――人は今も昔も変わらない。かつての師の偉大さも、変わらないものなのだ。
「ささ、もっと頼みましょうかね。今日は先生のおごりなんですし」
「おいおい、少しは遠慮しないか。それに、あんまり食べると太るんじゃないのか?」
「先生、私はあんまり太らない体質だって、昔言いませんでした?」
「……そうだったか?」
「ええ、今のこの私のボディラインがそれを物語ってます」
「……まぁ、どっちにしろ、俺の財布に優しくしてくれよ」
「分かってますって♪」
すると急にノリノリになったキョウコ。調子に乗っておやっさんに注文を頼みまくる。
「……おいおい、優しくしろって、話聞いてたのか?」
「何か言いました、先生?」
ギラリと鋭い眼光がゲンドウを貫いた。……女って、『食』に怖い。
「ああ、いや、何も……」
……こういうところも、変わらないものである。
「秋の日の同居人」
byPAX
第十弐話 「残されて、2人」
――いつもより静かな夜。なぜこういう時に限って外からはまるで何も聞こえないのだろうか。
ゲンドウとキョウコのいない碇家。ポツンと2人の高校生だけが残る。こんな時間に2人だけの空間――けれども、お互いに何をしたらいいのか分からないでいた。微笑ましき2人である。
「と、とりあえず……」
先に静けさを斬ったのはシンジである。
「……ご飯、作ろうか」
「……そ、そうね、そうしましょ」
何の変哲もない会話ですらぎこちない2人。なんだかおろおろしたような足取りでシンジは台所へ向かう。いつもならその様子を気にするアスカも、今回は気にする余裕などなく、先のことを考えるのでいっぱいなのであった。
それはシンジも同じで、とりあえず夕飯を作ることにはなったが、その場しのぎにしかならない。ゲンドウとキョウコがいつ帰ってくるかも分からず、恐らくしばらくは2人きりだ。
何故だろう、以前も2人だけの場面はあったのに、どうして今になってこんなに慌ててるんだろう……?
その気持ちは2人とも同じだった。そして、2人ともこうも思っていたに違いない。
(まったく父さんてば……)
(ホント、ママったら……)
「「余計なことしてくれるんだから」」
□
台所ではシンジが夕食の準備に取り掛かろうとしていた。――台所はリビングよりずっと静かな空間になっていた。逆にそわそわしてしまうほど、不気味な静けさだ。シンジもその空気を察してなのか、先ほどから台所に立ったままである。
それにしても、こういう時に限って何を作ってよいのやら悩むものだ。2人取り残されてからどうも気が落ち着かない。なぜこうも慌てているんだろう?
なぜこうもドキドキしているんだろう? 別にアスカと2人でいることなんて、いつものことなのに。それとも、これは何かの予兆なのだろうか……。
「ア、アスカ〜!」
「ん? なぁに〜、シンジ〜」
シンジは台所からリビングにいるアスカを呼ぶ。
「今日は何食べたい?」
「う〜ん、そうねぇ……肉じゃがなんか食べたいかな」
「肉じゃがか……よし、じゃあ今日はそれを作ろう」
今日の夕食はアスカのリクエストにお応えして肉じゃがに決定した。シンジは早速調理に取り掛かる。鍋を用意し、野菜を切って、しらたきなんかも一緒に入れる。そして調味料を入れればいいのだから、なかなか楽な料理だ。
料理に集中して少し気持ちも落ち着いたのか、シンジは手馴れた手つきでサクサクと作業を進める。なるべくこの状況を意識しないように、なるべくアスカを意識しないように……
「ねぇ、シンジっ」
「うわあっ!」
突然後ろから声。突然後ろから聞き慣れた、大好きな人の声。
「な、なにもそんな驚く必要ないでしょ?!」
「ちょ、ちょっと料理に集中しすぎててさ。ハハ……」
苦しい笑顔でごまかすシンジ。
「それで、何?」
「ふふ〜ん……あのね」
擦り寄るように近づくアスカ。彼女にとってどうとでもない行為でも、シンジにとっては妙に意識してしまうことだった。髪の匂い、アスカの匂い……どこか色っぽい彼女に、シンジは少しドキッとする。女の子とは、これほどまでに魅力的に見えるのだと、感じるほどだった。
「ちょっとシンジに料理、教えてもらおうかなと思って。いいかな?」
「あ、ああ、もちろんだよ」
シンジがぎこちなく答えると、アスカはシンジが調理していた場所に立つ。
アスカの前には、まな板の上に乗せられた野菜がずらり。肉じゃがはそれほど難しくないし、アスカ自身も料理ができるので、そこまで教えることはなかったのだが、包丁の握り方が少し危ないなど、細かい所を指摘する。その度に、アスカに「みみっちいわね!」とか「あー!
もう細かいわよ!」とか言われてしまうのであった。傍から見れば喧嘩に見えそうでも、これが彼らなのだ。これが彼らの、微笑ましい姿なのだ。口では罵倒があっても、心の中では笑いあっている。
2人きりの空間で、ようやくお互いに気持ちが少しほぐれた瞬間であった。
□
「「いただきま〜す!」」
静かなリビングに響く2人の声。食卓には、炊きたてご飯とアツアツの肉じゃが。早速アスカが肉じゃがに箸を伸ばす。
「――うん! いつもよりおいしいわ」
「ホントに?」
「だってアタシが手伝ってあげたんだもん。当然でしょ?」
「ハハハ。きっと、そうだ」
笑いながらシンジが返す。
「きっとじゃなくて、そうなのよ」
アスカは次々に箸を伸ばしていく。よほど自分の作った料理の味が気に入ったのだろう。満面の笑みで口を動かす。……まぁ、手伝ったといっても、野菜を切る程度のことだったのだが。
「……こうやってシンジと食べるの、久々かもね」
「ああ、そういえば……そうだね」
思い返せば、キョウコがやってきてからというものの、よりドタバタな日々になってしまい、こうして2人で食べる機会もなかったというものだ。
「ママさえ来なければ、もっとこうして2人で食べることができたのにね……」
「まぁ……そうだね」
明らかにキョウコを嫌悪する発言に、シンジは素直に頷けなかった。シンジの中では、キョウコも大事な存在に変わりつつあったからだ。独特の陽気さと、母親らしい温かさを持つ、ある意味魅力的な女性……それがキョウコだった。
「……シンジはさ、アタシと一緒に居たい? これからも、ずっと……」
「えっ――」
……アスカから突然の問い。その内容にドキッとしたシンジは、ついそう反応するしかなかった。
「……一緒に、居たい?」
……自信がないのだろうか。とたんに弱々しくなった声色でもう一度聞かれる。
急な問いに戸惑ったシンジだが、今度ははっきりと聞き取れた。自分は……アスカと一緒に居たいのか、どうなのかということを。
「……もちろん、居たいよ」
「……ホント?」
「本当だよ。だって僕はアスカのこと……好きだもの」
「シンジ……」
シンジは、今の自分の正直な気持ちを伝えた。もはやアスカとは恋人だ。一緒に居たいと思って当然だろう。
「でも……さ」
「……なに?」
続けるシンジ。そして出た言葉は、アスカにとって衝撃的なことであった。
「でも……アスカはキョウコさんと一緒にいるべきだと思う」
「……えっ?」
予想外のセリフに戸惑いを隠せぬアスカ。それはそうだ。さっきは自分と居たいと言ったくせに、今度はその相手から母親と居るべきだと言われたんだから。
しかし、母親と一緒に居るべきだという気持ち――これもまた、シンジにとっては正直な気持ちであった。それは、自分に母親がいないからこそ、余計に言えることだった。母親がいることの大切さを失わないでほしいから、母親との絆を大切にしてほしいから……シンジなりに、アスカのことを思ってのことだった。
しかし、納得いかないのはアスカである。何かに怯えるような表情でシンジに問いかける。
「……どうして、そんなふうに思うの?」
ますます弱々しい声色になったアスカ。シンジは1度深呼吸をしてから、口を開けた。
「……それはね、アスカ。キョウコさんは、君のことを凄く大事に思ってるからだよ」
「でも! ママがいたら、アタシはシンジと一緒に居られなくなっちゃうじゃない!」
動揺するアスカに対し、シンジは冷静に首を横に振った。
「キョウコさんは僕らのこと、認めてるみたいだよ。ただ、アスカのことが心配なだけなんだよ」
「で、でも……」
「それに、キョウコさんといる方が、アスカにとってもいいはずだ。そう思ってるんだ」
「……どうして?」
「……アスカにはまだまだ、キョウコさんを大切にしてほしいから」
「……でも……でも、アタシは……」
納得のいかないアスカ。目が少し潤み始める。そして、辛そうな表情で口を開いた。
「……シンジは、アタシといなくてもいいの?」
「ち、違う! そういうわけじゃない! ただ、僕はアスカのことを想って――」
「全然想ってない!」
――とうとうアスカが立ち上がった。熱くなっているけれど、どこか悲しい表情で、シンジを見る。
「アタシは……ただシンジといたいだけ。ただそれだけなの! なんでそれを分かってくれないの?」
「そう言ってくれるのは嬉しいよ。僕だって本当はアスカと一緒に居たいさ」
「じゃあ、なんで……」
泣きそうなアスカを前に、シンジはひたすら冷静に答える。
「キョウコさんはアスカのことを本当に心配してる。だってずっと君を1人で育ててきたんだ。まだ大人になるまで、目を離せないんだよ。きっとそれが……母親ってもんなんだよ」
……シンジに母親の記憶はほとんどない。だが、キョウコの存在が、シンジに母親の存在を気づかせたのである。温かくて、そしてあらゆる物を包み込むような大きさを。
「……僕には母親がいないからさ、本当にそうなのかは分からない。だけどさ、だからこそ、アスカには大切にしてもらいたいんだよ、キョウコさんのことを。……それに、まだまだ僕らには時間がある。焦る必要なんて、ないんだよ」
「シンジ……」
シンジに諭されるアスカ。少しは落ち着いたようだが、それでもまだ彼女の悲しい表情は残ったままだった。そして――
「……シンジの言いたいこと、少し分かった気がするわ」
「……アスカ」
「でも、アタシは納得いかないの。シンジと一緒にいたいの……」
しかし、アスカの言い分は変わらない。どれほど母が自分のことを思っていても、それ以上にシンジを思う気持ちの方が強かった……強すぎた。
「だから……ごめん」
そう言うとアスカはすっと立ち上がり、目をこすりながら自分の部屋に走っていった。
「――アスカっ!」
呼び止めようとするシンジ。しかし、彼女に声は届かず。アスカは自分の部屋へ逃げるように入り込み、勢いよく扉を閉める。そして、ガチャリと鍵のかかる音……
「アスカ……」
――あらゆる音を拒む静寂。外からの音も、テレビの音も、小さな音もしない静かな空間。彼以外は誰もいない空間……
不気味な静けさの中に、少年は1人取り残された。
第拾弐話 終わり