いつからだろう。僕達がこんな関係になってしまったのは。少なくとも、サードインパクト前からなんだろうな。
僕とアスカが二人きりで流れる時を過ごすようになってから、もう数年になるけれど、僕達の関係は、あのときのままなんだ。使徒との戦いが一番激しかったあの時期と。加持さんが死んで、アスカもエヴァに乗れなくなったあの時期と。
僕達の関係は今でもあのまま。もしかしたら、永遠にこのまま。
孤独と繋がり
名無し21
太陽の光が大地を照らすと、蒸発した水分が朝靄を作り出す。そうすると盆地にある第三新東京市は、幻想的な、まるで雲の中にいるかのような光景に包まれる。そう、まるで天国にいるかのような。
碇シンジはそんな光景が好きであり、かつ嫌いであった。彼の心はその光景の美しさに浄化されるような気分になるのだが、同時にそこは彼によって失われた無数の人々の行き着く場所でもあるからだ。
シンジは、サードインパクトの罪を未だに克服できたわけではない。ただ多くの人と同じ様に、その事実を敢えて無視して毎日を必死に生きているだけなのだ。そうしなければ、人間の―とくにシンジの心は生きていくには弱すぎた。
まだ目覚めたばかりのシンジは、カーテンの向こうから入ってくる光を横目に、ベッドから起き上がる。高校の学生服は予めベッドの脇に用意してあり、着替えはすぐに済む。彼の朝は忙しいから、体を目覚めるのをゆっくり待ちながら起床する余裕など無い。
シンジが着替え終わると、隣の部屋から微かに動き出す音が聞こえた。彼の同居人が目を覚ましたのだ。彼女は決してシンジに起こされようとはしない。それが寝顔を想い人に見られたくないという、少女的な微笑ましい動機で無いことは確かだ。可能な限りの接触を避けたい、それが彼女を支配している思いなのだ。
であるならば何故彼女は―惣流アスカ・ラングレーはシンジとの同居を続けているのか。それは本人にしかわからない。事実シンジは勇気を振り絞って、それこそ彼の脆すぎる心に鞭打って聞いたこともあるが、それに対する返事はいつも無いのだ。
シンジは部屋のドアをあける。外にアスカがいるかどうかを、彼女がまだ自分の部屋にいることを確認してから改めて外にでる。彼にとってアスカは、決して顔を合わせていて楽しい時を過ごす相手では無いのだ。
シンジは早速朝食を作るべく、準備を整える。いつも作るのは二人前。もちろんアスカの分と、自分の分。何故か、お互いほとんど口を利かないくせに、それだけはどちらも抵抗無く受け入れている。
何故、こんな生活になったのか、シンジはあまり疑問に思わないことにしている。もう、何度も訪ねたから。もう何度も無視されたから。
アスカはシンジと同じ高校に通っている。従って彼女もシンジと同じような時間を過ごすことが自然である。学校が同じなんだから、同じ時間に朝食をとり、同じ時間に学校に向かう。同居しているのだから、それぐらいは当然だと思われる。
それがこの二人に当てはまらない。アスカはシンジが学校に行ってから部屋を出て、シンジの沸かしたお風呂に入り、シンジの作った朝食を食べ、そして後片付けをした後に学校に向かう。
アスカはそのためシンジよりかなり遅れて学校に到着する。ただ、シンジがかなり早い時間帯に家を出るものだから、彼女が遅刻しそうになったことは無い。それはシンジの心遣いであるわけでは決して無く、他の家事と同じ様に、二人の間にいつのまにかできた暗黙のルールである。
アスカが着替えとタオルを用意して待っていると、シンジが家を出て行く音が聞こえた。彼女はゆっくりと自分の部屋のドアを開けて、誰もいないことを確認する。そうした後、彼女は風呂に向かうのだ。
朝食は決して目を見張るものではない。メニューは毎日同じ。市販のウィンナー、ちょっとしたサラダ、スクランブルエッグ。それに味噌汁とご飯、もしくはトースト。どれも市販のインスタント食品に近いものがある。まだ二人の関係が良好だったころのようにもう少し手の込んだ料理はもはや出ない。
テーブルの上には、他に弁当が置いてある。シンジもまったく同じ弁当を利用している。これもまた、以前のような手作り弁当ではなくなった。レンジで暖めた冷凍食品とご飯というだけのメニューだ。
昔のアスカならば、文句を言うのだろう。そして内心ではシンジの手作り料理が食べたいという気持ちを持つのであろう。しかし今の彼女は現状に何ら文句をつけない。なんの不満も無く、同居こそしているが、何らコミュニケーションの取れない現状を受け入れているだけなのだ。
それが、二人の同居生活の本質だった。
シンジはいつも同じ道をいつも同じ時間帯に通る。それもまだ人が少ない時間帯である。そのせいか、彼が孤独を失う唯一の時が、この時間帯なのだ。
比較的魅力的な外見と、インパクト前よりさらに物静かになったせいで、彼に言い寄る女性は少なくない。シンジがアスカと同居していることは知られているが、普段の二人の雰囲気からして、二人の間に恋愛関係があると思う人間無く、それはまた事実でもあった。
二人は他の人間にまったく興味を示さない。二人はいつも孤独な空間を形成していた。誰とも接触しようとせず、話し掛ける人間にも気の無い返事をするだけだった。お互いにさえ、興味を示さない。
シンジとアスカが、同世代から幾らか憧れと羨望を持って見られるのも、仕方がないことなのかもしれない。誰しも大人の雰囲気を漂わせる異性には、そういった感情を抱くものだ。
であるからシンジが唯一孤独を失う時間、それがこの時間帯なのだ。
「碇くん」、少し離れたところから、彼を呼ぶ声が聞こえる。
シンジは内心に生まれたあまり良いとはいえない感情を表情に出すことなく、また声の主に反応することなく、無視した。これで何人目なのだろう、そう溜息をつきたくなった。
「返事ぐらいしてよ」、若い女性―女子高生特有の高い声。これまでに失敗してきた友人を見てきた不安が混じった声。そして、自分こそは、という期待に満ちた声。
「碇君ってばぁ」、朝潮エミコはシンジに小走りで追いつく。シンジは足を速めることも、遅くすることもなかった。つまりは、彼女の存在を無視しているのだ。
「本当、無愛想なんだから」、他者に内在するルールを無視することで、良好な関係を結ぼうとしているエミコは、積極的にシンジに絡む。
シンジは答えない。むしろ無視することが、エミコへの答えなのかもしれない。シンジは―これはアスカも似たようなものだが―最低限の社会的協調性こそ有していたが、このような相手にそれを適用するつもりは毛頭無かった。他人の心の中に土足で踏み込んでくる人間に対してどう好意的になれというのか。
「なによ、もう」、いい加減返事のしないシンジに業を煮やしたのか、エミコはシンジの前に立ちふさがる。シンジが彼女を避けて通ろうとしても、横に移動して彼の針路を遮る。
「・・・・」
「返事ぐらいしたらどう?」、エミコは偉そうに言った。自らの好意を伝えられないことが、それを否定されかけていることが、彼女を少し攻撃的にしていた。
シンジは黙って手をエミコの肩に置く。彼女はようやく得た彼からの反応に多少の喜びを見出す。しかし、それは大きな間違いであった。何故孤独を好む彼が、敢えて他人と接触したのか、深く考えてなかった。シンジの接触、すなわち肩に手をかけるという行為は決して何らかなコミュニケーションを取るためのものではなかった。むしろその反対―他者を拒絶するためのものだった。
シンジはエミコを強引に彼の針路から押し出した。それは余計な怒りを買わないため、彼女を地面に叩きつけるほどではなかったが、バランスを失った彼女がその妨害行為を続けることはできない程度の力ではあった。
シンジは何事も無かったかのように再び学校に向かって歩き出す。
生まれて初めて他者からの絶対的な拒絶を味わったエミコは、ただその場に立ち尽くすのみであった。
「惣流」、教壇で生徒の名前を出席簿から読み上げる中年の高校教師は、幾らか含みを持った声でアスカの名前を読み上げた。
はい、という小さな声を教室の後ろから聞いた彼は、出席簿に○をつける。そして、同じ様に碇が登校していることを確認していた彼は、出席を取るのを終えてから、二人を呼んだ。
「碇、惣流、席替えだ」、と彼は離れ離れに前のほうに座っている二人に言った。
「後ろの加古と山城の成績が悪い。お前ら二人は成績がいいから、後ろに移動しろ」、と一番後ろに座っている二人を示した。そこには慌てて教師のほうを見る、どう考えても授業を熱心に聞いているとは思えない二人がいた。どうやら教師にとって最悪のコンビを隣同士に座らせてしまったらしい。
文句を言う後ろの二人に対し、シンジとアスカは微妙に動揺しているように思えた。隣に座っている生徒にはわからなかったが、ある程度の人生経験を積んだ教師からは、二人の態度に微妙な変化を見出していた。
動きがどことなくぎこちない。言葉を出さず、ただ頷いただけの二人を見ていても、そのぎこちなさは感じられた。
ふむ、と生徒の移動を見ながら教師は思った。なるほど、あの二人は確か同居していたな。普段の態度からして家でも学校と同じようなものだと思っていたが、案外何かあるのかもしれん。これで多少は人間性を見せてもらえればいいんだが。
いい意味で古いタイプの教師であるシンジ達の担当は、それだけ思うと授業を始めることにした。後ろには、ただ黙って顔を会わせようともしないシンジとアスカが、ただ淡々とノートや筆記用具を取り出していた。そう見えた。
授業中。日本語をほぼマスターしたアスカからすれば、酷く退屈な数学の授業。母の科学者としての才能を受け継いだシンジからすればやはりすぐ理解してしまう内容の授業。二人は退屈していた。
その結果、何故か意識の向かう方向が決まっていた。お互いに、隣の席。すなわち、自らの同居人の席。何故であろうか。同居していても、まったく意識することはないのに。同居していても、話すことさえしなかったのに。
シンジは自分の中に感情が芽生えつつあるのを意識し、そして戸惑っていた。
「・・・・」、いつしか意識は授業から隣の少女に向いていた。それはアスカのほうも同じらしく、シンジは彼女が微妙にこちらを向こうとしているのがわかった。一瞬、二人の目が合った。
おそろしく早い速度で二人は正面を向いた。まるで目が合った瞬反発力が働いたかのように。実際、精神的な意味のそれは働いたのだろうが。
シンジは慌てて自分をごまかすかのように、普段の冷静な彼とは対照的に、机を見ずに消しゴムを取ろうとした。そうすることで何らかのごまかしになると思ったからだ。それがひどく理屈にあわないことを、彼の混乱した頭脳は理解していなかった。
結果、周囲を把握していないシンジの手は、まったく同じ様な行動を取っていた彼女の手に触れることになる。シンジとアスカの手が、重なったのだ。
数ヶ月ぶりに触れた彼女の手は、細かったと、シンジは思った。繊細で守りたくなるような手。柔らかく、包み込むような優しさを持つ手。他者を拒絶してきた手なのに、何故かそれはシンジに優しく感じられた。彼はその感触に吸い込まれそうになった。
それは彼女のほうも同じだった。シンジの手に、何故か力強さと包容力を感じていた。そして、彼女はその感触にのめり込む前に、他者を拒絶しようとする鉄格子で自らの脆い心を閉ざした。
ぱしんっ、とした音が単調な声のBGMに眠りそうになっていた教室内に響いた。皆が注目して後ろを向いたときには、多少頬が赤くなったシンジと、下を向いているアスカがいるだけだった。
「何だ?」、数学の教師が二人に尋ねる。しかし返事どころか反応すら無い。ただ硬直していた二人を見た教師は、自分の理解の範疇外に位置する二人に敢えてかまわないことにした。彼は自分の担当では無いクラスの嫌な面倒に巻き込まれるより、単元を終わらせることに集中することにした。どうせそういった問題は、妙な席替えをしたこのクラスの担任に任せればいいのだから。
再び授業が進行し始めたクラスの中で、シンジとアスカは授業が終わるまでただ黙っていた。ノートを取ることも無く、授業を聞くことも無く、ただ黙っていた。
昼食。アスカは屋上に来ていた。手元にはシンジが作った弁当がある。ただその容器は市販のプラスチック製の安い奴で、弁当箱と呼ぶには多少抵抗のある代物だ。何らかの布で巻かれていることも無い。まさに必要最低限のものしかない弁当だった。
アスカは一人だった。屋上で食べる人間は少なくなかったが、彼女がここに来てから屋上で朝食を取ろうとする人間は少ない。当初こそ彼女の美貌に、それこそ完全な美しさと表現する他無い美貌に惹かれて彼女に着いてくる男子生徒もいた。しかしアスカがシンジ以上に他者を拒絶する態度を見せたため、シンジ以上に彼女に近寄ろうとする人間はいない。だから彼女はシンジ以上に孤独な空間を得ていた。
ところが、そんな孤独な空間を破る存在が屋上に現れた。
「・・・・」、無言で扉を開いたのは、シンジだった。彼は弁当を片手にアスカのいる場所とは正反対の場所に座り、そこで弁当を広げる。
アスカはシンジの行動に多少の違和感を感じつつ、彼の存在を無視しつつ弁当を食べ続けた。意識のどこかで、普段はどこか別の場所で食事を取る彼の行動の意味を考えつつ。何故自分がシンジのことを考えるのか、そこまで気がまわらなかったが。
シンジもまたアスカの存在を無視していた。そして自分が何故いつもアスカが来ているとわかっている場所で昼食を取ろうと思ったのか、理解できなかった。いや、考えもしなかった。ただ無視しようとしていた彼女の存在が、何故か意識を引っ掻き回していることに戸惑っていた。
だから、彼はいつのまにか、声を出していた。
「いい風だな」、短く、多分屋上に吹く風の中に消えてしまいそうなほどの小さな声で。
彼は彼女がその言葉を聞き取れるとは思っていなかった。ところが。
「・・・いい風ね」、とアスカは短く、けれどシンジに十分聞き取れる大きさの声で、答えた。シンジは驚かざるをえなかった。まずは彼女が返事したことに、続いて自分が声を出していたことに。
けれど、深く思考の渦に呑み込まれる前に、彼は再び口を開いていた。
「何だか、気持ちいい」、どうにも無意識のうちに言葉が吐き出される。それは、彼女のほうも同様らしかった。
「ええ、とっても」
「でも、一人だと、ちょっと寒いかな」
「・・そうね、少し、寒い、よね」
遠く離れ、そして向き合ってさえいない二人の奇妙な会話が、一瞬途切れた。やがて、シンジが、自分でもよくわかっていないうちに立ち上がり、そして静かにアスカのほうに歩み寄り始めた。
アスカは、シンジの足音を聞いて緊張していた。他者を拒絶し続けていた彼女は、何故自分がこうもシンジに反応しているのか、よくわからなかった。だから自らの行動に戸惑いつつ、何故かその場から逃げ出せ無かった。
そうこうしているうちに、シンジがアスカから体ひとつ離れた場所に腰を降ろした。二人とも、屋上から校庭を見下ろしている。弁当は、既に食べ終えている。後は、残った休み時間を消化するだけなのだ。
「・・・」
無言の時が過ぎる。先程まで会話があった二人の間は、どことなく緊張があった。そんな雰囲気を破ろうとしてか、シンジが再び口を開いた。
「どうして、僕はここにいるんだろう」、と。
それは二人の気持ちを代弁する言葉だった。シンジは他人を拒否し、興味を示さなかったのに、何故今ごろになってこんな行動を取るのか、わからなかった。
「わかんない」、それは彼女も同じ。シンジ以上に他人を拒否してきたアスカは、自らの行動に戸惑いと驚きを覚えていた。そして、何故かこの場を離れてはいけない気がした。
短い会話の後は、ただ沈黙だった。
休み時間の終わりを告げる鐘が鳴っても、二人は動かなかった。まるで強烈な引力が働いているかのように、二人はこの場から離れようとはしなかった。心はここに留まるよう訴えかけていたし、理性でさえこのままここに座り込んでいることを黙認した。
やがて、シンジはゆっくりと、本当にゆっくりと、自分の左に座っているアスカに向けて、自らの左手を動かした。彼女の右手に向けて。
ほんの少しの時間の後、彼の左手はアスカの右手に触れた。先程とまったく同じ様に。包み込むような優しさがシンジの左手を伝わり、彼の脳髄に響く。それはアスカも同様であり、力強さと包容力を含んだシンジの優しさが―ここ数年間封じ込められてきた優しさが伝わってきた。
今度はアスカも抵抗しなかった。むしろ彼の左手を感じ取ることで幸せと心地良さを感じていた。二人は目を閉じ、お互いの感触を感じ取ろうとしていた。ただそれだけで、この数年間の孤独が癒されるような気がした。何故自分たちが孤独を望んだのか、その気持ちが理解できなくなってきた。
二人の様子を、ずっと見つめ続けていた存在がいたことに、二人は気付いてはいなかった。
夕日が辺りを照らし出すようになって初めて、二人は手を名残惜しそうに放した。
シンジは二人のお弁当を手にとると、アスカに軽く頷き、そして誰も残っていないであろう教室に向かった。言わなくともわかる。何故か、いつのまにか、下駄箱前で待ち合わせることが決まっていた。
シンジは教室に二人の荷物を取りに。アスカはそのままシンジを下駄箱前で待つことに。何故かそう決まった。言葉を交わさなくても、何故かお互いの気持ちが伝わった。それは、二人が仲の良かったころ、まだ使徒戦がゲーム感覚で終えられた頃の習慣だった。
シンジはそのまま名残惜しそうに教室に向かう。アスカは少し頬を赤らめ、やがてシンジを待つために屋上を出ようとする。
「ちょっと待ちな」、どこからともなく、低い声が聞こえた。
普段のクールな姿からは想像もつかないほど、シンジは慌てていた。誰も残っていない教室の一番後ろにある席からアスカと自分の鞄を取り、弁当箱をしまう。そして机の中に教科書が無いことを確認すると、少し急いだ感じで一階の下駄箱に向かった。
急がなくては。アスカと帰れる。一緒に帰れる。
ただそれだけがシンジの意識を支配している想いだった。何故孤独に浸っていた自分が、このような行動を取っているのか、シンジは考えようともしなかった。ただ、今自分を突き動かしている気持ちに素直に従っていた。
「碇君」、シンジの耳に、彼に取ってはひどく邪魔に思える声が聞こえたのは、そんなときだった。
もちろんアスカとの約束を果たすことに集中しているシンジは、単純にその声を無視するつもりだった。けれど、彼が降りている一階へと続く階段の先に、その声の主がいるとなれば、彼の行動も変更を余儀なくされる。
「ごめん、急いでいるから」、シンジはそう言って相手が横に移動することを期待する。ごめんと付け加えることで。相手に悪いと思うごめんでは無く、相手を横に移動させるためのごめん。それだけだった。
しかし階段の邪魔者―シンジによってそう定義されたエミコは、その場を動くつもりは無かった。彼女にしてみれば、今こそシンジが、冷静で孤独を捨てて自分に反応したチャンスなのだ。今この時を狙っていた努力も、無駄では無かったのだ。
動くわけが無い。
「だったら、私のお願いを聞いて」
シンジは焦りが生み出した内心に生まれた感情を必死に堪えて、階段の途中で立ち止まった。ちょうどシンジが数段下にいるエミコを見下ろす感じだ。
「何?」、素っ気無くシンジは訪ねる。彼にしてみれば、今すぐこの場を切り抜けられれば、何でも良かった。
「今日、私と一緒に帰りましょう」、エミコはにっこり笑ってそう言った。
その笑みは、ある意味魅力的なものであった。しかしそうであるからこそシンジの怒りを買った。シンジにしてみれば、邪魔者が笑顔でさらに邪魔しているかのように受け取れたのだ。そして、それはシンジが押さえ込んでいる感情を暴走直前まで持っていくものであった。
「できない」、辛うじて暴力的手段を取ることを抑えたシンジは、冷たく殺意さえ感じさせる声でそう呟いた。
「今から僕はアスカと一緒に家に帰る。邪魔をするならどけ」
相手に対して敵意しか感じさせない言葉。それほどまでに彼は行きたがっていた。
シンジの心は荒れていた。自分の邪魔をする奴はどけ。僕はアスカのところに行かなくちゃいけないんだ。どけ、どけ、どけ。アスカと僕の邪魔をする奴は、どけ。
エミコはシンジの言葉に少なからずショックを受けていた。誰にも敵意も好意も何にも見せなかった、ただ無反応だった彼が、殺意に近い感情をエミコにぶつけてくる。それは、相手の反応を得たという一種の喜びであると同時に、恐怖に近いものでもあった。
「ど、どかない」、エミコは震える声でそう言った。
シンジはそれを聞くと、二つの鞄を左手に持ち替え、朝とまったく同じ様に右手で拒絶の、排除の行動を取ろうとした。しかし、それが現実のものとなる前に、エミコはシンジにとって恐るべき事実を口にした。
「そ、惣流さんなら、お、屋上で誰かと待ち合わせみたよ」
震える声で口にされた言葉は、シンジにとって衝撃以外の何物でも無かった。
それはシンジが、アスカに嘘を言われた?と、コイツが言っているのは嘘だ、という二つの疑念を抱かせるのに十分な言葉だった。とりわけ前者の可能性がシンジの行動をあらゆる意味で止めた。
数年間他人を拒否し続けてきた彼が、今日再び開いた心。それが偽りの言葉によるものだったのか、また自分は裏切られるのか、そんな不安がシンジの心を束縛した。だから、彼はすがるような、そしてどこか現実を否定する脅迫するような思いで怒鳴った。
「嘘だ!」
エミコは恐怖した。シンジがまさに修羅と表すべき態度で怒鳴ったからだ。だから思わず彼女は自分の知る真実を漏らしてしまった。
「う、嘘よ」
シンジは、その言葉に態度を改めた。今度はまるで嬉しいかのように。そして、怒りを込めた言葉で自分の邪魔者―エミコを問い詰める。
「じゃあ、どういうことだよ!」
シンジは怒っていた。当然である。彼からすれば、最もつかれてはならない嘘を言われたのだから。
「だ、だから、その」、エミコはシンジの態度に恐怖しつつ、震える言葉で説明しようとした。もう限界だった。彼女は泣きそうだった。
「碇君があんまりな態度だから、わ、私、知り合いの不良に頼んで、仲のいい惣流さんを襲うように」
シンジはそこまで聞いて鞄を放り投げた。そして一気に階段を上り始めた。まるで、荒れ狂う戦神のように。後には、泣き崩れるエミコが残されていた。
アスカ!アスカ!アスカ!
ただそれだけがシンジの心を支配していた。ただ彼女の存在のみ。彼女への想いとか、一緒にいなかったことへの後悔とか、そんな考えは頭には浮かばなかった。そんな余裕なんて無かった。ただアスカの存在が彼の意識を占めているだけだった。
アスカが屋上にいるのかどうか、それさえも考えることを忘れていた。
階段を駆け上ったシンジは途切れ気味になった息を整える間もなく、屋上への扉に向かった。ただ一目アスカの姿を見たくて。ただ一目彼女の無事を確認したくて。シンジは力一杯ドアを開けた。
そこには、エヴァシリーズに喰い散らかされた弐号機を連想させる光景など、展開されていなかった。アスカは無事で、むしろその堂々とした姿が眩しいぐらいだった。
反対に夕日によって赤く染められていたのは、一度倒されたエヴァシリーズのように無残な姿になった数人の男達だった。もちろん内蔵を潰されたり、血液を垂れ流しているわけではなかったが、その不良達はまるでプロの格闘家に叩きのめされたかのような無残な姿になっていた。ナイフや野球バットが辺りに落ちていて、サングラスやスケートボードが無残にも破壊されていた。まさに不良と表現すべきだった男達は、むしろただの馬鹿と表現していい姿になっていたのだ。
シンジは言葉を失った。
「どうしたの、慌てて?」、アスカが訪ねた。
その言葉の柔らかさに、それこそ数年前のアスカを彷彿させるその柔らかさに、シンジは一瞬辺りの状況やたったさっきまで自分が想っていたことを忘れて、数年前の彼らしい返事をしていた。
「あ、いや・・・ごめん、何でもない」
アスカは、ここ数年間他人を拒絶してきただけの少女は、その言葉に思わず笑い出してしまった。
「ぷはははははは」、天使のような笑い声だった。彼女のクラスメートが聞いたら、驚くであろうほど明るい笑い声だった。
「わ、笑うことないじゃないか、心配したのに」
「だって、アンタあまりにも変なんだもん。必死な顔でドアを開けて、それでポカンとして」
「アスカが心配だったんだよ。そしたら、なんかこんなことになってるし」
「そりゃあそうよ、アタシだって伊達にエヴァの戦闘操縦訓練受けてきたわけじゃないんだから。むしろアンタが助けにきても、足手まといなんじゃないかなぁ〜?」
「そんなわけないだろう。こう見えてもネルフが無くなってからも僕だって昔の練習続けてきたんだからなぁ」
まったく微笑ましい光景。誰しもが笑みを浮かべてしまうような光景。それはまさに、シンジとアスカが出会った頃の姿でもあるのだ。シンジとアスカは、これまで数年の人生を捨てて、再びあの頃に戻っているかのようだった。
「本当、・・・心配したんだかな」、シンジが照れくさそうに言った。
「ふふ」、アスカは数年ぶりに浮かべる笑みで、それに応えた。
「まったく」、シンジはそんなアスカを見て少し苦笑する。
そして、たった今自分が何をしているのか、急に冷静になって考え込む。
本当、僕は何をやっていたんだ。こんな簡単に、こんな簡単に戻ってしまった。こんな簡単に昔の僕達に戻れたのに、僕はこの数年間、何をやっていたんだ。何で僕はアスカを拒絶し続けてたんだ。だって、こんな簡単に明るい気持ちになれるのに。
「ちょっと、何考え込んでるの?」、アスカが覗き込むような視線でシンジの顔を凝視していた。愛おしさを感じさせる少し不安そうな声だった。それが、シンジの心をかき乱す。
「あ、いや、何でもない」、シンジはそう慌てて応えると、恥ずかしさを紛らわせるかのように、屋上の入り口を見た。鞄を忘れてきたことを、思い出したのだ。
「あ」、シンジは驚いた。
入り口に、小さく折りたたまれた紙と共に二人の鞄が置いてあったからだ。
シンジは鞄の側により、紙を開いてみる。そこには幾つかの丸い染みと共に、ただ一言「ごめんなさい」、とだけ書いてあった。
「シンジ」、と後ろからアスカの声がした。先程までの彼女とは、先程とは少し違う、落ち着いた声だった。あのやり取りの興奮から醒めたのだろう。再び、ここ最近の孤独感を感じさせる声に戻っていた。
「いや、なんでもないよ、アスカ」、シンジもまた声が落ち着いていた。片手の紙をアスカに気付かれないようにポケットに入れ、鞄を持ち上げる。
「僕が、持つよ」、とシンジは少し大人びた口調で言った。
「・・・うん」、とアスカは頷きながら応え、そしてシンジに寄り添う。
「片手、いいかな?」、シンジが、少し不安そうな声で尋ねる。
「いいよ」
それだけ聞くと、シンジは少し震える手でアスカのそれを握る。アスカの手も、震えていた。だからシンジは握り締めた。そうすることで不安を取り除こうとした。
「・・・帰ろう」、アスカが言った。
「私達の家に、帰ろう」
シンジは、心の中で強く、強く、呟いた。
僕は、逃げていた。こんな簡単なことから。もう、絶対にアスカと遠くなりたくはない。だから、もう絶対に、逃げない。
<あとがき>
はじめまして、名無し21と申します。
名無しというペンネームで書き始めてから、ネットで「名無し」はかなり紛らわしい名前であることに気付いて、「名無し21」と慌てて付け加えた馬鹿な奴です。
僕はあまり後書きは付けないのですが、この文章については、書かせて頂きます。
この文章、シンジやアスカの心の表層部は文章中に書かせて頂きましたが、心の奥は、読者の皆様に皆様のご想像にお任せします。僕なりに二人のそういった部分を描いたつもりですが、皆様に伝えきれたかどうか。何分まだ筆力が未熟なもので、精進せねばならないと思っています。
何でこんな簡単に二人が立ち直れるの?もとの二人に戻れるの?と思われた方。うまく書けませんでしたが、本当はちょっと違います。まだ、切っ掛けに過ぎません。二人はこれから何度も悩み、ぶつかり、心を通わせ、そして、新たな関係を築きます。それを伝えられたら、と思う今日この頃です。
AfterEOEと類別されるこの種類のSS,僕なりにシンジとアスカを書かせていただきました。本編よりは、幾らか心が強くなっているかな、と思います。
雑文に付き合っていただき、ありがとうございます。
名無し21さんに投稿していただいた「孤独と繋がり」でした。
作品をGehenに投稿してくださり、ありがとうございます、名無し21さん。
読者の皆さんはこの作品をご覧になって、どう思いましたでしょうか。
ほのぼのLASやギャグLASももちろん大好きですが、この「孤独と繋がり」のような、本編のシチュエーションに基づいたシリアスなLASも大好きです。
えびはシンジとアスカの気持ちが通じ合ったことに喜び、純粋に「本当に良かった」と思いました。
孤独と苦悩を経て再び心を通わせることができた二人。きっかけは簡単なことだったのに、何故数年も気付かなかったんだろう。
淡々と綴られる文章のなのですが、読んでいる読者の気持ちを十二分に引き付ける表現の上手さ。
名無し21さんの書きたいこと、伝えたいことを存分に堪能させていただきました。
いやもう本当に面白くて作品に引き込まれてしまいました。
シリアスな物語が下手糞(ってか書けない)な私としては、もう思いっきり名無し21さんに脱帽であります。
作者の名無し21さんへ作品のご感想を!
上記のアドレスまで是非お願い致します〜。
素晴らしい作品をありがとうございました、名無し21さん。
また名無し21さんの作品を拝見できることを楽しみにしております!
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