになり、また囲炉裏で木
 を焚くことも少なくなり、薪も製材等の端切れが用いられるようになった。
  昭和三十年になると石油コンロが登場、燃料の主力はプロパンガスへと変わ
 り、薪は風呂焚きくらいにしか用いられなくなったが、近年は石油ボイラーの
 普及によって、薪の需要はますます少なくなりつつある。
  
 
 ・薪を輸出
  江戸時代西ノ島では焼火山周辺が薪の産地で、島前各村の燃料が賄われてい
 た。松江藩では「御用薪」調達場所として焼火山を指定、美田村でも薪確保を
 ジゲで請負って松江藩に薪を移出している。また石見銀山でも隠岐の薪を欲し
 がっていたといわれるからかなり人気があったようだ。
  寛文年間(一六七〇)まで、隠岐の移出物の大半は材木、薪によって占めら
 れていたといわれるが、北前船が寄港するようになると、境、松江はもちろん
 遠くは長崎、若狭方面にまで移出されるようになった。移出が過ぎたのか幕末
 にはとうとう少なくなって、貴重なものになってしまったといわれている。
  海に囲まれた島では搬出が手軽で船による大量輸送が可能である。そんなと
 ころから島の特産物として、移出が促進されたのかも知れない。

ラジオ原稿


ラジオ原稿

新しいメディアとしてのラジオは、大正十四年に東京で始まったが、島根県では
「島根県に放送電波が行きわたるようになったのは、昭和七年三月、全国で一七
番目の日本放送協会松江放送局が開設されてからであるが、開局当初のラジオ聴
取者数はわずか一四三六人に過ぎなかった。」「山陰放送(昭和二九年七月ラジ
オ放送開始)からの放送も島根県をエリアとしていきわたっている。」と島根県
大百科事典には記述されている。以下はラジオ契約者推移(島根県)を示したも
のである。

一方、西ノ島では、「ラジオ購入は、昭和二年に浦郷では三沢屋(沢野光一)宅
に始まり昭和七年現在は、三沢屋・徳中・警察・中原・学校の五軒」(由良よ
り)
 因みに「たちあがる隠岐」から当時の隠岐島のラジオ普及状況を拾ってみる
と、
ラジオ普及率

昭和二四年九・二%
昭和二五年一二・一%
昭和二九年二五%
昭和三一年三二%(全国平均六八%)
昭和三二年NHKはFM放送開始
昭和三三年(全国平均八二パーセント)これを境に下降する
昭和三一年六月調査 黒木村は八七五戸中二八八戸=三三パーセント
          浦郷町は七三二戸中二二三戸=三十パーセント
となり、全国平均の約半分くらいの普及率であった事が理解できる。
しかし、この普及率は当時の電気状況を考慮に入れると、一概に全国平均と比較
することは出来ない。と、いうのは昭和三一年当時の西ノ島町(黒木村と浦郷
村)は中の島と一緒で百四十キロくらいしか配給されてなく、一日に四時間(午
後七時から十一時まで)程しか送電されてなかった。そういう状況でラジオの普
及率が三十パーセント以上というのは家電製品としてはずばぬけている、という
より、それ以外の電気製品は使用出来なかったという方が正確な言い方かも知れ
ない。もし、それ以上の家電製品を使用すれば、家のヒューズか電柱のヒューズ
がが飛び、近所一帯が停電にみまわれ、ついには電力会社が調査に来て違反(こ
れを盗電と呼んでいた)がばれてしまうことになる。
当時の西ノ島町の家庭の電力状況から見て、(各家に20Wの電球一つという制
限)ラジオが十分に使用できるという様なものでは無かったが、ラジオの電圧を
上げる為に内部のコイルを巻き直したり、補助電力としてバッテリーを利用する
という様な事もあったらしい。

西ノ島ラジオ普及状況(昭和32年10月1日現在)西ノ島町勢要覧/「新町建設
計画」昭和35年

西ノ島町全体ではこの間に57%から七五%に普及率が上がっており、この年を
ピークとしてラジオは全国的に数値としては下降してゆくようになる。しかし、
それは後に見るようにラジオが少なくなっていった事を物語るのではなく、一家
に一台の時代から個人に一台の時代に入っていった。後でみるように、これと連
動した動きはテレビに現れている。昭和三四年のNHK松江放送局のテレビ放送
開始によって、ラジオ放送の人気は急激に下降線を辿り、ついに昭和四三年には
受信料廃止が決定された。
そんな状況で聴いていた番組は、次の様なものであった。

テレビ原稿


テレビ原稿

 日本でテレビ放送が開始されたのは昭和二八年(一九五三)、日本放送協会
(NHK)と民間では日本テレビ放送(NTV)であった。東京地区という限ら
れた場所での開局であったが、新しいメディアの登場として話題を呼んだ。
NHK開局時(二月一日)の受像器は、わずかに八六六台、NTV開局時(八月
二八日)には約三五〇〇台であった。だが、その人気は各所に設置された街頭テ
レビのおかげで大群衆が押し寄せたほど鰻登りとなった。日本テレビは関東一円
の駅前広場などに二二〇台の街頭テレビを設置して、広告効果をあげるとともに
受信機の普及促進をはかった。スタート時の放送時間はNHKが四時間、日本テ
レビが六時間であったといわれる。
 広告収入によって運営される民間テレビ局は、とても採算が合わないと世間で
は見られていた。開局当時のテレビ台数では誰もそうとしか思えなかったのは当
然といえよう。当時のテレビ受像器は二十三万円、中堅サラリーマンの一年分の
給料でもとても購入でき無かった。しかし、開局七カ月で早くも黒字経営に転じ
たのには驚いた。時代は既に熟していたようである。
 テレビ放送スタート当初の番組表は、スポーツや演劇の中継番組が大きな比重
を占めた。特にスポーツ中継は人気が高く、NHKを例に取れば昭和二十八年度
における合計二七七件の中継番組のうち一四四件をスポーツ番組が占め、その中
心は大相撲(六十二件)と野球中継(四十六件)だった。民放はスポーツ中継に
プロボクシングとプロレスを加えて、世はスポーツ時代を感じさせるまでに到っ
た。
 昭和三十二年(一九五七)田中角栄郵政大臣は民放テレビ三十四社に予備免許
を与えた。これを期に各地方では一気にテレビ局が増大することになる。昭和三
十四年十二月には民放テレビは三八社、受信契約数三四六万に達し、広告収入は
テレビはこの年にラジオを上回る。それによって徐々に民放各社はラジオ局名か
らテレビ局名へと社名変更が相次いだ。
 昭和三十四年(一九五九)には松江にもNHK松江放送局(十月二十八日)で
テレビ放送が可能になり、同じ年に一斉に民間放送局(山陰放送(BSS)(十
二月十五日)・日本海テレビ(三月十一日)(NKT))も開局された。この松
江放送局でのテレビ放送を期に、西ノ島町ではテレビが普及した。その当時の状
況を浦郷の間瀬氏に聞くと「私が電器屋を開業したのは、昭和三四年四月十日の
現天皇御成婚日と記憶している。その時は、今の前田屋あたりの街頭で御成婚式
典の中継をテレビで放映した。それを広告の目玉として間瀬電器の貼紙をした覚
えがある。それまでは、浦郷に二軒テレビがあり、岡山放送の電波を受けてい
た。場所によっては、十円の視聴料金をとっている所もあった。開店当時にテレ
ビをつけたのは、先ず散髪屋で、それから急激に普及していった。当時はテレビ
受像機がなかなか入荷しにくく常に品物が少なかった。昭和三五年の浦郷のテレ
ビ設置者は、升谷・調府・田中(別府)・渡・真野(なかばら)・朝山・竹中・
熊沢・岡田(満月)・岸本・寺下・一畑バス事務所・山本医院(美田)・日高
(保健所)・山木鉄工所・家中である。」
 当時のテレビは、色はモノクロ、ブラウン管の角は丸くなっていて、画面は使
わない時には小さい緞帳の様な幕がかけてあり、画面を大きく見せる為の拡大鏡
の様なフィルターなどがオプションで付設されてあった。電波は本土から直接受
信していたので、少し天候が悪いと画面が雪が降るようにチラつき、五メートル
以上も離れないと絵を結ばないような電波状況の時もあった。
 映画の放映も少なく、大人も子供も「テレビ・テレビ」とテレビのある場所や
家に群がり、大げさに云えば私設映画館の様相を呈していた。そんな中で変わっ
たケースでは、波止区が個人に先駆けて、分校にテレビを購入したという事も
あった。
 昭和三十五年(一九六〇)テレビのカラー放送が東京と大阪で開始され、日本
は世界で第二番目のカラー放送国となる。当時の受像器は一七インチ型で四十二
万円、二一インチ型で五十二万円。大卒の初任給が一万五千円の時代でもあった
ので、とても庶民には手の出せる受像器ではなかった。しかし、昭和三十六年
(一九六一)にはモノクロテレビ受像器が一千万台を突破までに至った。
 西ノ島町では昭和四十年に焼火山頂にNHKのテレビ中継所が完成してから電
波状況も良好になり、後には民放三局(日本海放送・山陰放送・山陰中央テレ
ビ)も中継所を設置することになる。
 昭和四十四年(一九六九)テレビ受像器は二一八八万台、家庭への普及率は九
〇%を突破し、島根県では山陰中央テレビ(TSK)も開局された。
 昭和四十六年(一九七一)NHKと日本テレビが全番組をカラー化し、カラー
受信契約数一千万突破。モノクロテレビからカラーテレビへの移行は目覚ましい
ものであった。
 昭和四十七年(一九七二)島根県・鳥取県の両県は全国でも有数の過疎地帯
で、経営的に一県複数民放局の開設が無理なための特例措置として、両県の民放
が、互いに中継局を設けて相互に放送できる体制をスタートさせた。島根県は島
根放送(現山陰中央テレビ)、鳥取県は日本海テレビと山陰放送であった。
 平成元年(一九八九)衛星放送が本格化。衛星にアンテナを向けさえすれば、
全国どこからでも映像送信ができ、従来五・六段階の中継地点が必要だった山岳
地帯や離島といった場所からの中継も可能になった。この時、テレビ史上初めて
NHKがCMを流した。
 現在は民放三局とNHK総合、教育、衛星放送などチャンネルの半分は埋まる
までに至った。

『現代用語の基礎知識』一九九四年版別冊付録

電力原稿


電力原稿
島に文化の灯が点る
わが国で最初に電灯がともったのは明治十一年(一八七八)といわれる。その五
年後の明治一六年に東京電灯会社が設立され電気の供給事業が開始され全国に普
及していった。島根県では明治二七年(一八九四)松江電灯、隠岐では明治四四
年九月(一九一一)に隠岐電灯(西郷)が開業している。
 島前で電気事業をはじめようと動き出したのは大正の半ばごろ。別府の安藤猪
太郎氏の発案によって、黒木村長中西松次郎・浦郷村長今崎半太郎・美田は竹田
才吉・安達和太郎各氏の協力を得て大正九年二月島前電気株式会社を設立した。
美田尻に火力発電所を建設、大正一〇年五月頃から送電を行ったといわれるが、
実際に事業が開始されたのは大正十一年十二月であった。しかし全島に電灯がと
もるまでは時を要し、三度は昭和四年、珍崎は昭和五年五月になってようやく送
電されている。電灯がついたといっても発電能力は二十キロである。だいたい十
燭光くらいの電灯が各家庭に一灯、夕方から十一時頃までしか送電されずランプ
やカンテラに依存しなければならなかったが、島民にとっては近代生活を体験す
る文明の灯であった。
 昭和十八年、島前電気は中国配電(のちに中国電力)に統合、発電所はそのま
ま中国配電黒木発電所として送電事業をが行われることになった。しかし、電力
施設が増強されるのは戦後になってからである。
 黒木発電所は昭和二十四年に八十キロ、昭和二十六年には百二十キロに増設
し、一家に一灯、一ラジオの時代が到来する。しかしまだ夜間だけの送電。時折
停電するなど不便な状況は続いた。
 待望の昼夜二十四時間送電が開始されるのは昭和三十二年七月。一般家庭では
定額電灯制度で電力使用が制限されてはいたが、早朝からラジオが聴けるように
なったことは喜びであった。この年は西ノ島町が発足した年であったが、新町発
足にふさわしい明るい話題であった。
 各家庭に使用料メーターが設置され、自由に使われるようになったのは昭和三
十九年からである。ようやく本土並になり、これを契機に家電製品急速に普及し
ていった。黒木発電所の現在の出力は七千キロワット。昭和五十八年には島前島
後間、昭和六十三年には海士・知夫間も海底ケーブルで結ばれ、隠岐島全体を結
ぶ送電網が整備されている。

のろし(狼煙・烽火)


のろし(狼煙・烽火)

情報通信の手段として方法としては、現在は書簡・狼煙・郵便・電信・電報・電
話・ラジオ・テレビ・ファックス・パソコン通信などがあるが、その中で現在消
えてしまったメディアは狼煙だけであろう。特に急場の通信手段としては明治の
電信を待たねばならなかった。しかし、天平の昔に緊急手段として、隠岐と出雲
間において狼煙を使用した形跡がある。『新修島根県史・通史篇』から、関係項
目を拾いだしてみると

天平六年(七三四)	隠岐国と出雲国の間に烽火を使用して通信せよ(出雲国計
会 帳)
天平六年(七三四)	烽火の期日を決めて、試しに烽火を実験せよ(出雲国計会
帳)
寛平六年(八九四)	延暦年間に内外が無事だったので停止されていた、烽火を
再び復活する事を要請して、認可される。(類聚三代格)
以上の記事がみえる。
いつから始まったかは、定かではないが、少なくとも、今から一二〇〇年前には
隠岐と出雲の間で、烽火(ノロシ・トブヒともいう)が用いられていたらしい。
通常の伝達は、行政の書簡で済ませていたが、賊が国境を侵す様な緊急の場合は
賊の数によって烽数を変えて通報していたらしい。昼は煙を上げ、夜は火を燃や
すような施設であった。
この時代の隠岐での急場とは、新羅・渤海人の侵入、漂着が考えられる。
桓武天皇の延暦十一年(七九二)には辺要の地以外の兵士を廃止し、「健児の
制」を定めた。その数は、
出雲国	百人
石見国	三十人
隠岐国	三十人
但馬国	五十人
因幡国	五十人
伯耆国	五十人
であって、出雲は山陰では最も多く、山陽の備中五十人や、長門五十人などより
多く、百人以上の国は近江・伊勢・美濃や北陸、東国のみであることと合わせて
注目される。そこで、出雲風土記では、
暑垣烽(意宇郡)
布自枳美烽(島根郡)
馬見烽(出雲郡)
多夫志烽(出雲郡)
土椋烽(神門郡)
に烽火が設置された事が明記されている。
この緊急事態を日本の流れの中で見てみると
七三四	隠岐国と出雲国の間に烽火を使用して通信せよ(出雲国計会帳)
七三四	烽火の期日を決めて、試しに烽火を実験せよ(出雲国計会帳)
七五九	新羅征討のため、北陸・山陰・山陽・南海諸道に、船五〇〇隻を造らす
七六二	新羅征討のため、伊勢大神宮以下の諸社に奉幣する
七九九	渤海使帰国
八一三	新羅人一一〇人、肥前小値賀島に来着し、島民と戦う
八三五	壱岐島に徭人三三〇人を置き、警護に当たらせる
八六六	山陰道諸国・太宰府に新羅来襲に備えさせる
八六九	新羅海賊、博多津の豊前国貢調船を掠奪する
八九〇	隠岐国、新羅人来着を報告
八九三	新羅の賊、肥前肥後国を襲う
八九四	新羅の賊、対馬を襲う
八九四	延暦年間に内外が無事だったので停止されていた烽火を再び復活する事
を要請して認可される。(類聚三代格)

以上のように、八世紀から十世紀にかけて、日本と新羅は二〇〇年にわたって戦
闘状態にあり、その脅威が狼煙を復活させたものと思われる。これに前後して隠
岐の諸神社が延喜式神明帳に列挙されてくる。現実的な防御法としては軍隊の増
員。それに加えて神の加護を目的として西ノ島では、比奈麻治比売神社(宇賀・
倉ノ谷)、真気命神社(物井)、海神社(別府)、大山神社(大津・市部)、由
良姫神社(浦郷)が列挙されている。
 時代は下がって狼煙の記述が見えるのは、巡遣使が隠岐に巡回の折りに、知夫
里島から焼火山へ、また焼火山から別府への連絡として狼煙が使用されたという
記述がみえる。
(註)
延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)
延喜年間(九〇一〜九二二)に編纂され九二七年に完成された法律書(延喜
式)。その内全国の神社が列挙されているのが『神名帳』である。ここに列挙さ
れている神社は、全国で三千三百三十二社。少なくとも千年以上前に上記の神社
が西ノ島には存在した事が証明できることになる。

電信原稿


電信原稿

 現在われわれが電信を使って遠隔地と情報交換するメディアとしては、電話・
無線・ファクシミリ・パソコン通信など多種多様にわたっている。その発達目覚
ましいものがあるが、これらの機器が島民の日常生活の中でさほど珍いものでな
くなったのは、むしろ戦後になってからである。普段の生活に欠くことの出来な
い電話でさえも、この島で一般家庭に普及してから三十年にも達してい。テレビ
の普及以上に急速に普及したようである。ことに隠岐のような離島の場合、島の
近代化に大きく貢献したことはいうまでもないが、その発達の過程を振り返って
みると、国、地方を問わず通信システムの充実に力を注いできたことをうかがう
ことが出来る。

電報
 明治政府は情報を重視して郵便制度よりも早く、明治二年(一八六九)に官営
で電信事業に着手することを閣議で決定し、官用通信を開始した。「通信」の始
まりは電報であった。翌年には東京・横浜間に公衆電報の取扱を開始。明治四年
には大北電信会社が長崎・上海間の海底線を完成させ、わが国最初の国際電報を
始めた。明治五年、政府は私設電信の禁止を閣議決定し、以後電信は政府専用事
業になり、電電公社まで引き継がれることになる。
 明治十一年には新橋・横浜間の各停車場で一般電報の取扱をはじめ、十八年に
は電報料金の国内均一制を実施し一〇字までを一〇銭、市内はその半額、壱岐・
対馬は別料金となった。
 一方島根県では明治十三年に松江電信分局より米子を経て鳥取まで電信線の架
設完了し、鳥取・米子電信分局も開始された。『新修島根県史』年表には「明治
十五年に内務省から県当局に山陰新聞発行停止命令が電報で到着した」とあるか
ら、当時本土の行政では電報も珍しいというほどの事もなかったかと思われる。
島根の県会では十八年に隠岐国本土間海底電線の国費架設建議を内務卿に提出し
たが、実現は明治三十一年まで待たねばならなかった。
 明治二〇年(一八八七)には郵便局に合わせて電信局にも等級がしかれ、全国
に東京・大阪・京都・横浜・長崎・函館・新潟など八局の一等通信局が設けられ
た。これは明治二六年には一等郵便局と合併し一等郵便通信局と改称されること
になる。
 明治四〇年(一九〇七)、別府郵便局では電信取扱開始、四三年には美田郵便
局もこれに次ぎ、これによって西ノ島での電報は全員が利用できるようになっ
た。昭和に入ると十一年(一九三六)には慶弔電報も開始された。この頃から電
話と電報は併用され、電話で電文を伝える形式が普通になったので、文字を間違
えない様にアイウエオや数字を音読する書式があった。
電文の音読表(表挿入)
昭和三九年(一九六四)、美田の電報配達業務は浦郷に統合された。
平成二年(一九九〇)、浦郷局の電報配達業務廃止され、民間に委託することに
なる。
現在、電報のほとんどは慶弔電報であり、日常の情報は電話によって伝えられて
いる。

電話原稿


電話原稿
 明治二十三年(一八九〇)政府は「電話交換規則を制定し、電話線と電話機の
設置」維持費は逓信省負担、加入者は使用料と電話料金を納付することにして電
話事業を創業した。そして東京横浜間に電話交換業務開始した。当時の東京市内
の電話機使用料は年額四十円であったという。
 明治三十一年、八束郡千酌(ちくみ)村から海士村の太井を経て西郷へ海底電
線が敷設された。知夫線は崎村から来居へ、西島線は同じく海士村木戸より黒木
村大山の礫(つぶて)へと開通した。
 この年は呉鎮守府所属海軍望楼台が西郷に設置されたり、乃木将軍が島内を視
察に来たり、隠岐が軍事的に重要な位置を占めることを暗示している。翌々年に
は浦郷郵便局が松江西郷電信回線に接続局として音響通信が開始される。思い起
こせば千年前も、国境に危機が感じられる時に隠岐と出雲の間でノロシが設置さ
れた。日露戦争も日本海を舞台として展開されたことといい、通信環境の整備と
は決して無関係ではかったようである。
 日露戦争が始まった明治三七年(一九〇四)には、全国の電話加入数が三万五
千を越えた。三八年、日本海海戦に先だっていち早くバルチック艦隊を発見、哨
艦「信濃丸」が無電で報告してたことは有名である。クロギヅタは、この時にバ
ルチック艦隊が紅海を通過した時に付着した胞子が元だというもっともらしい説
も生まれた。
 大正六年(一九一七)四月一日、西ノ島初の公衆電話が浦郷・別府郵便局同時
に、また美田局は三年遅く大正九年に設置され、これによってようやく地元で電
話が使用されることになった。
 昭和元年(一九二六)わが国初の自動交換式電話を東京の京橋電話局で使用さ
れた。この年は青森・函館間の電話開通により本州・北海道間の電話連絡が可能
になった年でもある。
 昭和九年(一九三四)日本最初の外地通話として東京・台北間に無線電話が開
通し、翌年には東京・ロンドン・ベルリン間にも通話は拡張された。
 西ノ島で郵便局以外で電話を所有できた年、電話元年は昭和十二年であった。
十月十五日、浦郷局では市内公衆電話ができ、当時の加入者数は八人と数えられ
ている。翌年十一月二十四日には別府局にも設置された。
 戦後になると電気通信省は廃止され、昭和二十七年八月一日に日本電信電話公
社が設立され、翌年にはお馴染みの赤電話が東京に設置された。この年は船舶電
話も開始。昭和三十年(一九五五)に入ると電話による天気予報と時報サービス
がはじまり、翌三十一年に初めて東京都心から近郊都市にのダイヤル即時通話が
開始された。次の年には近鉄の特急に公衆電話設置。
 昭和三十四年(一九五九)西ノ島の電話加入者は浦郷局九二・別府局五六合計
一四八。翌年には町議において浦郷局に別府局を統合する事を可決し、三十七年
に実施された。統合化によって別府と浦郷は同市内となり、旧来、別府一番とい
う言い方から浦郷五百番代に番号が変わり、市外料金を払わなくてもよくなった
のである。
 当時の料金体系は市内なら基本料金だけでよく、市外のみ基本料金以外に市外
料金を支払わなければならなかった。その市外通話も回線数が少ないので二時間
三時間待たされることはざらであった。浦郷局では市外線が四本(松江線・西郷
線・菱浦線・知夫線)しかなく、順番待ちになるのはいたしかたなかった。そこ
で急ぐ場合は「急報」「特急」という言い方で順番を優先させてもらい、それだ
けに通話料金も割高となったのである。
 さて、電話局が統合されたといっても、別府局が電話交換業務をやめたわけで
はない。別府局の電話業務は浦郷局と同じく、昭和四十五年の統合まで浦郷局と
して引き続けられた。また、局の統合がすぐさま個人に電話を普及したというわ
けでもなく、また、それを許さない事情があった。浦郷局には交換機が三台あ
り、一台に対して六十回線使用できたので、全回線を使用したとしても最大限百
八十回線である。そこで公共団体・商業・サービス業・通信運輸業・漁業など素
早い情報が重視される業種に限って使用権を許可した。
 では、個人が電話を使用する場合にはどの様にしたのだろうか。先ず、各郵便
局には公衆電話が設置されており、郵便局に近い地区はそれを利用した。郵便局
のない地区は「集落電話」と称して各集落で公衆電話を使用したのである。逆に
外から電話がかかった場合、区の有線放送で電話呼び出しの放送をしたり、呼び
にいったり、その辺の事情は各集落によって多少異なった。この様な公共性のあ
る「集落電話」の基本料金は、役場が納めていた。
 現在では民具室でしか見られない電話機は四角いロボットの顔の様な形をして
いた。両目玉は呼び鈴、口は送話器、右耳は受話器、左耳は局を呼び出すダイヤ
ル(ダイヤルといっても番号があるわけではなく、ハンドルをグルグルと回すだ
けのもの)であった。この電話機は三尺四方の小部屋に設置してあり、そこに
入って左手で受話器を耳に当て、右手でダイヤルをグルグルと回し、局がでると
「浦郷○○番お願いします」(もしくは「役場お願いします」と言っても通用し
た)とロボットの口に向かって大声で叫ぶ様に話す。厳密な意味でプライベート
な会話が守れない様な電話風景は昭和四十年近くまで続いた。
 昭和四十年(一九六五)東京都区内と道府県県庁所在地間がダイヤル即時にな
り、四三年にはプッシュホンとポケットベルが登場した。
 昭和四五年(一九七〇)二月一五日、島前の電話局はすべて電電公社海士営業
所に統合され、郵便局と電話事業の関係はこれで幕を閉じることとなった。統合
と共に電話もダイヤル化され、電話をとりつけたい希望者は自由に取付られた。
この年、島前の電話普及台数は一気に千百二十台に増大し、五十二年には三千台
を越えてほぼ一〇〇%の普及率となった。
 一方、全国的には自動ダイヤル化が、この島とほぼ同時期に行われたわけでは
なく、完遂されたのは昭和五四年三月一四日であった。
 昭和六一年(一九八六)電信電話公社は民営化されNTTとなり、その後、第
二電電も登場して、電信産業は一気に開花した。
 現在は電話機も軽量化・デザイン化され単純に会話するだけでなく留守番録
音、番号短縮、割り込み機能など多機能なものに変化している。また、コードレ
スホンと呼ばれる短距離無線電話も開発され家から一〇〇メートル以内なら持ち
運びさえ可能となった。本格的な携帯電話は、船舶電話・自動車電話など無線で
どこへでもかけられるものも登場し、都市部では普及している。

 電話回線を使用したメディア
ファクシミリ
昭和四八年(一九七八)電電公社は公衆電話回線を一般に開放することによっ
て、画像を送受信する機器であるファクシミリが最も普及した。電話が耳を通し
た音通信とするなら、ファクシミリは目を通した画像通信である。一般的には画
像というよりも文書などの文字を転送している場合が多い。これは郵送に比べて
簡単で安くて、速いという長所がある。しかし、発売当時は機器自体が高価で、
とても一般には買えないコストであったが、十年もたつと隠岐島にも入ってくる
ほど安価な家電製品となった。昭和六二年には隠岐の価格で二十万円だったの
が、現在では五・六万でも買えるほどになった。ワープロの普及と連動して事務
所には欠かせないオフィス機器である。
 キャプテン
 文字図形情報ネットワークの商品名で、電話網を利用して情報検索・計算処
理・郵便貯金口座の電信振替などのサービスをモニタ(テレビ)に映し出すシス
テムである。テレビモニタと電話回線をつなぐ同様の機器にファミコン通信とい
うのもあり、それによって手軽に株・競馬などの情報が得られる。
パソコン通信
 電話通信網を使用するメディアとしてはパソコン通信(ワープロでも可能)も
あげられる。右のキャプテンと異なる処は、両方向通信であること、ここからは
松江につながりさえすれば世界につながるのと同様にネットワークに連結される
ことである。メニューには次の様なものがある。
一、メール交換=情報を手紙の様に送ったり受けたりする機能
二、シグ(フォーラム)=同好の趣味や同種の仕事などの人達が集まって作る、
情報交換の掲示板
三、PDS=個人がボランティアで無料や少額で配布するソフト
四、チャット=通信内でリアルタイムに文字会話(筆談)できる機能
五、データベース=知りたい情報を、有料で調べる事が可能な情報ボックス
六、通信販売=パソコン通信での通信販売
七、掲示板=天気予報・観光ガイド・スポーツ情報などの便利掲示板
八、ゲタウェイ=他の通信ネットに接続する機能
 右記の様なメニューで、通信メディアとしては非常に汎用性に富むが、ただ、
使い勝手が電話やファクシミリほど手軽ではないので、日本のユーザは現在百万
人程度。西ノ島では現在七、八人のマニアがこれを使用しているに過ぎない。

参考文献
『日本史分類年表』
『黒木村誌』
『新修島根県史』
『新町建設計画基礎調査』
『隠岐島誌』
『郵便創業一二〇年の歴史』
『離島振興三十年史』

西ノ島の寺院(松浦康麿)


西ノ島の寺院(松浦康麿)
 島内各村々に存在していたことは明らかであるが資料として見られるのは近世
以降である。江戸時代には島民信仰の場として、また、宗門帳を預かるなど幕藩
行政の一端を担っていたが、明治元年の排仏によってほとんどの寺院は打ち壊し
に遭い消滅してしまった。明治十年以降になってようやく再興の道を歩むことに
なったが、その道程は険しかったといわれる。
 西ノ島の場合、排仏の影響は比較的少なかったといわれるが、それでも別府、
地福寺のように焼棄された寺もある。そのような経緯の中で、足跡の全容を明ら
かにすることは難しいが現存する資料を基にその概要を述べて見ることにした
い。
 『隠州視聴合紀』寛文七年(一六六七)によると、「国中寺院」知夫郡として
左の寺院があげられている(所在地は筆者註)
真言	性徳寺
真言	長福寺	(美田)
浄土	専念寺	(浦郷)
真言	足利寺	(別府)
真言	飯田寺	(別府)
真言	香鴨寺	(物井・知当?)
また本文、浦郷の中に城福寺(真言)がある。右の内「性徳寺」は知夫村の中に
も見えないし所在地も不明である。当時西ノ島内には七ヶ寺があった。ところが
『増補隠州記』貞享五年(一六八八)になると次のとおり

城福寺	真言	浦郷(本郷)
有光寺	真言	浦郷(本郷)
専念寺	浄土	浦郷(本郷)
長福寺	真言	美田(小向)
円蔵寺	真言	美田(市部)
小山寺	真言	美田(大津)
道場寺	真言(時宗か?)	美田(大津)
飯田寺	浄土	別府
千福寺	真言	別府
願成寺	真言	宇賀(物井)
観音寺	浄土	宇賀(宇賀)
(所在地は旧村名( )内は区名)
わずか二十年ほどの間に性徳寺・香鴨寺・足利寺の三ヶ寺はなくなり、七ヶ寺が
多くなったことになる。殊に飯田寺には大破と註されており、宗旨も浄土とか
わっている。
 さて、煩瑣のきらいはあるが現在に最も近い「隠岐古記集 文政六年(一八二
三)」によると
城福寺・有光寺・専念寺(以上浦郷)
長福寺・円蔵寺・小山寺・道場寺(以上美田)
飯田寺・千福寺(以上別府)
香鴨寺・願成寺・観音寺(以上宇賀)
となって(内飯田寺・香鴨寺は大破とあり)貞享からすると百五十年を経ている
が、ほとんど変わっていない。前記の「隠州記」には記載がないが、この外に大
津には龍沢寺・薬師寺。別府には飯田寺に替わって地福寺(浄土)ができてお
り、又、大山には海前寺(現在行者堂という)があった。これらにはいずれも住
職(または堂守)がいたものである。又、美田地区の「堂」には、船越堂は万福
寺、小向堂は正楽寺、市部堂は成仏寺、波止堂は地福寺と寺名はついているがい
づれも堂守がいないので寺とは認めなかったようである。(この寺名も明治以前
から付けられていた。波止堂にある「双盤」に天明三年地福寺という銘が入って
いる。)
 以上が西ノ島にあった寺院である。また、その集落に寺院の有無にかかわらず
「堂」が必ずあり、各種の仏様が祀られている。波止堂の例を挙げると、本尊は
観音菩薩であるが、地蔵尊・弘法大師像・釈迦如来・賓頭廬尊者(俗に撫仏)と
色々である。(釈迦ビンズルは元焼火山雲上寺のもの)この堂は普段は老人の憩
いの場にしたり、十夜法要にはお寺から住職が出向いてお勤めや説教をしたり、
お寺の出張所の役割をする。また葬儀の折にはここで葬列の持ち物を作ったり、
区には無くてはならない存在である。
 ところが、明治元年に「神仏判然令」が達示された。これは寺院を廃止せよと
いうものではなく、神仏混淆の寺院、神社(焼火権現は、焼火神を祀ると共に本
地仏として地蔵・薬師尊等を合わせまつり、ここに奉仕する者を社僧といった)
に対して神社、寺院のいずれかに決めよ、というものであるが、これを隠岐では
廃仏(排仏)と解して、明治十年以降に再興をみるまで隠岐の寺院は全部消滅し
たのである。これに関しては、『隠岐寺院史・前編』に詳しいので、ここでは触
れないでおく。

長福寺 山号高田山 美田・大津
本尊 大日如来(胎蔵界)(本尊は現在、大日如来となっているが、由緒にいう
「千手」も祀られている)
脇士 聖観音菩薩・勢至菩薩
宗派 真言宗東寺派
本寺 教王護国寺(東寺)末
由緒・沿革
(一)人皇三十代欽明天皇御宇壬甲三月、高田山長福寺新造立(略)「寺院明細
帳」
(二)往昔行基、当峯ヲ霊場ナリト見テ篭リ給フニ、生身ノ観音示現シテ、是ヨ
リ北ニ当リ浦アリ。其ニ竜宮ヨリ来リシ嘉樹アリ。之ヲ以テ我カ像ヲ刻ンデ仏閣
ヲ建テ安置セヨ(中略)行基彼ノ浦ニ至リ見レバ流木アリ。之ヲ執リテ、千手・
十一面ノ二仏ヲ刻ンデ千手ヲ当寺ノ本尊トシ十一面ハ別府飯田寺ニ安置。尚此ノ
流木ノ残部ヲ以テ或ル修行者枕トシテ出雲枕木ニ至リケルニ、枕木ノ観音ノ御膝
ニ穴アリ、修行者ノ枕ヲ合セタレバ符号セル由
「美田村来歴」を引いて由緒としているが、行基が隠岐に渡った証はなく、また
行基建立と伝える寺院は畿内に四九ヶ寺程あるが行基作の仏像は一体もない(最
近、奈良大教授井上正氏によって「霊木化現代への道」として行基作仏の研究を
発表しておられる)これは古さをいう為のこじつけであろう。
ところが「出雲枕木山縁起書」万治二年(一六五九)に「当山草創ハ智元上人ナ
リ。初メ美田ノ源太ト号ス。王氏ヨリ遠カラズ。曽テ故有ツテ隠岐国ニ放逐セラ
レ云々(略)枕木山ニ安置ノ三尊ノ内薬師仏ノ左膝ガ折レテ安定シナイノデ源太
ガ童児ノ時カラ老ニ至ルマデ肌身離サズ持ツテイタ枕ヲ当テテオイタ処、コノ枕
化シテ膝トナル」(原書は漢文体)それより枕木山と称するようになったとあ
る。前記美田村来歴では「行基」となっているが、美田源太こと、智元上人と関
係があるのでないか。時代は明らかでないが、智元上人が長福寺草創と関係があ
るかも知れない。枕木山は天台宗の寺院(今は禅宗寺院)であったことからする
と長福寺も草創時は天台寺院であったかも知れない。
復興
明治二年廃寺となっていたが、明治十二年に再興された。隠岐国で真言宗寺院が
一番早く復興をみたのは天野快道(大山産)大野明演(海士宇受賀産)の両師
(いづれも真言宗の僧侶)いち早く帰郷、御尽力された事による。そして復興初
代の住職は大野師である。
本寺は元小向ヌクイ(高田山麓)に在ったが、寺地も現在の大津の元小山寺の
あった処に移転建立した。旧本堂(現在海士、保々見清水寺本堂)は方形造で島
前の寺院にはこの様式の寺は一寺もない。詳細は不明であるが、廃寺の折り、こ
ぼして保管していたものを再建したのではなかろうか。旧本堂は合天井で法輪紋
が画かれており(十方拝礼の祭笠の絵と同じ)須弥檀等も古いものの様であるの
で、明治の再建の折り、新築したものとは思われない。現在の本堂は昭和三十一
年に新築された。

常福寺 山号大原山 浦郷
本尊 阿弥陀如来
脇士 不動明王・毘沙門天
宗派 真言宗東寺派
本寺 教王護国寺(東寺)末
由緒・沿革
大原山常福寺・真言宗・寺領二斗五升
当寺は人皇五十二代嵯峨天皇御宇、弘法大師、諸国修行の時、当国へ御渡海あり
ければ、この寺を建て給うとかや。其の後長門守修復を加ふるといふ「隠岐国往
古旧記」を引用して由緒としているが、弘法大師渡海の証もなく、古さをいう為
のこじつけであろう。ただし、日吉社(旧山王権現)に奉納されている「大般若
経巻六百」の奥書に正応二年(一二八九)九月供養了。願主沙弥西蓮
奉込隠岐国美多庄浦方山王御宝前

応永十三年(一四八六)五月 権律師
奉込隠岐国美多庄浦方山王御宝前
栄吽
との資料がある。日吉社の祭礼には同社建立の当初より「庭ノ舞」の奉納と共に
「大般若経」の転読が行われており、これはおそらく常福寺住僧の奉仕したもの
であろう。さすれば正応年中には常福寺のあった事がわかる。「隠州視聴合紀」
にも「山の半に城福寺(この時代には常福寺でない)というふあり」とあるよう
に人家より八丁あまり登った勇義山の中腹の眺望のよい地にあった。大体真言宗
寺院は古いほど山腹にあるのが多い。
海士の「安国寺」知夫「松養寺」などもその例である。
復興
明治二年に廃寺となっていたが同十二年に再興の許可を受けた。ただし無住で住
職は長福寺の大野明演師が兼務していた。
「同歳(十二年)六月許可相成候得共、十二年間有名無実、同二十四年七月中院
工事落成、古来の過去簿記も不分明により二十六年の今日を以て新調。
明治二十六年巳年七月中院
真言宗大原山中興開山河村大忍
と寺記にあるので、明治二十年代に西村師が入山されて本格的な復興と教化に努
められた。
現在常福寺奥ノ院と称している処に小堂(一間半・二間)があったというからこ
れは西村師の復興されたものであろう。
 次いで、大塚欽龍師が入山、同師の手によって明治三十八年、現在の地に新築
をみた。(昭和四十七年現住口村慈光師によって再建築)この大塚師は大正九年
に入寂されたが、随分事績を残した人らしく、前長福寺住職照海明龍師(油井
姓)の書信に「常福寺住職大塚欽龍上人の如きも、誠に僧侶らしい人であったと
人がいいました。彼の浦郷で八十八カ所を設け、それより船越以下七ヶ里人間感
じて三十三カ所(註 八十八カ所の間違いか?)の霊場を設け、次いて別府、物
井の者ども八十八カ所をこしらへ、海士北分、崎に至るまで設けられる様になり
しは、皆欽龍上人一人の力でありました云々」。明治四十四年には授戒を行い、
これに要した仏具を備え、八祖大師掛絵、両界曼陀羅なども今に残されている。
口村慈光師入山後、常福寺旧寺を奥ノ院と称して段々と整備し、昭和三十五年に
は西ノ島町役場の旧建物を購入して(五間・六間)一層の整備をみた。また山内
に経蔵を設け、旧山王社に奉納された大般若経を収納保存された。この奥ノ院に
は本尊銅像阿弥陀如来座像(高二〇センチ)・銅像菩薩形座像(三四センチ)の
二体の朝鮮仏(李朝時代)も祀られている。沿革とは関係ないが付記しておく。

専念寺 山号平野山 浦郷
本尊 阿弥陀如来
脇士 勢至菩薩・観世音菩薩
宗派 浄土宗
本寺 知恩院 末
由緒・沿革
 本寺は往古橋村にありしという。開山狭蓮社善誉上人哲道大和尚、人皇後陽成
天皇御宇慶長十一年(一六〇六)の頃という。人皇東山天皇(一六八七ー一七〇
九)の御宇浦郷村蛸崎に移転(寺院明細帳)とあるが、「浄土宗大年表」には
「正親町天皇天正七年(一五七九)四月、隠岐に専念寺を起立す」とあるように
開山の年は天正七年である。「慶長十一年開山哲道上人寂す壽七十八」と同年表
にある。
 また橋村より移転の年時は東山天皇の御代(一六八六ー一七〇九)とあるが、
隠州視聴合紀の浦郷村の項に「里の左岸に臨み松老いて風興ある処専念寺あり」
とあるところからすると、哲道上人の最晩年に寺地を移転。寺院も整備したので
はないか。(註 本寺往古橋村にとあるが、これは今の波止でなく、今焼却炉の
設けられている処に五輪塔群があり地名もネイジ(尼寺か?)というから、ある
いは専念寺の寺跡かも知れない)
復興
 明治十三年二月隠岐島浄土宗寺院の復興の為に本山よりの命を受けて沖永恵隆
師が渡島。次いで醍醐須忍師が十月渡島。この仁は主として島前の浄土宗寺院の
復興にあたられたようである。醍醐師は浦郷に留まり本寺の住職となって、先ず
仮説教所を設置。村民の協力を得て堂宇を建設。明治二十一年九月に再興の許可
を受けた。これについては『浦郷町史』『隠岐寺院史』に詳述されているので略
記するに留めた。寺号については平野山一心院と称したこともあるようである。

所讃寺 (山号なし) 別府
本尊 阿弥陀如来
宗派 浄土宗
本寺 知恩院 末
別府には元、飯田寺(浄土宗)の寺院があったが、「隠岐古記集」等に近年大破
と記されている。この寺跡に「地福寺」という寺があったが、明治初年に廃寺と
なった。真言宗長福寺・常福寺等は再興の時に旧寺号に復したが、本寺の場合、
どうした訳か再興に当たり、出雲大社の境内地にあったという寺院が住僧の愚に
より廃寺同様になっていたのを本尊共に移転して再興された。ただしこれは本尊
のみをお迎えし、建物は新築したと思われる。檀徒としては寺号などは問題でな
く、古くからあった寺院を復興したと思っていたであろう。その後、別府安藤家
が主となって寺院も整備されていたが、昭和二十八年に本堂床下よりの出火に
よって、本尊等すべてが焼却した。そこで早速仮堂を設けて、その年の十夜法要
を営み、仏前において再建を誓ったがなかなか再建が進まぬまま十年が過ぎた。
もはやこれ以上の引き延ばしも許されぬので檀信徒一致協力して再建を見たのは
昭和四十年の十月であった。この時本尊並びに脇士の三尊は京都の仏師松久氏の
謹製になるものをお迎えして現在にいたっている。

福万寺 (山号なし) 赤之江
本尊 阿弥陀如来
宗派 浄土真宗本願寺派
本寺 西本願寺 末
由緒・沿革
往古は赤尾山福満寺といって、赤尾山寺床にあった由であるが、元禄七年(一六
九四)の赤之江堂との関係は確証を得ない。再興福満寺の棟札は安永四年(一七
七五)のものが寺に保存されており、享保元年(一七一六)再建の棟札も荒尾井
の堂に残っているが、寺床にあったという福満寺は廃仏前既になくなっていて赤
之江の堂に変わっていたようである。同寺は浄土宗の寺院であった。
復興
廃寺後、西本願寺の開教師香川黙識等の布教によって真宗本願寺派の寺院に変
わって復活した。それは赤之江の海辺に堂といわれて残っていたが、現在は廃仏
前の堂屋敷に寺を新築し、昭和二十二年住職神原師により寺号復活の許可をうけ
た。

誓願寺 (山号なし) 物井
本尊 阿弥陀如来
宗派 浄土真宗本願寺派
本寺 西本願寺 末
由緒・沿革
「増補隠州記」貞享五年(一六八八)、「隠岐古記集」文政六年(一八二二)の
いづれにも「願成寺 真言」とあり、これが明治初年の廃仏までこの地にあった
寺であった。これについては詳かにしない。明治十年代になってから島前の寺院
も復興することになったが恐らく物井の人々にとっては、この寺の再興のつもり
であったろう。
 真言宗の寺院の復興に明治十三年に、当時真言宗の僧侶であった天野快道師
(大山産)・大野明演師(海士・宇受賀産)がいち早く帰島されて再興につとめ
られたが、何故か本寺の再興には関わっていない。
 幕末まであった島前の寺院は前記の「隠岐古記集」によると
知夫村四ヶ寺 西ノ島町十一ヶ寺 海士町二十ヶ寺 計三十五ヶ寺であるが、そ
の中に真言宗寺院は二十三ヶ寺もある。
 当然、天野・大野の両氏も知っているはずであるが、この総てが再興したわけ
でもなく、又再興時に宗派の変わった寺院もできた。
復興
『隠岐寺院史』には「明治十年西本願寺開教師、香川黙識師、管龍貫師の開教に
よって開山の基礎を得たものと思われるのであって本尊阿弥陀如来は廃仏前海士
村菱浦にあった同宗本願寺より迎えたものと言う」とあるが、隠岐には「西本願
寺」の寺院は一寺もないが、各宗共競って本山の僧侶が渡島するので西本願寺も
この機をのがさじと渡島したものと思われる。
 思うに香川・管の両師は初め島後に渡り、次いで島前に来てまだ再興のなって
いない物井の願成寺に目をつけ、ここにあった庫裏の建物に本拠をおいて「出張
所」として再興につとめたのでないだろうか(この出張所は本山の直営として名
義も大谷光尊上人であった由)。年次を追って物井の信者もその気になって、当
時、区の資産家の真野家が転退し、土地家屋の売却の話があったので区の有志等
相談の上これを購入した。前記の菱浦の廃寺清楽寺(菱浦には本願寺という寺は
ないが、本尊は浄土でも真宗でも同じ)の本尊阿弥陀如来を迎えて寺の型をとと
のえたものであろう。以下「隠岐寺院史」にその後のことも記されているが、手
元に資料もないので確認もできず略す。いづれの宗旨であろうがあまりこだわら
ないのが日本人の仏教に対する考え方が普通であるから、早く再興しないと死者
などが出た時など葬儀もできないので、信徒には切実な問題である。物井の寺は
願成寺(真言)であったが、復興に関わったのが浄土真宗の僧侶であったので復
興時の宗派は浄土真宗となった。戦後法人手続きをして昭和二十九年三月誓願寺
の寺号も許可された。願成寺でよいわけだがそれでは宗派と異なるので新たに寺
号をつけたものであろう。現寺院は昭和二十九年に新建立した。

地福寺 山号月照山 三度
本尊 阿弥陀如来
宗派 浄土宗
本寺 知恩院 末
由緒・沿革
隠州島前三十三巡礼札所 元禄七年(一六九四)の中に三度村堂とあるが、天保
御年貢帳によると廃仏前までは「地福寺」と唱えていたようである。ここには、
阿弥陀仏外二体の仏像(未見)も祀られているが、元は七体あるいは十一体あっ
たともいい、平家の残党が持ってきたものという伝えもある。間瀬、万田両家が
その後裔とも言われている。
復興
廃仏の時も三度までは、その手が入らなかったらしく、旧のまま存続していた。
昭和二十三年四月区民協議の上、時の住職宮本猛雄師によって宗教法人法の手続
きをし、寺院としての許可を得た。この時「月照山、地福寺」の寺号も公認され
た。

福王寺	珍崎
本尊	阿弥陀如来
脇士	観音菩薩
	勢至菩薩
宗派	浄土宗(本寺なし)
由緒・沿革
 島前三十三カ所巡礼札所(元禄七年(一六九四))の中に「珍崎堂」とあり。
またここに保管されている双盤の銘に「享保二十乙卯四月吉日(一七三五)、珍
崎村福王寺什物、施主平兵衛」とある事からすると、この時代既に「福王寺」と
称していたようである。
 このように寺号はあるが、無住のいわゆる堂は美田地区の堂も同じである。寺
号があっても「寺」と認められていないのである。ところが明治初年の「廃仏」
の時、区の有志によって仏体は隠されて難を逃れていた。明治五年の学制が布か
れてから、この建物は学校として使用されていた。明治三十四年にいたり、「宮
の前」に新しく学校が建築されたので学校との同居は終わった。
 大正五年に堂が新築されたが、年を経て老朽化もはなはだしく、平成元年に再
び解体新築され現在に至っている。ただし寺号もありながら寺院としての手続き
はしておらず、今もなおなされていない。これは他の区も同じである。以上真野
享男氏の調査によって記述した。
参考文献
「隠州視聴合紀」
『隠岐寺院史』
「隠岐国寺院明細書」
「増補隠州記」
「隠岐古記集」
「美田村来歴」

西ノ島の神社(松浦康麿)

西ノ島の神社(松浦康麿)西ノ島の神社(松浦康麿)

古代より祀られていた神々

 いわゆる古墳時代(三〇〇〜五〇〇)には、現在の集落がほどんど出来ていた
といわれているが、西ノ島の場合でも大体そう考えてよいかろう。神社の原初は
社殿はなく、祭をする場所が決まっていて、そこに神をお迎えする仮屋を祭の度
毎に設けたのが後に恒常の建物としたのが神社であった。当町の場合、平成二年
に発掘した「兵庫遺跡」から祭祀に使われた土器が数多く出土しており、古墳時
代に祭りが行われていたという事はわかるが、それに最も近い「大山神社」との
関係は明らかでない。
 大化の改新後、神事優先を国家的理念として揚げ、律令神祇制度が確立し、
「大宝律令」の施行によって全国的規模に拡大する。平安前期に登録された官社
の数は「延喜式」によると二八六一社(祭神数三千百三十二座)であるが隠岐で
は十五社(十六座)があげられている。そのうち西ノ島にある神社 由良比女神
社・大山神社・海神社(二座)・真気命神社・比奈麻治姫命神社の五社である。
 これらの神社に対しては国よりの幣帛が献られているが、この中で由良比女神
社は、官幣の大社で他の神社は国幣の小社となっている。
 さて、資料に見える神社は、前記の通りであるが、この時代に西ノ島には神社
は五社のみであったとは考えにくい。出雲国の例からすると「出雲国風土記」に
神社三百九十九所。内百八十四所(神祇官に在す)二百十五所(神祇官に在さ
ず)とある。少なくとも式内社の倍以上の神社が存していた事からしても、西ノ
島の場合も少なくとも十社くらいは存在していたのでないかと思われる。また延
喜式には所載されていなくとも古い社はある。「焼火神社」の場合は平安末期の
『栄華物語』に「たくひ神」とあり、既に都に知られていたのである。

中世期に祀られていた神社

 島後の玉若酢神社に「隠岐国神名帳」という資料がある。これは玉若酢神社の
祭礼に総社として隠岐国内の神々を勧請する祝詞の中で申し上げたものである
が、これを一本にまとめて「国内神名帳」として隠岐国の神社百十六社が記され
ている。この資料成立年代は詳かにしないが、記載内容からして中世期のものと
考えられる。その中に西ノ島には
千波郡 十神
 従一位 天佐自彦大明神(知夫村ニアリ)
○従三位上 海原明神
○従三位上 真気明神
 従四位上 安宕彦明神(知夫村ニアリ)
 従四位上 国彦明神
○従三位 柴木彦明神(美田村小向ニアリ)
 従四位上 奈取彦明神
 従四位上 云海彦明神(知夫村ニアリ)
 従四位上 都玉貴明神
○従四位上 和太酒明神(知夫村ニアリ)
美田院  九神(異本には千波郡の中に入れる)
○従一位 比奈麻治姫大明神
○従三位 大山大明神
○従三位上 由良比売大明神
 従四位上 呼乗彦明神
○従五位上 伊勢明神
○従四位上 水祖明神
 従四位上 熊岐姫明神
 従四位上 豊加姫明神
 正(従)四位上 奈酒彦明神
( )は筆者註
 の十九神があるが、○印のものは現在わかっている神々(消滅したものもあ
る)であるが、○印のないものは詳にしない。
 由良比女神社の場合、「延喜式」によると「名神大社」であるがこの神名帳で
は比奈麻治姫神社の方が「従一位」と筆頭にあげられている。従三位上海原明神
は、海神社と推定してみた。従四位上和太酒明神は、知夫村の渡津神社があり、
大山の渡利神社のいづれかであると思われる。
 この期になると、浦郷の日吉神社(山王権現)美田八幡宮等も資料があり、少
なくとも中世期には存在している事は、はっきりしているが、この神名帳には、
熊野権現、八幡宮等に神仏習合色のある神社はどういうわけか挙げられていな
い。

 近世期に祀られている神社

 この頃になると資料も多くなるが全体が記載されているものでは、「島前村々
神名記」(元禄十六年)があるのでこれをあげるが、この時代になって初めて各
神社に祀られている神々の御名が明らかになる。
知夫里郡之内
浦之郷村
由良姫大明神	式内案上	須勢利姫尊 隠岐一宮
山王大権現	大山咋命
大原大明神	天兒屋根命(春日同体)
住吉大明神	底筒男・中筒男・表筒男命
石神明神	伊和佐久命・根佐久命
蓬来亀神社	豊玉姫 (神代ニイヅル)
平野少宮	仁徳天皇 大鷦鷯命
乙訓明神	大山咋命 松尾同体
森大明神	天鈿女命
青根明神	青加志伎根命
待場明神	猿田彦大神
比志利権現	事代主命
辧財天神社二所	豊玉姫命
知屋御前
宇祢美大明神

美田院
大山大明神	式内案下	大山祇命
正八幡大神宮	御相伝秘法	應神天皇 誉田皇命
高田大明神	素戔嗚尊・伊弉諾尊 相殿ニ座ス
三保明神	美穂津姫命
弁財天	玉依姫命
荒神所々(波止・市部)	素戔嗚尊 眷属
焼火山大権現宮	手力雄命左陽 天照大日霊貴 離火社神霊是ナリ 萬幡姫命右
陰 三座同殿 伊勢大神宮同体ナリ
末社
辧財天社	豊玉姫命
五郎王子	素戔嗚尊ノ五男王子
御前	事代主命
山神	大山祇命
随神	御門神左右	豊石窓命・奇石窓命
金重郎神	宮アリ
最勝神	同(註大杉ニ座ストモアリ)
荒神	同
道祖神	同
水神
疱瘡守護神	宮アリ
船玉神

別府村
六社大明神	式内案下	海神二座 (志賀三社一座 住吉三社一座)
伊勢内宮太神	日神
山神社	大山祇命(耳浦)
稲荷明神	倉稲魂命
荒神社
黒木社	九十五代後醍醐天皇尊治皇命

宇賀村
須気尾大明神	式内案下	真気命(真鶴雄也)・稲田姫命・大巳貴命 三座
 末社
	熊野社	伊弉諾尊
	愛宕神社	火産霊神
	八面荒神社	家伝記 素戔嗚尊眷属

済大明神	式内案下	比奈麻治比女命・活玉依姫命ノ別号
星加美嶋明神	鹿賀瀬雄命
渡須神社	龍神 和多積命
日御前	日神鏡 天照ト不可云
弁才天社	豊玉姫命
天満天神社	菅丞相 菅原朝臣道真
御崎	二社	事代主命・八束水臣津命

 以上見られるごとく、村氏神の社も、祠に祀られている神と同列に記載されて
いるが、祭神名が明らかになっている。これは元からの姿でなく、この期に吉田
神道が全国の神社の神主に免許証を出したり、又神社調査を行ったりしているの
で、この時に、当時この社の神主、宮守等が古事記・日本書紀等に出ている神名
を付会して付けたものがその大半であると考えられる。
 その一例をあげると焼火大権現は「焼火ノ神」でよいのであるが、これは古典
にない神名であるので「ヒ」のつく神で神格の高い天照大神の別号である「大日
霊貴」に付会してある。又、由良比女神社の場合も延喜式には「由良比女神」
「元名和多須神」とあるのにこれも古典にない神名であるので、大国主命の御后
である「須勢理姫命」と付会している。。

縁起について
 中世以降、殊に近世に入ってから「縁起書」が作られる様になる。西ノ島で
は、「焼火山縁起」「由良大明神縁起」(縁起草案写)と一社でまとまったもの
と、「美田村神社之縁起集」(正長二年選・寛延四年写)の様に数社をまとめた
ものもある。これには「××大明神御相伝秘法」とあるがごとく御祭神の解説が
主となっているが、その中に古くからの伝承と思われるものも一部含まれてい
る。ここにある社名をあげると
大山大明神、山神一座、高田大明神、八王子大明神、八幡大神宮、美保大明神、
地主大権現、木元大明神、渡利神社、焼火山大権現、高崎御社、天神御社、辧財
天社
と記載があり、これが当時の美田村の主なる神社(祠)であったようである。

祭を主催する者
 祭を主催する者(現代でいう神主)は古くは、その村の長となっている者、又
は特に選ばれた者が何日間か心身共に清浄にし、いわゆる潔斎をして祭を主催し
たものであるが、それが後世には専門職の神主が主催する様になるのである。こ
れは近世の例であるが、「両嶋神社書上帳」(宝暦七年)によると
浦郷村
由良姫大明神	神主真野丹波
森大明神	神主秋月右近
山王権現	宮守助四郎
美田村
焼火大権現	別当雲上寺
高田大明神	神主宇野河内
八幡宮	宮守八郎左衛門
大山大明神	宮守八郎左衛門
別府村
六社大明神	神主宇野石見
伊勢宮	神主宇野石見
宇賀村
杉尾大明神	神主宇野大和
済大明神	宮守十太夫
とある。
 元禄度の「神名記」によると約四十社を数えるが、宝暦度の書上帳によると十
一社には、現在でいう神主がいて祭祀を行っていた。
 ただ江戸期と現在と異なるのは、どんな小さな祠でも少なくとも年に一度の祭
を執行している点である。この例は海士町豊田には、氏神社の外に祠が四祠もあ
るが本社の祭礼の折りは必ず各社で祭祀を行っている。これが古い姿である。

現在の氏神神社と崇敬の社

焼火神社 (旧社格県社)
通称	焼火さん・隠岐の権現さん
交通	波止より車で七分、徒歩一五分。旧参道は波止より徒歩一時間
鎮座地	焼火山中腹
主祭神	大日霊貴尊(焼火大神)
境内社	山神・弁天・船玉・東照宮・五郎王子・金重郎・道祖神・雲上宮(明治
までの本地仏である地蔵尊を祀ったもので、昭和三六年創建)
神紋	三ツ火紋
祭日	例大祭七月二三日、二四日・月次祭毎月二四日・歳旦祭一月一日・龍灯
祭旧暦大晦日・春詣祭旧暦一月五日から一カ月・端午祭旧暦五月五日
本殿	権現造	木造銅板葺	二坪
幣殿	木造銅板葺	三坪
拝殿	木造銅板葺	一三坪
付属施設	社務所・客殿
境内地	四四七六坪
由緒・沿革	「焼火山」は元「大山」と称し知夫郡美田郷(和名抄)の最高峯
で、古くより美田郷の中心地区の先住者によって神奈備山として信仰されてい
た。(大山神社の項参照)ところが、平安末より中世にかけて、修験者によっ
て、山頂岩穴に社殿を営み、焼火権現と称えて祀られたと考えられるが、一方縁
起書(万治二年・一六五九)によると一條天皇の御宇、焼火山の南海岸、曲浦の
海中より神火が示現、山中に飛入ったのを里人がこれを奇として追って山中に入
ると現在の社殿背後の奇岩を発見、これを神の鎮まります処として、大山権現、
又は石尊権現と称して崇奉ると記されている。「たくひ」という神名は、承久の
変により隠岐に御遷幸遊ばされた後鳥羽上皇が渡海の途中夜に入り方向がわから
なくなった折り、船人が祈願を込めると神火が示現し、とどこおりなく着船、奉
賽の為社参。それまで大山と称していたのを「たくひ」にする様にとの仰せに
よってそれ以降「焼火」と称する様になったと記されている。しかし、、栄華物
語(巻三六)の中に「たくひの神のしるしばかりに」という歌の出ている事から
すると少なくとも平安末期には既に「たくひ」という神名が中央の顕紳の間にも
喧伝されていた事がわかる。右の如く焼火神は海上生活者が難船に及ぶ時祈願を
込める事によって神火を現すという奇瑞によって中世以降ますますその信仰は盛
んになった。殊に近世、日本海海路の開発と共に信仰圏はより広く、日本海は言
うに及ばず、東北の太平洋岸の船人達まで信仰されたのである。かくして焼火神
の船神としての性格は顕著になった。ところが明治以降日本海海路の衰退と共に
情況は変わり現在は隠岐島前地区が信仰の中心となっている。なお、祭神、大日
霊貴尊と呼ぶのは元禄一六年(一七〇三)以降であり、「焼火神」と称するのが
本来のものである。平成四年には本殿・拝殿共国指定の有形文化財(建造物)に
なる。


黒木神社 (旧社格 無格社)
通称	黒木さん
交通	別府港より徒歩五分
鎮座地	別府
主祭神	後醍醐天皇
神紋	くろぎづた輪に菊紋
祭日	例大祭九月二七日
本殿	春日造	木造銅板葺	一坪
拝殿	木造銅板葺	七坪
付属施設	資料館(碧風館)
由緒・沿革	元弘二年(一三三二)後醍醐天皇が元弘の変によって隠岐に御遷幸
され、約一年間御滞在遊ばれしという「黒木御所」の跡に神社を創建。記録とし
ては「島前村々神名記」(元禄一六年・一七〇三)に「黒木社」とあるのが最も
古い。しかし創祀の時代は天竜寺、安国寺創建(延元四年・一三三九)からそう
遠くない時代に創建されたものと思われる。(「島前の文化財」六号参照)明治
四〇年(一九〇七)大正天皇、大正六年(一九一七)昭和天皇、昭和四一年(一
九六六)今上陛下、昭和六一年(一九八六)現皇太子。いづれも皇太子の折りに
参拝せられた。


大山神社 (旧社格村社)
通称	大山さん
交通	大津より徒歩五分
鎮座地	大津
主祭神	大山祇命
境内社	山神外二座(一祠)
神紋	左三ツ巴
祭日	例大祭七月一三日(隔年七月一二日、一三日神幸祭)・春祭三月一三
日・秋祭一一月一三日
本殿	春日造変態	木造銅板葺	二坪
幣殿	木造銅板葺	四坪
拝殿	木造銅板葺	二三坪
境内地	一一〇六坪
由緒・沿革	創立は定かではない。しかしこの地区は知夫郡美田郷(和名抄)の
中心地区に位置し、西ノ島の最高峰焼火山(古くは大山といった)を仰ぐ西北麓
に鎮座(伝えによると、古くは現社地の奥「宮谷」に鎮座されていたという)。
山麓に社の建立されたのは平安初期の頃と思われる。「延喜式」知夫郡七座の内
小社。大津・市部の氏神として崇敬されている。

境内社
高田神社 (旧社格村社)
通称	高田さん
交通	小向より徒歩二〇分、船越より徒歩三〇分
鎮座地	高田山中腹
主祭神	伊邪那岐命・素戔嗚尊
境内社	八王子(五男三女神を祭る)
神紋	三つ柏
祭日	例大祭七月一八日(隔年七月一八日、一九日には神幸祭が行われる)、
春祭三月一八日・秋祭一一月一八日
本殿	春日造変態	木造銅板葺	二坪
拝殿	拝殿	木造銅板葺	一四坪
付属施設	神饌所・御輿庫
境内地	二九八坪
由緒・沿革	小向・船越の氏神として崇敬されている。社伝によると「天平神護
元年隠岐次郎右衛門の息女小花姫に神託あり、高田山頂なる岩窟に祀り高田明神
と崇め云々」とあるが、これは隠岐郡都万村高田神社の縁起と全く同じであり、
これは中世末時宗の僧が島後より島前に進出して、都万村高田神社と相似した山
頂岩窟に祀ったものと思われる。隣接する寺ノ峯には経塚があり、これも時宗の
僧によって作られたものと思われる。旧美田村が一部方・二部方と分かれ、この
二部方の中心となったのがこの社と思われる。棟札の古いものは元和二年(一六
一六)である。


美田八幡宮 (旧社格村社)
通称	八幡さん
交通	別府港より五分
鎮座地	美田尻
主祭神	誉田皇命(応神天皇・八幡大神)・足仲彦命(仲哀天皇)・息長足媛命
(神功皇后)
神紋	左三つ巴
祭日	例大祭九月一五日(隔年に十方拝礼と相撲が奉納される)・春祭三月一
五日・秋祭一一月一五日
本殿	流造	木造銅板葺	四坪
拝殿	木造銅板葺	二三坪
付属施設	土俵(履屋付)・御輿庫
境内地	一三七坪
由緒・沿革	社伝によると「延喜元年(九〇一)山城国男山より勧請」とある。
もともと鎮座地美田尻の氏神として祭られてきたものが、中世以降、武家に信仰
の厚い、八幡神を勧請して国中の総社として祭礼も守護職が主催して賑々しく行
われたものであるが、(八幡宮祭礼式書ー文化一〇年・一八一三)現在は美田
尻・大山両区の氏神として崇められている。しかし隔年に奉納される田楽(十方
拝礼)は旧美田村七郷の奉仕によって行われている。「美田村神社縁起集」正長
二年(一四二九)撰(寛延四年写一七五一)によると、後醍醐天皇が黒木御所よ
り御脱出の折り、八幡神が「翁と現じて天皇を守り、美田小向ノ津まで案内
云々」とあり又「天下一統の上正八幡大神宮と拝し奉る旨御倫旨被下云々」とも
ある。近世に入っても隣接別府の地に代官所が置かれたが、為政者の崇敬も篤
かったといわれる。
神事・芸能	十方拝礼は平成四年に国指定の重要無形民俗文化財になる。


海神社または(わたの) (旧社格村社)
通称	六社さん
交通	別府港より徒歩一〇分
鎮座地	別府
主祭神	海神二座
境内社	伊勢社・稲荷社
神紋	三つ巴
祭日	例大祭七月二一日(隔年毎七月二一日、二二日。神幸祭 船御旅)・春
祭三月二一日・秋祭一〇月二一日
本殿	春日造変態	木造銅板葺	二坪
幣殿	木造銅板葺	四坪
拝殿	木造銅板葺	七坪
付属施設	御輿庫
境内地	九六〇坪
由緒・沿革	創立不詳。延喜式内社、隠岐国知夫郡七座の内の小社。近世は六社
大明神と称え、祭神、住吉三座、志賀三社と付会しているが、延喜式にあるごと
く海神二座が古来からの祭神であった。この地に先住の海人族の祀りしものと思
われる。現在は鎮座地別府の氏神として崇められている。棟札の古いところは元
禄二年(一六八九)のものがある。本殿背後に古墳もあり、古くからの社地と思
われる。


耳浦山神社
鎮座地	別府耳浦
「神名記」に山神社 大山祇命とある。
これは氏神ではなく元は個人(別府近藤家 屋号オカタ)の祀ったものであった
が、今は区で祭祀を行っている。
祭日
春旧暦二月初巳(旧記には初午)、秋十月二十八日(旧九月二十八日)
祭儀
公会堂の一室に祭壇を設け、御神号を掛け御幣(三本)神供(五台)を献り、祝
詞。それが終了すると神主従者と共に本社へ出向(神主御幣を奉持、従者米並び
に水汲具を持つ)。この時出立(デヤンナヨーデヤンナヨー)を区民に知らせる
(これは祭りに携わる神主に出会うと罰が当たるといって家居している)。本社
着、先ず従者、酒石壷の酒を汲み、神主神前に献じる。従者は旧酒を汲み捨て、
持参の米を石壷に入れ、蓋をする(酒造神事)。神主はその上に糀(こうじ)を
置き祓う。次祝詞、拝礼、退下。帰って直会。
 一般的には「でやんな祭」と呼ばれるこの祭では、公会堂を出立する時から、
帰って来るまで神主と従者は無言でいなければならない。
 この小祠に祀られた神に鄭重な祭を執行するのは、「酒造神事」をする特殊の
神祭りであるので古例によって現在まで続いている。これは特別ではあるが、こ
のように小祠においても年一回は祭を行ったもの、赤之江秋月神主の場合は小祠
の祭りでも必ず神楽の巫女舞を奉納していた。祭の方式は大小色々でも必ず祭儀
を行っていた。


真気命神社 (旧社格村社)
通称	素気雄さん
交通	物井港から七分
鎮座地	物井
主祭神	真気命
祭日	例大祭七月一九日(隔年毎に七月一九日、二〇日に神幸祭)春祭一月一
九日、秋祭一一月一九日
本殿	春日造変態	木造銅板葺	三坪
拝殿	木造瓦葺	一〇坪
付属施設	参篭所
境内地	三五三坪
由緒・沿革	創立不詳。延喜式式内社であり、知夫郡七座の内の小社。国内神名
帳に従三位とある。近世は素気雄大明神と称え、祭神も素戔嗚尊・稲田姫命・大
巳貴命と付会している「島前村々神名記」。しかし隠岐国の式内社はいずれも神
名が社名となっているものが大多数で、当社は「真気命」とすることの方が古来
からのものである。なお、素気雄は社地の地名である。現在は物井の氏神として
崇敬されている。


比奈麻治比売命神社 (旧社格村社)
通称	済さん
交通	宇賀港から徒歩十分・倉ノ谷港から徒歩十五分
鎮座地	宇賀
主祭神	比奈麻治比売命
祭日	例大祭七月二十八日・歳旦祭一月一日
本殿	隠岐造	木造銅板葺	四坪
拝殿	木造瓦葺	一六坪
付属施設	参篭所
境内地	八七六坪
由緒・沿革	創立不詳。延暦一八年(七九九)渤海使内蔵宿祢賀茂麻呂等が帰国
の途中神助け受けた事によって官社に預かる(日本後記)とあり。次いで承和五
年(八三八)従五位下(続日本後記)。貞観一三年(八七一)正五位下・元慶二
年(八七八)正五位上(三代実録)と神階も上昇し、霊験の著しい事が中央に知
られている。延喜式では知夫郡七座の内の小社。国内神名帳では従一位。右のご
とく古代においては地方における霊験神として崇敬されたが、時代が下がるに
従って信仰は薄れた。近世では鎮座地宇賀・倉ノ谷両区の氏神として崇敬されて
いる。旧社地は宇賀を隔てる事、約四キロの所にある為、参拝の不便より安政二
年(一八五五)に峠越という処に移転したが、氏子の中に種々災いが起こったと
いう理由により、旧社地に返した。昭和三年(一九二八)に至って現地に再移転
し現在に至っている。なお、旧社地には神社跡の石碑が建てられている。


橋乃里神社 (旧社格無格社)
交通	波止港より徒歩五分
鎮座地	波止
主祭神	素戔嗚尊
境内社	金刀比羅社
祭日	例大祭七月二三日・歳旦祭一月一日・春祭三月二八日・秋祭一一月二八
日
本殿	流造	木造銅板葺	一坪
拝殿	木造瓦葺	四坪
境内地	一〇一坪
由緒・沿革	創立不詳。鎮座地波止の氏神として崇敬されている。島前村々神名
記に荒神社三宝荒神、素戔嗚尊眷属とある。いわゆる区で祀った荒神である。旧
来祭礼は二八日であったが、明治以降例大祭日を前記の様に変更して現在に至っ
ている。
 なお、春秋祭には区公会堂において前夜は日待祭(おひまち)を行い、祭当日
は区民全員、公会堂において直会を行う。これが古い「氏神祭」の姿である。


渡利神社
通称	渡神さん
交通	大山港より徒歩五分
鎮座地	大山
主祭神	綿津見神
祭日	例大祭四月二三日
本殿	春日造変態(明神造とも)	木造銅板葺	一坪
拝殿	木造瓦葺	四坪
境内地	三四〇坪
由緒・沿革	創立不詳。大山区の氏神として崇敬されている。
境外社	荒神祠(荒神、山神、清正公)。祭日は七月一七日


由良比女神社 (旧社格郷社)
通称	由良さん
交通	浦郷港より徒歩一〇分
鎮座地	浦郷
主祭神	由良比女命
境内社	伊勢之宮(天照大神)・恵比須社(事代主神)・豊受宮(豊受神)出雲
社(大国主命)
神紋	丸に並び矢
祭日	例大祭七月二八日(隔年毎に七月二八日、二九日には神幸祭・船渡御が
ある)・春祭三月一三日・秋祭一一月二九日・神帰祭(烏賊寄せ祭り)一一月二
九日
本殿	大社造変態(明神造とも)桧皮葺	七坪
幣殿	木造銅板葺	一〇坪
拝殿	入母屋造木造銅板葺	一五坪
付属施設	社務所・神器庫・土俵(履屋付)
境内地	五七一二坪
由緒・沿革	承和九年(八四二)に官社に預る。延喜式神名帳には名神大。元の
名は和多須の神とあり、国内神名帳には従三位上由良比女大明神とある。「袖中
抄」にもその名が見え、それには仁明天皇が承和一五年(八四八)、陽成天皇が
元慶元年(八七七)に鄭重なる祈願をしたとある。平安末期には隠岐国一の宮と
定められた。安永二年(一七七三)には島前一統の祭とする事になった。
特殊信仰並びに神事	一一月二九日夜に行われている神帰祭。神事之時供物次第
 安永七年(一七七八)によると「九月末日 神送り神事 御供 赤飯。十月末
日 神迎神事 御供 赤飯」とある。右は由良比女神が出雲の神在祭に出られる
のが神送りと伝えられ、それによって現在は帰神といわれる十一月二十九日に祭
儀を執行する。由良比女神は烏賊に乗りお帰りとの伝があり、この夜は必ず由良
の浜に烏賊の群が寄るといわれ、氏子はこれを「烏賊寄せ祭」と称している。


日吉神社または(ひえ) (旧社格村社)
通称	ひよしさん・山王権現
交通	浦郷港より徒歩十分
鎮座地	浦郷
主祭神	大山咋命
境内社	八王子社(市杵島姫命外七柱)・東照宮(徳川家康)・金刀比羅社(大
国主命)恵比須社(事代主命)
神紋	丸に巴藤
祭日	例大祭旧九月九日・春祭三月九日・秋祭十一月二十八日
本殿	日吉造	木造銅板造	一坪
幣殿	木造銅板葺造		六坪
拝殿	木造銅板葺造		十二坪
付属施設	参篭所
境内地	六百二十八坪
由緒・沿革	社伝によると近江国滋賀郡真野庄に祀られていたのを、後白河法皇
の時代領主真野宗源が兵乱を避けて隠岐に逃れた際、この社に仕える吉田某と共
に氏神たる山王社・八王子社も共に奉遷し現在の社地に鎮座したという。吉田家
蔵の大般若経の奥書に「正応二(一二八九)巳丑九月 供養了 願主沙門西蓮 
奉込隠岐国美田庄浦方山王御宝殿」とあるところからすると大体伝承の通りが事
実であると思う。こうして鎮座当時は「真野家」が中心となって祭礼を行ったで
あろうが、後には浦郷区の区民の信仰によって由良比女と共に両氏神と称して崇
敬されている。明治五年十月に社名を山王権現から日吉神社に改称した。
神事・芸能	「庭の舞」・「十方拝礼」は平成四年に国指定の重要無形文化財と
して「隠岐の田楽と庭の舞」と命名され、美田八幡の十方拝礼と共に指定され
た。


茂理神社 (旧社格村社)
交通	赤之江港より徒歩五分
鎮座地	赤之江
主祭神	茂理大神(句々廼馳命・軻遇突知命・金山彦命・埴山姫命・草野姫・罔
象女命)
境内(飛地)社		青根神社
神紋	五・七の桐
祭日	例大祭七月二六日(隔年毎に七月二六日・二七日に神幸祭あり)・春祭
三月一二日・秋祭一一月二三日
本殿	木造銅板葺	一坪
拝殿	木造銅板葺	一二坪
付属施設	御輿庫
境内地	二二一坪
由緒・沿革	島前村々神名記(元禄十六年)には、森大明神とあり、祭神天鈿女
命となっているが、諸書いづれも「句々廼馳命」外五柱が記されている。創立年
代は不詳。鎮座地の赤之江区の氏神として崇敬されている。棟札の古いところで
は元亀三年(一五七二)のものがある。


待場神社 (旧社格村社)
通称	待場さん
交通	三度港より五分
鎮座地	三度
主祭神	猿田彦大神
配祭神	天鈿女命・大日霊貴命・千箭御前・峯見神
境内社	稲荷社・大山社・出雲社
祭日	例大祭七月一三日・春祭三月一五日・秋祭一一月二四日
本殿	木造カラートタン造	一坪
拝殿	コンクリートブロック造	一二坪
境内地	三二一坪
由緒・沿革	猿田彦大神が三度この里に現れしにより地名を三度という。創立不
詳。隠岐島前村々神名記(元禄一六年・一七〇三)に待場明神とあり。三度区の
氏神として崇敬される。明治三年(一八七〇)の神社調べにあたって古い棟札に
松尾神社とあって、それ以降松尾神社と称したが、この棟札は漁民が海中から拾
い出したのを寄進した事が判明し、昭和一九年(一九四四)に社号を旧に復して
待場神社とした。
伝説	天照大神の降臨
神代の昔、天鈿女命を従えた天照大神は三度の「鯛の鼻」の北にある「大神」と
いう海の「立島」に降臨された。この島は細く天を突くような岩があたかも亀の
背に乗っているような島である。ここにはこの時の「お腰掛けの石」もあるが、
やがて天照大神は三度湾に船を入れて南の「長尾鼻」にある「生石島」に上陸さ
れた。最初この場所から少し東の海岸に目をやると、人影が見えた。神は「人の
いそうもない海岸に、不思議なことだ」と言って、そこへ行ってみたが、誰も居
なかった。そこで「生石島」に引き返して振り返るとやはり人影が見えた。もう
一度返って捜したが誰も居なかった。・・三度目には意を決してその先の集落ま
で行ったので、ここを「三度」というようになった。人影と見えたのは、実はこ
の場所に何回かお迎えに出ていた猿田彦命の姿であった。常に人影が見えたの
で、ここには「常人」という地名がついた。またこの湾の「生石島」にも天照大
神が腰を掛けたところから、地区の人は「お石様」と名付けて崇敬している。そ
れに途中では水のある処を越したのでそこには「越水」という地名がついた。三
度の集落に入ってからは、中谷正宅の裏にある石の上で休息された。それでこれ
を「お腰掛けの岩」と言っているが、近年までこの石に注連縄を張って祭ってい
た。ところで、天鈿女命は近くの山に登って「天照大神の鎮まります地はどこが
よいか」と辺りの峯々を見回した。そこでこの山を「峯見山」と呼ぶようになっ
た。峯見山から南東に見えたひときわ高い山に天照大神をお連れして、しばらく
鎮まっていただいた。この山は珍崎の南にあって、あくまでも仮の場所なので
「仮床」という地名をつけた。一説に、この山で狩りををしたので「狩床」に
なったともいう。さて、天照大神はここで七谷七尾根ある場所を捜した。その時
「この山には谷が一つ足りない」と言って持っていた筆に硯の水をひたして一滴
落とした。するとたちまち小さな谷が一つできて、これを「硯水」といった。ま
た、その筆で手紙を書いて大空に投げ上げたところ、この山の頂から二羽の烏が
飛んできて口にくわえた。そしてはるか東方に見える焼火山を目指して飛んで
いった。烏の飛びだした場所には「烏床」という地名がついた。焼火山の神様
は、この手紙を受け取って神勅とおぼしめし、早速聖なる大宮所を選定して報告
した。それを受けて猿田彦命と天鈿女命は天照大神を焼火山の大宮所にお連れし
た。こうして焼火神社は天照大神をまつることになった。それに手紙をくわえて
飛んだ二羽の烏は後に焼火山内に棲みつき、いつもこの神社の境内に来て遊ん
だ。参拝者があると、境内の木の上から鳴き、神殿の上から騒いで神社の人に知
らせた。子供が生まれると、その役目を譲って親烏二羽はいなくなるという。そ
の後、猿田彦命と天鈿女命は三度の海岸の「奈那」という所で雌雄二つの石を産
み、神光を発しながら亡くなった。村人はこの二つの石を亡くなられた二柱の神
の霊魂の寄代として崇め神社を建てて祭った。その場所は猿田彦命が天照大神を
待っていた所であったので「待場」と命名し社名も「待場神社」とした。一方、
焼火山の神様は別名を「千箭の神」といった。これは神功皇后が三韓に出兵する
とき、弓矢を携えて出現なされ、待場・峯美の二柱の神を引率して従軍されたか
らである。千の矢を放った場所は三度崎の「追矢床」であり、その矢が韓の国ま
で走っていったので「矢走」という地名もついた。軍馬を出された所は「御馬
谷」といった。


聖神社 (旧社格村社)
交通	珍崎港より徒歩五分
鎮座地	珍崎
主祭神	聖大神(事代主命)
神紋	亀甲型に三の字
祭日	例大祭七月二二日・春祭二月二七日・秋祭一一月二五日
本殿	流造唐破風向拝付銅板葺	一坪
幣殿	木造瓦葺造	二坪
拝殿	木造瓦葺造	五坪
境内地	八一三坪
由緒・沿革	創立年代不詳。珍崎区の氏神として崇敬される。古文書、棟札は焼
失して古記録は不明。『隠岐島の伝説』より「神代の昔日本の国に比志利の神と
いう方がおられた。この神は外国へ出かけてその帰り道に隠岐島近海で暴風雨に
遭われた。けれども勇敢なこの神は西ノ島のフイドシ(フィドレともいう)の鼻
に船をつけた。しかし、そこはそそり立った絶壁ばかりで一歩誤れば墜落すると
ころである。比志利の神はそれでも岩角をつかんで、とうとうその断崖の頂上ま
で登りつめた。そしてそこからは山続きのハヤマに行って住むこと数年、ついに
ここでなくなられた。村人は悲しんで、この岩屋をそのまま比志利の神の墓所と
定め名前も「比志利が岩屋」と呼ぶことにした。フイドシの鼻の絶壁には、この
神の手の跡が数カ所あり、頂上には「お腰掛けの岩」も残っている。後に村人は
この神の神徳を慕って珍崎の里に神社を建てたが、今の場所に移るときにも比志
利の神は途中珍崎の奥山の椎の木に仮の宿をされたと伝えられている。

 以上十四社であるが、江戸期に祀られていた小祠も現在ほとんど現存してお
り、消滅したと思われるものは極わずかである。ただしそれ以降に祀られた神々
もあるから神々の数は江戸期とあまり変わらない。殊に、恵美須神、弁財天は各
区に祀られている。

氏神神社の祭神について
 氏神とは、本来はその氏族の祖先を祀ったもので、その御名のわかっているも
のは「××命」などとなっている。それが後には、その地域に住み着いて開発し
た祖先(不特定多数)を祀ったもので固有の名はわからない。その例が最も多
い。また、変じて、主として漁を生業とする人々が多い処は、海神を守神として
祀ったり、農を主としている処では農神を祀っているが、これらを総べて「氏
神」と呼ぶようになった。西ノ島での例を挙げると、別府海神社は「海神二座」
とあるが、それを近世になると固有の神名を挙げる事になって、古典に出る住吉
神社に祀られている「表筒男神・中筒男神・底筒男神、海人族の祀る志賀海神社
の祭神である表和多積神・中和多積神・底和多積神」の神名をあげ「六社大明
神」という風に申し上げた。この事からすると別府の先住者は海上を主たる生活
の場とした者が多かったものと思われる。
 由良比女神社の祭神は「由良姫命」と名付けているが、これは「由良」という
地名のある海辺に祀ったからで、これも「元名和多須神」とあるので海の守神で
あることがわかる。
 大体江戸期には神社名でなく「××大明神」と神名になっている例がほとんど
である。
 高田神社の場合は「高田大明神」と山の名を冠している(ただし、この山名は
高田神を祀る山であるから後に付けたとも考えられる)
 それが近世期になると神名を挙げる場合は、無理に古典に出る神名に付会して
しまうのである。それは、その方が格の高い神と考えたからであろう。参考まで
に各区に祀る氏神の祭神について考察してみた。
 比奈麻治比女命社
これは「ヒメ命」と固有の御名がわかっていて延喜式(平安期)の時代から、こ
の名で呼ばれている。これは縁起からして「火の霊威」を称した御名であろう。
 真気命社
これも「××命」と固有の神名である。前記の「延喜式」の中にも選ばれた神社
で、平安期からの名称である「ケ」というのは、「食」という字を「ケ」と読む
ように食物と関係のある言葉で、「穀霊」を祀ったものであろう。ところがこの
神名も古典にないところからして「真気命=真鶴雄神・稲田姫命・大巳貴命の三
神を祀るようになった。この物井地区には古墳も数多く残っており、古代には今
よりももっと多くの人々が住んでおり、それが今の倉ノ谷、宇賀、別府の方へも
広がっていったのではないか。物井の先住者は古代には漁でなく農を主とした方
が多かったのではないか。
 海神社
これは「海神 二座」とあるように別府の先住者は海人たちであったろう。
 近世期の祭神は初めに例として挙げておいたので省略する。
美田八幡宮
この地区は美田村の中に含まれているところであるが、隣接の別府は、中世から
近世にかけて為政者(武家)が島前の中心的地域からか居を構えるようになって
から、美田尻の氏神であった神社に武家の信仰の厚い「八幡神」を勧請して合わ
せ祀り、島前の総社的神社として祭礼も賑々しく執り行なわれた。
 そのような沿革からして、ここに元から祀られていた神は自然に氏子等の心か
ら消滅してしまったのでないか。「八幡神」は九州の宇佐八幡・京都の石清水八
幡が名高く、縁起には「延喜元(九〇一)山城男山より勧請云々」とあるが、美
田尻の先住者からすると異質の神であろうから、こんな時代にわざわざ武家の信
仰する「八幡神」を勧請するわけはない。「八幡神」を氏神としたのは中世期以
降のことであろう。祭神名は前記の神社に祀ってある誉田皇命(応神天皇)・足
仲彦命(仲哀天皇)・息長足媛命(神功皇后)となっている。ついでに応神天皇
を何故「八幡大神」と称えたかについては、色々の説はあるが結局、応神天皇は
宇佐の八幡(やはた)という処でお生まれになったので、そのように称えるよう
になったというのが妥当に思われる。これからすると「ヤハタ」とするのが本来
の呼び方のはずだが、音読して「ハチマン」と称する神社がほとんどである。
渡利神社
 「神名記」には和多積神、また玉依姫命とある。「神名記」もあるが、いずれ
も海神として祀られる神で古くは海を生活の場とした人々が住んでいたであろ
う。あるいは別府の海人等が移住したかも知れない。近世に入ってからは、北前
船の風待港でもあったので海神を祀る条件はあった。
大山神社
 この神社も「延喜式」にある神社で平安期から祭神も「大山神」である。ただ
しこの地区は美田の中でも田畑の一番多い所であるから「山神」でなくてもよい
ように思われるが、古い祭場は森のある処が多く、また近くに高山があれば、そ
の山を神の鎮まります処として、山を仰ぐ山麓に祭場とする例は多い。「大山祇
命」は山神として古典にある神名である。古代には「田ノ神」も農作の頃には、
山から天降って来て稲作を守ってくださるという信仰もあり、また祖先霊も山に
鎮まっているという信仰もあるところからすると、お祀りした神も古代と変わっ
ていないと思う。我々の祖先も遅くとも弥生時代(前二〇〇)頃には住んでいた
のである。
高田神社
 「縁起書」によると「天平神護元年(七六五)「隠岐次郎左衛門息女小花姫」
に神託があり、頂上の鳴沢池より示現された神を高田山頂なる岩窟にお祀りし
「高田明神」と崇め・・」と記されているが、これは、島後都万村高田神社の縁
起と同じで、島後では至徳二年(一三八五)の事としている。そして小花姫に神
託のあった神は「国常立尊」となっている。この「高田神」は「時宗」の僧と関
係があった。
 思うに時宗の僧が島前に進出した時に島後の「高田神」を勧請しお祀りしたの
ではないだろうか。さすれば神名は「国常立尊」と申し上げるべきではあるが、
島前では「伊邪那岐命・素戔嗚尊」と申し上げたのではないか。いずれにしろ小
花姫の神託によって顕わされた神であるので、古くからの「氏神」としての性格
はない。
 現在の美田四区の先住者たちは、「大山神社」を氏神としていたものと考えら
れるが、この「高田神」を祀るようになってから以降、船越・小向の人々はこれ
を「氏神」とするようになったのではないだろうか。
橋乃里神社
 これは「荒神」であるが神名を挙げるようになると古典にある素戔嗚尊が八岐
大蛇を退治したというように荒々しく強い神名になっている。荒神は各集落に
祀っているが、石体が多く、氏神として社殿のあるのは西ノ島では波止・市部の
みである。荒神を各区で祀っているのは、里内に入る悪神を防ぐ神として、それ
が里の守神として祀ったものであろう。
由良比女神社
 これは再三例としてあげたように、元は海神であるが、後世に須勢理姫とした
時代もあった。今は古きに返して「由良比女命」となっている。祭神の事と離れ
るが、江戸時代には「隠州視聴合紀」に「薄子浦あり。その山を出でたる処に由
良明神と号する小社あり。極めて小さく古りはてて亡きが如し。里人も知る者な
し」と記されている。ところが、「神名記」には日吉社の外に大原明神・住吉明
神・石神明神・蓬莱亀社・平野宮・乙訓明神と数多くの神々が祀られているにも
かかわらず、名神大社である由良比女社が前記のようであったのは何故であろう
か。思うにこの頃は今のように氏神社を村の中心的神社とする考え方は少なく、
前記のように小祠を個々に祀っていると同じ程度に考えている者の方が多かった
のではないか。その後、社殿も段々と整備し安永二年(一七七三)には、島前の
村々より青銅三貫文、浦郷村からも同額の三貫文が祭礼料として奉納され、これ
によって三年一度(隔年)の船渡御の祭を賑々しく行うことになった。これは庄
屋・村役人が中心となって、名社である由良比女社に重点をおくような指導を
し、又それに要する経費の捻出方も考えたのでないか。神社は祭礼を盛んにする
事によって信仰心も増し、またこれに合わせて社殿等も整備されていくのであ
る。
日吉神社
 この社は祀った時期も、祀った人もわかっており、浦郷の古くから住んでいた
人等が氏神として祀ったものではない。これは真野氏一族の氏神である。真野氏
が隠岐に逃れてきた時、相当多くの人々も移住したであろうから、隠岐に来てか
らも自分たちの氏神を祀ったのである。したがって初めは真野一族の者によって
祭礼を行っていたと思うが、それが後には浦郷の人等も参加して祭礼を行うよう
になり、江戸期には浦郷の氏神としても違和感のないものとなったであろう。
日吉山王本社の祭神は「大山咋命」である。この時、「八王子神」も共に移した
ようで、今も境内の小祠として祀られている。この外に金刀比羅社・恵比須社も
あるが、これは浦郷の漁業者の人々が祀ったものであろう。
茂理神社
 元禄の神名記によると「森大明神・天鈿女命」となっているが、いつの頃から
か現在の「ククノチ命(木ノ神)・カグツチ命(火ノ神)・ミズハノメ命(水ノ
神)・カナヤマヒコ命(金ノ神)・ハニヤマヒメ命(土ノ神)・カヤノヒメ命
(野ノ神)となっている。「木火土金水」の神としたのは陰陽道によったもので
あろう。陰陽五行及びその実践としての陰陽道が奈良時代に日本に入ってから、
国家組織の中に組み込まれ一貫して朝廷を中心に祭政・占術・諸年中行事・医
学・農業等の基礎原理となって日本人の中に定着した。
陰陽五行とは、地上では陰陽の二元気の交合の結果、木火土金水の五元素、或い
は五気が生じたと説く。それを日本の神話にある神々にあてはめると前記の神々
となる。それに「野ノ神」を合わせ祀ったのである。
もともと「森大明神」と称えて神名としたが、これは恐らく祭を行った場所が近
くの森であった処からの命名であったかと思われる。それを江戸期になって「木
ノ神」外の四柱の神と、それに牧畑地のところが野原であるから「土ノ神」もあ
るが、特に「野ノ神」も入れたのではないだろうか。このような神々にしたのは
赤之江の社家である秋月氏が考えた祭神かと思う。天鈿女命は自然に消えていっ
た。
待場神社
 西ノ島の神社で神降臨の伝承があるのは、この社と珍崎の二社のみである(神
社別の項参照)。主祭神を猿田彦命とし、それに合わせて天照大神をはじめ関係
のある神々も合せ祀っている。
いつの時代に氏神として祀つるようになったかは不詳であるが、これは三度の先
住者が、いつここに住むようになったかが問題で、「みたべ」という地名から美
田地区の先住民の一部が移住したのでないかという説もある。この地区には今の
ところ古墳等の遺跡も発見されておらず、美田地区から移住したとしても歴史時
代に入ってからであろうか。ここでは天照大神が焼火山に鎮まり給うたとの伝承
であるが、焼火神社で天照大神(大日霊貴命)を祭神としたのは江戸期に入って
からで、古いところでは「たくひ神」である。
聖神社
 「神名記」には事代主命の神名をあげている。「聖神」は古事記(須佐之男命
の子、大年神。大年神と伊怒姫の間に五神が生まれているが、その一神に聖神が
ある)にでている神であるが、(同名異神であるかもしれない)この神の事績は
何も記されていない。右のようなことなので、漁神として一般に知られている
「事代主命」としたのでないだろうか。
焼火神社
 「島前村々神名記」の原本は松浦家に保存の資料であるが、これによると祭神
は大日霊貴尊・萬幡姫(萬栲幡千幡姫とも)・手力雄命の三神をお祀りした事に
なっているが、これは伊勢神宮においても本宮に相殿神二座として祀っているの
で、これに習ったものであろう。
黒木神社
 後醍醐天皇。これは申し上げるまでもなく奉祀の当初からはっきりしている
が、社名を「黒木社」としたのは元禄の「神名記」が古い。ただし、これは一般
的にあまり呼ばれなかったらしく、明治五年になって「後醍醐天皇御社、或いは
黒木御所と称し奉りしを黒木神社と改称」とある。

(註) 「神名記」は「島前村々神名記」(元禄十六年)の略。神名記は異本も
数種あるが、いづれも奥書がない
 古典は「古事記」「日本書紀」、神名は古事記による

 神社がその集落の中の一社に重点を置き祭祀を行うようになるのは、明治の神
社制度確立以降のことで、それまでは氏神社も、その周辺に祀られていた小祠も
同列にあつかったものである。そうであればこそ、江戸期に在った祠も明治まで
変わらずに存続したのである。祭の大小はあっても、どんな小祠でも必ず祭を
行っていたのであるが、明治国家の神社に対する考え方は、小祠に祀られていた
神々は、出来得ればそれを村氏神に合祀または廃止するという方針であった。村
人達は氏神の社に合祀してしまうと形がなくなるので、氏神社の境内に集めて小
祠を造った。これが今境内にある小祠(末社)である。
 ただし、この小祠に祀ったものも、その集落の人々の信仰の厚い神々は元の社
地に返して祭を行っている例も多い。一例として市部の「荒神」社と大山の「渡
利社」について記す。
 市部には「地主権現」というのがあって「荒神」よりも重く祀られていたが、
これは明治の神社制度が改正された折り、大山神社に合祀された。荒神は各区に
祀られているが祠を造って祀っていたのは市部と波止のみであった。
 ところが、市部区民は残されていた「荒神」の祠を新たに区内に社地を設け、
また社殿も銅板葺の立派なお宮にして、祭りも旧時より賑々しく、また祭りの後
の直会も区民全員参加して行うようにしたのである。
 市部と大津の氏神は大山神社であるが、いわば、市部だけの「氏神」として荒
神を独立させよう、という意識が芽生えた結果ではなかろうか。
 次に大山の「渡利社」であるが、これは初めから氏神として祀られていたが、
どうした手違いからか明治の神社制度改正の折り、「無格社」としての扱いも受
けず、大山の里人は「美田八幡宮」の氏子の中に組み込まれてしまった。このよ
うな経過を経て、戦後の神社制度の改変を機に「法人登記」の手続きをして区の
氏神として独立した。また「社格」という神社の格付けも決められ、それには少
なくとも本殿・拝殿・参篭所等の設備のある処は「村社」という格を与えられ、
本殿のみのものは「無格社」という格付けがなされた。「黒木社」「橋乃里社」
が、その例である。
 さて「渡利社」であるが、ここは本殿と参篭所のみで拝殿はなかった。ところ
が平成三年の台風によって建物の全てが倒壊してしまった。この社は小型ではあ
るが、大根島の宮大工豊島万蔵の作(松江の名工荒川亀斎の系列に入る宮大工
で、焼火社の明治期の造営の折りの棟梁。由良比女社の建立をした三度の角谷氏
とは相弟子であった)。文化財建築としても価値のあるものであったが、幸い浦
郷の篠木幸壱氏の手によって立派に復原された。それを期に拝殿も新築され、小
さいながらも社殿の整備をみた。
 神社は祭祀を斎行する場ではあるが、それには社殿の整備も大切である。これ
も偏に氏子の氏神に対する篤い思い入れと、自ら意識するしないにかかわらず信
仰心なくしては神社の永続はあり得ない。これは前記の社のみでなく各氏神社の
場合も全く同じである。やはり日本人は時代がいかに変わろうとも神を祀る民族
である。
 都市部における団地などにもそこに数年間定着すると、誰が発起人するかは知
らないが、「神社」を造るという例も出来ている。そしてそこが「ふるさと」に
なって行くのであろう。

主なる参考文献
『神國島根』(神社誌)
『島根の神々』
『式内社調査報告書』(山陰編)
『島前村々神名記』
『国内神名帳』
『美田村神社之縁起集』
「神社御由緒調査書」(旧黒木村)
「隠州風土記」
「隠岐国神社秘録」

美田地区原稿

美田地区原稿
波止(はし)
旧所属
美田村橋里、黒木村波止、西ノ島町波止
地勢
西ノ島町の中央に位置する焼火山の西麓にある集落であり、焼火神社の参道の一
つがここから始まっている。集落の中央には水量豊富な波止川が流れ、昭和四五
年には砂防ダムも建設され、もしかしたら西ノ島全体の水量を賄う事になったか
も知れない程のものであった。海に面しては、中央に赤灘・少し右には珍崎が見
える。港湾は漁港であり、三トン未満の小型漁船が十隻ほど停泊している。集落
内の地域的区分は五組あり、東小路・西小路という区分もある。
交通機関
別府から約七キロ、浦郷から八キロ、車でおよそ一五分の距離にある波止は、西
ノ島町で唯一バス交通機関の無い集落である。島前内航船(いそかぜ)が現在は
一日に三便あり(浦郷へ一○分・知へ一夫へ一○分)浦郷行き三本、知夫行きが
三本。自然と日常の交通はタクシー・自家用車に頼ることが多い。
就業概観
江戸時代においては、北前船の風待港であった事に影響を受けてか、ここの住民
は船乗りが多かった。以前は自分で船を所有して海運業を営んだ家も少なからず
あったが、現在はほとんどが外国航路に勤め定年になってから波止に帰ってくる
場合が多い。そういう傾向は波止と大山には特に頻繁であった。
区内施設
波止集会所
波止集会所に現在の昭和五五年に旧来と同じ場所に新築。旧来は二階もあったが
現在は平たが現在は平屋
ダー(老人集会所)
寺号としては地福寺と呼び、現在の建物は大正四年のもので、一部修復され区の
集会所と隣り合わ所と隣せで使用されている。
日蓮さん
波止から焼火山に登る旧道脇に日蓮宗の堂があり、これを波止では「お堂」と呼
び区の堂は「ダー」と呼んで区別している。
橋乃里神社
   素盞鳴雄命(すさのおのみこと)
波止分校の横にある波止の氏神
波止分校
松浦斌の塾。明治七年美田村第百六十四番小学校支校として正式に誕生。この時
は松浦家居宅を使用。明治八年に波止里の堂(地福寺)を校舎にあてる。明治二
○年には簡易小学校として独立、明治二四年には尋常小学校として三六年まで続
く。明治三七年からは仮校舎として四一年まであり、四一年から大正五年までは
美田小学校に通い、大正五年からは新たに美田小学校波止分教場としてあり、昭
和一六年には国民学校分校となった。以後昭和四六年の廃校にいたるまで波止住
民はことごとくこの校舎を卒業していた。現在は、西ノ島町民俗資料室の倉庫と
して使用されている。
遺跡
波止遺跡
現在の弁天鼻「船隠し」と呼ばれる場所から、須恵器が発見された。
ニジ古墳
現在の西ノ島町ゴミ埋め立て場付近から土師器が発見された。
店数
亀屋商店。旧来は小林商店、升屋商店、俵屋(塩と煙草のみ)の四軒があった
が、現在は亀屋(松浦)商店が一軒のみとなった。
トピック
焼火神社
大日霊貴尊(おおひるめむちのみこと)
旧暦十二月三十一日の夜、海上から火が三つ浮かび上がり、その火が現在社殿の
ある巌に入ったのが焼火権現の縁起とされ、現在でもその日には龍灯祭という神
事が行われている。以前はその時に隠岐島全体から集って神社の社務所に篭り、
火を拝む風習があった。現在は旧正月の五日から島前の各集落が各々日を選んで
お参りする「はつまいり」が伝承されている。例大祭は七月二三日・二四日の二
日間、昔は島前中から集って神輿をかってついだが、昭和三○年の遷宮を最後に
廃止された。江戸時代には北前船の入港によって、海上安全の神と崇められ日本
各地に焼火権現の末社が点在している。安藤広重・葛飾北斎等の版画「諸国百
景」では隠岐国の名所として焼火権現が描かれている。
社殿は享保一七年(一七三二)に改築されたものであり、現在隠岐島の社殿では
最も古い建築とされている。当時としては画期的な建築方法で、大阪で作成され
地元で組み立てられた(今でいえばプレハブ建築のはしりとでもいおうか)。平
成四年には国指定の重要文化財に指定された。城を偲ばせるほど広大な石垣の上
に建設された社務所では、旧正月の篭りの時に千人ほどの参詣人が火を待ちなが
らたむろしたり、また、江戸時代には巡見使が四○○人以上の家来を率いて参拝
した折りの記録も残っているが、現在は朽ちて客殿という場所にしかその名残を
とどめてはいない。
山頂付近は焼火山神域植物群として保存され平成五年には神社から大山から神社
まで遊歩道も整備された。一○年以上かけて開通した焼火林道は市部から始まっ
て大山へ至り、平成五年には波止から焼火参道までは舗装整備されるまでになり
波止からは車で一○分、そこから徒歩で一○分で神社まで到着可能となった。
文覚窟
文覚上人(もんがくしょうにん)。『平家物語』『源平盛衰記』などに登場する
僧侶で、数回にわたって配流され、最後にはここで全うされた。一回目の配流
(遠島・島流し)は伊豆諸島であり、そこで源頼朝と知り合いになり、平家討伐
の切っ掛けを作ったとされる人物である。頼朝が鎌倉幕府を開幕してからは、大
勢力をほこったが、頼朝の死去にいたって、中央から排除され、最後に隠岐島に
配流れたと伝えられている。文覚窟は、波止と大山の中間の海辺にあり、現在は
交通手段がない。
北前船
江戸時代初期から始まった千石船による海上交通は、次第に隠岐島を風待港とし
て利用することになり、それによって西ノ島の経済・文化は多大な影響を受ける
に至った。上方を出発して北海道に向かうのを「下り間」と称して大山に、逆に
北海道から上方に向かうのを「上り間」といって波止に停泊したといわれる。
「上がり間」が波止に停泊したのは元禄時代くらいまでで、後には浦郷に変わっ
ていく。
ユースホステル
昭和三七年に波止にある松浦家で「たくひユースホステル」が発足し、観光時代
の先掛をになった。隠岐島が昭和三八年に大山隠岐国立公園として指定された
が、観光客が来ても宿泊施設は充分でなく、波止の住宅と焼火山の社務所のを両
方使用して、多い時には一日に一五○名以上宿泊した時もある。ユースホステル
に泊まるのは大学生が中心で四○戸くらいの集落に毎日五・六○人の若者を見る
のは村人にとって珍しくもあり、楽しみでもあった。盆踊りになると地元の住民
とユースホステルの宿泊客が一緒になって百人以上の踊の輪が作られた時が一○
年以上も続いた。
弁天鼻周辺
昔は芋山、後にはトライアル練習場、現在は子供の公園、ログ・ハウス、キャン
プ場、フィッシングデッキ、ホテル予定地など、にわかに波止集落の入口の峠は
賑やかになってきた。

市部(いちぶ)
旧所属
旧美田村の本郷、黒木村市部、西ノ島町市部
地勢
現在は美田湾に面した集落を一般的に「美田」と称しており、旧来の美田村(美
田尻・大山・波止をも含めたもの)とは若干区画を縮小した地域を指す。その美
田湾に向かって一番右端の集落を市部(いちぶ)という。他集落の人から見れ
ば、大津との境界が一瞥できないほどに住宅は接近しているが、現在は原商店ま
でが市部とされている。最近はシーサイドホテルから波止に向かって住宅も拡
がっており西ノ島町中では珍しく拡大している地域である。現在、区内の組は四
組ある。
交通機関
大津から歩いて五○メートル。特にバスも無く、島前内航船も発着しないが、最
寄りのバス停留所としては大津と同じ。

市部遺跡
現在のシーサイドホテル先から弥生土器が発見された。
区内施設
会場	昭和二一年建設
堂
寺号は成仏寺。現建物は大正一○年建設
荒神
店数
以前は板屋と原商店があったが、現在はない。
トピック

、
一分方
中世から江戸時代まで一貫して美田村の庄屋(公文)職をつとめた笠置家がここ
であった関係上、美田村では市部が本郷であった。その記述は、「隠州視聴合
記」の地名を説明する時は必ず「・・本郷より何町」という言い回しに現れてい
ることからも推測できる。それは集落内の旧庄屋の屋敷の前が「いちぶのまえ」
という字名である事からも判別できる。
竹田家
明治から戦前にかけての資産家であり、大正一一年には竹田家からは県会議員も
出たくらいである。
寺院
長福寺の末寺、円蔵寺は市部荒神から、波止に向かって左に曲がる左の山手に
あったが、廃仏毀釈の影響で終わりをつげた。十方拝礼ではこの寺が中門口の役
をする事になっていた。
田崎真珠跡
昭和四○年ごろ真珠を栽培していた場所がある。
一銭渡し
シーサイドホテルの先から灯台付近まで一銭で船を使用して人を運搬していた。
運動公園
総合グランド・総合体育館
シーサイドホテル
荒神から先に初めて家が建ったのが、このホテルであった。
町営住宅
市部荒神の先に昭和五四年に四戸の町営住宅が建設された。

大津(おおつ)
旧所属	美田村大津、黒木村大津、西ノ島町大津
地勢
(八組)美田湾の中央に位置するこの集落は、海から向かって左側に美田川をひ
かえ、この川を挟んで小向と対し、右側は市部に隣接している。
交通機関
別府と浦郷の間に位置し、別府へ三キロ・浦郷へ四キロの場所にある。バスもあ
り、定期船もここに駅を持っている。
区内施設
お堂
彌勒堂
大山神社    市部と大津の氏神であり、祭神は大山祇命(おおやまずみのみこ
と)
延喜式神明帳(約一千年前の書物)に早くも登場する古い神社で、大津と市部の
氏神としてある。以前は現社地よりもさらに宮谷の奥にあったとされている。
遺跡
兵庫遺跡
美田ダム取り付け道路の入口から昭和五二年に発掘された遺跡。平成四年からも
再度発掘されている。ここからは5〜6世紀にかけての夥しい遺物が発見されて
おり、住居遺跡とも祭祀遺跡ともいわれている。平成四年五月からの発掘では、
ビーズや魚の歯なども出土しており西ノ島では最大の遺跡といえよう。
小円山古墳
現在長福寺のある丘から土師器が発見された。
立石古墳
現国道四八五号線の大山神社先の田の中から明治末と、大正八年に出土した西ノ
島の代表的な古墳である。明治末年の古墳は既に消滅しており、遺物があるの
み。大正八年に発掘した遺物(金銅装飾太刀・槍・鉄斧・玉)は現在は東京国立
博物館に保存されている。
宮ノ前遺跡
現在大山神社の境内から和鏡が発見された。
美田遺跡
現在、大橋川の大津側の田から石斧が発見された。
店数
山ノ内・岡田・岩井
トピック

長福寺	真言宗東寺派
縁起 「往昔行基当峯(高田山)を霊場なりと見て篭給うに、生身の観音示現し
て、是より北に当たりて浦あり。其に竜宮より来りし嘉樹あり之を以て我が像を
刻んで仏閣を建て安置せよと夢裏分明なれば、行基彼の浦に至りて見れば流木あ
り。之を執りて千手、十一面の二仏を彫刻して、千手を当寺の本尊として十一面
は同郡別府の飯田寺に安置。尚此の流木の残部を以て或修行者枕として、出雲枕
木に至りけるに枕木の観音の御膝に穴疵あり、修行者の枕を合わせたれば符号せ
る由。(美田村来歴)」
明治二年に廃仏毀釈によって一時は廃寺となったが、明治十二年六月二日によう
やく復興の許可がおり、復興することになった。復興に際しては地元出身の天野
快道・大野明演たちに死にものぐるいの努力によることが多い。
伝承の寺院
「龍択寺がわ」「ダージコージ」と呼ばれている古井戸がある。十方拝礼に縁の
深い寺院(龍択寺=道場寺・薬師寺、小山寺)
美田川	西ノ島随一の水量を擁する河川であり、美田ダムによって町のほとんど
の水源をまかなっている。
美田保育所	昭和三十年建設、三十一年保育開始。平成七年新築
老人福祉センター	昭和四十九年建設

小向(こむかい)
旧所属	美田村小向、黒木村小向、西ノ島町小向
地勢	大津と同じく美田湾の中央に位置するこの集落は、海から向かって右側
に美田川をひかえ、この川を挟んで大津と対し、左側は船越に隣接している。
六組(ヌクイ・コンケ・ミヤザキ)
交通機関	別府と浦郷の間に位置し、別府へ三キロ・浦郷へ四キロの場所にあ
る。

区内施設
高田神社    小向と船越の氏神であり、祭神は伊邪那岐命(いざなぎのみこ
と)・素盞鳴雄命(すさのおのみこと)
お堂
遺跡
小向遺跡
加木氏宅の裏崖部よりおびただしい黒曜石・石器・土器などが発見された。
山根畑古墳
現在、大津と小向の分れ道付近から遺物が発見された。
寺ノ峯経塚
高田山の峰の並びにある「寺の峰」の頂上から「経塚」(きょうづか)と思われ
る遺跡が発見された。「経塚」とは、寺院の裏山に壷を埋め、その中に納経した
場所をいう。これは主に平安後期のものであり、出土品は青白磁・銅銭・鏡など
である。
長福寺跡
高田山の峰の並びにある「寺の峰」の中腹に元長福寺跡がある。ここは明治の廃
仏毀釈によって廃寺となり、その後、現在の大津の場所に復興された。
店数
高梨・松浦
トピック
田園地帯
小向と大津の間にある西ノ島では最も広い田園地帯がここにある。これは平野が
あるというだけでは無く、真ん中に豊かな水流をかかえているという意味でも田
園地帯である。「美田」という地名もここから生まれたものではなかろうか。
御腰掛けの岩
後醍醐天皇が黒木御所を御脱出になる途中、美田を通りかかり、小向の面屋(木
村家)が耕作していて天皇の難渋を見かねて、背負って自宅に御案内申しあげ、
庭内にある大石でしばらく御休憩になられた。それから船を仕立てて赤之江の赤
崎に停泊していた伯耆の船まで御送り申上げたと伝承されている。その石を「御
腰掛けの岩」として今にある。その時の礼として天皇から愛染明王像と鳳乳石と
を賜り、木村家に伝えている。
美田小学校
現在波止・市部・大津・小向・船越を学区とする美田小学校の校舎は大正一四年
に建築され、島根県最古の木造校舎といわれるほど頑健な建物である。雨の日に
は「かけっこ」の練習をするほどの広い廊下があり、室内は親子孫三代が同じ風
景が見られる現在では珍しい校舎である。

B&G財団西ノ島海洋センター
昭和六○年五月一○日竣功。ヨット・カヌー・ウィンドサーフィン・ジェットス
キーなど青少年の海洋スポーツセンターである。
美田児童会館	昭和五十二年完成
町営住宅	昭和六十二年と平成元年に建設

船越(ふなごし)
旧所属	美田村船越、黒木村船越、西ノ島町船越
地勢	美田湾の最も奥、向かって最も左に位置する船越は、右に小向を接し左
は浦郷との境界を持っている。湾の奥は船引運河につながり、その運河は内海と
外海を結んで外浜海岸に出て行く。そこからは国賀海岸が始まり、西ノ島に来島
する観光客は必ずやこの集落を通り抜けて行くことになる。また湾の最も奥に位
置するせいか、津波の時に必ず被害が出るのもここである。外海に近い勢か百二
十戸ほどの集落には割合に船が多く、漁業を営むことも多い。
現在、一二組
交通機関

区内施設
公会堂
昭和一○年建設
お堂(万福寺)
高田神社	小向と船越の氏神。祭神は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・素盞
鳴雄命(すさのおのみこと)
浦郷漁協美田出張所(旧美田漁協)	昭和四七年に浦郷漁協に合併されるまで
は、美田漁協として美田の漁獲物を一手に引き受けていた。

遺跡
来居横穴群
朝山事務所から浦郷に向かって一○○メートル程先の崖から八つの横穴古墳が発
見された。この古墳からは須恵器・鉄釘・鉄斧・直刀・土師器・金環等の遺物が
出土された。この横穴古墳は物井の初座横穴古墳と同じく、穴の内部が屋根型に
くり抜かれているのが特徴であり、島前教育委員会の指定文化財になっている。
ニタキ横穴
浦郷と船越の間にある赤灯台近くの穴から須恵器が発見された。
犬遺跡
朝山事務所から山手に向かって少し入った場所から黒曜石片が発見された。
西ノ島中学校敷地内遺跡
現在西ノ島中学校が建っている場所から土師器が発見された。
店数
トピック
安達家(味噌屋)
島前の近世・近代漁業をリードしていた安達家は、越前国より元禄時代頃から船
越に来て鯖網漁業を営んでいたらしい(家譜)。以後仁太夫の代になり、正式に
は享保二〇年(一七三五)に船越に定着している。この鯖網(四ツ張網)が隠岐
での最初の四ツ張網と言われる。
シャーラ船
西ノ島の盆の風物誌であるシャーラ船は、元々今の様に大型では無かったが、明
治三○年ごろ能儀郡から来た坂口某という船越の堂の住職がこれを公案し、集落
共同で大型の藁と小麦藁で仏を送るのが発端であるとされている。それ以前は集
落の各戸が供物を一斉に海に流したので、海岸が不衛生であり、これが原因で疫
病が蔓延したという。この方式は波止・市部・大津・小向・浦郷・珍崎・三度に
も伝播し今に至っている。
露人墓
日露戦争の日本海海戦の折り、敗北したロシア人が流れ着いたので、その墓がこ
の集落の墓所に祀ってある。
船引(ふなひき)運河
大正四年に美田湾と外海を結ぶ運河が建設され、西ノ島の漁船はこれによって効
率のよい漁業を行える様になった。それ以前には船を引っ張って移動したのであ
り、地名も船引。そこから「船引(ふなひき)運河」と命名されることになる。
船越という地名も元々は、これに由来するものと云われている。
外浜
美田湾から船引運河を外海にぬけると、隠岐島では珍しい三○○メートルくらい
の砂浜の海岸があり、そこを「外浜」と呼んで夏には海水浴客で賑わう。
西ノ島中学校
元の黒木中学校と浦郷中学校は、昭和四五年に竣功した西ノ島中学校に統合さ
れ、船越の運河の近くに建設された。
町営住宅
昭和五一年には六戸、五四年には県営住宅(後に町営に移管された) 一六戸建
ての住宅が建設され船越の戸数は一五四戸から一八○戸へ、人口は五二三人から
五四四人に増大した。

観光原稿


観光原稿
観光前史
西ノ島観光のはじまり
ピークの四十年代
変わる観光形態
観光地一覧

観光前史

 いつから、西ノ島が観光の地として意識される様になったのかは定かではない
が、以前は観光というのは名所・旧跡巡りを主とした地方巡り、という意味合い
が強かったともの思われる。古記録においても、国賀などを記してはいるが、こ
こに何々がある云々という具合に、淡々と地名の記録に止めている程度である。
(隠州視聴合紀・隠州視聴記・増補隠州記・隠岐記等)
 旧来、名所と呼ばれたのは黒木御所・焼火権現・文覚窟など、神社仏閣・史跡
が中心であった。このような社寺仏閣・史跡巡りの観光は、少なくとも明治二十
五年までは続いている。明治二十五年に隠岐島を訪れた小泉八雲の旅程スケ
ジュールには、国賀は入っていなかったし、彼がここを訪ねるガイドブックとし
て使用した「島根県管内隠岐国地誌略」(明治十二年発行)にも国賀は記述され
てはいなかった。
 自然景観の様に由緒を伴わなくとも、それだけで鑑賞に値する、景勝地として
の「観光」の兆しは案外に新しく、西ノ島では明治四十二年が最初ではなかろう
か。「知夫郡浦郷村情況調査書」には国賀を次のように紹介している。「・・
又、本村字本郷より離るること三十町あまりにして、字国佳(国賀)と称する海
浜勝地なり海岸、及び所々に点在せる島嶼はすべて奇岩怪石よりなり、風景絶景
なり、もし天朗にして波静なる日一葉の小舟に棹して此地に遊べば俗塵を離れて
壮快の気、自から禁ずるにあたはず、故に当地に遊ぶ者は必ず足を此地に入れざ
る者なく、本村における名勝地として挙ぐるに足るべき勝地なり。」
 昭和初期には隠岐汽船社長であった安達和太郎は、当時としては型破りと思わ
れるくらいに観光を強く意識した船として隠岐丸を建造している。船に対する注
文の第一は、壱等室、貴賓室、喫烟室等の施設の重要性、次に客室の窓を四角く
大きくした。(当時は普通の船は小さく丸い窓であった)、また第二隠岐丸は客
室を広くするためディーゼルエンジン(当時、小型船のディーゼルエンジンは少
なかった)にした。実際に処女航海の段になると大阪毎日新聞主催の観光団体を
招いて乗船させ、隠岐島の観光宣伝にこれ努めている。
 しかし、一般的に本土の人に知られるきっかけになったのは、昭和七年(一九
三二)島根県観光協会から委嘱を受けて、河東碧梧桐(かわひがしへきごとう俳
人)が、視察の任に当ってからである。彼は、その視察スケジュールに隠岐が
入って無かったのを不思議がり、急遽、隠岐島を視察地に入れた。河東碧梧桐
は、この事を東京に返り中央公論に発表した。それから文化人が隠岐に詰めかけ
る事になる。当時ここを訪れた理博士・脇水鐵五郎は「明暮の岩屋」「摩天崖」
という地名を命名した。昭和一三(一九三八)年には国指定名勝天然記念物指定
地に指定された。
 浦郷では、昭和二十年に町営旅館を開設したが、これは沢野岩太郎氏が役場庁
舎に寄付するため菱浦から購入した建物で、町は氏の承諾を得て旅館に改築し運
営を崎津繁男氏に委託した〈現在の鶴陽旅館〉。昭和二十二年、桜井伊勢太郎氏
が率先して観光協会(浦郷町観光協会か)を設立し、自ら事務所を自宅に置いて
国賀の宣伝・案内に努めた。

西ノ島観光のはじまり
昭和三〇年代初期には観光客は徐々に隠岐に入ってくるようになったが、その数
は今ほどではなく、まだまだのんびりとしたものであった。観光の客は増えても
それを運ぶ隠岐汽船は夜航海で、夜中に境港を出発し、早朝に島前へ到着。船も
岸壁に着岸できないので、沖に停泊している処へハシケで輸送した。船への乗り
降りは暗い時間に限られていた。船が着くと暗い港で客の案内や宿の手配をし、
また、夜中に船に乗り込ませる。観光の係りは寝る暇もなく応対に追われた。
 当時の観光客は全体的に若い世代で、特に学生たちは足にはキャラバンをは
き、背中にはリュックを背負って、歩くのは当然という出で立ち。そういう意味
では、島民の「よそ行き」の格好とは正反対だったのが当時の若者の旅行姿で
あった。
 昭和三八年に大山隠岐国立公園に指定されると、観光客は急増した。当時の状
況を振り返って坂本勲氏はこう回想している「この年から隠岐を訪れる観光客の
イメージは一変し、相当年配のお年寄りは勿論のこと、ハイヒール姿のモダン女
性、又は和服姿の中年女性、そして男性のほとんどは背広(スーツ)姿といっ
た、全く予想もしなかったお客さんのスタイルに、ただ驚くばかりでした・・」
 この年には、おきじ丸も就航し、ようやく昼航海もはじまったが、夜と併存し
ていたので受け入れる側にとっては忙しさも倍加した。隠岐での観光時季は夏に
限られ、そこに集中して客が来島するものだから、いつも混み合った。
 昭和三九年には国民宿舎国賀荘も完成したが、それでもすべてすべてを補える
ものではなかった。短時間で多くの場所を見物し、しかも安いコストであげる旅
行が多かった。こうした客に応えるために、民宿・ユースホステルという手軽な
受け入れ施設が、民間の力によって徐々に充実されていった。西ノ島に来て国賀
と海水浴だけでなく、民謡をもって歓迎しようと地元の有志が集まって「キャラ
バン隊」が結成されたのもこの年であった。

ピークの四〇年代
 昭和四〇年大浜町長が姿勢方針演説で「漁業・観光・牧畜」を西ノ島の三本柱
とすると発表。この年に島後では隠岐空港が開設され、西ノ島では春に第一回目
の「国賀びらき」が開催された。翌々年には観光宣伝として西ノ島町を国賀町に
変名するという話題が議会で検討され、町は観光で一色に染まった。国賀巡りの
観光船は多数をきわめて、隠岐観光株式会社が設立されたり、皇太子殿下、同妃
殿下(現天皇)が国賀や黒木御所を訪れたのもこの年であった。
 昭和四三年から四七年にかけて、国賀レストハウス、鬼舞スカイライン、国賀
港完成、別府港に観光センター建設、初のフェリーボート「くにが」就航など矢
継ぎ早に観光施設が整って行き、ついに四八年にはピークの一七万人の観光客が
西ノ島に訪れた。当時は国鉄のキャンペーン「ディスカバージャパン」が全国に
浸透しており、都会から田舎に旅するのは若者のファッションでさえあった。

変わる観光形態
 昭和五十年代に入ると、隠岐汽船はフェリー「くにが」に次いで「おき」「お
きじ」を建造し、五十八年には高速船「マリンスター」が就航して、船の大型化
と高速化が図られたが、観光客数は減少した。
 この頃から日本の観光は海外に目を向け、若者は海外に行く傾向が顕著になっ
てきた。一方、国内旅行は旅行業者によって中高年を主体とした団体旅行が組ま
れ、国内の観光地は老人で賑わっているのが一般的な光景であった。隠岐はある
意味では中央に知られ、横溝正史原作の「悪霊島」のロケ地として西ノ島が使わ
れた。
 ピーク時には個人もしくは少人数の旅行が多かったが、段々と旅行業者を中心
として団体旅行が大きい割合を占め、客層も若者から中高年へと変わっていっ
た。
 六十年代になると、ただ景色を眺めるだけでなく、若者を対象とした観光が意
図され、「参加する観光」が企画された。昭和六十年、初の体験学習を中心とし
た修学旅行が誘致され、東大阪市の生徒が二七二人訪れた。この年には西ノ島海
洋センター(B&G)が開設、ファミリーマラソンも開催された。以後、オキ・
アイランド・トライアル、耳浦キャンプ場、マリンパーク弁天の開始など、イベ
ント参加型観光企画が展開されていった。

観光一覧

国賀(くにが)
船引運河をぬけて、左側の海岸沿いに三度(みたべ)まで進む行程を国賀海岸と
いう。国賀という地名は、一六○○年代にも、記録されてはいるが、いわゆる景
勝地としての国賀では無い。単なる字名である。古くから「浦郷村と美田村の海
の境界争いの時にどこそこの松が、その境線である。」といった具合に・・・。
即ち、国賀の、海は漁場であり、陸は牧畑であった。当時の国賀の風景は、陸に
は、秋になれば麦がたわわに稔ったり、その後を牛が草を喰む姿も見えたし、海
にはカナギや漁船が浮かんでいたであろう。
 ゴルフ場の様な今の風景は、昭和三八年の離島草地開発事業に端を発してい
る。国賀が「緑の草原」というイメージは、そこから始まったといっていいだろ
う。それまでは、牧畑なので、大麦・小麦等々の穀物を生産しながら牛馬を放牧
する牧場であった。(牧畑参照)
 観光地としての国賀は、昭和初期から一部には知られていたが、産業を成り立
たせるほどの脚光をあびるには昭和三八年の国立公園化を待たねばならない。そ
れまでの日本の観光は、名所・旧跡・史跡(神社・仏閣)が主であって、単なる
自然景観のすばらしさだけでは観光の対象とならなかった。魔天崖(マテンガ
イ)はトノヅ。通天橋(ツウテンキョウ)はマドジマ。鬼ヶ城(オニガジョウ)
はオンガツメと地元民に呼ばれ、漁場の目印、もしくは単なる字名であった。
 昭和三八年以降、夏場にはひっきりなしに観光船が往き来するに至って、元々
の字名よりも、国賀の名所としてのいわゆる観光名の方が、一般に知られるよう
になる。国賀という名前に至っては、旅館名・観光船名・隠岐汽船の船名、最後
には町名変更の話題にまで発展することになった。
 国賀観光の遊覧船は、昭和二四年、重谷乙郎氏によって開始された。次に三四
年西ノ島町観光協会が設立され、三六年には、国賀のキャンペーン民謡「国賀ド
ント節」がレコード発売、大山隠岐国立公園指定の三八年には浦郷から国賀に道
路が開通し、陸上からも観光可能になった(この道路が西ノ島町初のアスファル
ト道路となる)。本格的に観光客が訪れたり船が頻繁に往来するするのは、昭和
三八年の国立公園指定頃からで、この年には、隠岐汽船も「おきじ丸」を造船。
次の年からは、国民宿舎「国賀荘」、隠岐民謡観光キャラバン隊結成など、この
町は観光に向けて一斉に走りだした。今日の隠岐島観光の代名詞として国賀はあ
る。

黒木御所(くろぎごしょ)
別府湾に位置する小高い丘の頂上にあり、後醍醐(ごだいご)天皇が配流され
て、約1年お住まいになられた場所であり、昭和三三年には県指定の史跡に指定
されている。平成三年からNHKの「太平記」が始まり、脚光をあびるにいたっ
た。関連の史跡としては、三位の局館跡・判官屋敷跡・千福寺跡・御腰掛けの
岩・赤崎がある。(写真挿入)

局屋敷
三位局(さんみのつぼね)(本名は藤原廉子)は、天皇につき従ってこられた女
性の一人であり、その御方の屋敷跡と目され、別府の坪ノ内(つぼのうち)とい
う場所にある。
    (写真挿入)
判官屋敷跡(はんがん)
貞永元年(一二三二)・島前三島を管轄する役所のあった場所。
御脱出の折りの隠岐の守護 大名は佐々木清高であった。その屋敷跡とされるの
が、別府のニシノイエという場所にある。
    (写真挿入)
千福寺御座所跡(せんぷくじござしょ)
別府の道場ノ前(どうじょうのまえ)という場所にあった、後醍醐天皇の行在所
に充てられ、天皇の御守本尊毘沙門天絵像を奉安して、ご冥福を祈ったと伝えの
ある寺院である。
    (写真挿入)
御腰掛けの石
小向の木村氏(面屋)の敷地内にあり、天皇御脱出の折り、乗船までのしばらく
の間、御休憩されたと伝えられている。その時に拝領したという「愛染明王懸
仏」を今も伝えている。
(写真挿入)

赤崎(あかさき)
赤之江から珍崎に向かって少し行ったところに、後醍醐天皇が船に乗って
脱出されたと云われる場所である。ここに伯耆国(今の鳥取県)の船が天皇をお
待ち申上げ、無事に知夫港に御到着になった。
(写真挿入)

浦郷町史から抜粋(島根県口碑伝説集から)

赤崎の伝説
佐々木隠岐判官のこと
元弘の昔、後醍醐天皇隠岐に遷幸あり。別府村黒木御所に行在中、北条高時の下
知により、浦郷村字城山と云ふ塞を構え、佐々木隠岐判官之に在城し、又同村字
番屋と云ふ所に番所を設け、遠見番を置く等防備頗る厳重であった。されど判官
の心中には、如何にしても密かに、内地に送り奉らんと思って居る。時恰も浦郷
港字赤崎という所に伯州船が碇泊していた。是れ正しく天幸なりと。二人の密使
を選んで御所に忍ばせ、元弘二年壬申八月一日、天皇を密かに送り奉る。美田字
宮崎と云ふ所までは、陸路を背負ひ奉り、それより御船に召され、浦郷港碇泊の
伯州船へ遷し奉り、御船は密かに漕ぎ出でた。皇船の港を離るること、凡そ十余
里の沖合に出でさせ玉ふ由を番所より注進に及び、判官は大いに驚いた面持ち
で、片時も早く追船を漕出せよと船夫等に命令し、数隻の船を揃えさせ追い掛け
たけれど、順風に真帆を上げたこととて、皇船は走ること矢の如く、影も見えず
なって、追っ手の船は空しく引き返した。(島根県口碑伝説集)

赤之江の地名伝説
元弘の昔、後醍醐天皇小向の里から小舟に召されて、今の入江を赤崎の岬に急が
せられる際、過って笏を海中に取り落とされた。それから此処を笏の江と称えた
ので、後世赤崎の赤を入れて赤之江と訛したものである。当時の御製として、
幾度か思い定めてありながら
夢やすろはぬ赤崎の宿(夢さすからぬともあり)

朝な夕な民やすかれといふだすき
    かけて祈らん茂理の社に
など古老の口に語られている。この第二に「朝な夕な」の歌は松浦静麿氏の説に
よると、西郷町の流人となって在住した樋口功康作の歌であるとの事である。

焼火神社(たくひ)

焼火山の中腹にあり、明治以前は焼火山・雲上寺であった。一般的には焼火権現
として知られる。縁起は、十二月三十一日の夜中に海中から三つの灯が上り、そ
れが現在社殿のある、巌(いわや)に入ったことから焼火権現が始まったとされ
る。平安時代から全国に海上安全の神として知られ、安藤広重・安藤広重二代
目・葛飾北斎も諸国百図で焼火権現を描いている。現在でも旧暦の正月中には、
ハツマイリといって島前の島人がこの神社にお参りする風習が続いている。
(写真挿入)(版画挿入)
〈隠岐・焚火ノ社 北斎漫画〉

国指定重要文化財    焼火神社本殿・通殿・拝殿
国指定重要民俗資料   ともど舟
県指定有形文化財    銅鐘
県指定天然記念物    焼火神社神域植物群
町村指定(史跡)    焼火神社社務所石垣
町村指定(有古)    紙本墨書・焼火神社縁起書
町村指定(有古)    紙本墨書・沙門良源勧進帖
町村指定(天記)    カラスバト繁殖地
町村指定(天記)    カゴの木


 文覚上人(もんがくしょうにん)

「平家物語」「源平盛衰記」などに登場する僧侶で、数回にわたって配流され、
最後にはここで全うされた。一回目の配流(遠島・島流し)は伊豆諸島であり、
そこで源頼朝と知り合いになり、平家討伐の切っ掛けを作ったとされる人物であ
る。頼朝が鎌倉幕府を開幕してからは、大勢力をほこったが、頼朝の死去にい
たって、中央から排除され、最後に隠岐島に配流れたと伝えられている。
文覚窟は、波止と大山の中間の海辺にあり、現在は交通手段がない。
(写真挿入)

 外浜海水浴場(そとはま)
西ノ島を結果的に二分する、船引(ふなひき)運河をぬけると右手には隠岐島で
は珍しい砂浜、外浜海水浴場があり、ここは国賀海岸の入口でもある。ここの砂
は、貝の小粒が寄り集って出来た砂浜といえる。
(写真挿入)

鬼舞(おにまい)赤尾(あかお)スカイライン
鬼舞=昭和四四年・赤尾=昭和四八年完成。 西ノ島町の西側の山頂を通過する鬼
舞・赤尾スカイラインは、外海と内海 を同時に見渡せる山頂道路で、まだ3分1
は、舗装されてはいないが、 オキ・アイランド・トライアルなどの出場者にはそ
れが、荒らされていない 印として好評がある。(写真挿入)

 西ノ島海洋センター(B&G)   B&G(ブルー・アンド・グリーン財団の
略語
)は、本来は地元の子供にとっての施設であったが、ヨット・ウィンドサーフィ
ン・ジェットスキーなど、マリンスポーツに欠かせない施設があるため、体験学
習生徒・一般観光客にも開放されるようになった。

観光イベント
ファミリーマラソン
昭和六○年(三月三一日)・六一年(四月二九日)家族も一緒に参加する形式の
マラソンが、この年から西ノ島町で開催され、浦郷・別府間がそのコースとなっ
た。町おこしイベントで、島外者を多く想定していたが、案外に町民参加者が多
数参加して、賑わった。
(写真挿入)

オキ・アイランド・トライアル

昭和五九年五月四日開始されたオートバイの全国大会。トライアルとは、傷害物
のある一定区間をオートバイで通過し、いかに足をつかないかという競技であ
る。
西ノ島町制三十周年記念事業の一環として、西ノ島町・商工青年部・観光協会・
青年団・トライアルクラブひぐま、の五者が主催となり、北は新潟・南は熊本か
ら一三二人の参加者を集めて開催され現在に至る。
(写真挿入)

修学旅行誘致
昭和六○年に関西地方を中心に体験学習と称して隠岐島特に西ノ島 に都会から修
学旅行生が訪れるようになった。東大阪の高校生二七二人
(写真挿入)

観光客数推移
 観光の統計によると昭和三七年(一九六二)には、約九,○○○人、 昭和四八
年(一九七三)には、ピークの一六五,○○○人に達し、そこからは 序々に下降
線を辿って、今(平成二年)は昭和四五年(一九七○)と同様一○万人に至って
いる。(黒棒は西ノ島、白棒は隠岐島)昭和三、四○年代は若者が多く、五○年
代に入ると壮年・老年主体の観光地となっている。

参考文献
「島根県管内隠岐国地誌略」
「知夫郡浦郷村情況調査書」
「知夫郡黒木村情況調査書」
『浦郷町史』
『黒木村誌』
「島根県口碑伝説集」
「隠岐の文化財」
『観光の事始め』

史跡と伝承(松浦康麿)


史跡と伝承(松浦康麿)
黒木御所ー後醍醐天皇行在所はどこかー
一、序
 日本が国として統一され、国郡制も定まり、法(律令制)をしいて国の行政機
関がととのチた。その頂点にあるのが天皇家であチた。
 この体制は奈良から山城(京都)へと都が移チたいわゆる「平安時代」まで続
いた。この時代までの武家は、身分は低くそれぞれの本拠地の地方から召し出さ
れて、都の治安に当たるのがその任であったが、武家の平氏は本拠地を都に構
え、徐々に力をのばして官職も藤原氏にとって代わるまでになっていった。
 これに対して同じ武家である源氏は、内々に皇家の命を受けて平氏を滅ぼした
(文治元年 一一八五)。これで平安時代の体制になると思われたが、源氏の頭
領であった頼朝は、本拠地を関東の鎌倉に置いて幕府を開いた。
ところが武家の棟梁である、源頼朝は鎌倉に本拠を置いて幕府を開いた。
それまでは武家でも天皇から官位をいただき任命されていたが、幕府が出来てか
らは、各国々を治めるために「守護・地頭」を設け、天皇の任命による「国司」
があるにもかかわらず、幕府が権力によチて勝手に任命するようになチた。いわ
ば国を治める為の権力が二重構造になチたわけである。(武家法の制定)
 そこで後鳥羽天皇は国の統治を以前の姿に返すためには、幕府を武力を以て滅
ぼさなければならないと決断してこれを決行した。いわゆる「承久の変」(一二
二一)であるがこれは失敗に終わチた。
 それから約百年後、後醍醐天皇が再び倒幕を決行したがこれも成功せず両度と
も幕府(武家)によチて天皇は隠岐国に遷される事になチた。しかし、これによ
チて天皇家を無くそうというわけではなかチた。武家方の考え方は、自分等は何
も天皇家を滅ぼす為に武力を用いるのではない。天皇の方から武力を以て我々を
滅ぼそうとした。(武家方は天皇御謀反と呼んでいる)だからそれに対して武力
を以て立ち向かチたわけである。いわば武家にとチては死活問題であるから当然
であるというわけである。戦いは武家方の勝利によチて終結した。そして、その
戦後処理として両天皇は「隠岐国へ御配流」させられた。

二、問題の発端
後鳥羽・後醍醐両帝は何故「隠岐国」へ御配流と決まチたのか。それは武家が権
力を持チても法治国である事に変わりは無いから「律令制」の規定によチて執行
したのである。その規定の中で死刑の次に重い刑に「配流刑」があり、遠流の国
として「隠岐国」外五カ国が定まチている。後醍醐帝の時は、後鳥羽院の前例が
あるので、これに準じて執行されたのである。ところが「隠岐国」と規定されて
いても配流地の中の何処にするかという事までは規定されていないから、その決
定にあたチては、おそらくその地の守護の意見を聞いて決定され、その監視の責
任は守護にまかされたのである。
 したがチて当時の幕府の記録には場所もはチきりしているはずであるが、配流
先は「隠岐国」とのみあチて大体の記録からでは詳細な場所を特定することはむ
ずかしい。それは、その地の遺跡と伝承による外はない。
 後鳥羽院の場合でも記録で地名の出るのは「吾妻鏡 巻二十三」に
「八月五日丙辰上皇遂著御平隠岐国阿摩郡刈田郷」とのみあチて「源福寺」とい
う事は出ていない。後醍醐帝の場合も中央の記録に出るのは「増鏡」に「海づら
より少し入りたる国分寺という寺をよろしきさまにとりしひておわします所に
云々」と「太平記」に「府ノ島トイフ所ニ黒木御所ヲ作リ皇居トス」と出ている
のみである。
 これを書いたのは隠岐の地理を詳しく知らない者の記録であり、又これを読む
者も「国分寺」も「黒木御所」も同じ場所にあるくらいにしか考えなかチたであ
ろう。
 ところが後世になチて、この事を研究するために現地に来てみると「国分寺」
は島後にあり「黒木御所」は島前・別府の地にあることがわかり、それではどち
らが本当であるかという事が問題となるのである。
 これを問題としたのは中央の歴史学者である吉田東伍博士である。明治三十五
年に発行された『歴史地理』への発表が、この問題の初まりである。次いで明治
四十年代に県史編さん者の野津佐馬之介氏が県史によチて国分寺説を発表した。
 これに対して、島外では後藤蔵四郎氏、島内では松浦静麿氏、藤田一枝氏等が
研究を発表して国分寺説に対抗した。現在のところ藤田氏の論考より研究は進ん
でいないのでこれを要約して紹介し、それに私見を加えて述べることにする。

三、島の伝承と内地の記録
 先ず初めに「国分寺説」の根拠になチた史料は
(一)増鏡
(二)送進鰐渕寺文書等目録の二点である。
国分寺説を説く研究者は右を根拠にして、それに江戸期の文書も入れて論ずるの
であるが、ただここで一番問題になるのは「国分寺」にはこれに関する伝承のな
いことである。
 これに関して藤田氏は『行在所問題に於ける伝説の占める比重について』の一
項を設けて「池田の国分寺がその昔天皇の行在所であチたとしたならば、一カ年
近くもの間、天皇行在所であチたと言う、その寺、その土地に何故そうした言い
伝えが残らなかチただろうか(中略)」「それは今日や昨日に無くなチたのでは
なく寛文七年(天皇御脱出後三百三十四年)には既になく、更に遡チて永正四年
(一五〇七)(天皇御脱出後百七十四年)に既になかチたと信ずべき理由があ
る。歴史家という科学者は「伝説」を軽視する。そして「書き物」を過信する。
 隠岐に於いて六百年前の古文書を持ち続け得ない事は島の経済力の貧しさによ
る。
 しかし一世を転倒した日本史の大事件のしかもその主役である天皇が約一年に
わたる間住まわれたという寺、しかもただぼんやりと余生を送られたと言うので
なく、心中深く回天の構想を練チて、苦悶の日々を送られたというその土地に、
しかも万人の予想を裏切チて「脱出」という大ドラマを演出されたその発足の地
に、百七十四年後に既に伝説も何も消えてしまうという事があり得ようか。事、
天皇に関する限りただ一時の腰の疲れを癒されたと言う「腰掛の石」一つさえ注
連縄を張り廻らし言い伝えられて来た時代に、一年の御生活は民衆の語り草とな
チて物語が残されるほどのものではないか(中略)」
 「隠岐国のどこにもないにもかかわらず、何故黒木にのみ行在所とその御脱出
にまつわる伝説が数百年にわたチて豊富に語りつがれ、又、それに関連する遺物
が種々伝来したのであろうか。しかも北朝の天皇が皇統を伝えた時代に「現世利
益」に何の効もない後醍醐天皇を神社に祀り、崇敬の祭祀を維持し来チた。数百
年の史的事実を如何に解釈すべきであるか。島後の「国分寺」を行在所とするな
らば右の如き歴史的事実に対して心有る者は先ず首を傾けざるを得ない。
 問題は「黒木か国分寺か」ではない。「隠岐にある伝説」と「内地の記録」の
矛盾とをどう調整するかの問題である。
 同じ問題に関して「黒木」と「国分寺」両方に数百年来持ち続けた伝説があチ
て、その何れが本当であるかを比定する場合に、海の彼方の史料によチて、その
一方が真実である事を立証する事は可能である。真相はそうではない。隠岐にお
ける伝説は唯一つである。他には何もない。そして、それに対立する資料は内地
において、内地の人が書いた文献である。古文書偏重の史学[古文書に書かれた
記事は一言一句真実である。古文書の支証がなければ総て否定すべきであるとす
る態度は、地方史を研究する場合には考えねばならぬ態度である。(中略)」
 その記事が島の現地を実地踏査した者が書いたかどうかが問題である。現代に
おいてさえ、島に現に来た学者の中には内地へ帰チて隠岐の事を書いた文章の中
で地名錯誤を冒している例がいくらでもある。』これも数百年後の者がみた場合
にはそのままに事実として使うのである。
四、島後に伝承のないわけ
 「後醍醐天皇が「国分寺」においでになチたのを我等の祖先が忘れて、あるい
は間違えて「黒木の御所」においでになチたと言い伝えて数百年信じて来た。そ
れを今また内地の人に教えられて思い出したなど、およそナンセンスではないか
(下略)」
 まチたくその通りであるが、しかし研究には文献があれば先ずそれにより、
「黒木の伝説」の存在する当然の理由、また国分寺に伝承のない事の当然の理由
に対する例証を挙げるのが順序である。
 後鳥羽院が隠岐に御配流になチて行在されたのは当時刈田郷にあチた「源福
寺」であチた。行在所が国分寺であるなら、当時「国分寺」が立派な建物として
実在していなければならない。そこで藤田氏は「国分寺の衰退」の資料を挙げて
証明しておられる。その資料として国分寺復興のことにつとめられた権少僧都憲
舜が書き残した「国分寺再興置文之事」を挙げている。、今はその原本はなく、
写本が残チている。
 これを全部引用すると煩瑣になるので、その内容を要約すると、「国分寺は
(一)推古天皇の建立
(二)聖武天皇の御再興
(三)安徳天皇の地蔵堂御祈願のこと
(四)後鳥羽院の三重塔婆の御祈願等々
と述べたすぐ後に「爰(ここ)ニ本堂久シク大破ニ及ビテ棟梁柱根皆以テ朽損シ
テ更ニ修造ノ便ト成ス可キ様ナシ」と国分寺本堂大破の模様を書き列ね、再興に
あたチて思い切チて遺構に大改変を断行。「本堂ノ屋根ヲ塔之下ニ引下シ、本堂
之跡ニ地蔵堂ヲ立テ、始メテ本堂ノ屋敷ヲ引ク」とある。
 天皇に関する由緒を書き並べながら
(一)後醍醐天皇に関する事が一つも書かれていない
(二)現在国分寺の創建の本堂跡として保存されている礎石の配置は、奈良時代
の国分寺創建の遺跡でなく、憲舜が改造した時の礎石の配置である。」
以上のように、後醍醐帝の時代には衰退の極にあチたと思う。右のようであれば
既設の「国分寺」を行在所にするわけはない。

五、伝承の記録
 地方(じかた)文書で、後醍醐天皇の事にふれている最も古いのは、「隠州視
聴合紀」(寛文七年 一六六七)である。著者斎藤勘助は、寛文七年秋より八年
の秋まで「郡代」として隠岐に赴任・在住した。彼は赴任早々に島前・島後と隈
無く歩いて詳しくその見聞を書き残した。
 今「国分寺」の項と「別府」の項をあげると
国分寺
 「国分寺村は東山の間、平村に対せり。寺は昔伽藍にして当国の第一なり、西
の翠微を禅尾と言ふ。故に寺を禅尾山と号す。本堂に入る所に二王門あり。堂前
は高原にして四顧空闊なり、老樹処々に在りて野草芳微たり。院は東の山下にし
て、左右松杉日を蓋ひ青苔自ら塵なし、山旁々に囲み、渓水湲々と流来る。籬を
遶りて三径微なり。院は漸く古りて香煙靡くばかりなり。寺僧伝へて曰く、賊徒
乱入の時、経書に縁起を交へ奪去チて絶へけらし。昔より只伝へて真言の法を修
す。又昔の勧進帳あり。其略に曰く、本堂は聖武天皇の時に造立す。西の側の地
蔵堂は安徳天皇の時に営す。三重の塔婆は後鳥羽院の時に作るとなり。又永正四
年の頃、阿闍梨権少僧都憲舜という僧、此寺の廃破を哀しみ、時の県主新五郎宗
清に請ふて近国に奉加を勧む。其奉行は宝定寺若狭守重高、村上信濃守清景と
ぞ、然るときは其美なる知るべし。禅尾を隔て一村あり。南山を登れば有木村に
至る左の岡に尼寺あり。西に出づれば大道あり、所謂山道筋なり。」
別府
「府より北の山崎を黒木という。伝に曰く。昔後醍醐天皇しばらく狩し玉へる所
なり。故に今に到りて黒木皇居と云ふ。北の方海に随ひて東が崎と云ふ所を過ぐ
れば、北の山を香鴨といふ、寺ありて香鴨寺と号す、其崎を廻り行けば、十四町
ばかりにして宇賀村に至る。」

さらに詳細な「隠州記」(貞享五年 一六八八)の国分寺の項をあげる。
「禅尾山国分寺 真言宗 寺領五石 釈迦薬師 弥陀三如来 是ハ人王三十代欽
明天皇御祈願所ト言伝也。四天王寺有、仁王門在、其他寺家六坊在(中略)三重
塔、鐘楼堂ハ絶テ今礎石バカリ残ル。此寺ハ五年ニ一度蓮華ノ祭トテ本堂ノ前ニ
舞台ヲ設テ笛、太鼓ヲ奏シ児童再三出テ舞曲ヲ成ス、寺僧数人出テ色々ノ舞有
リ。獅子舞、田楽有リ(下略)「山王権現、熊野権現、池畦大明神、八幡宮、清
滝権現」
 右の記事によチても、国分寺内に後醍醐天皇に関する何の伝説もうかがうこと
が出来ない。現在国分寺境内にある後醍醐天皇の祀堂といわれているものは後人
の付会であチて、ここにある山王権現か、明治二年当時にあチた東照宮の祠であ
ろう。(「島後神社巡察日記」)
 後醍醐天皇の行在所のことは二書いづれも「別府」の項に記されている。
 煩瑣になるので以下資料の主なるものをあげておく。「隠州視聴記」「隠岐往
古以来諸色年代略記」「隠岐古記集」「一宮巡啓記」等のいづれも島前の別府に
あると記されている。松浦静麿の「黒木御所史料輯録」に掲げた資料の外に、藤
田氏の発見になる「宇野家家譜」(宇賀、宇野家蔵)の中に行在所の位置につい
ての記述があるので掲げる。これも江戸期の写本であるがこの文書の内容からし
て書かれた原本の年代は暦応元年(延元三年 一三三八)からあまり遠からざる
年代であろうと藤田氏は考察しておられる。
 「正慶元年壬申三月二十三日、字中原申エ御遷幸有、之処ニ農三軒、與次郎、
房次郎、清九郎、同夜與次郎屋ニテ一宿(中略)同二十四日勝丸ノ宿ニ御光遷被
遊、中ノ原ヨリ二町東。
 同二年酉ノ春二月十八日朝美田ノ津ヨリ御帰有(中略)暦応元年寅七月守護楠
正行送リノ御号地名與次郎処ヲ御壷ノ内中場ト申処ヲ王城と申外黒木御唱(下
略)」とある。

六、国分寺説の根拠
 島前黒木説の資料はこれくらいにして国分寺説の決め手となチた資料をあげ、
検討することにする。これは藤田氏の考究である。
 これは詳しく資料の全文をあげるのが本意であるが、長くなるので要点のみを
あげることにした。
元弘二年(正慶元年)八月十九日後醍醐天皇は隠岐行在所より出雲国鰐淵寺南院
に対して左の願文を送られた。
発願事(書き下し)
「右心中の所願疾に成就せしめば、根本薬師堂の造営急速に其功を終へ顕密の興
隆を致すべき之状件の如し
元弘二年八月十九日(花押)」
 天皇は「心中の祈願成就」のために鰐淵寺のみならず隠岐島内の諸社寺へも祈
願のあチた事は島後都万「天健金草神社」の縁起にも記載されており、その一端
をうかがうことができるが、今こうした「御願文」は島内各社寺には残チていな
い。
 さすが出雲の名刹鰐淵寺である、天皇の「御願文」を今に伝えている。これを
受けた僧頼源は、貞治五年(一三四九)三月二十一日の時点において老衰のため
余命いくばくもない状況下に自ら拝受し保管中の文書数十通を浄達上人にゆずり
永く後生に残さんことを期した。その譲渡文書の目録の中の注釈的記述が「国分
寺説」の支証として取り上げられたものである。

送進鰐淵寺文書等目録事
(張紙)鰐淵寺々務井福院衛門督律師執行自筆法橋筑兼ハ律師御房祇候
    後醍醐皇帝
一通  先朝御願書
   元弘二年八月十九日於隠岐国分寺御所被下之、上卿千種宰相中将忠顕卿
一通 吉野帝御願書
   興国二年八月二十八日於大和国吉野御所被下之、上卿洞院右大将実世卿
一通 同重御願書
   正平六年九月八日於同国賀名布御所被下之、上卿四條大納言隆資卿
 巳上三通御震筆也頼源賜之
(以下略)(全部で二十二通)
貞治五年午丙三月二十一日
   権少都頼源(花押)
 浄達上人御房

 右のように頼源の花押があるので頼源自筆と考えられていたが、前記のように
張紙によチて筆者井福院衛門督律師が書き、法橋筑兼が律師のそばに立ち会チて
いたというのである。
 初めてこの文書を発見したのは野津左馬之介氏(旧県史編さん員)だが、野津
氏はなぜか張紙のことには触れず、「於隠岐国分寺御所被下之」とあるからには
頼源は隠岐の御所にうかがチて直接御願文を受けているので「国分寺」が行在所
であることは間違いないというのである。「国分寺御所に於て」と解したのであ
る。藤田・松浦氏等は「於て」を「国分寺御所於り(より)」と解して、頼源は
隠岐には渡チていないとの見解をとチている。
 藤田氏は頼源自筆の「目安状案文」なる資料によチて、これには「(上略)先
朝、自(より)隠岐御所、去る元弘二年八月、忝くも震筆の御願書を当寺根本薬
師堂に篭めらる、依て朝敵滅亡の御祈念を致せらる、程無く翌年元弘三年先代悉
く誅伐され畢んぬ(下略)」
 右にあるように頼源自筆の文書には「自(より)隠岐御所」と書いてあチて
「国分寺」と書いてない。
 考えるに、監視のきびしい行在所に頼源が伺候して受けるということが実際に
はできることであろうかと疑われる。「国分寺説」の決め手となチた文書である
ので要点のみを挙げて藤田氏の考究された点をあげた。

七、守護職の在住した役宅はどこにあチたか

 平安時代までは「国司」の役宅である「国衙」は島後にあチた。ただしこれが
中世期になると主たる役宅は島前の別府に移チたのではないかと思われる。
注置
  都万院堺事
四至
  東限保土畠 柄峯  西限神船岸 片着石窪
  南限座着  神島  北限未路二本椙 焼杉
 (上略)那具先頭刑部尉重基父子共彼堺之事致諍令訴訟之時、去貞永元年八月
之比常当守護宇賀郷入部時、那具地頭代公文百姓列参之時無異論之由申切畢(下
略)
寛元四年丙午九月朔

 右の文書は都万院の境界についてのもの(旧島根県史)であるが、その中に
「貞永元年」(一二三二)に守護が島後から島前宇賀郷に移チたことが書かれて
いる。何故にこの時代に守護の住居を移さなければならなかチただろうか。それ
は恐らく承久二年(一二二〇)に隠岐に配流させられた後鳥羽院の監視という事
が第一の理由はでなかチたかと思われる。であれば海士に移ればよさそうである
が、以前から島前では今の別府の地に国衙の出先の役人の居宅が設けられていた
のかも知れない。(後世には郡代は島後におり代官役宅は島前、島後の両方にあ
チた)後醍醐天皇の時代になチてもそのまま主たる役所は島前ではなかチたろう
か。この時代、近江の佐々木氏は出雲・隠岐を兼帯していた。

八、天皇の御脱出
 次に天皇御脱出についてもふれておく。「太平記」には御脱出の港は「千波
湊」とあり、これは今の知夫港である。
 島後国分寺からの御脱出であれば、何故島前の知夫湊を経由して御脱出せねば
ならないのか。風の方向も本土への場合と島前の場合は方向が異なる。ところが
島前の伝承では知夫湊には伝承が無く、西ノ島の赤之江からの御脱出が言われて
いる。これについては松浦静麿は後醍醐天皇一行の御脱出と三位局一行の御脱出
の二回があチたのではないか。別府から小向(美田湾)に出られたのは同じで
も、天皇の御脱出は闇夜に決行され、三位局の御脱出は昼間の出来事であチたの
で、この二回が混同されて伝えられたのではなかろうかと考察している。この御
脱出には別府近藤家、美田尻近藤家をはじめ島人等の供奉協力があチたと伝えら
れてる。後醍醐天皇、三位局は同じ場所に場所におられたことは間違いないので
いづれも島前からの御脱出であチたわけである。

九、遺物について
 後醍醐天皇にまつわる伝承をともなチた遺物が西ノ島に残されている。
一つは焼火神社に伝わる「後醍醐天皇御勅筆色紙 一幅」というのが寄付帳に記
録されてある。寄付主は「別府 近藤十郎の娘 於金」元禄十一年(一六九八)
とある。この色紙は「於金」が焼火山快順に嫁した時、引き出物として持参した
ものを寄進したものである。最近になりこの遺物を古筆学研究所(神崎充晴氏)
に鑑定してもらチたところ「新浜木綿和歌集」の写本の一部であることが判明し
た。「新浜木綿和歌集」の歌切は現在七葉発見されており、西ノ島に残されたも
のは八葉目になるわけである。
 「新浜木綿和歌集」の成立は嘉暦二年(一三二七)九月下旬であり、写本であ
る八葉の歌切は、現在の研究結果では同時代のものと鑑定されている。さて、こ
の「新浜木綿和歌集」歌切の筆跡であるが、これは江戸時代の鑑定によると西ノ
島にあるもの以外の七葉全て後醍醐天皇筆とされていた。しかし現在では江戸時
代の鑑定が正確ものとは認められず、後醍醐天皇の筆跡である事には否定的な判
断がくだされている。
 「後醍醐天皇御勅筆色紙」というのは近藤家の伝承であり、必ずしも天皇の御
自筆ではないのかも知れないが、少なくとも同時代の物には間違いなく、天皇か
ら賜チたとの伝えであるので代々家宝として大切に保存されていたものであろ
う。
 次に小向の木村家蔵の「懸仏」(かけぼとけ)も後醍醐天皇から賜チた物とし
て伝承されている。これは南北朝時代に盛んに信仰された「愛染明王」の「香木
の懸仏」である。この遺物は未だ鑑定に出されてはいないが、その結果によチて
は伝承を裏付ける証拠となる可能性が高いものと思われる。
 その他三位局屋敷跡、御休憩になられたとされる「御腰掛石」等々、西ノ島に
は色々な伝承が残されている。

むすび
 以上、あらゆる観点からしても島前の別府の「黒木御所跡」が行在所であチた
のが真相と思われる。ただ、現在、国の史跡としては「国分寺」となチているた
め「国分寺」が本当であるかのように考えがちだが、研究としては不十分である
としか言いようがない。国が昭和九年「建武中興六百年」を期に全国の関係地を
急遽、史跡として指定した(黒木御所は仮指定)。その頃は専ら「文献史学」絶
対の時代であチたから、「文献」による研究によチて結論を出すのが学者として
の在り方で、「伝承」は研究の対象として重視されなかチた。
 最後に天皇の御詠をあげる。それは天皇家を含め貴族等は自らの心を歌に託す
る伝統があるからである。この時代の天皇では後醍醐天皇が一番多く歌を残され
ている。

こころざす かたを問はばや 波の上に
浮きて ただよふ あまのつり舟
(あまは海と海士(中の島)の掛詞)

この御詠は「増鏡」に出ているものであるが、「国分寺」からの景観とは相容れ
ないもので「黒木御所」からの嘱目の御歌として見れば、そのまま現代に生き返
り、六百余年の星霜を忘しめるものである。

主な参考文献
「後醍醐天皇隠岐行在所考」 後藤蔵四郎
「黒木御所史料集録」 松浦静麿
「黒木御所について」 松浦静麿
「後醍醐天皇の行在所について」 藤田一枝
(以上は「波の荒磯」に収録)
「島根県史」 野津左馬之介
「帝王後醍醐」 村松剛
「古筆学大成」
「中世歌壇史の研究」 井上宗雄

西ノ島の会話原稿


西ノ島の会話原稿

 方言は常に人間関係を内と外を分ける最も解りやすい目印として働いている。
地元では隠岐以外の言葉を「よそ言葉・よそ声」と称して区分けし、また島毎に
「島後(どうご)弁」「知夫里(ちぶり)弁」ともいわれる。西ノ島内でもさら
に浦郷、美田、別府など、最後には一つの集落毎にまで行き着くかと思われるほ
どに繊細な識別感覚さえある。我々が西ノ島に住んでいる限りは気にならない
が、一旦外に移住すると言葉の違いが気を重くさせて他人との会話が巧く運べな
い経験を持つ事が多かった。しかし、島外に住む郷土仲間にとって、方言はかけ
がえのない精神安定剤ともなったのである。
 ここに生まれ育つと会話は家庭と友達の影響下にあった。学校での言語教育は
基本的に文字を書くことと読むことであり、そこではしゃべる事は切り離されて
いた。
 ここ一〇年ほどで特に顕著になってきたのが子供の会話の感覚である。保育所
で八〇才の老婆を講師にして西ノ島の昔話を聞かせたところ、園児は地元の方言
が理解できずポカンと口を開けていたが、周りで見ていた保母さんや父兄には大
盛況であったことが印象深かった。極端な場合、地元の会話にも世代の断絶があ
らわれてきたと感じた。
 この様な変化は突然あらわれたのではなく、その前段階としてマスメディアの
浸透と島外人との交流が引き金となって累積され現在に至っていると思われる。

聞く耳の環境
 ラジオ放送は日本では大正十四年に開始され、松江の放送局は昭和七年に開局
され六十年の歴史を持っている。西ノ島では昭和三十二年に黒木村・浦郷町共に
約三十%の普及率であり、テレビが普及するまでの四十年代までは家電製品の
トップを飾っていた。当時の全国平均の六十%と比べると約半分であったが、こ
れはただ普及が遅れたというのではなく、それを許さない島の電力事情が背景に
あった。電力の増大にともなり、他の家電製品と共に西ノ島ではラジオ・テレビ
は急激に増大していった。昭和四十年代に入りラジオの聴取料金も廃止になる頃
になると、テレビも普及し、ラジオはより小型化・低価格化して個人専用になる
まで普及するにいたった。
 さて、ラジオの言葉、特にアナウンサーは松江・大阪局といえども方言を使用
した訳ではない。番組のなかでの会話は別としても、アナウンサーの言葉は東京
弁(下町ではなく山の手の言葉)を中心としたものであった。千キロ以上も離れ
た隠岐島においてもラジオから流れてくる言葉は常に東京弁であり、現場は知ら
なくとも、自分でスピーチできなくとも、言葉だけは親しいものとして東京は
あった。
 生まれてから死ぬまでこの島を出た経験が無くとも、ラジオの普及まで全く他
方言を聞いた事がないという島民もおそらく数少ないと思われる。ラジオの普及
よりも千年以上昔から他国との人的交流は始まっていた。神亀元年(七二四)隠
岐島は配流の地と定められるに至って、以後本土からは流人がこの地に移住する
事になる。近世になり、定期的に百人以上の流人が隠岐島に流されることになる
と、もはや他国の人が珍しいという状況ではない。
 近世から近代にかけて流人だけではなく、それ以上大量の北前船が入港した。
記録によるとピーク時には隠岐島全体で年間に四千隻以上の船の出入りが数えら
れている。そうなると、本土の山村などでは想像できないほど多くの方言のサン
プルが日常風景としてに島ではみかけられたと思われる。

会話の修練
 江戸時代から少しずつこの島の出稼ぎは始まってはいたが、本格的には明治の
解放を待って大量の出稼ぎ時代は到来した。北前船の影響かどうか、出稼ぎ先は
関門方面から大阪がほとんどを占めた。出稼ぎではなくても徴兵、進学など否が
応でも島を出なければならない機会が増え、しかも地元の方言が通用しない場所
で暮らすことがことのほか多かった。そういう経験者が少なくても家族の中に一
人はいたのである。
 戦前には隠岐の子供が大阪などに就職した場合、自転車に乗れなかったこと
と、会話が思い通りに出来ないことから電話の受け答えができず、職場では能力
の低い子供と思われたが、年がたつと徐々に会話ができ、まじめに何でもできる
ので重宝がられたという。
 現在では義務教育から高校を経て島を出る割合は九割を上回り、一時的にもせ
よほとんどが本土で暮らす経験を持った。西ノ島からは関西へ出ることが多いと
いう状況から、スピーチの修練場は関西が中心になる。テレビ・ラジオから流れ
る言葉が関西弁ではなくとも、流人、北前船との交流により聞くだけなら全く目
新しい言葉ではなかったと思われるが、自分が他方言を使うのは初めてであっ
た。昭和五十年頃からは徐々に関東方面への出郷もはじまり、この方面の言葉は
テレビ・ラジオと同じなので理解はしやすかったであろうが、やはり会話にはそ
れなりの苦労がいった。

方言の変容
 地元の内側で起こっている会話のギャップは、ひとつには世代の間に生じてい
る。極端な例では保育所での昔話の様に半分も聞き取れないという事態まで起
こってくるが、現在西ノ島の児童が決して方言を使ってないというのではない。
方言の度合いが明治生まれの世代と昭和の末に生まれた者では明らかに違うので
ある。この傾向は核家族化にもともなって、さらに拍車を掛ける結果となろう。
 また家族の一員、特に母親が隠岐以外の地域から入ってきた場合は、他方言の
無意識なる教師となって働き、家庭内では「よそ言葉」と隠岐弁の二カ国語が飛
び交うこともさほど珍しい光景ではなくなってきた。
 島から外に出て暮らすときは否応なく言葉が矯正されたとしても、ここではむ
しろ島外とは立場を変えて「よそ言葉」が少数派であり、隠岐弁が多数派にな
る。
 見る見るうちに方言が変わっていくというものでもなかろうが、十年二十年単
位で切ってみるとかなりの様変わりをしていようが、現実に使用している会話が
資料化されたことはなく、「隠岐方言」として少しばかりの単語が抽出されてい
るのみである。
 具体的に少し聞いただけで方言と解るのは訛(イントネーションやアクセン
ト)であり、この部分がなかなか変容しにくい要素でもある。例え総ての単語が
東京のものであっても、隠岐弁の訛で語れば隠岐弁らしくなる。現実には少しず
つその様に変わりつつある。そして、少しずつ方言の単語や言い回しは忘れら
れ、生粋の方言を耳にすることは地元でも希になってきた。
 二十代の方言と七十代の方言が明らかに異なる部分は、丁寧語・尊敬語の部分
である。二〇代が「いらっしゃいました」というところを七十代は「ござらし
た」という風に・・。逆に変りにくい部分は仲間・目下の関係で使用する方言で
ある。いづれにせよ、方言は実験室の中で純粋培養されることはなく、常に変化
の中にある。

最後に西ノ島の特徴的な方言の一部を列挙しておく。

方言用語例

家屋      

 ヘヤ
 オモテ
 ナカイ
 ガワグミ	棟上げ・建前
 カド	庭
 オモテグチ	正式な玄関(普通の家には無かった)
 オモ
 ツンをカウ	鍵・錠をかける
 オトシ	鍵の一種
食事
 チャノコ	間食
 コジャ	間食
 イモ	薩摩芋
 バラズシ	チラシ寿司
 マキ	サルトリイバラの葉で包んだ粽
 ヒラ	膳の内で煮染めなどを入れてある物
 ツボ	膳の内でケンチン汁などを入れてある物
 アマガイ	甘酒
 チャクンジャワン	湯呑み
 ハンド	台所にある日常の水が入れてある瓶


家族
 オジ	弟
 アッポ	赤ん坊
 ンマゴ	孫

共同
 ジゲ	集落・区
 ブラク	集落・区
 ダー	お堂
 ジゲシゴト	集落全体の共同作業
 ブ	集落の中の一部の共同作業
 ヤド	会場の提供
 カアロク
 ヤテド
 スをタテる	採集物の解禁日・場所
 カワ	井戸


農業
 マキハタ	牧畑(畑と牧場を同一場所で交互に行なう農業方法)
 クナヤマ
 アワヤマ
 アキヤマ
 ホンマキ
 ネンネンバタ	畑
 ナダラ	稲を掛ける段
 ハデ	稲を掛ける段
 イモグラ	芋を貯蔵する壁に掘った穴
 キド	牧の境界の通過戸
 モクジ	牧畑の総合管理人
 ヤマ	畑
 ツカリ	篭のショイコ
 カルイ	ショイコ
 クヨシ	山・畑を焼く事
 サンヤマ	畑
 サンダラ	俵の両端の丸い部分
 シカセ	牛小屋に敷く藁
 ダゴエ	牛の糞(肥料に使用)

漁業
 カナギ	採集漁業の一種で、網漁・釣り漁以外の磯漁
 ヤス	モリ
 カンコ	てんま舟
 トモド	カナギ専用のてんま舟
 カガミ	カナギに使用する水中眼鏡(舟の上からのぞく)
 アバ	網の重り
 ノリツミ	海苔をとる事
 フナオロシ	進水式
 マンガイイ	運がいい
 ゴンガラ	烏賊釣りの漁具(放射状の針がついている)
 カシキ	船のコック
 クロクソ	烏賊の墨
 ケンガラ	海苔をとる道具
 スンコム	海に潜る
 ソブ	ウロコ
 ジークチ	烏賊の口
 シゴ	処理

行事
 ヒモオトシ	数えの四才の時の、祝い
 シジュウニ	数えの四二才の時の、祝い
 ロクジュウイチ	数えの六一才の時の、祝い
 オクリ	死者を見送る
 ノバタ	墓に立てる旗(盆と葬式の時)
 スヤ	石塔を作るまでの、木造の小屋型の墓
 シャーラブネ	盆の一六日に仏を送る集落共同の精霊船
 トシトコサン	正月に迎える神様
 トンド	正月一五日に飾りを燃やして、正月を送る行事
 セチ
 ナノカボン	七月七日の盆始まり
 ボンバナ
 オジガンサン	氏神様
 コモッシャ	氏神の横にある、篭もる為の建物
 ハツマイリ	旧正月に焼火神社に集落単位で詣る事
 デヤンナマツリ
 ジヌッサン	地主神
 コウ	講
 オヒマチ
 ヨイサカ	赤之江の盆行事
 チョーヤッサ	御輿をかつぐ時のかけ声
名詞
 アマコ・カマコ	ゴキブリ
 オドロ	たきぎ
 ガガマ	アカンベー
 カタリ	イガ
 カンギ	髪の毛
 キッキョ	ジャンケン
 キンマ	木材を運ぶソリ
 ボタ	ボロ布
 クロキ	雑木
 ケントーサク	あて推量
 ヤワキ	噂・密告・告げ口・陰口
 コーコ	タクアン
 ダー	堂
 コーヘ・コゴーヘ	こまっしゃくれた・生意気に理屈を言う
 ゴンゾ=ゴンタ	いたづら
 タマダレ	どうしようもない悪者
 サデマ	熊手
 サラピン	新品
 ヨッタリ	四人
 センジョーコンゴー	しつこく繰り返して言う事
 ジカタ	本土
 シコリ	宴会・酒を飲む事
 ダ	俺
 ショレ・ショダテ	いい格好をつける・よそ行きの姿をする
 イネ	帰れ
 カバチ	面(つら)・講釈をいう
 クンジ	お堅い
 タビ	集落から出る事
 ヨソ	本土へ行く
 シャベクレ	無茶苦茶
 シャー	精
 セーロク	お節介
 ジャーシキ	無理な注文
 センド	前回
 ダメヅメ	理屈で最後まで決着をつける
 ソテ	つまはじき
 ショシャ	様子・姿

形容詞
 クサジ	すごい
 ガッチャイ	すごい
 シチコテ	生意気
 シッタイシッタイ	偉い偉い(幼児に対して使う言葉)

動詞
 セケル	嫉妬する
 マギル	曲がる
 シャーカタル	反抗する
 クル	行く
 アレセン	無い
 ハシル	痛い
 ジグロウ	痛くてころげまわる
副詞
 ダンダン	ありがとう
 ツッツラ	ツンとして(まったく知らない顔をしている事)
 スッパリ	全部
 センギセンギ	ギッシリ

その他
 ペサーマ	あらま?
 ペャー	あらま?
 シャー	へっ
 〜サラ	〜だよ

隠岐島の昆虫(淀江)


隠岐島の昆虫(淀江賢一郎)

蝶●隠岐島の昆虫研究略史

  日本海に浮かぶ離島・隠岐の昆虫相については古くから多数の記録が残されて
いる。それらはさまざまな雑誌に公表されているため全貌を把握するのは容易で
ない。ここでは代表的なものを年代順に紹介し、隠岐の昆虫研究略史とする。各
論文は、発表年、タイトル名、著者名、雑誌名(単行書は出版社名)の順とし
た。江崎悌三、安江安宣、白水隆、日浦勇、大野正男、藤岡知夫、鈴木邦雄など
わが国昆虫界の重鎮で、生物地理学に深い造詣をもつ学者が次々登場されている
ことがよくわかる。また、隠岐在住の木村康信氏や県職員だった門脇久志氏の活
躍も大きい。
  ところで、三宅(一九〇七)による鱗翅類目録、神谷ら(一九三四)による甲
虫類目録は、いずれも当時の島根県農事試験場八田分場(島後・西郷町)に所蔵
されていた昆虫標本をとりまとめたものである。この厖大な標本は場長・田中房
太郎が作成したものであり、田中こそが隠岐の昆虫研究の草分けといっていいだ
ろう。この標本は誠に惜しいことに、その後の保管が悪くすべて消滅した。な
お、田中の蔵書一万五千冊余は現在島根大学図書館に保管されている。

(表挿入)

●隠岐のチョウ研究と木村康信
 隠岐博物学の生き字引とも称すべき木村康信先生は、チョウ類についても一九
三二年の初報告から六〇年以上にわたって研究を続けられてきた。この息の長さ
は全国的にみてもまったく例がなく、丹精こめて採集された貴重な標本を惜しみ
なく中央の学者にゆずられるなど、その功績は極めて大きなものがある。
 木村先生は論文「隠岐の蝶」(一九七五)の序で次のように思い出を語ってお
られる。
 『隠岐の昆虫採集には時代が時代だけに色々と複雑な思い出があるが、昭和七
年から美田小学校勤務となって児童達と野外で捕虫網を振って昆虫を追いまわし
た十一年間が面白くて主力を尽くした時代であった。……その後も一種一種と数
を増やすのがうれしくてよく野外に出た。……』
 この一文には毎年の少しづつの積み重ねこそが「博物学」の基本かつ醍醐味で
あることがよく表現されている。先生が著された論文を振り返り、研究の跡をた
どってみることにしたい。これはそのまま、隠岐のチョウ研究小史となる。

○一九三二年	島前に於ける動植物分布(概観島前地誌、隠岐地理学会)
アゲハチョウ、キアゲハ、クロアゲハ、カラスアゲハ、ヲナガアゲハ、ジャコウ
アゲハ、アヲスジアゲハ、モンシロチョウ、モンキチョウ、キチョウ、ツマキ
チョウ、ルリタテハ、ヒオドシチョウ、アカタテハ、ヒメアカタテハ、ヘフモン
チョウ、ウラギンヒョウモン、オホウラギンヒョウモン、ウラギンスジヒョウモ
ン、ミスヂチョウ、コムラサキ、ジャノメチョウ、コヂャノメ、ヒメヂャノメ、
クモガタヒョウモン、ミドリヒョウモン、ヒメウラナミジャノメ、シジミチョ
ウ、イチモンジセセリ、ダイミョウセセリ、ベニシジミ、ルリシジミ、ヤマトシ
ジミ、ツバメシジミ、ウラギンシジミ。計三五種。
○一九三六年	島前に於ける動植物分布(観島前地誌増補改訂版、隠岐地理学
会)
モンキアゲハ、メスグロヒョウモン、スジグロシロチョウ、ゴマダラチョウ、ホ
シミスジ、サカハチチョウ、コミスジ、アサギマダラ、テングチョウ、ウラキン
シジミ、ゴマシジミ、ムラサキシジミ、ウラナミシジミ、キマダラセセリを追
加、四四種となる。
○一九三六年	私の見た隠岐の蝶亜目(隠岐教育四号、隠岐教育会)
前報に同じ。
○一九三八年	隠岐の昆虫(隠岐教育一〇号、隠岐教育会)
キタテハを追加、四五種になる。
○一九三九年	隠岐黒木村ニ分布セル動物植物目録(謄写自刊)
ミヤマカラスアゲハ、ウラゴマダラシジミ、トラフシジミを追加、四八種。
この目録は隠岐生物研究の金字塔ともいうべき貴重な文献であるが、ガリ版刷で
今では容易にみることができない。幸いなことに一九七七年発行の「美田の学舎
百年」(美田小学校百周年記念史)に再録された。編者の見識に敬意を表した
い。
○一九四二年	隠岐の動物(隠岐教育一八号、隠岐教育会)
ルーミスシジミ、ツマグロヒョウモンを追加、五〇種となる。
○一九六三年	隠岐の生物(隠岐郷土研究六号、隠岐郷土研究会)
代表的昆虫の解説。
○一九六九年	隠岐の自然(隠岐の旅情、隠岐観光協会)
チョウ五七種。
○一九七五年	隠岐の蝶(島前の文化財五号、隠岐島前教育委員会)
エゾスジグロシロチョウ、イチモンジチョウ、ヒカゲチョウなどを追加、六〇種
をリストアップする。
 隠岐を代表する珍蝶・ルーミスシジミ発見のいきさつが語られ興味深い。
○一九九一年	隠岐でも繁殖亜熱帯の蝶(山陰中央新報、一九九一年一〇月一
三日付)
ウスイロコノマチョウを複数発見。八〇才を超えての現役!
一九九一年	隠岐・西ノ島で多数のウスイロコノマ(すかしば、三六号)
ウスイロコノマチョウの正式な採集報告。六一種目。
○一九九二年	またウスイロコノマチョウを西ノ島で採集(すかしば、三七〜
三八 号)
南方系の迷蝶・ウスイロコノマチョウを二年連続美田で発見。モニタリング調査
としても貴重なもの。
○一九九二年	隠岐・西ノ島でナガサキアゲハを採集する(すかしば、三七〜
三八 号)
ナガサキアゲハは江戸時代シーボルトが発見命名した南方系のチョウである。
隠岐で二頭目、西ノ島では初記録。これで合計六二種を発見されたことになる。

 ところで、木村先生の採集された多数の昆虫標本は美田小学校へ寄贈保管され
ていた。しかし、有能な後継者に恵まれず、手入れがなされなかったようであ
る。そのためウラキンシジミ、クチキコオロギ、ヨコヅナトモエなどわが国唯一
の貴重な標本さえ虫害にあって現存しない。
 マルバウマノスズクサを食草とするジャコウアゲハも一九七五年頃までは美田
川の川原に多かったというが、ダム建設により、本土との地理的変異(対馬や朝
鮮半島産との関連比較)も未検討のまま、絶滅してしまった。今残るのは木村先
生採集の三匹の標本だけである。オランダの博物館にはシーボルトが採集した一
二〇 年前のナガサキアゲハ標本がいまでも残されているのである。
 一時的なブームにのった宣伝よりも、こうした郷土のもっとも基礎的な仕事に
価値を認める施策(自然館建設など)を求めたいものである。

●西ノ島のトンボ
 日本に産するトンボはおよそ二〇〇 種、島根県本土で八八種、隠岐全体で五一
種が報告されている。西ノ島は、川や池沼に乏しく、水系に依存するトンボ類は
あまり多くない。 手頃な観察地は由良比女神社境内にある小池で、青緑色に輝
く複眼をもつヤブヤンマが集まってくる(最近発行された「山陰のトンボ」とい
う本には由良比女神社で撮影したヤブヤンマのカラー写真が出ている)。 とこ
ろで七月中旬の梅雨前線が停滞する頃、国賀は深い濃霧につつまれるが、よく見
るとその中を無数といっていいほどの“アカトンボ”が飛び交っている。その正
体はすべて「ネキトンボ」で、西ノ島にはこれだけの量を発生させる池がないこ
とから、どこからか集団で飛来してくるものと考えられている。次に目録をあげ
ておく。
 キイトトンボ、アオモンイトトンボ、クロイトトンボ、オオイトトンボ、モノ
サシトンボ、ハグロトンボ、ヤブヤンマ、オニヤンマ、シオカラトンボ、シオヤ
トンボ、オオシオカラトンボ、ナツアカネ、アキアカネ、マユタテアカネ、ヒメ
アカネ、コノシメトンボ、ネキトンボ、コシアキトンボ、ショウジョウトンボ、
ウスバキトンボの二一種。
 島後と比べて欠落が目立つのは、山地渓流性の種(オオカワトンボ、オジロサ
ナエ、ダビドサナエ、ムカシトンボなど)や湿地性の種(エゾトンボ、サラサヤ
ンマなど)である。

●西ノ島のチョウ
 チョウは多くの人に親しまれ比較的よく調べられているグループである。わが
国では二六〇 種、島根県本土で一三三 種、隠岐全体では七九種が知られてい
る。西ノ島からは、木村康信先生、門脇久志氏、筆者らの調査により現在までに
五八種が発見されている(別表リスト参照)。あと一〇種程度の新発見が見込ま
れる。
 島後に生息しておらず、西ノ島だけしか記録のないチョウにはムラサキシジ
ミ・ジャコウアゲハがある。ムラサキシジミは、隠岐を代表する珍蝶・ルーミス
シジミに似るがやや大型で翅表の紫色も濃い。本土では普通、西ノ島では焼火山
のみで採集されている。ジャコウアゲハはマルバウマノスズクサを食草とする。
美田川に多かったが、ダム建設と河川改修のため絶滅してしまった。
 逆に、島後には生息していて、西ノ島にいないチョウには、前出ルーミスシジ
ミや、キリシマミドリシジミ、オナガシジミなど照葉樹林帯や深い渓谷を生息地
とする種が多い。しかし、イチモンジチョウ、ミヤマチャバネセセリなどのよう
に島後の低山地に普通に見られる種が、西ノ島に生息しない理由はいまのところ
説明がつかない。
 また、国賀や鬼舞などの放牧地にはオオウラギンヒョウモン・クロシジミが生
息していたが、近年著しく減少している。両種とも環境庁が一九九〇年に作成し
た「日本の絶滅の恐れのある野生生物」(レッドデータブック)にそれぞれ絶滅
危惧種、希少種としてとりあげられているチョウである。

隠岐・西ノ島/チョウ類目録(五八種)

セセリチョウ科
	ダイミョウセセリ
	ホソバセセリ
	キマダラセセリ
	チャバネセセリ
	イチモンジセセリ
 アゲハチョウ科
	アオスジアゲハ
	 ジャコウアゲハ
	キアゲハ
	アゲハ
	オナガアゲハ
	クロアゲハ
	モンキアゲハ
	ナガサキアゲハ
	カラスアゲハ
	ミヤマカラスアゲハ
シロチョウ科
	キチョウ
	モンキチョウ
	ツマキチョウ
	モンシロチョウ
	エゾスジグロシロチョウ
	スジグロシロチョウ
シジミチョウ科  
	ムラサキシジミ
	ウラゴマダラシジミ
	ウラキンシジミ
	カラスシジミ
	トラフシジミ
	ベニシジミ
	クロシジミ
	ウラナミシジミ
	ヤマトシジミ
	シルビアシジミ
	 ルリシジミ
	ツバメシジミ
	ウラギンシジミ
テングチョウ科
	テングチョウ
マダラチョウ科 
	アサギマダラ
タテハチョウ科
	ウラギンスジヒョウモン
	ミドリヒョウモン
	クモガタヒョウモン
	メスグロヒョウモン
	ウラギンヒョウモン
	オオウラギンヒョウモン
	ツマグロヒョウモン
	コミスジ
	ホシミスジ
	サカハチチョウ
	キタテハ
	ルリタテハ
	ヒメアカタテハ
	アカタテハ
	ヒオドシチョウ
	イシガケチョウ
	ゴマダラチョウ
ジャノメチョウ科
	ヒメウラナミジャノメ
	ジャノメチョウ
	ヒメジャノメ
	コジャノメ
	ウスイロコノマチョウ

●西ノ島の食糞性コガネムシ
 ファーブル昆虫記第一巻に出てくるスカラベ(タマオシコガネ)がこの仲間
で、古代エジプトでは聖なる虫として有名。動物の糞をいち早く食べて掃除する
ため、自然生態系のなかで欠かせない昆虫である。西ノ島では、国賀の放牧地で
調査されたことがあり(塚本珪一、一九五八)、次の五種が確認されている。
 エンマコガネ属:カドマルエンマコガネ 
 マグソコガネ属:フチケマグソコガネ、キバネマグソコガネ、エゾマグソコガ
ネ、オビグソコガネ
 なお、隣の知夫里島でも牧畑が盛んで、牛馬の糞にはカドマルエンマコガネ・
マグソコガネが多く、また、タヌキの糞ではコブマルエンマコガネ・クロマルエ
ンマコガネが見つかっている。

●西ノ島の歩行虫(オサムシ)
 鞘翅目ゴミムシ科昆虫の一群。後翅が退化しているため飛ぶことが出来ず、地
上を徘徊するため歩行虫と呼ぶ。漫画家の手塚治虫が学生時代研究しており、ペ
ンネームを治虫(おさむし)としたことは有名。移動力が弱いため地理的変異が
著しく、種分化が激しい。食肉性で、夜間歩き回りカタツムリやミミズを襲う。
 西ノ島ではオキオサムシ、マイマイカブリの二種が生息。島後の普通のヤコン
オサムシは分布していないようである。オキオサムシはダイセンオサムシの隠岐
亜種で、本土産と比べ翅の色彩が銅色を帯びる。マイマイカブリも後翅末端部の
尖りが弱いなどの地理的変異が見られる。

●島後と島前の昆虫相の違い
 一九〇八年(明治四一年)三宅恒方(東大講師)は、『……今や島前島後の昆
虫相を比較せんに、二島僅々九里の海峡によって隔てられるも其相の遥かに同じ
からざるを見るは予想外なりとす。たとえば、かのモンキアゲハの如き島後にて
は極めて普通にして何処に至るも出会いせざるなきも島前にあっては一頭をも発
見せざること之れなり。………』と学会誌に報告して、島前と島後の昆虫相の異
なることを指摘している。
 その理由としては、島の大きさ、山の高さ、植生の違い、牧畑などの人為開発
を上げているが、現在でもこれに付け加えるものはない至言である。
 しかし、八〇年以上経た今もって比較標本の蓄積は十分でなく、“具体的な”
違いはよく調べられていない。
 調査のすすんでいるチョウ類については、ウラゴマダラシジミ、カラスシジミ
などで島前・島後間に地理的変異のあることが判明している。他の種類について
も比較検討が望まれる。

●昆虫の地理的変異
 隠岐島の昆虫には本土のものと同種類でありながら、比べてみれば、斑紋、色
彩、形態の異なるものがいる。ホシミスジ、サカハチチョウ、ウラゴマダラシジ
ミ、ヒメコブヤハズカミキリ、ダイセンオサムシなどがその代表である。
 二万年前、隠岐が本土から隔離され、移動力の弱い昆虫たちが互いに交配でき
なくなった結果であるが、それではなぜ隔離されると「地理的変異」を生ずるの
であろうか。
 生物集団の遺伝子は交配を重ねる毎にその構成比率が変化し、何世代も経ると
初めとは異なる遺伝子構成をもった集団ができる。その変化を生ずる割合は集団
が小さければ小さいほど大きい。これが「遺伝子浮動」で、自然淘汰とは無関係
な偶然の結果として遺伝子構成が変化していく現象である。もし、その集団の中
に突然変異が生じたりするとその変異が集団に固定され、独特の変異をもつよう
になっていく。隠岐島のような狭い離島ではその効果を目のあたりに見ることが
できるわけである。

●オオウラギンヒョウモンの衰亡
 オオウラギンヒョウモンは翅の開張七〇〜八〇mm ほどの中型のチョウの一種。
翅の地色は橙色、表面に豹紋状の黒斑がある。草原性の種で、戦前は全国各地に
広く分布していたが戦後まもなく減少を始め、現在生息しているのは全国で数ケ
所(山口県秋吉台、長崎県大野原、宮崎県えびの高原、隠岐島)を数えるほどの
珍蝶となった。一九九〇年環境庁が公表した「日本の絶滅の恐れのある野生生
物」(レッドデータブック)では「絶滅危惧種」とされている。
 隠岐・西ノ島でも昔は広範囲に分布していたことが木村康信先生によって明ら
かにされている。その後、一九七二年まで国賀の放牧地に生息していたが、以降
確認されておらず、絶滅が心配されている。お隣り知夫里島には一九八七年まで
は多産していたが、その後始まった松枯れ対策の殺虫剤空中散布のために激減し
た。
 なお、ロシア共和国沿海州にも生息するが、ここでも絶滅危惧種に認定され、
その生息地リヤザノフカ周辺は手厚く保護されている。

●マツバノタマバエと生物的防除
 昭和二〇年代隠岐島では、マツの衰弱に関係なくマツ林が茶褐色になって枯れ
ていく被害が大発生したことがある。島根大学の三浦正先生は、原因が、マツ葉
の基部に寄生するマツバノタマバエという小さな昆虫であることを明らかにされ
た。
 当時の防除対策はBHCやDDTなどの農薬に頼るしかなかったが、全く効果
がなく被害林は広がるばかりであった。先生は研究の結果、タマバエの寄生バチ
(プラチガスター・マツタマ、体長一〜一、五mm )を発見され、天敵を利用する
画期的な生物的防除方法を実用化、やがて被害はおさまった。このことは、現在
の松枯れとマツノマダラカミキリに対する農薬一辺倒の対策への教訓と受け止め
るべきであろう。
 その後、韓国でもタマバエ被害が続出したが、三浦先生が調査され、この寄生
バチが分布するところでは被害が抑制されていることがわかった。

●西ノ島のセミ
  セミがウンカやカメムシの仲間と言っても、誰も信じないだろう。しかし、ウ
ンカとセミを並べて観察すれば、大きさこそ違うものの口器や翅の形状などそっ
くりであることがよくわかる。
 隠岐島には六種が分布するが、その代表は島後の山地に住むエゾゼミである。
その名のとおり北方系の昆虫で木村康信先生の発見による。残念ながら西ノ島に
はエゾゼミは生息しないようだ。ただ、上田常一先生の「隠岐の動物」を読むと
“ハルゼミ”のことが出ており、もしかしたらハルゼミは生息しているのかも知
れない。
 西ノ島にいる五種のセミと方言を紹介する。
 セミ=ジージ、ジンジ。ヒグラシ=カネカネ、ツケツケ、カナカナ。アブラゼ
ミ=オホジンジ。ミンミンゼミ=メンメー。ツクツクホウシ=ツクツクイス、ホ
イスチョコチョコ、ニイニイゼミ(岡部武夫、隠岐雑俎より)。 

●西ノ島のホタル
 蛍は「日本書紀」にも出てくる如く古くからよく知られた昆虫で、語源は「火
垂る」、「星垂る」などの説がある。ホタルの仲間は全世界に四千種余知られ、
その内発光するものが約半数だという。わが国では約四〇種が分布するが、発光
するものは少ない。西ノ島では既に一九三七年、木村先生により発光ホタル三種
が調べられている。
 ゲンジボタル、ヘイケボタルは水生で、幼虫はカワニナやモノアラガイを食べ
る。地域によって発光パターンの異なることが最近判明しており、増殖するため
別の産地のものを養殖・放流することは遺伝子を攪乱するので禁物である。そこ
にホタルを定着させるだけで自然が回復したと考えるのは誤りで「ホタルの家畜
化」に過ぎない。
 あと一種ヒメボタルは陸生で陸産貝類(オカチョウジガイなど)を餌とする。
大きさは 六〜七mmほどと小型だが、光は黄金色で強い。メスは後翅が退化し飛翔
できない。マツ林を生息地とするため、農薬の空中散布の影響を直接に受け激減
したが、空中散布をしてない美田ダム近くのマツ山にはまだ多産する。
 一九九一年に大場信義博士(横須賀市立自然史博物館)が現地視察され、「日
本一の生息地」とのお墨付きを与えられた。美田では松山ボタルとか竹山ボタル
と呼ばれている。

●松枯れとマツノマダラカミキリ
 本土側では一九七〇年代、隠岐島では一九八〇年代に入って、急激な松枯れが
目立っている。 林野庁ではその原因を「マツノザイセンチュウ」によるものと
考え、センチュウを伝播する「マツノマダラカミキリ」を退治すれば松枯れはお
さまると、大規模な殺虫剤の空中散布を開始した。当初の説明では三年で根絶と
いうことだったが、空中散布が始まって二〇年たつにもかかわらず、松枯れが収
束したところは全国に一ケ所もない。その理由として林野庁は、空散しない地域
からカミキリが侵入してくるためと言っているが、隠岐島のように周囲から隔離
された離島でさえも収束できない状況は、今までの対策が根本的に誤っていると
も考えられる。
 最近では、(一)酸性雨や大気汚染などの環境悪化と、(二)松林の放置によ
る遷移の進行が主原因であると主張する学者が多い。農薬に頼る対症療法ではな
く、自然の生態系を大切にする抜本的な対策が一日も早く望まれる。

●ホシミスジ
 隠岐島を代表するチョウといえば誰もが島後のルーミスシジミをあげるのに異
存はないだろう。されば西ノ島を代表するチョウといえば、第一候補としてホシ
ミスジをあげたい。黒地に筋条の白帯がはしる中型のとても上品なチョウで、裏
面にある粒状の黒斑が特徴である。六〜七月ごろに、山道をゆるやかに飛びシモ
ツケ、ウツギ、クローバーなど種々の花に集まるのが観察される。食草は、海岸
の岩場や露岩地などに見られる隠岐特産ミツバイワガサで、幼虫は葉を筒状に巻
いてその中で冬を越す。
 島根県本土では、大田市三瓶山、出雲市立久恵峡、浜田市三階山の三ケ所しか
生息地がなく個体数も少ない。隠岐産と本土産とは白斑紋の形状に顕著な差異が
見られ、近く別亜種として記載される予定である。


●カラスシジミ
 初夏に山を彩る樹の花といえば、真っ白な花を咲かせるウツギだろう。近づい
てよく見るとウツギには実に多くの昆虫が集まってきている。その中に小さな
黒っぽいチョウが混じって吸蜜していたらそれがカラスシジミだ。日中は不活発
だが、夕刻には食樹アキニレの樹上高く活発に飛び回る。
 島根県本土では大田市三瓶山、横田町船通山のような山地に稀なチョウだが、
隠岐島では平地に近いところに生息している。西ノ島産は、メス前翅裏面の白い
点線状の列がくの字型になっており、島後産と比べて異なるのが興味深い。

●ウラゴマダラシジミ
 数年前、日本鱗翅学会(チョウとガを研究する学会)では、各県別に「県の
チョウ」を選定する準備をしたことがある。四七都道府県で重複しないように選
ぶと、島根県からは本種「ウラゴマダラシジミ」が候補にあがった。北海道から
九州まで分布は広いが、隠岐のものがもっとも特化しているからである。隠岐産
は本土産と比べて翅表の薄紫色が暗化しており、しかも西ノ島産は島後産よりさ
らにその変化が著しく、研究者の間で注目を浴びている。
 食草はイボタで、赤い円盤状の卵を小枝の分岐点に生み付ける。卵で冬を越
し、翌春イボタの芽吹きとともに孵化し若葉を食べて成長、六月にチョウになり
林縁を輝きながら飛び舞う。
 なお、「県のチョウ」が行政レベルで認定されているのは、いまのところ埼玉
県制定のミドリシジミだけである。


●隠岐島の昆虫の系統
○西部中国系の昆虫
 昆虫の系統はさまざまあるが、最も古い形質をもったグループは、西部中国
(雲南省〜ヒマラヤ)に起源をもつものである。隠岐島には数十万年間前に侵入
定着、現在では遺存的に分布し、いわゆる珍しい昆虫といわれるものが多い。代
表的なものを紹介する。 ルーミスシジミ、キリシマミドリシジミ、オナガシジ
ミ、オオウラギンヒョウモン、ホシミスジ、ムカシトンボ、
○北方系の昆虫
 隠岐島は、南方系・北方系両系統の生物が混在して、生物地理学上興味深い地
域であるといわれている。一般には南方系(学問的に言うと東洋区系)要素の色
彩が強調されがちだが、北方系要素の存在にももっと注目すべきだろう。北方系
の代表的な昆虫を紹介する。
 エゾゼミ、マルグンバイ、キボシミズギワカメムシ、ツノアオカメムシ、トホ
シカメムシ、モイワサナエ、ダビドサナエ、エゾトンボ、エゾスジグロシロチョ
ウ、センノキカミキリ、ヤツボシハナカミキリ、ルリボシカミキリ、ハンノオオ
ルリカミキリ
○南方系の昆虫
 隠岐島は緯度が高いわりに対馬海流の影響で気候温暖であり、南方系の昆虫が
侵入してきている。代表的な南方系の昆虫を紹介する。
 シルビアシジミ、イシガケチョウ、ナガサキアゲハ、オキナワルリチラシ、
ベーツヒラタカミキリ、フタオビミドリトラカミキリ、クツワムシ、オオゴキブ
リ、クチキコオロギ、オオアシナガサシガメ、オオキンカメムシ、ウシカメム
シ、ウスイロヒメヒラタナガカメムシ、ハネビロトンボ、ムスジイトトンボ
○環日本海系の昆虫
 朝鮮半島〜沿海州〜日本列島と、日本海を取り囲むような分布圏をもつ昆虫が
いる。。昨年訪れたロシア沿海州の海岸部は、隠岐の海岸と似た景観が見られ、
ウラジロミドリシジミ、ホシミスジ、オオウラギンヒョウモンなど隠岐では少な
くなりつつあるチョウが繁栄していた。代表的な種類を紹介する。
 ウラゴマダラシジミ、クロシジミ、ウラジロミドリシジミ、エゾミドリシジ
ミ、ミヤマカラスアゲハ、アカスジキンカメムシ、コバネアオイトトンボ、アオ
ヤンマ、ヒメコブヤハズカミキリ

●西ノ島の双翅目
 双翅目とは読んで字のごとく翅が二枚しかない昆虫で、蚊、ハエ、アブ、ユス
リカなどの総称である。この仲間は衛生害虫が多く医学上の必要性から調査がす
すんでいる。蚊類については鳥取大学医学部の長浜操教授らがフィラリア症の調
査のさい、ニッポンホソカ、トウゴウヤブカ、コガタアカイエカ、シナハマダラ
カなど八種類。ブユ類については京都府立大学の吉田幸雄教授らが、アオキツメ
トゲブユ、ヒメアシマダラブユ、ウチダツノマユブユなどを報告している。
 また、家庭内で生ゴミを放置しておくとすぐ繁殖するのがショウジョウバエで
ある。一般には“コバエ”といい、遺伝の実験にもよく使用される。島根大学の
若浜健一教授の調査で隠岐から四六種類が記録されている。
 山道を歩くと、目の回りをうるさくまとわりつく小さな虫がいる。「クロメト
マイ」というショウジョウバエの仲間である。西南日本に広く分布し、オオワラ
ジカイガラムシに寄生して育つ。石見地方では“メツツキ”と呼んでいる。

●隠岐民謡しげさ節に出てくる昆虫。
 古くから伝承される民謡“しげさ節”にはいくつかの昆虫たちが詠みこまれて
おり、美しいチョウや鳴く虫が人々の生活の中に定着していたことを思わせる。
登場する昆虫たちを紹介してみよう。
○ちょう
 鱗翅目異脈亜目の一科。翅表には色素のたまった鱗粉がのり美しい。蛾類との
分類学的な区別は困難で、外国にはガチョウ科というグループがあるほどであ
る。フランスでは昼の鱗翅目をチョウ、夜の鱗翅目を蛾という。
○とんぼ
 蜻蛉目昆虫の総称。語源は「飛ぶ棒」「田んぼ」説などがある。大きな複眼と
頑丈な羽など、飛ぶための機能が発達している。幼虫(ヤゴ)は水生。
○きりぎりす
 直翅目キリギリス科の一種。触角は鞭状で細く長い。体長四〇mm前後で、体色
には二型あり緑色または褐色。かなり強い肉食性がある。日当たりの良いススキ
など丈の高い草むらでチョンギース(またはギース)と鳴く。六〜九月。
○すずむし
 直翅目コオロギ科の一種。体長一五mm、産卵管は一二mm。黒色。林の中の暗い
湿った草むら下に住み、鳴き声はリーン・リーンと大きい。かめの中で産卵させ
て繁殖させることも容易である。八〜一〇月。
○まつむし
 直翅目コオロギ科の一種。体長は一七mm、産卵管は長くて一七mmのきり状。体
色は淡褐色。雑木林の縁のススキなど乾いた草原に多く、夜間チン・チロリン
(あるいはチッ・チロリッ)と鳴く。八〜十一月に発生。
○くつわむし
 直翅目キリギリス科の一種。体長二五〜三六mm 、羽は広く木の葉状をしてい
る。体色は緑色または褐色。灌木やヤブ中に住みガチャガチャガチャとやかまし
く高い声で鳴く。八〜十月。

●西ノ島にやってきた南方系の迷蝶
 地球温暖化を証明するかのように、ここ数年来、九州以南の暖帯でしか記録の
なかったチョウが隠岐島で見つかるようになった。その土地に土着はしておら
ず、風にのって飛来してきたチョウを迷蝶といい、その代表がイシガケチョウ、
ナガサキアゲハ、ウスイロコノマチョウである。
○イシガケチョウは一九八八年頃から島根県本土の海岸線沿いに分布を北に拡げ
ていたが、一九九〇年に島後(都万村那久)で木村晴男氏によって初めて発見さ
れ、一九九一年には西ノ島別府と知夫里島でも発見された。本種の食草はイヌビ
ワで豊富にあることから今後とも土着する可能性が高い。
○ウスイロコノマチョウは奄美以南に生息する熱帯性のチョウだが強い移動力を
もち、今までもしばしば島根本土・隠岐で採集されてきていた。しかし、一九九
一〜一九九二年にかけて西ノ島美田では、木村康信先生により複数の個体群が見
だされ、南方から飛来後二次的に産卵・発生を繰り返しているものと考えられて
いる。
○ナガサキアゲハは九州以南に分布していた南方系のチョウ。一九五〇年代に島
根県に侵入した。島後で一九八五年に一頭が発見され、一九九一年に木村康信先
生が美田でも発見された。

●西ノ島の直翅型昆虫
 直翅型昆虫とは聞きなれないが、キリギリス、バッタ、コオロギ、カマキリな
どの仲間のことである。戦前、古川晴男博士が木村康信先生の採集標本を材料
に、ヒメカマキリ・ヒナカマキリ・ツノオホゴキブリ(オオゴキブリ)・コバネ
オホヅコホロギ(クチキコオロギ)の四種の南方系の種類について報告している
(一九四一年、動物学雑誌)。そのほか、クサヒバリ、カネタタキ、マツムシ、
スズムシ、ケラ、ナナフシ、クツワムシ、キリギリス、カマドウマ、ショウリョ
ウバッタなど四五種が知られており(木村、一九三九)、西ノ島の直翅型昆虫は
面積の割に豊富である。
 キリギリスやコオロギ類を“鳴く虫”と呼ぶことがある。これらのオスは、左
右の前翅を震わせて互いにこすり合わせて音を出す。なぜ鳴くのかはよくわかっ
ておらず、(一)メスを呼ぶため、(二)縄張り宣言、(三)仲間どおしが分散
してしまわないため、などの説がある。一般にコオロギ類の声が優雅で、キリギ
リス類の声は粗野である。

●西ノ島のカミキリムシ
  天牛と書いてカミキリムシという。触角が長く牛の角に見立て、天とはよく飛
来するので合わせて“天牛”となった。成虫・幼虫とも食植性で、伐採木などに
集まる。
 木村康信、藤村俊彦(元島根県農業試験場技師)、門脇久志(現島根県環境保
健部次長)、福井修二(現島根県林業技術センター技師)らによって調査がすす
んだ。
島根本土から二三四 種、隠岐全体で一二七 種、西ノ島からは次の四五種が発見
されている。  ウスイロトラ、クハ、ビロウド、ヤハヅ、キスヂトラ、ミヤ
マ、ホソ、クロ、ゴマフ、キイロトラ、クロトラ、ミドリ、トラフ、ゴマダラ、
キボシ、センノキ、ベニ、キマダラ、ノコギリ、アヲスジ、ハイイロヤハズ、ヘ
リグロベニ、シラホシ、キクスヒ、ホタル、クビアカトラ、シロスジ、ヒメス
ギ、アトジロサビ、ゴマダラモモブト、ヤツメ、ネジロ、ナガゴマフ、メスアカ
ハナ。ウスバ、キバネニセハムシハナ、フタオビノミハナ、チャイロヒメハナ、
セスジヒメハナ、ヤツボシハナ、ヅマルトラ、フタオビミドリトラ、ホタル、ゴ
マフ、キクスイモドキ。
 なお、一九五八年に島後・西郷町大満寺山で発見されたスネケブカヒロコバネ
カミキリ(臑毛深広小翅天牛)は隠岐を代表する珍虫の一つでネムノキの立ち枯
れに発生する。最近、中ノ島でも発見されたので西ノ島にも生息しているものと
考えられる。

●“オキ oki”の名がつく昆虫たち
一 オキツヤヒサゴゴミムシダマシ	Misolampidius okiensis Nakane
二 オキオサムシ	Carabus daisen okianus Nakane
三 オキチビハネカクシ	Micropeplus okiensis Watanabe
四 オキノアサカミキリ	Thyestilla gebleri kadowakii Fujimura
五 ヘリグロベニカミキリ	Purpuricenus spectabilis ab.okiensis 
Fujimura
六 クビアカトラカミキリ	Xylotrechus rufilius ab.kadowakii Nakane
七 オキノミハムシ	Parazipangia okiana Ohno
八 オキチャイロコガネ	Sericania kadowakii Nakane
九 (オキイワトビケラ)	Plectrocnemia okiensis Kobayashi
十 オキノホシミスジ(未記載種)	Neptis preyei ssp.Fujioka
十一 オキヤコンオサムシ	Carabus yaconinos okii Ishikawa
十二 オキウエダニンフジョウカイ	Podabrus uedai hisashi Nakane
十三 オキナガゴミムシ	Pterostichus okiensis Nakane
 学名または和名に“オキ”の名が付けらている昆虫をあげてみた。学名という
のは二三〇 年程前にスェーデンのリンネが提唱したものである。世界共通の名前
であり、ラテン語で書かれる。細かい規約があるが、基本的には、属名、種名、
命名者名の三つの単語で構成される。
 (七)のオキノミハムシを例にとれば、“Parazipangia”が属名、ノミハムシ
というグループ名で人でいえば家族の名字にあたる。“okiana”は種名で人でい
えば家族の名前、“Ohno”は命名者で、大野正男博士のこと、人でいえば名付け
親である。
 一般に種名は、産地あるいは発見者の功績をたたえて献名されることが多い。
これから見ても、隠岐昆虫研究における門脇久志氏の活躍が目立っている。

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