僕は道の真ん中に立ちつくしていました。
ひどい夕立が降っていました。傘のナイロンをも突き破らんばかりの雨です。雨が乾いたアスファルトを
急速に黒く染め、もわっとした匂いがあたりに立ち込めます。雨は僕の周りを包んで覆い隠そうとするかの
ようでした。すさまじい雨の音によって周りの音はかき消され、遠くの方もかすんで見えません。
そういえば、母さんと初めて会った日も夕立でした。あの日、僕は見知らぬ女性の傘に入り、その女性の
家にお邪魔して食事までごちそうになりました。その女性が母さんだとわかった時の僕の喜びは言葉に
表わしようもありません。
毎日が天国にいるようでした。母の優しさ・母の温かさ・母のありがたさを僕はお腹一杯になるまで
享受することができたのです。ですから、幽霊だとわかったときには、文字どおり天国から地獄に
突き落とされたかのような気分でした。けれど、僕には母が僕をだましているようには思えませんでした。
だまそうとしているならば、あんなに優しくはしてくれないように思えたのです。それは僕の甘い考え
なのかもしれません。でも、母さんとああいう形で別れるのだけは、どうしても耐えられませんでした。
そうしないと、心の中に固いしこりが残ってしまうような気がしたのです。
できることなら別れたくない、というのが本音でした。未練がましく思われるかもしれませんが、僕の心は
未だに拠り所を求めていました。僕には母さん以外に心を許せる人がいないのです。幽霊であれ何であれ、
母さんは母さんなのです。
ミサトさんへのお願いは何とか許可されました。そうして僕は母さんに別れを告げに来ていました。
「ああ、どしゃ降りだ・・・・・・」
と僕はつぶやきました。
夕立に始まって夕立に終わる。何か因果関係があるのかもしれませんが、そんなことは僕にとって
どうでもいいことでした。
「行こう」
自分に言い聞かせるように言うと、僕は右手に傘を、左手にはスーパーの買い物袋を持って母さんの家に
向かいました。
雨にけぶるマンションは、なんだかとても幻想的な雰囲気を醸し出していました。これで見納めかと
僕は思い、母さんの部屋のドアの前に立ちました。あるいは、もういなくなっているのかもしれません。
異界の者であることが知れてしまったら、この世にいられなくなるのかもしれません。
しかし、母さんはいました。
先日アスカから受けた傷はなんともないようでした。まだ何日も経っていないというのに、傷が完治して
いるあたりはやはり幽霊である証拠なのでしょう。
僕の顔を見ると、母さんは一瞬気まずそうに顔を伏せました。そしてまた僕の顔を見ると、
作ったような笑顔で
「よく来たわね。上がっていきなさい」
と言いました。
その仕草があまりにもぎくしゃくとしていてなんだかみじめで、僕はなんだか無性に申し訳ない気持に
なってしまいました。
玄関に上がってリビングに向かいます。僕の前を歩く母さんが後ろ姿を見せたまま
「ひどい降りね。濡れなかった?」
「うん、傘さしてきたから」
母さんがリビングのドアを開けます。
「ねえ、覚えてる? 僕らが再会したのもこんな雨の日だったよね:」
母さんは立ち止まると、一瞬の間の後、「そうね、そうだったわね」と言いました。
「僕が傘持ってなくて、雨宿りしてたときに母さんが通りかかって・・・・・・」
「ほんとにねえ、偶然ってあるものねえ。まさか母さんもあの時シンジと逢うとは思わなかったわ」
何言ってるんだよ母さん。偶然なんかじゃないんだろ。そういう意志を持ってたんだろ・・・・・。
リビングに入ると、テーブルの上に数枚の便箋と封筒が乗っていました。僕がそれに目をやると、
母さんは少し慌てて
「何でもないのよ」
と言い、引き出しにしまいました。
ソファに座ると、母さんは熱いコーヒーを入れてくれました。
「また来てくれて、母さん嬉しいわ」
「そんな、必ず来るって言ったじゃない」僕は少しむきになって言いました。
「そうね」と母さんは言いました。「コーヒーどうぞ」
「うん」
「それとも、幽霊の入れたコーヒーは飲めないかしら?」
「そ、そんなことないよ」
ぎょっとしました。母さんはもう隠すのをやめたようでした。僕は慌ててコーヒーをずずっと
すすりました。
「あちっ!」
慌てて飲んだので舌を火傷しそうになってしまいました。
「大丈夫? 慌てて飲むからよ」
と母さんは言って笑います。
それを契機にして、僕と母さんとの間には和やかな空気が流れはじめました。僕も嬉しかったですし、
母さんも会話を楽しんでいるようでした。
しかし、今日は母さんを打ちのめすようなことを言わなくてはなりません。別れることをきり出すと、
母さんが異形に変わってすさまじい姿で僕を襲うような気もしました。怖いとも思いましたが、それは
母さんにとっても災厄で、なりたくて変容するのではないというように思えました。
二人でコーヒーを飲みながら話をし、一緒にテレビを見ました。
5時が過ぎて、6時が近くなりました。どこかで切り上げようと思うのですが、二人でいる時間が
楽しくて言い出せません。
やがて雨降りで暗かった空が少しずつ夜の闇を帯びて一段と暗くなりはじめました。明るいうちに
話さなければなりません。暗くなってからでは言えなくなってしまうような気がするのです。しかし、
今日は話さずに帰ることは絶対にできないのです。
「もう6時ね、電気つけるわね」
母さんは立ち上がって照明のスイッチを入れます。そして思い出したかのように、
「あらいけない、買い物してないんだったわ」
「いいよ、今日は」
「ごはん食べていかないの?」
「そうじゃないんだ」
「何か用事でもあるの」
「いや・・・・・・別に」
「じゃあ食べて行ったらいいじゃないの。ちょっと待ってなさい、すぐ帰ってくるから」
母さんは財布を持って買い物に出かけようとします。
ここで言わなくてはならない、と思いました。ここを逃したら、きっと今日も言えずに
終わってしまいます。
「話があるんだ」
「話って?」
「ごめん、今すぐだけど、いい?」
「よくもないけど、どうしたの」
僕は正座して深く頭を下げました。
「何よ、改まっちゃって」と母さんも腰を下ろします。
「今日でもう、会うことはできません」
「どうして?」
母さんは悲しく理不尽なことを言われたように声を上げました。
「ここへ来るのは本当に楽しいし、母さんに会えたことを、僕はどれほど幸せに思っているか
わからないよ。だから、もっと会って、死んでしまったっていいんだけど・・・・・・」
「どうして死ぬのよ?」
やはり母さんは僕がやつれていることを知らないようでした。僕は、アスカに注意されたこと、
鏡の中にすさまじくやつれた自分の姿を見たこと、父さんに相談したことなどを説明しました。
母さんは黙っていました。
テーブルの上にはコーヒーカップが散らばっています。
僕は頭を上げられませんでした。
「そう・・・・・・」と母さんが穏やかに、寂しそうに言いました。「仕方がないわ。短くてもこんな思いが
できただけで、どれだけ私も幸せだったか」
思わず顔を上げて母さんを見ました。
「母さんと逢えて僕もすごく嬉しかった。今日は母さんに僕の料理を食べてもらおうと思って、ちゃんと
買い物してきたんだ。食べてくれるよね?」
「当たり前じゃないの」と母さんが泣き声になりました。「お別れだもの、最後にシンジの手料理を
食べさせてもらうわよ」
「台所借りるよ」
「ええ」と母さんは涙の残った声で、やりきれないように言います。
僕は一番自信のあるハンバーグを作りはじめました。これなら、母さんを驚かせる自信があります。
「ボウルはどこ?」
「流しの下の戸棚よ」
と母さんは教えてくれます。
これで最後なのだからと、母さんと話をしようと思っても、胸がいっぱいになってすぐに言葉が
途切れてしまいます。
母さんはうしろに立って心配そうに僕の手元をのぞいていましたが、やがて大丈夫だと安心したのか、
キッチンのテーブルに座りました。
「あなたがまだ小さかった頃」と母さんは語りはじめました。母さんがまだ生きていて僕が小さかった
頃の話でした。訥々と母さんは昔話をしてくれました。
「・・・・・・あなたの名前はね、母さんと父さんと二人で頭を悩ましてつけたの。いつも真理を見つめて
いよう、探究しようとするような子になって欲しいと思ってシンジと名づけたの。いい名前だと
思うでしょう? だからシンジもこの名前に負けないように頑張って欲しいわね」
母さんが話している間も、僕は料理を続けていました。母さんのそんな話を聞いていると、
僕はしみじみととても優しい気分になりました。
「そうそう、母子手帳があればねえ。確か私が死んだときに処分されちゃったのよねえ。
・・・・・・シンジが赤ん坊だった頃には、母子手帳を見るのがとても楽しみだったわ。少しずつ成長して
行くのがわかるのよ。あっ何グラム増えた、はいはいができるようになったっていう風にね。これから
どんどん大きくなって、将来はどんな大人になるのかしらと期待をふくらませたものよ」
母さんは小さく笑いうっとりとしながら話し続けます。
「赤ん坊の時の話をしたらきりがなくなっちゃうわね。あなたを抱っこしておっぱいを飲ませるでしょ、
すると夢中になっておっぱい吸うのね。ちゅぱちゅぱって、とにかく今飲まなきゃいつ飲むんだって
感じに。そういうシンジを見てると、ああ、私の子なんだなあって心が満たされたわ。私の可愛い可愛い
シンジって。あの小さかったシンジが、今はこんなに大きくなって母さんのために料理を作って
くれるっていうんだものねえ。3つの時に母さんが死んでそれからは殆ど一人で苦労したでしょう?
つらい思いをさせてごめんね。・・・・・・でもシンジはよくやったわ。よくやった。えらいわ」
「一人じゃないよ、父さんといたときもあったし先生の所にもお世話になったし」
「それだって大半は一人よ。一人で良く頑張ったわ」
母さんの話を聞いていて、こみ上げてくる感情を抑えることができませんでした。僕は母さんに
背を向けて料理をしながら泣いていました。
「泣いているの、シンジ?」
僕が何度も鼻をすするのに気付いて母さんは言います。
「違うよ、タマネギ刻んでるから目に染みたんだ」
こんなときに嘘をついてしまう僕が悲しくて仕方がありませんでした。泣いているのを見られたく
ありませんでした。本当は思い切り泣きたかったというのに。
そして母さんは言います。
「そう。気をつけて切るのよ」
きっと母さんは僕が強がって嘘をついていることがわかっているのでしょう。わかっていながら
嘘を指摘せず、優しい言葉をかけてくれたのです。
それから何となく二人とも黙り込み、僕は料理に集中しました。挽き肉をこね、ソースを作り、
付け合わせを作ります。僕は母さんの視線を背中に受け、夢中で料理をしていました。
しばらくたって、心なしか僕の背後の方が頼りなくなっているような気がしました。今まで受けていた
視線が感じられなくなったのです。気になって振り返ってみると、
そこに母さんの姿はありませんでした。母さんが座っていたイスの上には、今はすでに影も形も
ありませんでした。イスだけが何を馬鹿な事を言ってるんだ? と僕を嘲笑っているかのようでした。
「うそ・・・・・・だろ・・・・・・?」
一気に全身から力が抜けていきます。一瞬呆然と立ち尽くし、持っていた菜箸をぽとりと落として
しまいました。落ちた菜箸が僕の足にあたり、僕ははっと正気を取り戻しました。
家中を回って母さんを探します。リビング、トイレ、バスルーム・・・・・・どこにもいませんでした。
僕はキッチンに戻って来るとがっくりと膝を落としました。
「そんなのって、ないよ・・・・・・。ひどいよ・・・・・・。うわあああぁっ!」
僕は狂ったように泣き叫びつづけました。自分の全てを委ねていたものがいなくなったとき、人は
まさに倒れるしかありません。床に両手をついて座り、まるで吐くような体勢で泣きました。
いつまでも、いつまでも泣きつづけました。いくら泣いても感情は収まるところを知りませんでした。
僕はマンションの廃室−−−綾波の部屋とまったく似たような暗くてボロボロの部屋に
変わっていました−−−の中で、ただ一人、誰に聞かれることもなく泣きつづけていました。
どしゃ降りの雨がいつやむとなく降り続いていました。
***
気がつくと、病院のベッドに寝かされていました。あれからの記憶がまったく残っていませんでした。
あのまま気を失ったのかもしれません。
一旦目が覚めてからも、断続的に眠りつづけていました。目が覚めてもぼんやりとして、そうやって
ぼおっとしていると次第に眠くなってきて眠りに落ちてしまうのです。何も考えることができませんでした。
考えようとしても、思考回路のどこかが脱落したかのようにぷつんと途切れてしまうのです。
点滴を刺されて、給される食事を淡々と食べ、ぼんやりと外を眺め、そして眠りつづけました。
時々廊下から話し声が聞こえることがありました。病室の壁を隔てて聞き取りにくいはずの声が、
どういうわけかはっきりと耳に届いてきました。けれども、それを理解することはできませんでした。
僕の耳は言葉をとらえ、そして頭の中に入ることなく出ていきました。
「ここにきてのシンジ君の戦線からの離脱、痛いわね」
「仕方が無いわ、しばらくはレイとアスカで戦術を組みたてるしかないわね」
「司令もお怒りよ、どうするの」
「どうするのったってねえ・・・・・・。難しいわねえ。退院したとしてもすぐには復帰できないだろうし」
どうやらミサトさんとリツコさんが話しているようでした。
また、ある日には、
「明後日には退院できるって」とミサトさんの声がします。
そしてアスカが
「その後はどうなるの?」
と訊きます。
「しばらくはネルフの施設に入ることになるわ」
「それって閉じ込めておくってこと?」
「・・・・・・要するにそういうことね」
「そんな! シンジは今傷ついてるわ。閉じ込めたりしたらその傷も閉じ込めたまま
出てこられなくなっちゃうわよ」
「碇司令の指示なのよ。体が完全に回復するまで監禁しておくようにとの命令なの」
「それならあたしが司令に直談判してくるわよ」
「無理よ、司令は会ってはくれないわ」
「そんなあ・・・・・・。あたしがもっと早くシンジの異変に対処してればこんなことには
ならなかったのに・・・・・・。同じ家に住んでたのにシンジを止められなかったなんて・・・・・・。
あたしの責任だわ、だからシンジの責任はあたしがみる」
「そうは言ってもねえ・・・・・・」
「お願い、この通りよ!」
「うーん、この前といい今回といい、アスカには負けるわねえ。そんなにシンジ君のこと想ってるなら、
いっそのこと告白しちゃえばいいのに」
「ばっ、ばかっ。何言ってんのよ、そんなんじゃないってば。あたしはただ・・・・・・」
「ただ・・・・・・何?」
「だから・・・・・・」
「アスカってば赤くなっちゃって可愛いわねえ」
「もうっ。いいわよ! とにかくさっきのことよろしくね」
アスカの靴音が遠ざかっていきました。
***
退院後、僕は自分の家に戻されました。
一人で部屋に閉じこもり、電気も点けずにカーテンも絞めきって、暗闇の中でただ一人うずくまって
いました。まだ思考ができるまでには回復していませんでした。僕は廃人になったかのように天井を
ぽかんと見上げ、誰の話し掛けにも応じる事はありませんでした。食欲も殆どなく、アスカが作ってくれた
食事にはあまり手をつける事ができませんでした。食事を差し入れてくれる時にアスカがかけてくれる
言葉も、まるで異界の言葉であるかのように僕の耳に響いていました。
そうして十日が過ぎ、ようやく物を考える能力が戻ってきたとき、僕が真先に考えたのは母との
思い出でした。
初めて雨の日に出逢ったときのこと、母の味を味わう事ができた食事の時間、そんないろいろな母との
思い出が川の流れのように僕の頭の中を流れていきました。そして、流れが終着点にまで達したとき、
僕の中の感情がどっとあふれ出ました。すべてのものが、もう戻ってこない思い出になってしまったのでした。
(畜生・・・・・・!)
僕はうつむいて頭を抱えました。そうして抑えていないと、頭の中で爆発したものが頭をはじけさせて
しまいそうでした。
のどの奥で低くうめきました。不意に体の奥から溶岩のような熱い固まりがせり上がってきて、喉を
無理矢理こじ開けました。僕は思わず獣のような声をあげていました。こらえつづけていた涙がどっと
あふれてきました。
手負いの熊のように吼えたけりながら、僕は頭を抱え、枕を叩き身をよじって泣きました。
母さんときちんとした形で別れることができなかったことへの未練で心の中がいっぱいになっていました。
食べてもらうことのできなかったハンバーグ、言うことのできなかった感謝の言葉、別れの言葉。行き場を
失ったそれらの思いが僕の中で虚しくこだましていました。あの、母さんが消えたあとの空しくなったイスの
ある光景を、僕は忘れることができませんでした。
そして、行き場を失った思いは、怒りへと変わってアスカへと向かいました。いつのまにつけたのか
FM放送が大音量で流れる中で、僕はアスカへの理不尽とも言える恨みを募らせていったのです。
アスカがその日の夕食を持ってきてくれたとき、とうとう爆発しました。
僕が昼からずっと泣きとおしていると、真っ暗な部屋に明るい一条の線がすっと走りました。おぼんを
持って入ってきたアスカは僕の枕元のイスにかけ、
「シンジ、ごはん食べよ」
と言います。
「・・・・・・と、その前に。今日ね、あそこに行ってきたの」
アスカは僕が思考能力を取り戻したことにまだ気付いていないようでした。僕の返事を待つことなく
言葉を続けます。
「あそこに−−−シンジのお母さんの幽霊が棲みついた家に−−−行ったら、シンジが元気を取り戻す
手がかりがあるかもしれないって思って」
ムラムラと怒りが湧き上がってきていました。僕はあそこを誰も足を踏み入れることのない聖域のように
思っていたのかもしれません。アスカが母さんの部屋に行ったことにより、なんだか母さんがけがされた
ように思えました。
「勝手なことするなよ。あそこは僕の母さんの家だぞ、誰の許可があって行ったんだよ」
と僕はぶっきらぼうに言いました。
「シンジ、喋れるようになったの!?」
アスカの顔がぱっと明るくなります。
「なんで母さんの家に行ったのさ」
アスカは僕が問い詰めるように言うのに当惑しながら、
「なんでって、シンジを助けたいと思ったからよ」
「うるさいよ。あそこは僕の母さんの家だぞ。アスカは他人だろ。なんで僕に断りもなく行くんだよ」
「え・・・・・・だって、シンジは何を言っても上の空で聞いてくれなかったから・・・・・・」
「そういう問題じゃないんだよ!」
怒りが頂点まで達すると、あとはもう止まりませんでした。
「だいたいあの時アスカが母さんにあんな事をしなかったら良かったんだよ! 母さんが消えたのは
アスカのせいだぞ!」
「そんな・・・・・・! そりゃあ乱暴にしたのは悪かったと思うけど、あたしはシンジのためを思ってやったのよ」
「うるさいうるさいうるさい! アスカがあんなこそしてなかったら僕は今ごろ母さんと暮らしてたよ」
「何バカなこと言ってんのよ。あのまま何もしなかったら、あんた今ごろはあの世にいたわよ」
どうにも口が止まらなくなっていました。もうやめよう、もうよそうと思っても次から次へと
悪口雑言が出てきました。
「ああ、死んでもよかったよ! アスカなんかと暮らすよりなら、母さんと一緒にあの世で暮らした方
がよっぽどましだよ!」
「何よ、命の恩人に対してそういう言い方ってあるわけ?」
「何が命の恩人だよ、僕の心を踏みにじっておいてさ!」
「ふん! あんたみたいなバカは放っておけば良かったわね! そしたら今ごろあたしは一人で
せいせいしてたわ!」
「もういい、邪魔だよ。目ざわりだ、出てってくれよ!」
それまで顔を震わせて歯を食いしばって我慢していたアスカが、ひきつるように息を吸いこむと、
次の瞬間、僕の左頬をぱん! と力を込めて叩きました。そのまま振り返ることもなく部屋を出ていきます。
ぼくはまた一人で部屋に取り残されました。
アスカに叩かれた頬が熱くじんじんと火照っていました。左手で頬をおさえ、ゆっくりと目を
つぶりました。とてもクリアな現実感を帯びた痛みでした。頬の痛みが神経を介して脳に伝わっていくのが
わかるような気がしました。
その痛みは、僕をさらにヒートアップさせることなく、逆に痛みを感じる部分から僕は落ち着きを
取り戻していきました。やがて僕はすべての面において、ようやく現実を取り戻しつつありました。
僕の目に見えてるものは現実です。ラジオのDJが騒がしく喋っているのも現実です。そこには幻想が
入りこむ余地はありません。
ふと、アスカが持ってきてくれたお盆の上に、白い二重包みの封筒が置かれてあるのに気付きました。
気ぜわしくそれを取り上げると、封を開きました。中には水色の便箋が四枚、折り畳まれて入っていました。
一枚目には達筆な字で「シンジへ」と書かれています。
「シンジへ
おそらく、シンジはもうここには来ないと思ったので、最後にお別れの手紙を書きます。
そろそろ身体が保てなくなってきているのです。
黙っていてごめんなさい。だまそうと思っていたのではないということはわかって下さい。
シンジが怖がるだろうと思って、こうしてちゃんとした人間の姿になって、隠していたのです。
そうしたことでシンジを傷つけたのかもしれませんね。そうだとしたら謝ります。ごめんなさい。
本当はシンジのことを一目見るだけで良かったのです。でも、シンジを見たら名残惜しくなって
しまって、結局ずるずると会いつづけることになってしまったのです。母さんのわがままを許してね。
思えばシンジがまだ小さいときに母さんが死んでしまったことで、シンジにはずいぶん辛い思いを
させたように思います。子供が成長するときに一番大事なのは母の愛情だというのに、母さんは
シンジに愛情を注いであげることができませんでした。母さんがいなかったことで、シンジはとても
恥ずかしい思いをしたこともあったろうし、泣きたくなったこともあったろうね。母さん、そんな
シンジを抱いてあげられなくてごめんなさい。
本当にシンジにはいくら謝ってもきりがありません。シンジを不幸にした母さんを許してください。
ごめんなさい。ほんとうにごめんなさい。
シンジと逢うことができてとても嬉しかったです。あんなに小ちゃかったシンジが立派な男の子に
育って、母さんは夢みたいな心地です。シンジが小さかったときのことしか知らない母さんは、
シンジのことを四歳児の姿のまま憶えていたんだよ。それが、一気に十四歳まで成長してるんだもの、
そりゃもう驚いたのなんのって。よくここまで一人で頑張ったね。えらいわ。あなたは母さんの
自慢の息子です。シンジのような子供を持てて、母さんは誇りに思います。これからも、辛いこと、
悲しいことがいっぱいあると思うけれど、負けないように頑張ってください。母さん、
ずっと見守っています。
書きたいことがいっぱいありすぎて、書いても書いても足りるということがありません。
きりがないのでこのあたりで筆を置こうと思います。幽霊母さんと逢ってれてどうもありがとう。
シンジといたときが一番楽しかったです。短い間だったけれど、シンジと逢えて良かったです。
シンジの笑顔が見れたのでもう思い残すことはありません。あの世に持っていくいい思い出が
できました。だましていて、本当にごめんね。でもこれだけはわかって下さい。シンジのためを
思ってのことだったのです。母さんはシンジのことが大好きです。
どうもありがとう。さようなら。
かしこ
某月某日
碇ユイ
追伸
この前一緒に来た女の子、アスカちゃんといいましたか、一途で良い子ですね。大事にして
あげるんですよ。ずいぶんと活発な女の子で少し驚いたけれど、あの子に対して怒ってはいません。
きっとあなたのことを思いやって勇気を振り絞っての行動だっただろうからね。
宜しく言っておいて下さい。」
ぽたぽたと涙の雫が便箋の上にこぼれ落ち、万年筆のインクを滲ませました。
最後に母さんと会った日に、僕が来るまで母さんが書いていたものなのでしょう。
母さんの言葉のひとつひとつが、僕の心のすみずみにまで温かく染みわたります。自分でも驚くほど
素直な気持になっていました。
怖がるわけないじゃないか・・・・・・。母親を怖がる子供がどこにいるんだよ、母さん。
幽霊でもなんでも、母さんと逢えて嬉しかったよ・・・・・・。
僕はどうしようもなく駄目な人間だよ。それなのに、立派だとか、自慢の子供だなんて言ってくれる
なんて・・・・・・。がんばるよ、母さん。がんばって立派な人間にならなきゃ、そう言ってくれた母さんに
あわせる顔がないよ。
涙がぽろぽろぽろぽろこぼれてきて、涙と一緒に胸につかえていたものがすべて外れたような感じでした。
僕は自分がいかに一人よがりな人間だったか思い知りました。僕は人に寄り掛かることしか知りません
でした。自分さえ良ければいい、と思っていました。でも、アスカもミサトさんも、そして何より母さんも
僕のことを思いやってくれていたのです。僕は自分が恥ずかしくて仕方がありませんでした。
「大阪府のラジオ・ネームジュンコさんからのお便りでした。落ち込む気持はわかる。俺もセカンド・
インパクトで兄を失ったんだ。でもな、人はそれでも歩いていかなくちゃならないんだ。亡くなった
人たちのためにも。君のリクエストに応えよう。1990年代のナンバーで、セカンド・インパクト後に
世界復興のために人々の心の支えとなった曲、エリック・クラプトンの『ティアーズ・イン・ヘヴン』」
ラジオのDJがそう言うと、美しいアコースティック・ギターの音色が流れ出しました。
今度は僕が思いやる番です。そうでなければ、僕のことを思ってくれた人々に申し訳ありません。すっと
立ち上がると、僕は部屋を出ました。
ドアを開けると、目の前にアスカがうずくまって泣いていました。肩を震わせ、声を出さずに涙を
流しています。よく見ると、身体はやつれて、目の下にくまができています。きっと僕を看病して
疲れきっているのでしょう。そんなアスカに僕がさっき言った言葉は本当に辛辣なものでした。疲れ果てて
いたアスカに僕がとどめを刺したようなものです。もう自分の部屋に戻る気力もなく、僕の部屋のドアを
閉めた瞬間に崩れ落ちたに違いありません。アスカの悔しさ、無念さ、やりきれなさを思うと、
本当に申し訳なく思いました。
僕はアスカの横に座り、彼女の肩を抱きました。
「シンジ・・・・・・?」アスカが顔を上げます。
僕はアスカの瞳を見つめ優しく、
「ありがとう、ごめんね」
と言いました。
アスカは僕の胸に顔を埋め、声を上げて泣きました。涙と熱い息のせいで僕のシャツは湿り、ぐっしょりと
濡れました。アスカを初めて愛しいと思いました。僕はアスカの頭と背中を抱き、感謝と謝罪の言葉を
かけてあげました。
しばらくしてアスカが泣き止むと、僕は
「明日、母さんのお墓参りに行ってこようと思うんだ。一緒に来てくれる?」
と訊きました。アスカが泣き腫らした目でこくりと肯きます。
「ありがとう」と僕は言いました。
いなくなった人間のことを考えても仕方がありません。今一番大事にすべき人のことを考え、
そうすることで僕は亡くなった人への追悼をしようと考えました。
前を向いて、一歩一歩確実に歩いていきます。アスカと一緒に。
ありがとう母さん。さようなら。
おわり
後書きにかえて
「ティアーズ・イン・ヘヴン」 エリック・クラプトン
君に天国で逢えたなら 僕の名前を憶えてくれたのかい
天上で巡り会えたなら 二人の関係は変わっていただろうか
僕はしっかりしなくちゃいけない
そして未来を歩んでいく
なぜって僕は 天国にふさわしくない人間だから
最後まで読んで下さいまして、どうもありがとうございました。