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1st day (Thu)
「出張、ですか」 「そ、松代にね。明日から日曜まで」 台所に立つ少年の背中に向かって、すこし大きな声で答えが返った。 ちょっと狭めのダイニングは生活雑音に満たされている。その真ん中にデンと据えられた4人掛けのテーブル。その席の一つに声の主が座っていた。タオルを肩にかけ、少々くたびれたタンクトップにショートパンツという出で立ちの妙齢の女性。椅子に浅く腰掛け、すらりと伸びた脚を軽く組んでいる。 その女性は片手に持った缶ビールの栓を開け、自分の答えにあきれたように軽く肩をすくめた。風呂上がりでまだ水分が抜けきっていない、わずかに紫がかった長い黒髪がゆれる。 葛城ミサト。29歳。 職業、特務機関ネルフ作戦部長。 使徒、と呼ばれる正体不明の攻撃体。使徒を迎撃するための特務機関ネルフ。そして、まるでネルフを目指すかのように次々と現れる使徒を、ネルフはその都度多大な損害を被りながらも退けている。作戦部長とは、その対使徒戦の作戦立案と実戦指揮が主な仕事だ。 その指揮ぶりは大胆と形容するに相応しい。近しい人々からは『大雑把』『いいかげん』などと揶揄されることもあるが、その強引な作戦こそが幾度もネルフの、そして世界の危機を救ってきたことも確かである。 ネルフ職員の間では、美貌の上司として同僚で同級生でもある技術部長の赤木リツコと同程度、あるいはそれ以上の人気を誇っている。2人とも上司としての能力には疑いようもないが、クールビューティーと評されるリツコとは逆に、姉御肌で気さくなところがより人気を得ている原因なのだろう。 だが、ミサト本人はそんな人気のことなど全く気にしていない。 そして、多忙な作戦部長でありながら2人のチルドレン――エヴァンゲリオン専属パイロットの保護者でもある。保護者としての評判は、被保護者の2人が黙して語らないため闇の中。しかし、周囲からのミサトへの言葉はおしなべて同情的だ。重責ある立場にありながら思春期の子供を2人も引き取って養うなんて、と。 そんな言葉にミサトはいつも曖昧な笑みを返す。 正確に言うと返さざるを得ない。 今日もあったそんなやり取りを思い出しながら、ミサトはビールをひと口だけ口に運んだ。苦い。苦いが、あまりにも美味な飴色の液体がのどを通りすぎていく。体中に染み渡るアルコール。この瞬間を幸せと言わずに何を幸せというのか。 ミサトは本日1本目の残りを一気にあおった。そして名残惜しそうに唇をはなす。空になったアルミ缶はその手に捕まったまま行き場を無くしたようにふらふらと揺れている。その仕草は、勤務中には決して見られることはないだろう。例えお昼休みにちょこっとつまみ飲みしたとしても。なぜなら、これは彼女が、少年と彼の料理を待つときの儀式になっているからだ。 「ミサトさん、2本目はおつまみができてからにしてくださいね」 いつものようにタイミングよく台所から声がかかる。そう、台所に立つこの少年は、さっきから一度もこっちを見ていないというのにすっかりお見通しなのだ。 「はいはい、わかってますよ」 ミサトは憮然とした声で答えた。しかし、その口元はゆるんでいる。 見ていなくてもビールを飲み終わったのがわかる。 その場の雰囲気だけで相手が何をしているかわかる。 顔を合わせるだけで何をしたいのかわかる。 こういうのを家族っていうんだろうな、とミサトはどこかくすぐったいような気持ちになるのだ。そして、こんなやりとりはここ最近の日課になっている。これ以上の幸せがあるだろうか。 「クェ〜」 ミサトがささやかな幸せに浸っていると、風呂場からタオルを頭に乗せたペンギンが姿を現わした。気持ち良さそうに目を軽く閉じて、これまた気持ち良さそうに、ゆらありゆらありと体を揺すりながらこちらに向かって歩いてくる。まさに風呂上がりのオヤジそのまんまだ。 新種の温泉ペンギンのペンペン。 15年前のあの出来事の後、天涯孤独となったミサトがはじめて得た家族。 被験動物。 以前努めていた研究所でミサトが初めてペンペンと出会った時、ペンペンはそう呼ばれていた。たび重なる投薬、検査、それによるストレスなどで痩せ細り、あちこち毛が抜けていたペンギン。しばらくして彼は「廃棄」されることが決まった。十分な実験データが取れなくなった。それが理由だった。 『No.02の温泉ペンギン、明日処分するから』 室長からその言葉を聞いた時、ミサトは反射的に答えていた。 『あのペンギン、わたしがもらいます!』 その日の内にペンペンは家にやってきた。 はじめの頃は当然元気がなかったし、なかなかなついてくれなかった。 それでも、一週間もすると新しい環境にも慣れてきたのか家の中をトコトコと歩きまわるようになり、ペンペン、と呼ぶとミサトに近づいてくるようになった。 新しいペンペン専用の冷蔵庫を買った頃にはすっかり元気を取り戻し、いろいろとおいたをするようになって毎日のように怒ったりした。 スーパーで買ってきたイワシを次々丸飲みにしていく姿を見て、慌てて財布の中身を確認したりもした。 疲れきった体で家の玄関を開けたとき、全身に喜びをみなぎらせながら走り寄ってくるペンペンの姿を見て、思わず泣きだしたこともあった。 大食らいで何の役にも立たないペンギン。ミサトのかけがえのない家族だ。 そのペンペンは、タオルを肩に掛けたまま器用にミサトのとなりの椅子によじ登ると、ミサトの方を見てちょこんと小首をかしげる。 「ギュワ?」 そう鳴いて両手(?)を差し出すペンペンの姿はとてつもなくキュートで思わず抱きしめたくなってしまう。ペンペンのおねだりはずっと前、ミサトが研究所を辞める前からの日課になってしまっていた。ミサトとしては、ペンギンにアルコールを与えるのは不味かろうとは思うのだが、この仕草を見るたび、かわいさに負けてビールを渡してしまうのだ。 当然、今日も例外ではない。 「は〜い、ペンペン、どうぞ〜。んじゃ、かんぱ〜い」 「クヮックエ〜」 カコッ、と乾いた軽い音がほんのわずかのあいだだけ周囲の音をかき消した。ミサトが缶の底に少しだけ残っているビールをちびちびと舐める横で、ペンペンは器用にプルタブを持ち上げ、中身を一気に飲み干さんと缶を傾ける。 ペットって飼い主に似るってホントねぇ。 他人事のようにそんなことを思ってみたりする。これもまた幸せのひととき。今日は幸せ再確認の日らしい。 ふと、酔いにまかせて目を閉じてみる。 すると、居間からのテレビの音と、台所からの威勢のいい音とが左右の耳に流れこんできて、手元の抗議の水音をかき消した。騒々しくも心地好い音に耳を傾けながら、目の前にかかげた缶を揺らしつづける。 しばらくして漂ってきた香ばしいにおいに、ミサトの手が一瞬止まった。思わず顔がほころぶ。どうやら、そろそろ今日の儀式を終了できるようだ。 まぶたを上げると、その先には台所に立つ少年――碇シンジの後ろ姿があった。その後ろ姿にさまざまなシンジの姿が重なる。 初めて会ったときの制服姿。 街を見下ろす公園で流した涙。 家出先から連れ戻されたときのあの言葉。 駅のホームで抱きあったぬくもり。 ようやく家族になれた、瞬間。 ミサトは家族が増えたあの日のことをずっと忘れないだろう。 新しい家族は、ちょっとひねてはいるが家事一切を取り仕切ってくれるカワイイ弟のような存在。 エヴァンゲリオン初号機専属パイロット、であるのはネルフにいる時だけ。家にいる時はただの中学2年生の男の子。 シンジはどう思っているか知らないが、ミサトはそう思うようにしている。 そして、ついこの前もう一人家族が増えた。 惣流・アスカ・ラングレー。 エヴァンゲリオン2号機専属パイロット。 先頃、ネルフドイツ支部での訓練を終え、2号機とともにネルフ本部に配属になった。シンクロテストの結果は極めて優秀。海上での初実戦も勝利で飾った。日本での初陣は、2分裂する使徒に翻弄され、シンジ共々敗北の憂き目を見たが、5日後の復讐戦ではシンジとぴったり息の合った動きを見せて、見事使徒を殲滅した。 その際、シンジと息を合わせるためにネルフ内で5日間特訓を行ったのだが、シンジと同じ部屋で過ごしたのがよほど楽しかったとみえて、アスカ本人の強い希望で葛城家で一緒に住むことになり現在に至っている。 そのアスカはといえばリビングで寝ころがってテレビを見ている。なんとかいうドラマの再放送をやっているらしい。 ミサトは、報告書の上でだがアスカのドイツでの生活を知っている。 唯一の肉親である母親と早くに死別し、義理の両親のもとで生活していた。その家ではいつもアスカは「いい子」だったようだ。反抗的な態度は一度もとったことがないし、怒られるようなことをしたことも一度もない。そして学校でもドイツ支部でも成績優秀。頭が良くてまったく手がかからない模範的な子供というのが、はじめて報告書を読んだ時のミサトの印象だった。 アスカが日本に来て実際に接してみると報告書に偽りがないことがわかった。ただし、表面的に見れば、という注釈が必要だった。 アスカは自分を出そうとしなかった。頭で考え、その場その場でもっとも自分を良く見せられる言葉・行動を選んでいた。比較的近い関係である自分に対しても加持に対してもそうだった。 背のびして、めいっぱい自分を「作って」一所懸命生きている少女。その姿を見ていると、かつての自分、父親に対して意地を張っていた15年前の自分がダブり、微笑ましさを感じながらもどこか不安が拭いきれなかったのだ。 そのアスカが自分の気持ちをストレートにぶつけていたのはシンジに対してだけだった。ユニゾン特訓をした5日間。それまで「いい子」のアスカにしかお目にかかれなかったのだが、シンジと一緒に生活したことでどこか気持ちが緩んだのだろう、我が侭なところや自分勝手な面を見せはじめ、ずいぶんと年相応の女の子らしくなった。だからアスカが一緒に暮らしたいと言ってきた時、一も二もなくOKしたのだ。 素直になれば楽になれる。 一緒に暮らすことでそのことに気付いてくれればいい。あの時、自分が気が付かなかったことを… ミサトが後ろを向いて首を伸ばすと、相変わらず寝ころがっているアスカの後ろ姿があった。微動だにせずテレビに見入っている。 そういえば数日前、衝撃的な場面に遭遇した。 このあいだ目撃してしまったシンジとアスカのキスシーン。いや、2人に言わせると未遂らしいが、それはともかく、あの2人がそこまで進んでいたのかと驚くと同時に、なんともいいようのない暖かな寂しさを感じてしまう。 息子の彼女に初めて会った母親というのはこんな気持ちになるのかもしれない、そしてその逆に娘の彼氏を紹介された母親の気持ちも味わっているのかもしれない、なんて埒のないことを考えたりもしてしまう。 思いもかけず手に入った、幸せな家族。 闘いの最中だということを忘れてしまいそうな、ひととき。 子供達にはこのまま幸せでいて欲しい。自分のような思いはさせたくない。大切な人を失い、無力感にさいなまれ孤独を味わいつくした日々など……しかし、その子供達に頼らなければいけないという現状。保護しなければならないはずの子供達を得体の知れない敵と相まみえる戦場に送り出している矛盾。自分は、自分達は、とてつもなく罪深いことをしているのではないか。そんなことを考えることが多くなってきた。最近、酒量が増えてきている。 いつの間にか視線がテーブルの上に落ちていた。頬杖で支えていた頭を気付いたように跳ね上げ何度か頭をふる。ついつい暗い考えが頭に浮かんでしまう。こういうことを考えるのは仕事中だけと心に決めてたのに… 気を取り直して視線を前に移すと、冷えたビールと出来立ての料理を持ったシンジがこっちに近づいてくるところだった。 ミサトが待ってましたと言わんばかりに笑顔を向けると、「お待たせしました」とシンジが小さく答えた。まだシミのない水色のエプロンが、なぜかまぶしい。テーブルの向こうから手が伸びて目の前に新たなビールとイカバター炒めの皿が置かれると、ミサトは礼もそこそこに嬉々としてビールのプルタブを引き上げる。シンジが苦笑いを浮かべながら、さっきの出張の話を続けてきた。 「ずいぶんと急なんですね」 「そうなのよぅ。こっちの都合なんてま〜ったくおかまいなしなんだからぁ」 シンジのもっともかつ無難な問いかけに、ミサトは甘えるような口調で答えた。その表情からは、本気で甘えているのか甘えたふりをしているだけなのか測りかねるが、14歳の少年が相手ではいまいち効果が薄いようだ。その証拠にシンジの顔にはちょっと困ったような愛想笑いしか浮かんでいない。 「ええっと、明日は早いんですか?」 さらっと会話を流され、さすがにミサトのプライドにもちょっと傷がついたようだ。だが、そんなことはおくびにも出さない。ミサトは、ビールを口元まで運びながら明日の予定を頭の中で再確認する。 「ん? ん〜ん、お昼までに向こうに着けばいいから……ちょっと早めに出るとして、11時前に出発かな?」 ちなみに、ここ第三新東京から松代までは直線距離で約160km。道のりだと200kmを超えるはずなのだが。しかし、その答えを聞いても、たいして驚いた様子を見せていないシンジもなかなかのものだ。 「お弁当はどうします?」 「えっ!作ってくれるの!?……あ、でもリツコと向こうでお昼食べる約束しちゃったしなぁ……う〜ん、どうしよ〜」 ミサトはパッと顔を輝かせたかと思うと、お箸を手にしたまま、器用に腕を組んで考え込んでしまった。ビールとおつまみを目の前にしながらうんうんとうなっている。 「小学生の遠足じゃあるまいし。なにつまんないことで迷ってんのよ」 意地悪なお姑もかくやと言わんばかりのトゲだらけの声。その声の方に目をやると、リビングからだらだらと歩いてくるアスカが視界に入ってきた。どうやらドラマの再放送が終わったようだ。その声と同じように、顔にもあからさまに不機嫌そうな表情をうかべている。 アスカはちょっと前からずっと不機嫌だ。そして、昨日からはあからさまにミサトを避けている。顔をあわせても、今のように目一杯不機嫌そうな顔をされるか、ものすごい顔でにらまれるのだ。 心あたりは、ある。 やはり加持とのことなのだろう。アスカは加持のことが好きだと公言している。無論、その感情は憧れといったものに近いのだろうが、それにしてもアスカにとっては挑発的なことばかりしているオンナと映っているのだろう。加持とキス寸前のところは目撃されるは、エレベータでの「事故」を目撃されるは…客観的に見たら弁解の余地は、はっきり言ってない。 しかしミサトがわからないのは、昨日からアスカの態度がさらに悪化していることだ。夜遅く帰ってきたと思ったら、ものすごい形相で自分を睨みつけ部屋にこもってしまった。加持とまた同じようなことをやらかしてしまったのならミサトも納得が行くのだが、あいにく昨日おとといと加持とは顔も合わせていない。一体何があったのだろうとは思うのだが、ミサトにはさっぱり見当がつかないのだ。 そのうちなんとかなるでしょ、出張から帰ってきたら加持にでも聞いてみよ、と楽観的に考えている。いや、考えざるを得ないミサトだった。 「そうは言ってもねぇ。やっぱり手作りのお弁当って魅力的じゃない? アスカは最近、毎日作ってもらってるからいいんだろうけどさ」 心の中の疑問はとりあえずそのままにして、アスカの相手に専念することにした。わざわざ向こうから話しかけてきたのだから無下にするわけには行かないし、なによりアスカと話してるとなかなかに面白いのだ。ただし、それはミサトから見てのものであって、アスカから見れば不愉快この上ないだろう。要はアスカをからかうと楽しいのだ。 「あたしは、シンジが作るっていうからついでに作ってもらってるだけよ。わざわざ作ってもらうような恥ずかしいマネなんてできないわ」 「あら、わざわざじゃないわ。ついでに作ってもらうのよ。だって、シンちゃんも松代行くしぃ」 ことさら語尾を上げた口調にアスカの頬が一瞬引きつる。それを見たミサトは内心ほくそ笑んだ。期待通りの反応だ。 「そゆことで、アスカ、お留守番よろしく〜」 ひらひらと缶を振りながらの一言でせっせと火に油を注ぐ。みるみるうちにアスカの顔が赤くなってきた。アスカは半眼のまま右手をテーブルに叩きつけた。 「ちょっとっ!いきなり何いいだすのよ!シンジも行くなんて初耳よっ!」 「そりゃそうよ、言ってないもん」 「そういう問題じゃないわよっ!」 「あの…僕も初耳…」 ミサトは、シンジの真っ当なつぶやきを当然のごとく完全に無視した。アスカはといえば、一瞬シンジの方を向いたと思うと鋭い視線を突き刺す。 続く言葉を胸に飲み込むようにしてシンジが沈黙したのをミサトは横目で確認した。 「だいたい、なんでシンジだけなのよ!あたしは!?」 「今回は松代基地の、基地機能のテストでエヴァが1機『だけ』必要なの。2機もいらないわ」 「じゃあ、なんで初号機なのよっ!弐号機でもいいじゃない!」 「さあ? どうしてかしらね」 「『さあ?』じゃないわよ!なんか理由があるんでしょ!理由がっ!」 「そんなに理由、聞きたい?」 ミサトは笑顔を消して缶を持ったままの人差し指をアスカに突きつける。 アスカはつり上がった目を細めてミサトを見据えていた。無言のまま先をうながす。ミサトはわずかにうなずいてそれに応えた。その答えは、当然アスカが望まないものだが。 「なんとなく、よ」 にへ〜、と会心の笑みを見せてミサトはビールを一気に飲み干した。 それを見たアスカは、ぶんっ、と音がしそうな勢いでミサトに背を向けた。翻った栗色の髪が光を反射してまるでスローモーションのように見える。髪が一本一本が目一杯遠心力を受けているのにも構わず、アスカはズカズカと自分の部屋へと歩きだした。 「あ、アスカ、ごはんは?」 慌ててシンジが声をかけるがアスカの足はまったく止まる素振りを見せない。肩を怒らせ、ほつれた髪を気にもせず、足を運ぶことだけしか頭にないようだ。 「いらないっ!」 そう言い残すと次の瞬間、階上階下に響きわたるような音を立てて戸が閉められた。 アスカが去ったリビングにどこか気まずい空気だけが残る。と、その雰囲気をごまかそうとするような、ちょっとおどけたミサトの声が空々しく響く。 「あちゃ〜」 「ミサトさん、あんまりアスカのことからかわないで下さい」 「あら、やっぱりわかった? 反応がかわいくってつい、ね?」 シンジのため息まじりの言葉にミサトはペロッと舌を出した。それを見たシンジは更にうんざりした顔を見せる。 「後で、とばっちり受けるのは僕なんですからね」 「あはは〜、ゴメンゴメン」 反省のかけらも感じられないミサトの声に、今度はシンジの口から大きなため息が一つ出ただけだった。その顔には『あはは〜、じゃないですよ、まったく』とはっきり書いてある。ミサトもさすがにそれ以上なにも言えず首をすくめた。 「じゃ、ご飯作りますね…まったく、酔うとすぐこれだから…」 半眼になったシンジのため息まじりの言葉は無視することに決めた。主に後半の方を。 若干、肩を落としながら台所に戻っていくシンジの背中を見送ると、ミサトは隣にちょこんと座っているペンペンの方に向きなおった。 「ペンペ〜ン、ほら、もう一回、かんぱ〜い」 ことさら明るい声が虚しく食卓の上を滑っていく。 ペンペンは動かない。シンジの半眼を真似してミサトの目を見据えている。家族も同然のペンギンに睨まれ、背中に冷や汗を流すという生まれて初めての経験を今、葛城ミサトは強いられていた。 「ペ、ペンペ〜ン、どうしたのかな〜?」 ミサトは懇願するような声音で話しかけた。だがそれでもペンペンは動こうとしない。ペンペンの目の前まで突き出されたほとんど空の缶ビールが虚しく宙を舞う。 お互いに固まること数秒。ペンペンが動いた。だがしかし、彼が両手で抱えるように持った缶ビールは微動だにしない。動いたのは首から上だけ、ぷいっとあさっての方に顔を背けてしまった。 「あ……ああぁ…」 絶望の喘ぎがミサトの口の端から漏れでた。家族全員に愛想をつかされた瞬間。世のお父さん達はいつもこんな思いをしているのかと初めて実感した。悲しいことに実感してしまった。 呑まなきゃやってらんないわ、とばかりに手に持った缶をあおるが、ビールは唇を湿らせるほどしか残っていなかった。ビールにまで愛想をつかされたように感じてしまう。 「ミサトさん、ビールはもうダメですからね!」 振り返りもしていないシンジに絶妙のタイミングで釘をさされた。浮かしかけた腰をしかたなく椅子に戻す。 お酒でのちょっとした失敗はこれで一体何度目になるのか。ミサトは虚しくなるばかりの記憶の再確認を、イカバターをつつきながらシンジがさばの味噌煮とご飯を持ってきてくれるまで続けていた。 |
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シンジはベッドの上で物音を聞いた。 夢の世界から半ば現実に引き上げられた意識の中で耳に神経を集中させると、ビニール特有のガサガサという音や固いものがぶつかるコトコトという音がわずかに聞こえてくる気がする。 シンジはのろのろと体を起こし、次いでのろのろとまぶたを持ち上げた。まわりを見回すといつもの自分の部屋。しかし朝になったわけではないらしい。いつもなら元物置であるこの部屋にも、小鳥や蝉の鳴き声や車が行き交う音が聞こえるのだが、今は不思議なほどしんとしている。 音は半分ほど開けてある部屋の入り口を伝ってシンジの耳に届いてるようだった。暗闇の中、目の前に引き寄せた目覚まし時計の蛍光塗料は12時前を差し示している。 シンジはベッドから起き出した。 寝間着代わりのTシャツとチノパンの位置を直すと、耳をすましながら、わずかな明かりを頼りにそろそろと歩き出した。そっと廊下に出ると、台所の方からうっすらと光が漏れている。 もしかしたら泥棒かもしれない。さっきからシンジの頭の中に嫌な考えがぐるぐると回っている。ところが、心臓はいつも通りのリズムを刻んでいて緊張とは程遠い状態だ。理性では危険な状況だと認識しているのだが、なぜだかシンジの勘は『危険はまったく無い』と告げている。シンジは無理に緊張を保ちながら足音を立てないようにゆっくりゆっくりと台所へ近づいていった。 廊下の終わりに辿り着くと、シンジはダイニングの入り口から台所の方に目を向ける。 そこには、開け放した冷蔵庫の明かりに照らされ蹲っている影があった。シンジは迷うことなく手元にある照明のスイッチを手探りでオンにした。蛍光灯が一瞬躊躇した後、ダイニングを明るく照らしだす。その光は、隣に続いている台所を淡く照らすのには十分すぎるほどだった。 はたして、蹲っていた影の正体は、やはりアスカだった。 いきなりの光の襲来によほど驚いたのか、いつもの赤い髪留めを外した栗色の髪を思いっきり広げながらシンジの方へと振り返った。中腰になっているアスカの顔には表情がまったくなく、ただただ目を見開いている。薄黄色の襟付きのノースリーブにライトブルーのホットパンツという夕食の時と同じ出で立ち。そしてその足元には、ビニールやらプラスチック容器の残骸が二、三個転がっている。 秒針が半回転もした頃、ようやくアスカは自分が置かれている状況を把握したようだった。電気をつけた姿勢のままでいるシンジをしばらく見つめた後、気まずそうに下を向く。 開けっ放しの冷蔵庫の唸りがしんとした台所によく響いていた。 と、くぅ〜という可愛らしい音がそれを遮った。アスカの頬が赤く染まる。 「なによ…冷蔵庫開けちゃいけない!?」 アスカの力無い抗議を無視して、シンジは無造作に冷蔵庫に近づいていった。バツが悪そうに佇むアスカは、シンジが近づくにつれてじりじりと冷蔵庫から離れていく。シンジが冷蔵庫の前に立ったときには、アスカはさっきまで占有していた場所を放棄していた。 シンジはそれに構わず冷蔵庫の中を覗き込む。ラップしたさばの味噌煮と野菜炒め、タッパに入れておいたご飯、そして鍋ごと入れておいた味噌汁を取り出すと、それらを暖めはじめた。味噌煮と野菜炒めとご飯は順番に電子レンジに放り込み、味噌汁は火にかける。 そして、シンジが3回ほど台所とダイニングを往復したときには、テーブルの上に数時間前と寸分違わない夕食が並んでいた。 アスカはその光景を、少し離れたところからじっと見ているだけだった。 「はい、どうぞ」 アスカ専用の赤い箸をその前に揃えたところでシンジははじめて口を開いた。 アスカは少し離れた場所で佇んだまま、なにやら口ごもっている。 冷蔵庫の音だけがダイニングに響いていた。 「どうしたの?いらない?」 微かに笑いを含んだシンジの言葉に、たまりかねたようにアスカが口を開いた。 くぅ〜 声が発せられるより先に、アスカのお腹が持ち主の意識を離れて抗議の声をあげた。 シンジは思わず吹きだしてしまった。腹と口を押さえてそのまま大爆笑にもつながりかねない笑いの発作をなんとか押さえ込む。発作が峠を越えたところで顔を上げると、お腹を押さえて顔を真っ赤にしながら口をパクパクさせているアスカがいた。 「どうぞ」 笑いを噛み殺しながらシンジが椅子を引くと、アスカは何かもの言いたげな顔をしながらも今度は素直に腰をおろした。そしてアスカが箸を手にしたのを確認して、シンジは自分の部屋に向かって歩き出す。 「洗い物は水につけて置いてくれればいいから。じゃ…」 おやすみ、と言う前にアスカが口を開いた。シンジでも照れているのがわかるほどの声に思わず足が止まる。 「ちょっとぉ、こんな夜中に女の子一人残して寝るつもり?」 さっきまでこんな夜中に一人で冷蔵庫を漁っていたのはアスカなんだけどな…と思い、また笑いがこみ上げてきてしまったものの、もちろんそれは表には出さない。シンジは部屋の方を向いていたつま先を回れ右させると、ニヤけそうになる口元を手で隠すようにしながらアスカの向かいの席に腰を下ろした。 目の前には照れくさそうに、そして満足そうに微笑むアスカがいる。 「いただきます」 そう言って手を合わせ、アスカはかなり遅めの晩ごはんを口にし始めた。 |
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シンジがこのテーブルにアスカと向かい合って座るのは始めてだった。いつもはミサトの向かい側、つまりアスカの隣の席に座っている。いつの間にか決まっていた席順。今、シンジは、いつもペンペンが陣取っている場所に座っていた。 アスカは目の前にいるシンジに目もくれず料理を次々と口へ運んでいる。 照明が一つだけ灯されたダイニングには、冷蔵庫の唸りに混じってときおり食器が軽くふれあう音が響く。それ以外の音は全くといっていいほど耳に届かない。まるで、世界中の時間が停まったまま、このマンションのほんの一角だけがいつもと変わらぬ時を刻んでいる。そんな感覚さえ思い起こさせるほどに。 夜、一人っきりでいるときにはよくある感覚。ところが今は一人っきりじゃない。 シンジの視線は、知らず知らずの内にアスカへと向いていた。 軽やかに揺れる栗色の髪。つい最近までは写真や画像の中でしか見ることのできなかった、サファイヤブルーの瞳。いつもよく動く桜色の唇。無駄な肉がまったく付いていない腕。腕と同じようにすらりと伸びた長い脚。それは、日頃からにぶいにぶいと言われているシンジでも、ごくごくたまに見とれてしまうほどだ。 まさに掛け値なしの美少女。シンジでさえそう思う。 おまけに成績優秀。13歳で大学卒業。ドイツ語、英語、日本語の3ヶ国語を操ることができる。まだ漢字の読み書きは心もとないが、それもいずれ克服できるだろう。家でときどき漢字の書きとりをしている姿を見かけるほど、ああ見えて実は努力家なのだ。 運動神経も抜群で、1対4、しかも相手は全員男という状況で喧嘩しても負けないし、エヴァを操縦させればシンジには到底真似できないような動きを披露する。 才色兼備とは、まさにこういうことをいうのだろう。 ところが肝心かなめの性格の方はといえば、目を覆わんばかりというか、あきれてものも言えないというか、開いた口がふさがらないというか、とにかくシンジにしてみれば最悪なのだ。 じゃあどんな性格かと言われれば一言ではとても言い尽くせない。とりあえず、思いつくまま列挙してみる。 二重人格、凶暴、我が侭、猫かぶり …悪口だけで1ダースは楽に出てきそうな勢いだ。これだけでもシンジにとっては十分迷惑しているのだが、周りの人々は普段外面の良いアスカしか見ていないからこんなことを誰に言えるでもない。強いていえばトウジとケンスケくらいのものだが、あの二人にアスカの悪口を言ったところで事態は何も変わらないことは百も承知だ。二人に愚痴をこぼすのが関の山といったところだろう。 ちょっと興が乗ってきたところで更に続けてみる。本当に1ダース出てきたら面白いかもなどと考えながら。 自己中心的、高飛車、短気、家事しない、耳ひっぱる …なんか違う方向に進んでいる気がする。この方向について深く考えると、なんだか自分が情けなくなって泣いてしまいそうだ。 軌道修正して更に悪口を考え続ける。 足踏む、蹴る、つねる、首しめる ……軌道修正失敗。いかにアスカに虐げられ振り回されているか図らずも自覚してしまった。シンジは静かに目を閉じ、心の中で、る〜っと涙を流す。 いったいなんの因果でこんな目に… ひとしきり心の涙を流した後で気を取り直すようにぐいっとその涙を拭うと、今度は明るく軽いミサトの声が胸によみがえってきた。 『あなたと2人で過ごした5日間がよほど楽しかったんじゃないの?』 アスカがこの家に来た日のミサトの言葉。 この言葉がシンジの心の支えになっているといっても過言ではない。半信半疑だったがこの言葉があったからこそ、この奇妙な同居生活もなんとかやっていけると思ったのだ。 ところが実際は、何が楽しかったかというとシンジをいじめるのが楽しかったんです、と言わんばかりの虐待ぶりを示されて、それ以降何かというといつもアスカに従わされている。 尻に敷かれている、とこの前ケンスケに言われたときには一瞬殺意さえ覚えたが、それに反論すらできなかった自分の方がよっぽど恨めしい。 それでも、まぁ、何とかやっていけてるんだけどね… それはアスカの弱さを知っているからかもしれない。 シンジの脳裏にある単語が浮かんでくる。 マザコン 2つに分かれた使徒と戦うため、特訓し、強制的に同じ部屋に寝泊りさせられた5日間。ふと目が覚めた夜中、隣のベッドから聞こえたアスカの声は普段からは考えられないほど弱々しかった。 ママ…どうして死んじゃったの…? 今、目の前にいる女の子の口から出たとは思えない言葉。 その言葉を、声を、思い出すたび、シンジの胸は理由もなく締めつけられる。 …アスカは、本当はごく普通の女の子なんじゃないか。 あのとき感じた想い。それが今も心のどこかに引っかかっている。まるで指先に刺さった小さなトゲのように、ほとんど見えないのに時々思い出したように痛みだすのだ。 今までこんなことを考えたことはなかった。 一人でいるときはこんなことを考える必要はなかった。 他人の心の内を考えるなんて無意味なことだとそう思っていた。 そして実は、シンジはさっき自分がとった行動に戸惑いを感じていた。いつもの自分であれば冷蔵庫を漁っているアスカを見たところで、明日のおかずを食べられなきゃいいな、と思うだけで決して干渉したりはしなかっただろう。ましてやアスカのためだけに食事を用意して、そして何もせずにアスカの食事につきあっている自分の姿なんてまるっきり想像の範疇外だ。 食べ続けるアスカの姿をぼーっと見ながら考える。 きっと音のない真夜中なのがいけないのだろう、シンジはそんなことを考えた。深夜のダイニングは静寂に囲まれ、声を出せば大きく自分の耳に届く。 だから、少し声が小さくなる。だから、心が落ち着く。だから、ちょっとだけ優しくなれる。 そう考えるようにした。 我ながらキザなことを考えてしまった。熱くなった頬をごまかすようにほんのわずかに苦笑を浮かべる。でも、まあ、考えるならタダだ。アスカに向かってこんなこと言ったりしたら思いっきり馬鹿にされるだろうから絶対口に出したりはしないが。 「ねえ」 アスカの声で、はっと我にかえった。 「人が食べてるとこ、あんまりジロジロ見ないでくれる」 アスカが上目遣いでこちらを睨んでいた。シンジは慌てて目をそらす。 「う、うん」 とっさに口にした言葉はこれっぽっちも気が利いていなかった。自分でももうちょっとなんとかならないかとも思うのだが、意に反して心臓が激しく動き回り冷静に頭を働かせることができない。とりあえず今のシンジにできることはそっぽを向いて、アスカの視線がお茶碗に戻るのを待つことだけだ。 食器が奏でる軽やかな音は止んだまま。 今やシンジの意識はすべて、アスカからの視線に注ぎ込まれていた。視界の端にはアスカがさっきと同じ姿勢で、じっとこちらを見ている。 さっきまで気にならなかった、キッチンタイマーが刻む1秒1秒が耳にわんわんと響いてくる。 シンジは戸惑っていた。 アスカは、基本的に自分に対しては思っていることをすぐに口に出してくる。うわべを取り繕う必要のない二人っきりの時なら尚更だ。 ところが、アスカは黙ったまま。 だからシンジは戸惑っていた。 こんな時は、自分の方から話しかければいいのかもしれない。でも、なにを話せばいいかさっぱりわからない。どんな話題を出してもぎこちない会話しかできなくて、結局「あんた、なにいってんの!?」なんて罵倒される気がする。 綾波と二人っきりの時みたいだ。 まだ落ち着かない心臓と格闘しながら、シンジは頭の隅でそんなことを考えていた。 数え切れないくらい秒針が時を刻んだころ、アスカが小さくため息をついた。シンジは思わず全身をビクつかせて思わずアスカの方へ顔を向ける。アスカはそんなシンジの様子を気にもとめず、とても重たそうに口を開いた。 「ねえ、シンジ。…ミサト、なんか言ってた?」 「え…?」 シンジは質問の意味が分からず、わずかに目を伏せているアスカの顔をまじまじと見つめる。が、次の瞬間には、翻った栗色の髪が鮮やかに脳裏によみがえった。 「うん、えっと…ミサトさん、アスカに謝っといて、って」 「…ふうん」 「それから、今回僕だけが行くことになったのは、リツコさんが勝手に決めちゃったからだって。そう言ってた」 「…そう」 「そう、って…そんなあっさり……」 さっきの喧嘩の原因がわかったというのに、アスカの返事は意外なほど淡泊で、なにかしら大げさな反応があると思っていたシンジは拍子抜けしてしまった。アスカは探し物でもするようにさばの味噌煮を箸でつっついている。そして俯きながらポツリと独り言ちた。 「別に気にしてないわ。さっきはちょっとイライラしてただけだから。…ホントは怒るほどのことでもないんだし」 命令だからね。最後にアスカはそう呟いた。 シンジはとっさに返す言葉が見つからず、またアスカの口が開くのを待つ。ほどなくして、いつもより小さめなアスカの声がテーブルから跳ね返ってきた。 「えっと、さ。シンジ、松代に行くんだよね?」 「うん、3日間。明日から」 「そっか…」 めずらしく歯切れの悪いアスカの声に、仕草に、シンジの胸はわけもなくかき乱される。 いつもの調子で来てもらわないとこっちの調子もおかしくなるんだよな。そんな風に考えてはみるものの、この胸のモヤモヤはそれが原因じゃないことも自分でわかる。わかるが、それが一体何なのかはわからない。 口を開けば、いまこの瞬間を支配している空気があっという間に霧散してしまい、二人の間にある「何か」が壊れてしまう。そんな錯覚さえおぼえさせるような雰囲気がダイニング全体を取り囲んでいる。 冷蔵庫の唸りが止まった。 時計の音がさっきより大きく響く。 それにリズムを合わせるように響く、箸と皿がぶつかるコツコツという音はずいぶんと弱々しい。 ふと、味噌煮を突ついていた赤い箸が止まった。次の瞬間にはアスカは勢いよく顔を上げ、その勢いのままシンジに向かって満面の笑みを浮かべた。 「じゃあさっ!おみやげ買ってきてよ!おみやげ!」 停滞した空気を振り払うようなアスカの明るい声が、よく動く桜色の唇から放たれた。 「え?お、お土産?」 唐突に、いつものアスカのペースに巻き込まれたシンジはいつものように狼狽えた。その顔を見たアスカの笑顔は悪戯っ子のそれへと変わっていく。 「そうよ、お・み・や・げ。」 「…う、うん、いいけど…松代のでいいの?」 確かに、ミサトが何度か松代に出張に行ったときには必ずお土産を買って帰ってきている。ただ、それが全部、酒または酒の肴だったので松代のお土産というとシンジはどことなく不安を覚えてしまう。それにシンジ自身、そういったものを買うときのセンスがいまいちだということも自覚している。 「あったりまえじゃない!松代以外のどこで買うってゆーのよ」 「そ、そっか…じゃあ、何がいい?」 「あっきれた、女の子へのおみやげくらい自分で決められないのぉ?」 アスカの顔にはいつもの勝ち気な笑顔が戻っている。それを見たシンジはほっと胸をなで下ろした。ダイニングに満ちていた奇妙な雰囲気もどこかへ消え去り、二人の間にいつも親しんでいる空気が戻ったようだ。シンジは安堵のため息をつくかわりに、意識的に引きつった皮肉っぽい笑みを浮かべて反撃を開始した。 「どうせ変なもの買ってきたら『いらない』とか言い出すんだから決めといてよ」 「なによそれ、まるであたしがワガママ女みたいじゃないのよっ」 「だってそうじゃないか。昨日もせっかくアイス買ってきたのに『スイカバーじゃなきゃイヤ!』って言って」 「だったら変なものなんて買ってこなきゃいーじゃん」 「またそうやって人のせいにする!だから我が侭だっていうんだよ」 「あんたこそ人のせいにしてんじゃないわよ」 「まったく…ちょっと聞いただけでこれだもんな」 ほとんど口喧嘩に近いやりとりの中、二人の口調は自然と優しく柔らかくなっていく。 「あっ…そういえば、あたしの明日の晩ご飯ってもしかして、なし?」 「自分で作ればいいじゃん。冷蔵庫の中のもの好きに使っていいからさ」 「え〜〜、めんどくさ〜い」 「面倒くさいって、自分が食べるんだから自分で作るのが当たり前だろ」 「ヤダ。お金ちょうだいよ、お金。なんか適当に買ってきて食べるから」 「ダメだよ。今月は家計苦しいし給料日前だし…あるもので適当に済ませてよ」 「イ・ヤっ。なんであたしが、わざわざそんなことしなくちゃいけないのよ。お金くれないんだったら、あんた、なんか作っててよ」 「なんでそうなるんだよ。第一、そんなの作ってる時間……あるか…」 シンジは明日のスケジュールを思い出した。確か朝はゆっくりでいいはずだ。温めるだけで食べられる献立も2つ、3つ、すぐに頭に思い浮かぶ。 「じゃ、決まりね」 「……」 畳みかけるようなアスカの言葉にシンジは効果的な反撃を思いつかず沈黙した。黙りこくったシンジに追い打ちをかけるようにアスカの顔にニヤッと意地悪い笑みが浮かぶ。その笑みにシンジはあえなく白旗を上げた。最後の抵抗よろしく苦笑を浮かべわざとらしく小さくため息をつく。 「わかったよ。カレーとかでよければ」 「ん、よきにはからえ」 アスカは満足そうにうなずくと、止まっていた箸を再び動かしはじめた。 会話が途切れると再びダイニングに静けさが訪れた。冷蔵庫の唸りもキッチンタイマーの音もそのままだというのに、シンジにとっては耳が痛いほどの静寂。 それと同時に、シンジは座り心地の悪さを感じていた。背中や尻のあたりがむずむずするような奇妙な感覚。だが、それは決して気分の悪いものではない。 シンジはちらっとアスカを盗み見ると、そこにはどこか嬉しそうなアスカの瞳があった。 「ごちそうさま」 シンジの耳にようやく届くほどの小さい声でそう言うと、アスカは静かに箸を置いた。空っぽになった食器を手早く重ねると、すっと立ちあがり、それを台所の流しへと運んでいく。 シンジはその後ろ姿に思わず目を奪われた。アスカの滑らかな動作がスローモーションになって焼き付いていく。椅子を引いて立ち上がり、背中を向けて歩き出し、食器を丁寧に置き、こっちに戻ってくる… シンジは慌ててあさっての方を向いた。 「お風呂入ってから寝るわ」 「あ、うん。それじゃ、お風呂暖めるよ」 目を逸らしながらシンジは答えた。赤くなった頬をアスカに気付かれないよう祈りながら。 「いいわよ、自分でやるから。かわりに洗い物お願い」 そんなシンジの内心の動揺をよそに、アスカは軽く笑いながらそう言って自分の部屋へと歩いていく。きっと着替えを取りにいくのだろう。 「う、うん…」 シンジは、気の抜けた声でなんとか返事をした。その目は再びアスカの後ろ姿に釘付けになっていた。 |
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シンジは一人、台所に立っていた。 手元の小さな蛍光灯の明かりを頼りに、手にした包丁で黙々と野菜を刻んでいる。トントンと自分が刻むリズムの良い音に混じって、洗面台の方からドライヤーの耳障りな音が聞こえてくる。 シンジはさっきまで、背後から聞こえてくるシャワーの水音をかき消そうとするようにいつもより大ざっぱに食器を洗っていた。一人分の洗い物がすぐに乾燥器の中に収まってしまうと、今度は野菜を取り出してざぶざぶと洗い出した。 そしてそのままなんとなく野菜の皮を剥きはじめた。精神を集中するよう努めながら、ゆっくりと、丁寧に、時間をかけて。 そして今、シンジは黙々と野菜を刻みつづけている。玉葱、人参、じゃがいも。刻み終わった野菜は薄い塩水につけた後、タッパに入れて冷蔵庫へ。剥いた皮は生ゴミ用のゴミ箱へ。 これが終われば明日の下ごしらえは完了だ。 「あら、まだ起きてたの?」 ドライヤーの音はいつの間にか消え、かわりにシンジの背中にアスカの声が当たった。心臓の鼓動が一気に跳ね上がる。シンジは振り返りもせずにさっきから用意していた答えをアスカに返した。 「あ、うん。明日の下ごしらえしてたから」 「もしかしてカレーの?」 「うん、そう」 「あ、…そう、なんだ」 どこか沈んだような声に包丁を持ったまま振り返ると、台所の入り口にパジャマに身を包んだアスカが佇んでいた。片手を柱に添え、少し寄りかかるような格好でこっちを見ている。 「なに?」 シンジは、何か言いたげな雰囲気を察してアスカに水を向けた。 薄明かりに照らされたアスカの顔は、びっくりするくらい肌の白さが際立っている。だが、その端正な顔にどんな表情が浮かんでいるかまでは分からなかった。 「ううん、なんでもない。それじゃ寝るね。おやすみ」 早口にそう言い、ゆっくりとシンジに背中を向け自分の部屋へと歩いていく。 「うん、おやすみ」 アスカの背中に届くか届かないかくらいの声で言葉を返す。でもシンジはそれで十分だと思った。 暗闇に溶け込んでいく後ろ姿を見送るとシンジは下ごしらえの続きをはじめた。しばらく無心で野菜を刻んでいると、胸の動悸がようやく静まってくる。 少し落ち着いたところで意識を周囲に向ける。そこには自分以外の人の気配が無くなっていることに気が付いた。一人っきり。シンジの胸に寒風が通った。シンジはその言葉に、わずかに恐怖を抱くようになっていた。 近頃、考えごとをしてしまうことが多くなった。 白い巨人のこと、父さんのこと、母さんのこと、トウジのこと…ふとしたはずみに暗いことばかり考えてしまう。いくら考えても答えは出そうにないのに、それでも考えずにはいられない。考えれば考えるほど、求めようとすればするほど、答えはどんどんと手の届かないところへ離れていってしまう気がする。 いつか答えが見つかるかも知れない。が、答えが見つかったときには自分という存在が――碇シンジという存在が――何か別の物に変わってしまうのではないか、そんな恐ろしさが心の奥の暗いところで細々と脈打っていて、それがシンジの足を地面に縫いつけているのだ。 一人きりのときほど思考の深みにはまってしまう。だからなのだ。一人になるのを恐れるようになったのは。 ところがアスカと言葉を交わしていると、いろいろな暗い考えは遙か彼方へ追いやられてしまう。アスカのペースに巻き込まれるのは、はっきりいって、かなり疲れるのでなるべくなら避けたいのだが、それでもアスカと会話すること自体をイヤだと思ったことはあまりない。逆に元気を分けてもらっているように感じることもあるくらいだ。 彼女は僕の元気のもと。 歌にでも出てきそうなクサイ言葉が頭に浮かび、いったんは静まりかけた心臓が胸から飛び出すんじゃないかと思うくらい激しく動き出した。慌てて何度も頭を振る。 落ち着け、落ち着け。冷静に、冷静に。 目を閉じて、自分の心臓を停めようとするように手で胸を思いっきり押さえつける。だが、頭に思い浮かぶのは、さっきアスカと交わした会話。どこか既視感を感じさせる雰囲気。 薄暗くて。 二人きりで。 正面から向き合って。 「あ、あのとき…」 思わず口に出してしまい赤面する。 シンジの脳裏に浮かんだのは懐中電灯の明かりしかないネルフの通路。 それはアスカと一番近づいた時。触れ合いそうになるほど近くに。 唇が シンジは思わず手で口元を押さえた。 未遂で良かった。 でもやっぱり、もったいなかった。 今はその想いのほうが強いかもしれない。 「今日は僕、どうかしてるよな」 そう口にすることでなんとか平静を保とうとするが、それでも胸の動悸はおさまらない。シンジはそれを無視しようと刻み終わった野菜をやや乱雑に冷蔵庫に放り込み、重めの扉を思いっきり閉める。バタン、という大きな音が部屋中に響きわたり、一瞬シンジは身をすくめたが、次の瞬間には胸に虚しさを伴った疲労感が訪れてきた。 「ホント、どうかしてるよな」 シンジは胸に手を当て、自分に言い聞かせるようにつぶやいた後、ゆっくりと頭を二度、横に振った。 それでも心臓はいつもより早いリズムで全身に血液を送り出していた。 |