第一幕 キ リ エ  |
早 春
りりいん
。
冴えた
門扉鈴の音。古さびた
樫材の扉が開き、ひいやりと暗い部屋に午後の陽光と桜の
花弁が
迷い込んだ。
「こんにちは」
四角く切り取られた光の中に浮かぶ
嫋やかな
影絵――少女。
長い髪の流れ落ちる肩はまだ薄く
稚けないが、
乳房は誇り高く、ぎゅっと制服を持ち上げている。
格子縞の短スカートは象牙色の
太腿を
凡そ隠してはいない。
「お
爺さん?」
どこか人種不明な人形のように整った顔
。不思議な
琥珀色の瞳。覚束なげに部屋を見廻す
。
吹き抜けの
玄関広間。高すぎる
穹窿天井に薄暗さがわだかまる
。左右に二階へと
湾曲する大階段。
鉄細工の手摺が
艶めかしい
。
そしてそれらに挟まれた正面に視線を誘うように扉が開き、明るい部屋が
覗いている。何かの
寓意だろうか、両脇に乙女と妊婦の
青銅像が立ち、
闖入者を見つめ返している
。
ひいらり、少女と共に迷い込んだ花弁が大理石の床に舞い落ちた
。
少女は彫像たちのブロンズの視線を気にしてか、短すぎるスカートを
お尻の丸みに撫で付け、太腿を擦り合わせるようにしてしゃがんだ。床に散った桜色の
薄片を桜色の爪で摘みとり、スカートの
隠しに落とす。古風な
躾良い様子。立ち上がるとしかし、現代っ子の大股で
颯爽とした足取り。思わせ振りな彫像の間を
潜り抜けた
。
眩い光が眼を射る。
焼絵硝子の窓から斜めに降り注ぐ豪奢な光。
化粧漆喰の高い天井に満ち、鏡のような
寄木の床に複雑な模様を描く。
舞踏会室と云う名が似合いそうなその広い部屋はまるで
美術舘のようだ。壁を
埋めつくす絵画、版画に
綴れ織。
桃花心木の展示台に並ぶ工芸品に宝飾品。至る処に時代がかった家具や優美な彫像が
佇み、夫々違う時代の光を返している。如何にも迷宮めいた
古美術画廊。
さしずめ少女は
迷宮の乙女か。颯爽とスカートを翻し、
糸を手繰る事なく右に左に骨董と美術の迷宮を進む
。綺麗に交差する象牙色の太腿に、
愉しげに時代毎の光が
撥ね廻る
。
こってりと
仮漆に塗り込められたヴィクトリア朝の
艶。
金色の
新芸術主義の優美。
銀色の
装飾芸術派の端正。
世紀末の
退廃の吐息。
ラリークやファベルジェの工房からやって来た
硝子と金細工の
仙女達。少女の
儚げな面差しはそれらに良く似て腕の良い細工師が
丹精したかのよう
。
「お爺さん、かのんです
」
誰もいない
画廊を抜け、物慣れた様子で奥の部屋に入る。さして広くは無いが
美術工芸運動の落ち着いた調度に居心地良く整えられ、庭に向かって半円形に
迫り出した一角には喫茶卓と椅子が
設えられている。どうやら居間のようだ。
蒐集品らしい
機巧人形や古楽器が幾つも並んでいるが、ギャラリィには無い生活の匂いがする
。
ウィリアム・モリスの手になる
長椅子の足元で、漆黒の小さな
人頭獅子が首をもたげた。
機巧では無い。
縫いぐるみじみた小さな
尨犬
。
「あら、おチビちゃん。お爺さんは
……」ふと何かに気付いた少女は声を落とし、そっと長椅子を廻った
。
春の陽射しの中、長い手足を窮屈そうに折り
畳んで長身の老人が居眠りをしていた
。
――ここは自分の店? 若い頃住んでいたクラクフの下宿
?
何処からか霧が入り込み
、部屋が霞んでいる。ことことと軽やかに、寄木の床を踏む
陶器の靴音。
素焼の肌と時計仕掛けの心臓を持つ娘がくるくると踊るように近付いて来る
。
――グレーテ、君かい
?
老人は身じろぎしてうっすらと眼を開いた。眼前に二本、天に
聳える象牙の
胴張円柱。
「ん?
」
見上げれば円柱は格子縞
の帳に消え、その華やかな襞の間から眩しい白の
幔幕が恥ずかしげに
覗く。パルナッソスの神殿を思い出す
。
ふ
と世紀末の妖精めいた顔が神殿の上から覗き込んでいるのに気が付いた。
頬から
頤にかけての白磁の様な硬質の
輪郭と印象的な琥珀色の瞳。遠近感がおかしくなる。あの美しい顔は壮大な天空を覆っているのか? 絹糸の黒髪が頬を
撫ぜるように流れ落ち、濡れたように光る赤い唇が
接吻をねだるように開かれ
……
「お爺さん?
」
涼やかに澄んだ甘い声
。冷たい清水を飲み込んだ様に頭の中の霧が晴れる
。パルナッソスの円柱かと見れば、少女の若々しい脚線美――おっと失敬
。
「や、かのん君か」すっかり眼が覚めた風で老人が身を起こした。暖かい
次低音。顔の下半分を覆う白い髭と少年の様な
悪戯っぽい瞳
。
「夢を見ていたよ
」
かのんと呼ばれた少女の顔に花のような笑みが浮かんだ
。
女 学 生
迷路のような古い屋敷町の奥、
鬱蒼と木々に取り巻かれる様に其の店は在る
。
ジョージ王朝風の
正面構。煉瓦造りの厚い壁。高い窓。古びた
樫材の扉に小さく真鍮の文字
。
『
古美術画廊 ロスライン ――ヨーロッパ骨董・美術』
戦前はさる
貴顕の屋敷だったという。
かのんがこの
城山と呼ばれる丘の上に奥まった、表から殆ど見えない
古美術店を見つけたのは偶然だった
。
彼女の身を包む制服は、城山の中腹に拡がる私立の
名門女学校のものだ。中学から大学まであり、高い鐘楼を頂く
文芸復興様式の
礼拝堂は街の
目印ともなっている。端正な石と煉瓦の
学舎の間を縫って
鈴懸の小径が
廻り、麓に下りれば小綺麗な住宅街とお
洒落な学生街が開けている。放課後ともなればさんざめく女学生達で
一際華やかだ。一方、礼拝堂の裏を抜けて丘を登ると、時代に取り残されたように
寂れた屋敷町となっており、人も住まず
荒蕪した廃家も目立つ。
自動車が一般的ではなかった頃に作られた道は狭く、入り組んで人影も
疎らだ。まして丘の頂きは中世の城跡だというが、落葉に
埋もれかけた展望台と石垣が残るばかりの
鬱蒼たる森だ。昼尚暗く女学生達は誰も近づかない
。
かのんは入学して間も無い頃、道も知らぬまま丘を登ったものだった。
酔狂にも城跡の展望台を見たかったのだと云う。古文の老教師が
徒然に話してくれたものだ。城跡には戦前、
観月臺と呼ばれた展望台があり、行楽で大層
賑わったと。
――『観月臺』ですって
?
退屈な雑談に教室中が
辟易する中、今や
絶滅危惧種である「
浪漫主義な女学生」かのんの頬が紅潮した。観月臺、カ・ゲ・ツ・ダ・イ、何てキレイな呼び名かしら
!
進学の為に帰国した
所謂帰国子女であるかのんは自分の国の見る物聞く物全てが珍しく、同じ年頃の少女達とは興味や嗜好に微妙なズレがあった
。
かくして少女は迷路のような屋敷町で迷い、城跡の森を一人
彷徨う事になった。心細さに教室で聞かされた噂話が次々と思い浮かぶ。
曰く城跡に巣食う巨大な黒犬が
縄張りに迷い込んで来た女学生を何処までも追いかけ、喰い殺す
……曰く城跡に隠れ住む隠者が女学生を
陵辱し、生きたまま森に埋めている
……曰く城跡には生きている
少女人形が
彷徨っており、それに出会った女学生もまた永遠の時を彷徨う
……曰く、曰く、曰く
……
――ああどうしましょう。きっとこの世の終わる日まで、この暗い森を
彷徨うのだわ。
他愛の無い不安が際限なく膨れ上がってゆく。
太陽もまったく急ぎ足で梢の向こうに消えていく。森の
小暗い小径に
寂寥と夜が忍び寄る
。
「あ……
」
唐突に眼の前が開けた。残り日に照らされて金色に浮かび上がった
瀟洒な
洋舘。
――ここは
何処?
どう見ても長い歴史を積み重ねて風景に溶け込んだ
欧州風の
貴族の邸宅だ。かのんにはむしろ見慣れた光景で、それ故逆に混乱する
。本能に近い処で何かが引っかかり、膝が
怖気づく。覚束なげに舘を見上げる。どうして「
迷い家」という言葉が思い浮かぶのだろう。
踵を返して逃げ出したくなる
。
――何を考えているのよ! ただ道を聞くだけじゃない
。
窓の
焼絵硝子から漏れる美しい光に勇気を
奮い起こし、おずおずと呼鈴を鳴らす。程なく扉は開き、背の高い老人が現れた。半分髭に隠れた温かい笑顔
。
「やあ、お嬢さん、いらっしゃい
」
以来、かのんは放課後のひと時をここで過ごすようになった
。寛げる秘密の場所だ。最もこんな
寂しい場所で商売になるのかとも思う。以前そう
訊ねた時、老人は苦笑して答えたものだ
。
「僕は趣味でやっているからね
」
小さな
白鑞の砂時計の砂がさらりと落ちきった。ウェッジウッドの
茶瓶から
羽根布団の覆いを取り
除け、慎重に
茶碗に薔薇色の液体を注ぐ。ふうわりと鼻をくすぐる香り高い湯気。放課後のこの時間、いつもかのんがお茶を
淹れる
。
母の記憶はない
。高名な音楽家の父は世界中を飛び回っている
。家に帰っても誰も居ない
。老人の為にお茶を淹れるのは、自分が「家族」と云う物になったようで楽しかった
。一種の特権のような気がした
。
かのんは、カップを老人の前に
据えると、結んだ
手巾の包みを解いた。
「学校で
焼き菓子を焼きましたの。味見して下さいましね?」
少女らしい甘い
最高声域に老人は聞き惚れる。何とも古風な云い廻し。
嘗てアーネスト・サトウが、美しいと
讃えた日本語とはこう云うものだろうか
。
外国暮しの長かった
所為か、かのんの言葉遣いは古風で発音は音楽的だった。粗暴な早口を好む若者にあっては浮いた存在と云える。
或いは若いかのんが、年の離れたこの老人と話が合うのも、そんな処に原因があるのかもしれない
。
――ふぅう。一方かのんは紅茶の香りについつい
寛いだ吐息を漏らす。こうして古き良き時代の美しい品に囲まれ、粋で
洒脱な老紳士とお茶を楽しんでいると外に広がる現代が悪い夢のように思えてくる。やっぱり生まれる時代を間違えたのかなぁ
……
彼女は姿形こそ今風のミニスカートに
繕っていたが、
忙しない現代に何時も違和感を感じていた。友達に奇異の眼で見られながら「
携帯電話」すら持っていない。
「やあ、かのん君の手作りとは嬉しいね」老人はハンケチからクッキーを
摘むと口の中に放り込んだ
。
「君の
良い人に怒られそうだよ」
かのんは紅茶を吹きそうになった
。
「
ボ,ボーイフレンドなんて居ません!」思わずドイツ語が口をついて出る。少女のなめらかな頬が薄紅色に染まる
。「わたし、男の子は苦手なんです
」
「おやおや
」
老人はそんなかのんを
眩しげに見やった。
今時の女学生には珍しい思慮深い清楚な
面差し。誰もがはっと振り返るほどの美少女
。その日本人離れしたと云うより色素異常を思わせる奇妙な瞳の色も、少女の美貌に神秘的な
芳香を加えている。当然、多くの男達、少年達が
憧れを寄せるかのんだったが、深窓育ちの所為か男性は苦手だった
。
――男の子は苦手だけど
……かのんは心の中で
囁いた。カップ越しにこっそりと老人の姿を盗み見る
。
「何だね?
」
「あ、いいえ、その
……」慌てて眼を伏せる。ただ眼が合ってしまった、それだけで頬が
火照ってくる。変な娘だと思われちゃう
。ちらりと眼を上げる。老人は
尚も面白そうにかのんを見ている。ああ、どうしてこんなにどきどきするのかな
。
「知りません!
」
少女は真っ赤になった頬を両手で隠し、子供のように
拗ねてみせた。
ふと見ると、小さなむく犬までもが面白そうにかのんを見ている
。この仔はまるで人の言葉が解るみたい
。
「おチビちゃんおいで。一緒にクッキー食べましょう
」クッキーを餌に仔犬を呼び寄せようとしたかのんの手が止まった
。
――今、笑った
?
かのんは奇妙な胸騒ぎを覚えた
。可愛らしい仔犬が何か不吉なモノであるかのような
……
「かのん君?
」
「あ、えっと……
」老人の声にかのんの胸の内に湧いた不安な何かが消えてしまう。「いいかげんこの仔の名前を教えてくださいな
」
「当てて
御覧。そうすれば約束通りここにあるオートマータ、どれでも好きな物をあげよう
」
途端、時計仕掛けの
敲鉦の音が響き、魔法のように部屋中のオートマータが動き出した。きりきりと歯車が噛み合いガラスの眼が開く。
機巧の楽士が楽器を奏で、美童が銀の矢を放ち、踊子がくるくると廻り出す。
素焼の指の拍手
。
人形達の喝采の中、その
主人である老人は意外なほど
厳粛な声で云った。
「それが
賭というものだ」
アラベスク
穏やかな午後の空に、鐘楼の
組鐘から美しいウエストミンスターチャイムが鳴り渡った。古さびた石の校門から制服に身を包んで少女達が
溢れ出す。
鈴懸の並木道を
弾むような足どり。
煌めくような声で笑いさざめく
。
エリスの
苑。明治時代に英国人の教育家が女学校を開いて以来続く街の風物
。
しかし放課後の華やいだざわめきをよそに、ここ芸術科の
舞踏練習室ではぴりりと空気が緊張していた。ガーシュインの官能的な
狂詩曲に乗って踊る少女をその場の全てが注視している。白い
稽古着に包まれて若々しい肢体、健康的な肌がしっとりと汗ばんでいる。練習に練習を重ねた複雑な
足取り。音楽と
舞踏が見事に
同調する。少女は会心の笑みを浮かべ、最後に小粋な
姿態を決めた。
「はい、
紗英サン、宜しくてよ」若い女教師が手を叩いて云った。生徒と同じレオタードの上にくたびれた白衣を羽織っている。教え子達と区別のつかない
幼顔。しかし少女達のそれとは如何にも量感の違う乳房がゆさりと揺れる
。
「とても良かったワ
」
少女達の拍手と喝采
。紗英と呼ばれた少女は両手を拡げ優雅なお辞儀を返した。すらりと背が高く、さらさらの
短髪が良く似合っている。涼しげな顔立ちに猫のような眼が印象的だ
。
女教師は、もう一人の少女に呼びかけた
。
「かのんサン
」
舌
足らずな声にかのんが立ち上がり、紗英と入れ換わりに進み出る。擦れ違い
様、紗英は励ますようにばちりと
目配せをくれた。同性でもどきりとするような
蠱惑的なウィンクだった。かのんは頬が赤くなるのを感じて、ひどくどぎまぎとした
。
最終
校内選抜。皆の視線を浴びて少女は大きく深呼吸をした。長い髪を
下げ髪に
纏め、白いレオタードは少女の細く
縊れた腰やつんと突き出した乳房の線をくっきりと
露わにしている。まるで裸身に直接絵の具を塗ったかのようだ
。その姿は全裸よりも裸体を意識させたが、決して
淫靡ではなく清らかで美しかった
。
高声機からドビュッシーの
洋琴曲が流れ出した。しなやかな肢体が
艶やかにくねり、空間に優美な軌跡を描き出す。
俄に空気の色が変わった。人々の間にほうっと音にならないどよめきが拡がる
。
――気持ちいい
……
音楽家一族の血なのだろうか
、かのんは頭で考えることなく無意識で踊ることが出来た。今も全くの
即興で、練習で練り上げた
足取りを踏んでいるわけではない。指先の動き一つが華麗で神秘な
千とひとつの物語を紡ぐ。誰もがかの不幸な
王様のようにその物語に魅了されるばかり
。
かのんは自分のステップが、未だ見ぬ神秘の
蔓草模様を描き出していくのを感じた。音楽に乗り一足
毎に不思議な模様をなぞって行く
。あと少し、もう少しで文様は完成し、それはきっと別世界へと通じる
魔法陣となる。何かが見える
……しかし物語は静かに消えるドビュッシーの音符と共に終わり
、シェヘラザートは自分がペルシアの王宮ではなく学校の
練習室に居ることに気が付いた
。自分を見つめている
王様や
大臣達ならぬ教師や生徒達
。かのんは未だ踊り足りないものを感じながら膝を折り古風に
お辞儀をした
。
部屋中しんと静まり返っている
。紗英の時のように拍手をしてくれる人もない。かのんは不安になった。何かおかしな失敗でもしたかな
? やっぱり紗英のようにきちんとステップを
練り上げれば良かった。かのんは女教師を
訊ねるように見た。女教師は乳房の下で腕を組んだまま
茫然と動かない。知らず腕に力が入り、乳房を
絞り上げている。教え子達の噂によれば、ぺテルブルクで将来を
嘱望されていた彼女が
舞踊劇を断念したのはこの立派に育ちすぎた乳房のせいであるという
。かのんは心配になった。あのままではレオタードが
弾けてお乳が飛び出してしまうのではないかしらん
?
「先生?
」
かのんの声に、ようやく彼女は
喘ぎ、腕組みを解いた。雄大な乳房が景気良く揺れ、それを合図と空気が溶けて動きだした
。
女教師は振り向き、壁際にずらりと居並ぶ学園のお歴々と視線を交わした
。ロシア人講師の老舞踏家が、
謹厳極まりない風貌で微かに頷いた
。
「かのんサン」殊更にさりげない風
。
「
国際青少年芸術祭の代表は、あなたにお願いするワ
」
わぁっとレオタード姿の少女達が、歓声を上げて飛び上がった
。戸惑うばかりのかのんに群がり、口々に祝福し激励する
。
そんなかのんを、紗英は猫のような眼で見つめていた
。猫が肉食獣であることを思い起こさせる眼だった
。