十年前、十年後

ぎわ



第一章――十年前、朝

 今からちょうど十年前の二〇〇五年十二月四日、アスカは風邪を引いて いた。
 前日の晩から体がだるく、喉が痛く、微熱があった。今回はいささか 質が悪いウイルスだったようで、一晩寝ても治るということはなく、却って 熱は上がっていた。
 重い病状には至ってないものの、今日一日ぐらいは安静にしているべき だろう。母親であるキョウコはその考えをアスカに丁寧に説明し、この頃から 口が達者になりつつあったアスカも、この件に関してはおとなしく 同意した。
 キョウコは夜中の間に乱れていたアスカの布団と毛布を直し、肩口から 隙間風が入らないように整えた。
 最初はぽかぽかと快適だったが、次第に布団にこもる熱気と体の発する 熱とが、熱いお風呂に入った時のようにアスカを包む。
「あついよー」
「今は我慢してね。たくさん汗をかけば、風邪は早く治るから」
 台所から持ってきた氷嚢をアスカの額に当てながら、キョウコが諭す。
「うん」
 布団を動かしたくなるけれど、キョウコの言葉を信じてアスカは 我慢する。
「でも今日が日曜日でよかったわね。明日にはきっと元気になってるから、 幼稚園休まなくても大丈夫よ」
「……うん」
「あら。だめよ、動いちゃ」
 キョウコは見逃しはしなかった。

第二章――十年後、朝

 今からちょうど十年後の二〇一五年十二月四日を覗いてみましょう。
 枕元の目覚し時計が鳴り出すと、アスカちゃんは眠い目をこすりつつ 布団を跳ね除けて起き上がりました。
 布団から一歩外に出ると冬の冷たい空気が身を包みます。けれどこの街で 十年暮らしてきたアスカちゃんにとってはこれしきの寒さへっちゃらです。 暖かい布団の誘惑を軽々と振り払い、学校へ行く支度を始めました。
 制服を着て鞄を手にすると、お隣の碇家へ向かいます。
 その前の日から、ユイさんとゲンドウさんは二人揃って学会に出席する べく家を空けていました。
 けどそのことは、今朝の子供たちにさしたる影響を及ぼさないはずでした。 どうせシンジ君はアスカちゃんが起こしてあげるまで惰眠を貪っているに 違いありませんし、アスカちゃんは以前から碇家の鍵を持っているの です。
 キーホルダーからそれを選び取り、ドアを開けます。
(シンジの朝ご飯は……昨夜の残り物を温めればいいわよね。少し横着かも しれないけど)
 そんなことを考えるアスカちゃんは、すっかり若奥様気分です。
 ところが、シンジ君はそれどころではありませんでした。
 あちこちの部屋の電気が無駄に灯されています。居間ではテレビも点いて います。
 そして当のシンジ君は、こたつに首まで潜って眠りこけていました。 こたつの上には一枚のプリントと鉛筆が、みかんの山とペットボトルの間に 転がっていました。
「何やってんのよバカシンジ!」
 怒鳴りつけて叩き起こそうとしたアスカちゃんは、シンジ君の顔が 妙に赤くて息が荒いのに気づきました。
 額に手を当てるとずいぶんな熱です。
「あ……おはよう、アスカ……」
 いつもの寝起きに輪をかけた、ぼんやりした視線をアスカちゃんに 向けます。
 シンジ君は、風邪を引いていました。

第三章――十年前、午前

 一寝入りして目覚めると、いくらか楽になっていた。
 ベッドの傍で見守っていたキョウコも、アスカの口からそう聞いて 安心した顔になる。
 それでも着替えをするため起き上がったら、頭がくらくらして体がふらふら した。
 布団に入って横になり、やっと落ちついた気分になる。
 ここでキョウコは隣の自室へ行き、第三東大の教え子たちがメールで 提出したレポートの採点に取り組むことにした(ちなみにアスカの父は、 海外へ出張中であった)。
 アスカは部屋に一人になった。

 一人っ子だし、両親はともに多忙な身だ。一人で時間を過ごすことは 決して珍しくない。
 しかしこの日は、少し勝手が違った。
 起きたばかりだから眠くない。しかし歩き回れるほどの体力も、絵本を 読んだりビデオを観たりできるほどの集中力もない。
 ぼんやり天井を見ていると、木目が人の顔に見えてきておっかない。
 そこでうつぶせになると毛布がずれる。そのせいで、布団の中よりは 冷えている外の空気が肩をなでる。
 まだ不器用な小さい手で、アスカはどうにか隙間を塞いだ。
「さむいなあ……」
 暖房は効いていたけれど、思わず呟いてしまう。
 アスカには、ドイツの寒さよりも日本の寒さの方が厳しく感じられた。
 もっともその印象には、アスカを取り巻く環境も大きく影響していたと 言える。
 アスカが両親とともに、ドイツから日本にやって来て二ヶ月。隣の部屋に 住む碇家の人には、キョウコとユイが友人だった関係で来日前の下見の頃から よくしてもらい、同い年のシンジともすぐに仲良くしてもらった。
 だが今から一ヶ月前、幼稚園に通い始めて事情が変わり始める。
 第三新東京市が二十一世紀の未来都市と騒がれても、住んでいる日本人の メンタリティーが激変したりするわけはない。子供の世界はなおさらで、 青い瞳に金髪という容姿と人見知りで引っ込み思案な性格は、格好のいじめの 標的になった。
 教師が特別目をかけている最初の一週間ほどは様子を窺い、次第に陰湿な 牙を剥く。ちょっとした《悪戯》。聞こえよがしの陰口。デフォルメの 大きな、言動の模倣。あげつらい。揶揄。一つ一つは教師や親の助けを 仰ぐのもみっともない、些細な嫌がらせに過ぎないが、その蓄積は着実に 柔らかな心を傷つけていく。
 そうした理不尽に直面した時、アスカはまず怯え、怖れた。
 理解不能で残酷な悪意に、アスカはその幼い人生で初めて出会った。 どう対処するべきかを知らなかった。
 気づかないほど鈍感ではない。無視できるほど神経が太くもない。 でも立ち向かえるほど強くもない。だからアスカは、青い瞳を潤ませて 立ち尽くすことしかできずにいた。
 だがそんな姿は周囲の嗜虐心をさらに煽る。いじめは日を追って エスカレートしつつあった。
「ようちえん、いきたくないなぁ……」
 小さな淡い呟きは、部屋の空気に溶け込んだ。

第四章――十年後、午前

「ほんと、アスカの剣ってえげつないよねー。面も胴もお構いなしに四方八方 から撃ち込んでくるし、飛んだり跳ねたりするし、挙げ句には回り込んで 背中から斬りつけてきたりするし。喧嘩やってんじゃないんだからさ」
「レイこそ間合い詰めた時に先生の死角から肘撃ちや膝蹴り入れてくるの 止めなさいよ。あたしは一応剣道やろうと思ってんのに」
「アスカもレイも剣道していたようには見えないんだけど……。人間って、 CGなしでもあんなことできるのね……」
 女子の体育の授業は剣道でした。防具を外して胴衣姿になったアスカちゃん たちは、更衣室へ向けて廊下を歩いています。
 よく晴れた日中の今も空気は冴え冴えと冷えていますが、体を存分に 動かしてきたばかりの彼女たちにはちょうどよいくらいです。白い息を 弾ませ、おしゃべりに興じます。
 と、同じ学年の男子が数人、向こうからやって来ました。
 それは、幼稚園の頃アスカちゃんをいじめていた子たちです。
「…………」
「…………」
 両者はすれ違いましたが、相手のグループが必要以上に大きく避けた ため、アスカちゃんたちはほとんど身をそらすまでもありませんでした。
「何よあいつら。もしかして、あたしたちのこといじめてる つもり? バイキンには近寄るなって感じで」
 妙にうきうきとレイちゃんが訊ねます。握り締めた拳を掌に打ちつけて いる剣呑な姿から察するに、自分の疑問がもし正鵠を射ていたら即座に 踵(きびす)を返して廊下を朱く染めるつもりなのでしょう。
「レイだってあの脅えきった顔見たでしょ? 昔アスカをいじめて逆襲された 経験の、単なる後遺症よ。ましてや今のアスカにちょっかい出そうなんて 考えるほど命知らずじゃないわ」
 アスカちゃんが言うより早く、事情をある程度知っているヒカリちゃんが 教えます。
「ん? 昔からアスカって凶暴だったんじゃ――ああ、幼稚園の時のこと ね」
「あんたたちの言い草がすごく引っかかるけど……まあ、そういうことよ。 って、レイ! どうしてあんたがそれ知ってるわけ?!」
「それは以前わたしが教えたからよん」
 どこからともなくミサト先生が現れました。
「何勝手に人の過去言い触らしてんのよ! このぼんくら教師!!」
 ただでさえ恥ずかしがり屋のアスカちゃんにとって、幼稚園時代はもはや 人生の恥部となっているようです。ミサト先生を罵る言葉ものっけから エンジン全開です。
「おお怖い怖い。小さい頃はわたしが遊びに行くたんびにキョウコさんの 後ろに隠れてた子が、偉くなったもんだわ」
「…………」
 アスカちゃんは無言で間合いを詰めると鋭いハイキックを繰り出しました。 まともに喰らえば骨が砕け、下手に避けても肉が切り裂かれる威力です。
 しかしミサト先生はあっさり軌道を読みきると、隙の生じたアスカちゃんの 懐に飛び込みました。そのまま顔面へ入れた正拳突きを寸止めします。
「…………」
「モーションが無駄に大きいから何するつもりか丸わかりよ。昔の悪い癖が 戻っちゃってるわね」
「やっぱミサト先生は強いですねー。いつもより大振りだってとこまでは あたしもわかったんですけど、そこをきちんと攻めきれるんだから」
「アスカもミサト先生も校内で暴れないで!!」
 レイちゃんが感心して肯いている横でヒカリちゃんが二人を叱りつけ ます。
 ごめんごめんとへらへら笑いながら、ミサト先生は最近では稀なほどの 惨敗を喫した悔しさに唇を噛むアスカちゃんに耳打ちしました。
「やっぱりシンちゃんがいないと調子出ないのかしら?」
「バ、バカなこと言ってんじゃないわよ!!」
 アスカちゃんは力一杯否定します。確かにシンジ君は学校を休むことに なってしまいましたが、それとこれとは無関係に決まってます。想い人が そばにいないくらいで力が出ないなんて、自分がそんな色ボケしている とは考えたくありません。
 顔が急に熱くなってきたのは体を動かしたせいに違いないと、自分に 言い聞かせます。
 ミサト先生は笑ってアスカちゃんをいなすと、去り際に言いました。
「あ、そうそう。誕生日おめでとう、アスカ」
「え? あ……」
 アスカちゃんが答えるよりも早く、ミサト先生は廊下の彼方に消え去って しまいます。
「……ありがとくらい言わせなさいよ」
 小声でアスカちゃんは不満をこぼしました。

第五章――十年前、昼

「アスカ、シンジ君がお見舞いに来たわよ」
 お昼に軽くスープを口にし、しばらくうとうとしていると、キョウコが 部屋に入ってきた。
 その後ろにシンジ。目を真ん丸にして、床に伏せっているアスカを とても心配そうに見ている。最初から意図したお見舞いではなく、いつもの ように遊びに来たらアスカの病気を知らされた、という雰囲気だ。
「アスカちゃん、だいじょうぶ?」
「……うん。だいじょぶ」
 本当は《だいじょぶ》と言えるほど良くなってもいなかったが、それ以上 シンジを心配させたくなくて、アスカはちょっぴり嘘をついた。
「でもシンジくんにかぜがうつったらやだから、きょうはかえって」
「えー、へいきだよ。うつらないようにきをつけるから」
「かぜのういるすは、めにみえないくらいちいさいの。きをつけてても かんじゃのちかくにいたらうつっちゃうの。だからだめ」
 キョウコに教わった知識をまくし立て、アスカはシンジを危険から 遠ざけようとする。引っ込み思案だが内弁慶のアスカにとって、すでに シンジはある程度強気に振る舞える相手となっていた。
 しかしシンジも抵抗した。アスカほど口は回らないが、とつとつと 訴える。
「でも、でも……アスカちゃん、ひとりじゃ、さびしいでしょ?」
 その言葉はアスカの心を乱したが、それでも首を横に振り続けた。
「……さびしくてもいいの。シンジくんがびょうきになったらもっといや だもん」
 結局のところ昔から、アスカはシンジが好きだったのだ。

第六章――十年後、昼

「今日出さなくちゃいけないんだよね、進路希望アンケート」
 週刊少年漫画雑誌並みの表面積と厚みを誇る弁当箱の蓋を開けながら、 レイちゃんがアスカちゃんとヒカリちゃんに訊ねました。
「そうよ。……ミサト先生、帰りのホームルームで回収忘れなければ いいんだけど」
「なーんか実感わかないんだよね。まだ一年以上先だしさ」
 しゃべりながらご飯粒一つこぼさずにハイペースで食べるという難題を、 レイちゃんはいとも簡単にこなしてのけます。流麗な箸さばきによって、 ぎっしり詰まったご飯とおかずは熱湯をかけられた雪のごとく消えて いきます。
「ヒカリ、あたしん家から一番近い高校どこだっけ? ひとまずその名前 書いとくわ」
「レイだったら創世学院にしておいたらどうかしら? きっと狙えると思う わよ」
「創世学院って……あの変な制服の私立? やだよ、あいつら高尚ぶってて 他人を見下してる感じがするから好きじゃない」
「そうなんだ……。ちょっともったいないけどな。あそこは全国から生徒が 集まるくらいの難関校だから、うちの学校だとアスカとレイと……後は せいぜい渚君くらいしか行けないのに」
「ふーん……アスカは?」
 今日は静かにお弁当を食べていたアスカちゃんに、レイちゃんが 問いかけます。
「あたしもレイに同感。あそこ出身の知り合いがいてさ、まあ、その人は 箱入りのお嬢さんって感じのいい人なんだけど……誘われて行ってみた 今年の学園祭のスローガンが噴飯物だったわよ」
「なになに?」
「《現実に帰れ》」
「……うわあ」
 レイちゃんがげっそりした顔になりました。
「……お祭りのテーマには……あんまり、似合わないね」
 温厚この上ないヒカリちゃんですら、さすがにフォローが困難なよう です。
「教室で自主制作の映画見てたら、クライマックス近くで背後からスタッフが 観客に水ぶっかけてきて……さすがにあの《メッセージ》とやらは、笑って 済ませる気にもなれなかったわね」
「血の雨?」
 レイちゃんが即座に問いかけます。
「別にそこまではしないわよ。スタッフの屯してた場所を制圧して、 脚本の矛盾と台詞回しの下手くそさと演技の拙さと撮影の未熟さと 音響のセンスのなさと編集の無能さを、それぞれの担当者に懇切丁寧に 指摘してあげただけ」
「うわ」
「ちょっとした若さゆえの過ちが、一生もののトラウマになっちゃった わけだね、その連中」
 絶句してしまったヒカリちゃんと、諸行無常と言わんばかりに重々しく 肯くレイちゃんを半ば無視し、アスカちゃんは続けます。
「一緒に行ったシンジなんか風邪引きそうになって――」
 そう口にした時、アスカちゃんは今朝のシンジ君を思い出しました。 実際に風邪を引いて、苦しそうにしていたその姿を。
 そしてまた、十年前のやり取りや、シンジ君の両親がまだ数日は学会から 戻って来ないことを。
 不意に、いてもたってもいられなくなり。
「どしたの、アスカ?」
 アスカちゃんは鞄を掴むと席を立っていました。
「あたし、気分が悪くて早退するから。ミサトによろしくね」
「ちょっと、アスカ!」
 ヒカリちゃんを無視して走り出そうとしたアスカちゃんの前に、 レイちゃんが立ちはだかりました。
「レイ、何のつもり? どきなさいよ」
「あなたの誕生パーティ、どうするの」
 極めて真剣な硬い表情をし、感情を殺した低いトーンの声で アスカちゃんに問いかけます。
「明日か明後日に延期、名目はシンジの快気祝いにでも変更するわ」
「あたしが行っても、いいのね」
「当たり前でしょ」
「ケーキ、出さなかったら、承知しないわよ」
 レイちゃんの真の関心はその一点に集中しているようでした。
「わかったからどきなさいっての!」
 そこでようやく退いたレイちゃんの脇を通り過ぎ、教室を飛び出そうと すると。
「アスカ」
「今度は何よ!」
「お誕生日、おめでとう!!」
 朗らかに、明るく、大きな声で、レイちゃんが言いました。
 それにつられて、ヒカリちゃんやトウジ君、ケンスケ君、カヲル君らも 口々におめでとうと声をかけます。
「……ありがと」
 祝福の言葉に包まれたアスカちゃんは顔を真っ赤にすると、すぐ近くに いたレイちゃんにしか聞こえそうにないほどの小さい小さい声で応じ、 全速力で駆け出しました。

第七章――十年前、午後

 一度は帰って行ったシンジは、軽く眠っていたアスカが目を覚ました おやつの時間頃にまたやって来た。
「これなら、かぜがうつらないからだいじょうぶでしょ?」
 わざわざマスクをしてきたシンジを追い払うことは、アスカにはとても できなかった。
「これ、おかあさんにつくってもらったんだ」
 言いながらシンジが差し出したのはホットケーキ。鈍くなっている アスカの鼻にも嗅ぎ取れる甘くておいしそうな匂いが、部屋の中に 立ち込める。
「いっしょにたべようね」
「……シンジくん、ますくしてたらたべられないよ?」
「あ」
 アスカが指摘すると、シンジは頭を抱えて悩み出す。しばらくしてから、 「すこしのじかんならだいじょうぶ」と結論してマスクを脱いだ。
 食べるために上半身を起こして、アスカは気分がいくらか楽になっている ことに気づく。風邪にやられていた体も、ようやく快方に向かっている らしい。
「「いただきます」」
 二人の声がきれいに揃う。
「はい、アスカちゃん」
 シンジがわざわざホットケーキを切り分けて、フォークに刺したそれを アスカの口元まで運んでくれる。まるで赤ん坊扱いされてるみたいで 恥ずかしかったけれど、それよりもシンジの優しさがうれしくて、アスカは 素直に口を開けた。
「……おいしい。シンジくん、ありがとう」
 作り立てでまだ温かいホットケーキに柔らかく溶けたバターと甘い メイプルシロップが絡み、病に弱っていたアスカの口の中を心地好く 満たしてくれた。
「よかった。……あ、そうだ!!」
 シンジはホットケーキと一緒に持って来たバッグから、一冊の絵本を 取り出した。
「アスカちゃん、おたんじょうびおめでとう! これ、ぷれぜんと!」
 差し出されたのは、『ないたあかおに』というタイトルの絵本。アスカは まだ読んだことがない。
「さっきおかあさんから、きょうはアスカちゃんのおたんじょうびなのよ ってきいて、でも、ぼく、ぷれぜんと、かってもらってなかったから、 ぼくがいちばんすきなほんをあげるね!」
 言われて見れば、その本はよく読み込まれてきたようで、ところどころ 手垢に汚れている。でもアスカにとって、それはシンジの一番好きな本と いう言葉が偽りでない何よりの証拠に思われた。
「うれしい……たいせつにするね」
 絵本をぎゅっと抱きしめて、アスカはシンジに言った。
「ほんとうにありがとう。シンジくん、だいすき」
「ぼくもアスカちゃんがだいすき」
 幼い二人の子供は、無垢な笑顔で素直な言葉を交わし合う。
 けれどシンジの次の一言がアスカの心を暗くした。
「はやくかぜなおるといいね。ぼく、あしたもアスカちゃんといっしょに ようちえんいきたいもの」
「…………」
「……どうしたの? アスカちゃん」
「……わたし、ようちえんいきたくない……」
「どうして?」
「だって……みんな、わたしのこと、ばかにするもの。かみのいろがちがう とか、あおいめなんてへんだとか、がいじんだとか……」
 ささやかながら満たされた誕生祝い。その幸せな気持ちを一瞬で打ち 消された反動か、母親にもこれまで黙っていたことをアスカはシンジに しゃべっていた。
「わたし、ずっとこうしておうちのなかにいたい……。シンジくんがあそび にきてくれたら、それだけでいいから……」
 話しているうちに、いじめられた時の暗い記憶を次々と思い出す。 その記憶に押し潰されそうになり、アスカの中では《外の人間》に対する 恐怖が一気に膨れ上がりそうになっていた。
 その時。
「そんなこと、いわないで」
 アスカの手を優しく包み込み、シンジがきっぱりと言った。
「ぼく、ずっと、ずっと、アスカちゃんといっしょにいたいもん。いっしょ にようちえんにいって、いっしょにあそんで、しょうがっこうも ちゅうがっこうもいっしょにいって、いっしょにおべんきょう して……えーと、えーと……」
「こうこうも?」
 アスカが助け舟を出すと、シンジはうれしそうに肯く。
「うん! それで、いっしょにほかのみんなともなかよくなって、ともだち になるの!!」
 明るく力強いシンジの言葉。アスカは皆と仲良くなる自分を思い浮かべ、 そうなったら素敵だろうなと思った。
「でも……」
 実際の自分は周囲からいじめられる情けない人間だ。そのことをすぐに 思い出し、アスカは理想と現実の落差に泣きそうになる。
「だいじょうぶ」
 瞳を潤ませたアスカの手を、シンジは強く握ってくれた。
「ぼくがずっといっしょにいるから。だから、こわがらないで」
「シンジくん……」
 アスカは親とは違う安心感をシンジに覚えた。少しずつ傷ついていた心が 癒されていくのを感じていた。
 シンジが一緒にいてくれるなら、明日も幼稚園に行けると思えた。
「もし、こんどだれかがそんなこといったら……」
「いったら?」
 シンジを半ば偶像視しそうになっていたアスカは、勇ましい言葉を 期待してシンジを見つめる。
「『やめて』っていうからね」
「…………」
 その瞬間初めて、アスカはシンジを頼りなく思った。


 このしばらく後。アスカは、自分と仲良くしていたせいでいじめられる ようになったシンジを守ろうと、生まれて初めて戦った。
 そしてその出来事を契機に、アスカは周囲に対していささか攻撃的に なっていく。それは当時のアスカには自然な成り行きだったわけだが、 結果、アスカが生来持っていた色々な要素は表面上覆い隠されてしまった。
 その振る舞いはシンジに対しても例外ではなく、一年後、アスカが五歳の 誕生日を迎える頃には早くも《バカシンジ》が呼び名の定番になっている。
 十年経った現在、かつての泣き虫で甘えん坊なアスカを覚えているのは、 当人と身近にいた数人の大人たちぐらいだろう。
 少し前に無駄話をした時、何歳ぐらいから記憶が残っているかと問われた シンジは、五歳か六歳からと言っていた。
 もちろん今のアスカの口から、昔シンジに泣きついたことなど言える はずもない。
 シンジが過去を忘れていることは寂しいが、反面ありがたいとも 思っている。

第八章――十年後、午後

「あれ……もう夕方?」
 アスカちゃんが濡らしたタオルを静かに額に乗せると、ベッドの中で熱に うなされていたシンジ君が目を覚ましました。
「そうよ。病人は何も考えないでとにかく寝てなさい」
 あなたが心配で早退してきたなどと言えるはずもなく、アスカちゃんは 邪険な口調でシンジ君の布団を整えます。
「ありがと、アスカ……」
「別に何てことないわよ。隣で死人が出たりしたら嫌なだけだもん」
 そそくさと部屋から引き上げようとしたアスカちゃんでしたが、熱で ふらふらしながらもシンジ君はベッドから起き上がろうとしました。
「何してんのよバカ!! おとなしく寝てなさいって言ってるでしょ!」
 アスカちゃんが肩を押さえて寝かそうとしますが、シンジ君は頭が 回らなくなってる人特有の頑固さを発揮し、意外に強くなってきた力で 立ち上がろうとします。
「あの、今日ミサトさんに提出する進路のプリント……」
 言われて、アスカちゃんは今朝こたつの上に載っていたプリントを 思い出しました。
「そんなの治ってからでいいでしょ! 今日中に出さなきゃ勝手に受験校 が決まるなんてわけでもないんだし!」
「そ、そっか……」
 ようやくおとなしくなったシンジ君は再び横になって天井を見上げます。
「じゃ、じっとしてるのよ、バカシンジ! 喉が渇いたらそこの水差しから 飲みなさい!」
 言い聞かせて部屋を出て、アスカちゃんは台所を借りるとおかゆを 作り始めました。冷めてもおいしいように味つけには気を配ります。
 でも部屋に戻ってみると、シンジ君はまだ天井を見つめてぼんやり起きて いました。
「おかゆ、作ってやったわよ」
「ありがと……」
 答えはしたものの食べる素振りは見せず、シンジ君はどこかうつろな口調で 言いました。
「来年は受験なんだよね……」
「……そうね」
 どうやら進路問題がシンジ君を悩ませている模様です。もしかしたら昨夜も、 こたつに潜って悩んでいるうちに眠ってしまい、結果的に風邪を引いたのかも しれません。
 アスカちゃんが訊いてみようかどうしようか迷っていたことを、先に シンジ君が訊ねてきました。
「アスカは、創世学院に行くんだよね」
 予想外の単語に、アスカちゃんはまず呆れてしまいます。
「あんたバカァ? 何勝手に決めつけてんのよ」
「……え? 違うの?」
 シンジ君はまるで狐に抓まれたような顔をして、身を起こすとアスカちゃん を見つめます。罵りながらまたシンジ君を寝かしつけると、アスカちゃんは 言いました。
「壱高に決まってるでしょ。学費は安いし家から近いし程度もそれなりに 高いんだもの。何でわざわざ高い金払って私立のむかつく学校に行かなきゃ なんないのよ」
 不快な記憶を思い出しつつ一気に言い募ると、今度は逆にシンジ君に 問います。
「で、あんたはどことどこの高校の間でそんなに悩んでいるわけ?」
 するとシンジ君は妙に安堵した表情で答えました。
「あの……母さんには壱高にしておけって言われてて……でも、創世、じゃ ない、壱高はレベルが高すぎるから、僕が受かるかなってちょっと不安に なってたんだけど……」
「シンジ……あんた、ほんとにバカ?」
 予想外の回答に、アスカちゃんは心底呆れます。
「あんた自分のレベルくらい把握しときなさいよ! 壱高が楽勝だなんて 言わないけれど、後一年以上あるんだから努力すればどうにかなる わよ!!」
「そ、そう……かな?」
「不安だったらあたしが一年みっちり鍛えてやるわ! 安心なさい!!」
「そうだね、アスカが教えてくれるんなら、安心だ」
 シンジ君は深々と息をつくと、ひどく穏やかな表情になりました。
「アスカ、悪いんだけど、プリント持って来てくれない? 心変わりしない うちに書いちゃいたいから」
「……しょうがないわね!」
 口ではそう言いながらも、アスカちゃんは足取り軽く居間へと向かい、 すぐさま引き返して来ました。
 上半身を起こしてプリントの志望校の欄に《第三新東京市立第壱高校》と 書くと、ほっとして力が抜けたかのようにシンジ君はベッドに倒れ込み ます。
「気が済んだらもう寝なさいね」
 アスカちゃんが命じる声にも返事せず、シンジ君は真っ赤な顔で すぐさま深い眠りに落ちました。

第九章――十年後、夜

 一旦自宅に引き返して自分のご飯やお風呂を済ませると、アスカちゃんは 再びお隣の碇家に戻って来ました。
「シンジも壱高、受けるんだ……」
 玄関のドアを開けながら、アスカちゃんはうれしくて思わず呟きます。
 シンジ君のことだからもしかしたら安定志向でもう少し受験が楽な学校 を目指すかもしれないと、ちょっと不安になっていただけに、喜びは格別 です。
「高校も一緒、だもんね」
 十年前の他愛ない口約束を思い出し、アスカちゃんは頬を染めました。
 部屋に入るとシンジ君は相変わらず寝ています。
 額のタオルを取り替えてあげようと手を伸ばした時、不意にシンジ君が 口を開きました。
「アスカ」
「な、何?」
 起きてる気配も何もしなかったことに驚いて見つめれば、シンジ君は 目をつぶったままでした。
「ごめんね、頼りなくって」
「べ、別に何とも思ってないわよ」
 とりあえず応対してみますが、相変わらず目を閉じたまま、シンジ君は 言葉を返します。
「子供の頃言ったよね。僕がずっと一緒にいてあげるって。でも今じゃ、 僕がアスカに一緒にいてもらってるみたい」
「シンジ……思い出した、の?」
 アスカちゃんの問いが聞こえないのか、シンジ君は熱に浮かされたように しゃべり続けます。
「アスカはどんどん強くなっていって、なのに僕は変わらないどころか どんどん情けなくなっていって……」
 もしかしたら寝ぼけた状態でしゃべっているのかもしれないと、この時 ようやくアスカちゃんは思い当たりました。
 そう思うと、却ってすんなりと言葉が唇からこぼれました。
「違うよ、シンジ」
 辛かったあの時、シンジ君が手を取って励ましてくれなかったら、 アスカちゃんはあの境遇から逃げ出していたかもしれません。そしてずっと 臆病な泣き虫のままだったかもしれません。
「あなたがいたから、わたしは強くなれたんだよ。あなたがいるから、 わたしは強くなれるんだよ」
 シンジ君が完全に寝ていることを確かめてから、アスカちゃんは少し 居ずまいを正して言いました。
「ありがとう、シンジ」
 もちろん寝入っているシンジ君からの返事はありません。
 まだ顔は熱っぽく、唇を半開きにしてやや苦しげに息をついています。
 そんなシンジ君を見ているアスカちゃんの頬は、次第にうっすらと 染まっていきます。
 膝立ちになり、シンジ君の上に上半身を乗り出しました。
 そして唇を、ゆっくりとシンジ君の唇に重ねようとした時。
「ハクション!!」
 シンジ君は盛大なくしゃみをしてのけました。
「ふぇ? アスカ、どうしたの?」
 目を覚ましたシンジ君は目の前にアスカちゃんがいるのでびっくり です。
 もちろんアスカちゃんは即座に理由をこしらえて徹底攻勢に出ました。
「タオル替えようと思ったのに何すんのよ、このバカ!」
「ご、ごめん! あの、早く顔洗ってうがいした方が――」
「あんたに言われるまでもないわよこのボケナス! 看病して風邪移される なんて冗談じゃないわ!!」
 洗面所に駆け込んで、じゃぶじゃぶと顔を洗い、がらがらとうがい します。さっきまでの甘い気分は台無しです。
「……ほんとに、タイミングが悪いんだから」

 一旦寄り道してから改めて部屋に戻ると、上半身を起こしたシンジ君が 小首を傾げています。本調子には程遠い様子ですが、当人としては峠を 越えた感じなのでしょうか、眠りに就く前よりはずいぶん顔色が良く なっています。
「何とぼけた顔で考え事してんのよ、バカシンジ」
「さっき……目が覚めるちょっと前に夢を見てたような気がするんだ。 けど……最後の方、何かいい感じだったのに、途中で途切れちゃって、 肝心の内容も思い出せなくて……」
「自業自得よ」
 アスカちゃんがつい小声で毒づくと、シンジ君が聞き返してきます。
「え? 何か言った?」
「ううん、何にも。ま、大事なことならそのうちひょっこり思い出す でしょ」
 軽くいなすと、アスカちゃんは洗面所から戻る途中に取って来た着替え 一式をシンジ君に手渡します。
「汗かいちゃってるでしょ。ちょうど目が覚めてるんだから着替えちゃい なさいよ」
「そうだね」
 よろめく足取りでベッドから立ち上がったシンジ君は、机に置いてあった ペンギン型の目覚まし時計に目をやって言いました。
「あ……まだ言ってなかったよね。誕生日おめでとう、アスカ」
「……何時だと思ってんのよ、バカ」
 すでに長針と短針がかなり接近している時刻です。
「パーティはどうだった?」
 叱りつけるアスカちゃんをかわして、シンジ君は話を進めます。熱が 出てることで思考がシンプルかつ率直になっているのかもしれません。
「……延期よ延期。隣に病人がいるのにバカ騒ぎができるわけないじゃ ない」
「あ……ごめん」
「何謝ってんのよ、バカ。風邪引く日にちが選べるわけでもないんだし、 そんなこと気に病むんじゃないわよ」
 これだけ言ってもまだ身を竦めている感じのシンジ君に、アスカちゃんは わざと言いつけました。
「済まないと思ってるんなら、今度開くパーティはあんたが料理とか準備 しなさいよね! あんたの快気祝いだけど」
「あ……うん! そうする!!」
 ある意味かなり理不尽な要求を、うれしそうにシンジ君は受け入れます。
 こういうのも強さの一種よねと、アスカちゃんは内心で考えます。口に したりはしないのですが。
「あ……プレゼントはもうちょっと待っててね。時間の余裕もできたし、 きちんと考えて準備したいから」
「待ってるわ。せいぜい上等な品を納めるのよ」
 一歩間違えれば悪代官みたいな台詞を返しながら、アスカちゃんは小声で 付け足しました。
「……欲しかったものは、今日のうちに色々もらってるんだけどね」
「え? 最後、何て言ったの?」
「何でもないわ、バカシンジ!」
 今はもう――あるいは今はまだ――、素直になんてなれないけれど。
 でも、やっぱりアスカちゃんは、シンジ君と一緒にいる時が 一番幸せなのです。



こんにちは、ぎわです。
今回の話は、本来は二〇〇二年のアスカ誕生日記念用に考えた話でした。 ところが十二月四日に間に合わず、ならいっそ作中年に合わせて二〇〇五年 まで寝かせておこうかと考えた次第です(未完成状態で寝かせ過ぎたせいで、 危うく今回も間に合わなくなりかねませんでしたが……)。
小さいシンジがプレゼントした絵本は、単なる私の趣味です(子供の頃一番 心に焼きついた話でした。以来、この作品に出てくる青鬼的な、表面的な 言動と内面の想いが一致しないキャラに深い魅力を感じるようになったわけ ですし)。学園編のシンジならユイに読んでもらったかもしれないと思い まして……。
あれから早十年。そしてこれからわずか十年で作中年代に追いついてしまう と考えると、時間の過ぎ行くあまりの速さに呆然としてしまいますが、 これからもアスカの幸せな姿を描けるようがんばりたいと思います。




ぎわさんにアスカ誕生日記念として投稿していただいた「十年前、十年後」でした〜。
どうもありがとうございます、ぎわさん!

作中の小さいアスカ、そして中学生のシンジと同じようにちょっとえびも風邪気味で体調崩していたんですが、こちらの作品を読んで元気出ましたよ〜。
「風邪」「誕生日」というワードを軸に十年前、十年後の展開を上手く表現していく考えられた手法には相変わらず脱帽です。
最後の「でも、やっぱりアスカちゃんは、シンジ君と一緒にいる時が一番幸せなのです。」という文章がいいですね。
この文に全てが集約されているような気がします。

作者のぎわさんに是非御感想を!
宜しくお願いします〜。

次作の完成を楽しみに待っております!


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