視界を銅色に染める夕日に、涙が出そうになるのは、これからやってくる夜が、自分に優しくないことを知っていたからだった。

 

早く沈んじゃえ。消えろ。いなくなっちゃえ……。

 

ユニフォームを土まみれにした少年は奥歯をかみ締める。男は、かすり傷ひとつない自分の息子の頭を愛おしそうに撫でている。

 

「試合中に掴み掛かるなんて。君たち親子は、“正々堂々”っていう言葉を知らないのかな」

 

「私はそれでも信じて“あげた”んですがね、どうにもこうにも……」グラウンドでの保護者であるはずの監督は平身低頭し続ける。

 

シンジは知っていた。試合前、この父親が息子に「あんなガキ、潰したって構わないんだぞ」と吹き込んでいたこと。そして、「お父さんがクビになった仇を取ってくれよ」と哀願していたことを。

 

地面の土をつかんで投げつけると、小走りにグラウンドを飛び出した。加速がついたようにどんどん走りぬけ、やっと止まったのは橋の上だった。シンジは手摺にもたれて、ポケットから携帯電話を出した。ほんの数分前に、メールが届いていた。

 

“忙しい”

 

顔を上げ、遠くに見える丸い夕日を睨みつけた。そして、帽子を投げつける。その次はグローブ……、その次はユニフォームの上着……、どれもこれもが、川面に吸い込まれていく。

 

最後に、ボールが残った。古ぼけて、薄汚れたボール。漏れ聞きした、「球遊びなど、見に行く暇はない」と使用人に伝える言葉が耳に木霊した。そうじゃない、そんなんじゃないと、言いたかったが、それを伝える術も、勇気も、自分にはなかったし、それに納得する自分がいたことも知っていた。

 

ただの孤独な少年が、正体を現した。

 

これで終わりにしよう。何もかも……。そう意を決して振りかぶった時だった。背後から突然、腕が引っ張られたのだった。

 

振り返ると、黄色のダッフルコートを着た女の子が腕を掴んで立っていた。

 

「何だよ。離せよ」

 

首を振る彼女を、シンジは振り払おうとした。しかし、彼女は頑なに手を掴んで離さない。

 

「何なんだよ、一体」

 

必死の形相で、なおも思いとどまらせようとする少女に彼はカッとなった。

 

「離せって言ってるだろ! 邪魔なんだよ!」

 

怒りに任せて、シンジは彼女を突き飛ばした。そして、ボールを夕日に向かって投げつける。

 

小さな水柱を立ててボールが川に沈み、やがて流れていく。

 

「ざまあみろ」

 

シンジは捨て鉢に言って、歪んだ笑顔を浮かべる。だが、彼女は立ち上がると、手摺を乗り越えて、川に飛び込んだ。

 

「え?」

 

手摺から身を乗り出すと、大きな波紋が広がっている。シンジはあわてて川に飛び込んだ。

 

後を追い、必死に泳いで――もがいて――土手までたどり着く。ずぶ濡れで水を吐く彼に、同じくずぶ濡れの彼女はボールを差し出した。

 

「君、バカだろ……」彼は呆れた。そして、顔をそらした「……バカすぎるよ……」

 

声を殺して涙を堪える彼に、少女はそっと手を伸ばして、涙を拭った。か細い両の手が、彼の顔を包む。そして、

 

「……あなたの涙は、私が拭いてあげる」

 

突然のことに、シンジは言葉が出てこない。ただ、呆気にとられるだけだった。少女はそのまま、くるりと背を向けて行ってしまう。冷え切ったシンジの頬には、まだ、少女のぬくもりが残っている。

 

夕暮れの後の空は、青と紫が水に溶かしたように拡がり、三日月がうっすらと細い光を放っていた。

 

 

 

 

 

夜。シンジはとぼとぼと家の前を歩いていた。どこかからピアノのメロディが聞こえてくる。

 

結局、帰るしかないのか……。気がなさそうに玄関を開けると、音色がいっそう大きくなった。廊下の花瓶にはヒマワリの花がいっぱいに活けられている。

 

「…………?」

 

こぼれ落ちていた花を一輪拾い上げた。居間をのぞき、演奏に聴き入っている父親に気兼ねしてドアを閉めようとした。

 

「“ただいま”も言えないのか」

 

「……ただいま」

 

短くそう言い、自分の部屋に行こうとしたとき、ちょうど、演奏が終わった。死角になっていた演奏席で、少女が立ち上がってぺこりと頭を下げる。

 

「……どうも」

 

無愛想に応えたとき、シンジはハッとなった。橋の上で会った、ダッフルコートの少女だった。少し離れた位置で、ふたりはしばらく見つめ合った。

 

「シンジ。遠戚の子を引き取ることになった。紹介する」少女の肩に手を添えてゲンドウが言う。

 

ヒマワリを手に、シンジはその場に立ち尽くす。胸がかすかにうずいた。怒りでも悲しみでもない初めてのその感覚に、彼は戸惑っていた。

 

その時、ボクは恋を知った……。

 

その恋は、竜巻のようにボクを襲い、ボクを巻き込み、どこまでもボクを連れて行った……。

 

どうしたって、あらがいようのない恋だった……。

 

綾波。ボクは君を、ちゃんと愛せていた……?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

In This Country

6イチブトゼンブ・遂に始動!これが私の愛し方

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シーズンは臨時の休みに入った。タイで開催される、アジアパシフィック・カップに合わせるためである。

 

マイナーな国での大会、それも主体は学生・社会人とあって、世間の注目はいまひとつで、海外選手の召集もない。

 

それでも、国際試合であることに変わりはなく、いくつかのチームはオーバーエイジ枠として選手を推薦したり、将来性のある選手を見定めようとスカウトを派遣するなど、関係者の間ではそれなりの注目を集めていた。

 

「誰だ。風呂にヘンなもの入れやがったのは?」

 

クラブハウス内の浴場で加持は愚痴った。浴槽に張られたお湯は綺麗なピンク色で、甘い香りを漂わせている。

 

「“ストロベリー・バス”……。何が哀しくて、男ふたりでピンクの湯に入んなきゃなんねーんだ」

 

入浴剤の缶に首を振りながら、加持はシンジと共にその身を沈める。

 

「朝、久しぶりに体重計乗ったら、体脂肪がフタけたになっててな。いくら残りわずかでも、自分の体捨てるのはさすがにマズいだろ」加持はゆっくりと四股を伸ばして言う。トレーニングの後だが、今日は膝も具合がいい。

 

片膝を立てたまま、シンジはゆらゆらと光る水面を見つめている。前髪を伝った雫が湯船に落ちて、小さな水音を立てた。

 

「珍しいな。自分から走るなんて」

 

「…………」

 

「“あぁ、純粋無垢なロッテの魂は感じてはくれないのだ。そういう些細な親しみのしぐさが、どんなに僕を苦しめるか”」

 

「……何です、それ?」

 

「少しでも真剣になりたい相手がいるなら、それなりに悩めってことさ。でなきゃ失礼だ」

 

シンジはうつむいたまま。浴室に小さな溜め息がこだまする。加持は湯を顔に浴びせると、ゆっくりと言葉を継いだ。

 

「鳥が進化の過程で翼を持つことを選び、アリクイがアリを食うことを選んだように、人は悩むことを選んだ。悩み、考えることで進化した哀れな生物、それが人間だ。100満ち足りてるヤツなんてひとりもいない。“チョー幸せ”とか言ってる花嫁ですら、自分のカメラ映りに悩んでる。生き続ける限り、俺たちがこの呪縛から解放されることはない」

 

「じゃあ、どうすればいいんですか?」

 

「さぁな。わかったら、俺にも教えてくれ」手拭いを肩に引っ掛けると、シンジを促して立ち上がった。

 

 

 

 

 

一方、街を歩くアスカも別の問題に直面していた。

 

<結局、ヒマなんでしょ? だったら誰か紹介してよ>

 

電話相手は、小さな広告代理店に勤める――とても遠い――知り合い。何でも、企画のデザインは決まったのに肝心のモデルが調達できないらしく、スタッフ総出で手を尽くしているらしい。

 

「イヤ。アタシは、二度とバイトはしないって決めてるの。余所をあたって」

 

決まっていたはずのバンコク行き。それを“新人にはムリ”の一言でミサトに取られ、アスカはすっかりふて腐れていた。このままでは、折角の復活行程表に狂いが生じてしまう。

 

「無名でいいなら、大学のキャンパスでも探せばいっぱいいるでしょ」

 

<わーってないなぁ。そういういかにも“今どき”ってのじゃ当たらないの。ステレオタイプ過ぎて。貫井のオッサンが言うには、骨董のガラクタ市とかで見つけた掘り出し物みたいな感じで、見た人の一番ピュアな部分に語りかけてくる、それこそハリウッドのモノクロ映画みたいなさ……」

 

難しいことを簡単に要求するので、アスカはだんだんゲンナリしてきた。

 

「だったらタイムマシンにでも乗って、連れに行きなさいよ。そんな女がどこにいると……」

 

すると、綾波レイが乗った真っ白な自転車がスイーッと入ってきた。目の前はオーケストラの入ったビル。アスカには気づいていない。少し離れたところに自転車を止めるが、背中のフルートケースが引っかかり、反対側の自転車がバタバタとドミノ倒しになってしまう。

 

<わかった。もし気が変わったら連絡ちょうだい。よければ採用するし、報酬もそれ次第ってことで>

 

綾波は、倒した自転車を起こしているが、今度はさっきの逆で自分のが倒れてしまう。そして、またその逆……。

 

「まぁ……。別に、いないこともないとは思うけど……」

 

 

 

 

 

加持はシンジを連れて墓地を訪れた。小さな丘にあるそこは、とても空気がきれいで、誰もが長い眠りにつけそうな芝生が広がっていた。整然と生い茂った桜の葉が木陰を作り、そよ風が気持ちいい。

 

「君の母親も、ここにいるらしいな」

 

シンジは口をつぐむ。

 

少し歩いた。ひとつのプレートの前まで来ると、加持はしゃがみこんで花と線香を供え、両手を合わせる。シンジは、それをぼんやりと見つめている。『……Katsuragi』。煤けて光沢のない御影石が、来参者の久しくないことを教えてくれる。

 

長い合掌を終えると、加持はゆっくりと立ち上がった。

 

それを待っていたように、シンジは訊いた。

 

「……ミサトさんの?」

 

「聞いてはいたのか?」

 

シンジはうなずく「……昔」

 

「俺の“親父”でもある。せっかくだから、一度は会わせておこうと思ってな」

 

「どうしてですか?」

 

「夢だからだよ。君が葛城の、たったひとつの。俺は逃げて裏切るしか出来なかった」

 

墓に供えられたタバコの箱は、銀紙が破られ、1本だけフィルターが外に出ていた。その脇には使い捨てライター。遠い世界にいてもタバコを吸えるようにというせめてもの心遣いだった。

 

「……“代わり”なら、他を探した方がいいですよ」

 

加持はうなずいた。決して、“すまない”とは言わなかった。

 

「例の大会。準備はしておいてくれ。ことと次第では、頼むかもしれない」

 

線香の煙が、ふたりの隙間を縫うようにして流れていった。

 

 

 

 

 

次の日の夕方。鈴原家で泊り込みでのテレビ観戦会のため、シンジとアスカはスーパーに寄った。お酒や食材をカートに積んで押していく。

 

「豚バラに鶏モモ……、ソーセージは特売品でいいんじゃない」

 

「いいよ。そんなに細かくなくて」

 

「後からお金集めるんでしょ。テキトーに買ってどうすんのよ」

 

「足りないなら出すよ」と言ったシンジの頭をアスカは引っぱたいた。

 

「それで済むのはアンタんちだけなの」

 

「面倒くさいなぁ」

 

シンジはひとりカートを押していくので、アスカは頭にきた。「大体、せっかくの推薦、なんで辞退しちゃうのよ。海外にアピールする絶好のチャンスなのに」

 

「いいよ。別に」と、シンジはつぶやくように言う。

 

「売り込む度胸もない。上昇志向のない男ってやーねー」

 

シンジは無視して携帯を確認する。指定されたものは全部入れたはず。あとは買うだけだ。

 

「僕、ちょっと来てくれるかな」

 

ふと、後ろから大きな声がした。

 

客を装った店員に男の子が捕まっている。ポケットから出された手にはチョコの箱。暴れて逃げ出した少年は、シンジに当たった勢いでオレンジが積まれた台にぶつかった。オレンジがゴロゴロと売り場に転がる。

 

騒然とした中で、逃げ場のなくなった男の子はシンジの足にシッカリとしがみついている。店員や買い物客の責めるような視線が、シンジに突き刺さった。

 

連れて行かれた鮮魚売り場の奥にある事務室では、店長のバッジをつけた中年の男が座っている。横には、店内の様子をモニターがモノクロで音もなく映しだしていた。

 

「どうして万引きなんかさせるんですか?」

 

「あの……何でボクが?」

 

少年はうつむいて黙ったまま、シンジに寄り添っている。何とか言ってよ、助けてよとシンジはアスカに振るが、彼女は白い目をするだけでまるで助ける気がない。それどころか、

 

「やっぱり、面影……あるわね」

 

「は?」

 

「目元とか、似てるし。ちゃんと養育費……っていうより、そもそも認知してるの?」

 

「奥さんも、そうやって他人事みたいにしてないで。仮にも母親でしょ?」

 

「はぁぁぁぁぁぁぁっ!?」

 

とりあえず警察に電話しますと男は受話器を上げ、プッシュボタンを押していく。何でこんなことに……。慌てたふたりの前で、入ってきたヒカリがガチャンと受話器を下ろした。

 

「すみません。私、この子知ってるんです」

 

驚いて見上げる店長に、リクルートスーツ姿のヒカリはすみませんと何度も頭を下げながらも、受話器から手を離さない。

 

そして数分後、“親子3”は釈放された。一方的に疑われたことに納得がいかないシンジとアスカを無視して、

 

「お父さんお母さんには知られたくないだろうから、お姉ちゃん、今日は内緒にしてあげる。でも、人のモノ盗ったらいけないんだよ。もう大きいんだから、君もわかるよね?」

 

ヒカリは嫌がるシンジの足にまだしがみついている男の子に諭す。

 

「だから、約束してくれる? もうしないって」

 

しゃがみこんで小指を差し出す。男の子はじっとヒカリを見ていたが、やがて、短く言った。

 

「チョコ返して」

 

「え?」

 

「僕のチョコ返せよぉぉぉっ!!」

 

手負いの犬か猫のようにつかみかかられ、ヒカリは尻餅をつく。唖然とするふたりが止めに入るよりも早く、男の子はそのまま走り去った。

 

 

 

 

 

ナマステー。悪徳の館へようこそー♪」

 

玄関をくぐると、エスニックな服装をまとった女の子が出てきて、缶ビールをふたりに渡した。台所の方からはなんとも得体の知れない、不思議な匂いが漂ってくる。

 

「何、この衣装とセッティング?」とアスカ。

 

「せっかくのお客さん、喜ばせたいでしょ……って、あれ? お姉ちゃんて、ひょっとしてシンジさんに初対面でドロップキックしちゃったスゴい人?」

 

ケラケラ笑う女の子は、シンジが差し出した食材を受け取るなり、また厨房へと戻っていく。

 

「……何、喋ってるのよ。っていうか、あれ、誰?」

 

「ナツミちゃん。鈴原の妹よ」

 

そっけなく言うと、ヒカリはさっさと上がっていく。この前からの今日なので、どうにも気まずい感じが漂っている。居間にあがると、今度は庭先から別の火種が上がった。

 

「バーベキューやろが。なんで腐った豆が出てくんねん?」トウジは苦言した。

 

「納豆でしょ。ベーコンと一緒に焼いたら美味しいんだよ」ナツミは悪びれない。

 

「おい。イモがサツマイモになってるぞ。ジャガイモじゃねーのかよ」ケンスケは眉をひそめた。

 

「この前キャンプでやったら結構いけたよ。甘くなって」

 

会話を聞くうち、みんなだんだん心配になってきた。明らかに、闇料理の感じがする。

 

「お前の料理はいつもそうや。この間かて、なんでカレー作れ言うたら黄色やのうて緑のアホみたいに辛いカレーが出てくんねん」

 

「だって日本食なんて作れないもの。って言うか、いつも飲みたがってるだけど、お味噌汁とか何なのアレ? お湯に味噌入れても駄目なの?」

 

「アレはトラウマだったなぁ……」とケンスケ。

 

「ここはニッポン、ワシらニッポンジンや。出汁がロクにとれんなんぞ最低の女やろ」

 

「ちょっと、それは言い過ぎよ。ナツミちゃんに謝って」とヒカリ。

 

「そーよ。そんなにいうならお姉ちゃんに作ってもらえばいいじゃない。私にばっかり言わないでよ。リンボーダンスうまい人が阿波踊り踊れなきゃいけないなんて話、世界のどこ行ったって聞かないでしょ」

 

「確かになぁ……」とケンスケ。

 

「アホか。何あっちにこっちに納得してんねん。大体オマエは月1万しか生活費入れとらん身分やろが」

 

「あ〜、それを言っちゃあおしまいだよ」

 

「ひどいわよねぇ。せっかく朝からがんばって準備したのに」と妹はシンジに甘える。

 

「……夕方、話聞くまで寝てたわよね?」ヒカリがそっち耳打ちすると、ケンスケは庭にテレビを運びながら「……おやつにニクマン食ってな」面倒くさそうに言った。

 

「薄汚い家だけど、地獄の一歩手前までは綺麗にしたんだよ」

 

「……“地獄の手前”まで言われるワシんちって一体なんや?」トウジが尋ねる。ケンスケは「知らねーよ」と、ケーブルをいじる。

 

アスカは首をかしげた。「だいぶ……イメージと違うんだけど」

 

「あのね、ウチのお父さんとお母さんのいいところの上澄み液、全部かき集めて出来たのが私なの。で、残りの沈殿物で作ったのがアニキ」

 

アスカがすぐに納得したので、ヒカリとトウジは睨んだ。

 

「だから聞いてよ、ずっと前からのお願い。一回だけデートしてって話」

 

ナツミはシンジの腕に自分の腕を絡ませる。すると、今度はケンスケとヒカリとトウジが「それはダメだ(ダメよ、アカン)!」と声を上げた。

 

「何でよ?」

 

「考えてみて」とヒカリ。

 

ケンスケが低い声で「デート。突然の雨。休憩。“ホテルくちびる”。妊娠。十月十日。“そんなの知らないよ”……」とつぶやく。

 

「なんでワシがお前と妹の子ども育てなあかんねん?」トウジはもう泣きそうになっている。

 

「話が飛びすぎてわからないよ」

 

「いいじゃない。気心知れてて。親戚付き合い楽しそうでしょ?」

 

「どこが“楽しそう”や。“苦しそう”の間違いやろが」渋い顔をするナツミではなく、ドリンク片手に立ってるシンジの胸ぐらをつかんで念を押した。「お前が弟とか絶対カンベンやぞ。えぇか?」

 

「だから、何でボクに言うんだよ?」

 

「コイツは頭のネジ4本ぐらい抜けとるんや。オマエに言うた方が早いやろ」

 

「ボクだって選ぶよ」

 

「そういう問題ちゃうやろっ、ボケェッ!」

 

「うるさいなぁ、何遍も」

 

「ワシはな、オマエとオマエのお勤め相手と、オマエのお勤め相手のダンナや彼氏と妹が修羅場やって刃傷沙汰になって、ここが血の海になって三面記事に載るのがイヤなんじゃ!」

 

人のこと言えないだろ……。トウジとヒカリ以外はみんなそう思った。しかし、シンジは缶ビールを開けると「半永久にありません」と右手を挙げた。

 

「私って一体……」たかがデートでそこまで……。遠くの空でお寺の鐘がゴーンと鳴る。けなされっぱなしの妹の頭を、アスカはポンポンと撫でてあげた。

 

「まぁ……永久にとは言ってないわよ」

 

「すんごくありがとう。ま、いんだけどさ。年下興味ないってずっと言ってるし」

 

「賑やかだね。この村には恋がいっぱいで」

 

その声に、全員が振り返った。

 

「はい。お土産」シンジにオレンジがいっぱいの袋を渡すと、カヲルはジェームズ・ボンドのようにカッコをつけながら、両手を広げて言った。

 

「はじめまして、村長さん」

 

 

 

 

 

バンコク名物の渋滞にはまったタクシーは、息をするのもつらいような熱気から一転して、とてつもなく冷房が効いている。現地が長い人間に聞くと、冷房こそがタイでは最大の歓待なのだという。

 

ミサトはカーディガンを羽織って、シートに身を預ける「全然、進みやしないじゃない……」

 

「オンボロバスで、一日1,000km走るのに比べれば、なんだって天国だよ

 

「なら、また地球の裏側まで戻れば?」

 

嫌味に加持は応えない。「フィリピン相手に引き分けとはな……」とだけこぼす。だが、ミサトの苛立ちは別のところにあるようだ。加持は「コイツか?」と支局宛てに届いた記事のコピーを見せた。

 

『“理事会。来年度から「サラリーキャップ制」導入へ”』

 

通信社からきたものだ。

 

『解説:この制度は、チームごとの総年俸額を一定の範囲に制限することで、経営努力の向上と一部チームへの極端な戦力集中を防止するために設けられるものである。米国では、4大スポーツのうちMLB以外のすべてに同様の制度が存在する』

 

「リッちゃんだろうな」こんな案を実際に押し通せるのはひとりしかいない。

 

「止まらなくなるわよ。人材の流出が。それこそメジャーのやりたい放題。みんなで弱くなってどうするのよ」

 

「もう十分、弱いじゃないか」

 

ミサトは黙り込んだ。今日だけでなく、ここ数年、国際試合や大会では負けの方が多い。オートバイや原付が縫うように追い越していくのを見ながらひとり唇を噛む。すると、加持が「聞いた話だけどな」と話し始めた。

 

「この国はこう見えて、一度も外国に占領されたことがないんだと。そのせいか、一見愛想が良い人たちも実はプライドが結構高くてな。昔、ある日系企業で日本人の上司が現地の部下を人前で罵倒したら、翌日、その上司の家が放火で全焼したなんて事件があったらしい」

 

「ふーん」

 

「日本と違って、仏教への信仰もかなり深くて、いわゆる輪廻転生が信じられている。だから、不況で会社がバタバタ倒産する時は、本当に自殺しちまう経営者が後を絶たない。ま、やっちまったから、次の人生でやり直そうってなもんだ」

 

「てなもんって……。プライド高い割には無責任ね」

 

加持は、なんだか誰かのことを言われているようで笑ってしまった。

 

「ま、愛すべき民族性ではある。この国の人たちを表す面白いクイズがあるらしい。冷蔵庫があります。そこに象さんを入れたいのですが、さて、どうしたらいいでしょう?」

 

「は?」

 

「そんなに深く考えることはない。答えは、ドアを開けて入れる」

 

「何それ?」

 

「そんな大きな冷蔵庫あるの? なんて考えること自体がナンセンスなのさ。そういう質問をするんだから、そもそもあるんだろってこと。では応用。そこにキリンさんを入れたいのですが、さて、どうしたらいいでしょう?」

 

「……象さんを出してから入れる、とか?」

 

「あたり、お前、きっとタイ人になれるな」

 

 

 

 

 

テレビ観戦は終わった。いつものトリオは2でバットやグローブ片手に“仕事話”をしている。そして、残った4人は居間で人生ゲームをやっていた。

 

3123……。会議で空気が読めなくて大失敗。25,000払う。やれやれ……」

 

カヲルは苦笑して紙幣を払う。テーブルの上は、お酒の缶やら瓶やらスナックの袋やらで散らかり放題だ。

 

「アンタさ、ここで数そろうとこればっかりやってるわけ?」

 

古ぼけた箱を手にアスカが言うと、ナツミが「そうだよ。だって頭使わなくていいし」と株券を数えながら返す。

 

「君は少し使った方がいいよ」タオルを首にかけ、シンジが降りてきた。「……何。またそれ?」

 

「いいじゃないか。人生ゲームやって人生無駄に過ごしたって」

 

カヲルの言葉に、ナツミは「ウマいウマい☆」と鈴を転がすような声でうなずいた。なんだかすっかり向こうになびいている。ここまで綺麗に転ばれると、さすがのシンジも馬鹿馬鹿しくなってくる。が、

 

ちょうど鳴り出した携帯電話の画面を見て、シンジは「あっ」と声を上げてそのまま外に出て行ってしまった。

 

「何だい。今のアッて」カヲルが首をかしげる。

 

「ラブメールでしょ。ラブメール」ルーレットを回しながらアスカが毒づいた。「“今日は何食べた?”、“何も起きてない?”、“頑張り過ぎるなよ”、“おやすみ”。どーせそんな一言メール、山みたいに送ってるのよ」

 

「送って欲しいんだ」求職雑誌片手のヒカリに、アスカは「は?」となる。

 

「何かもう純愛映画みたいだよね。ふたりだけの言葉があって。“本当に好きなものはひとつだけ”ってラブラブ感が」とろけるような声でナツミが言うと、

 

「そういうの、僕はキラいだね」カヲルがキッパリと反論した。

 

「「なんで?」」アスカとヒカリが同時に反応する。

 

「……やっぱ仲いいんじゃん」

 

ふたりはハッとなる。

 

「本当に好きなものはひとつだけ、ってことは、それ以外にはなんだってするってことだろ」

 

「まぁ……、理屈だけなら」とヒカリ。

 

「だったらそんなカッコよくいるもんじゃない。それがイヤなら、みんな大切にすべきだよ」

 

いつになく真面目なカヲルの話に、みんな思わず考え込んでしまう。すると、彼はまたいつもの含みのある笑い顔になって言った。

 

「……なんてセリフ、本当に誰かを好きになったことがないから言えるのかもね」

 

「でも、今ちょっと感動したかも」

 

感心するヒカリ。カヲルは「休憩」と言い残して出て行く。「私もメール見てこよーっと」ナツミも出て行った。

 

奇妙な間。やがて、ヒカリは視線を合わせないでルーレットを回した。

 

41234。台風で吹き飛ばされ、スタートに戻る。この前はごめんなさい

 

するとアスカも、「……3123。サラブレットを2頭買い、$20,000払う。別に、アタシも言い過ぎたし」と、こっちもまるで同じフラットなトーンで謝っている。

 

「街のど真ん中で」とヒカリ。

 

「街のど真ん中で」とアスカ。

 

玄関で、カヲルは隣のナツミに訊いた。「何なんだい、あれ?」すると彼女はしみじみ答えた。

 

「こうしないと、絶対謝りそうにないでしょ」

 

彼は苦笑して二階に上がる。ベランダにはシンジがいた。青白い画面に向かい、一心不乱にメールを打っている。携帯を閉じ、イラついた表情で空をあおぐ彼に、カヲルは煙草を差し出した。

 

「…………」

 

シンジはしばらく彼を見ていたが、やがて無視して戻っていく。少なくとも、彼に好感を抱くことが出来そうにはなかった。

 

 

 

 

 

ミサトは腕をベッドの端にぶつけて目が覚めた。時計はまだ早朝。ゴロリと寝返りを打つと、ソファが空であることに気が付いた。

 

人の起きぬけたあとの毛布……。カーテンをそっと開き、窓の下を見やると、加持が誰かと会っている。耳打ちをしながら何かを相手に渡している。

 

カーテンを閉じたミサトは、ソファに置いてあった本に気が付いた。

 

<幸福というものが、同時に不幸の源にならなくてはいけなかったのだろうか?>

 

ゲーテの『若きウェルテルの悩み』。紐のかかっていたページから、ミサトは読み進んだ。

 

<はつらつたる自然を見て僕は心にあたたかいあふれるばかりの感情を抱いた。僕は歓喜に燃えてこの感情の中に身を浸し、周囲の世界を天国のように思いなしたのだが、現在ではこの感情がどこまでも僕につきまとう悪霊となり、耐えがたい拷問者となる>

 

<僕だけが、ロッテをこんなにも切実に心から愛していて、ロッテ以外のものを何も知らず、理解せず、所有してもいないのに、どうして僕以外の人間がロッテを愛しうるか、愛する権利があるか、僕には時々これが飲み込めなくなる>

 

 

 

 

 

帰ってくると、家の前に黒塗りの車が止まっている。シンジが訝っていると、携帯が鳴る。楽団の責任者だった。

 

二回三回と練習を続けるうち、綾波のフルートの音程が微妙にずれるのがわかったのだという。フルートは奏者自身が発音体になるので、耳が聞こえないと正しい音程にあたらない。みんなで合わせると、不協和音みたいになるのだ。

 

「綾波は……邪魔ってことですか?」

 

<…………。多分、彼女の頭の中で鳴っている音と、実際に鳴っている音は違うんだ>

 

頼まれたのに申し訳ない、と逃げるように電話は切れた。こんなのありかよ……。シンジは携帯を叩き付けたい衝動をかろうじて抑えた。憤りを踏みしめるように階段を昇ってドアを開けると、男物の革靴が二足並んでいる。リビングのソファーには、彼の父親が背を向けて座っていた。通訳を間に、綾波と向き合っている。

 

「わかった。なら、私の方でも手を打っておく。あとは、本人次第だろう」

 

穏やかな声。綾波も微笑んでいる。

 

「それから、自分で決めたのなら仕方がないが、こういうものを受けるときは注意しろ。利用されることもある」

 

出されたハーブティーを飲み干し、ゲンドウは立ち上がった。シンジと目が合う。ショックで呆然としている。

 

「……何しに来たんだよ?」凍りつく彼に、ゲンドウは、彼女にも読み取れるように、ハッキリとした口調で言う。

 

「見て、わからんのか。お前には」

 

情けないヤツ、と言外に言い捨てて、父親は出て行った。彼が心配で、綾波は傍に寄る。だが、彼は「触るなよっ!」と叫んで手を払いのけた。目には敵意がこもっている。屈辱感と怒りで歪んだ彼の視界に、一冊の雑誌が入った。

 

 

 

 

 

あくびの出そうなほどに退屈な練習時間。誰もいないネット裏で手話の本を広げる。すると、さまざまな単語の手話が絵付きで解説されている。

 

「電話……。へぇ、これが電話」アスカはお手本どおりに真似してみた。「右手でうちわを持つようにして、あおぐしぐさ……夏。手のひらを上にして、波を打つように。これで……海」

 

ひとつひとつ手を動かしてみる。本を伏せておいてやってみて、正しいかどうかをチェックしたりして、彼女は手話をやってみている。本を片手に練習している様は、まるで稽古中の舞台役者だ。

 

「両手の人差し指を中央に寄せて、会う。開いた親指と人差し指をのどの前でつけて……好き、または何々したい。……で応用編っと」

 

ページをめくったところで、彼女は固まった。そのまま、しばし時間が過ぎる。あたりを見回し、誰も見ていないことを確かめた彼女は深呼吸をすると、手を動かしてみる。

 

「(もう一度、あなたに…………)」

 

手が止まってしまった。首を振って、もう一度、今度はもっとゆっくりと手を動かす。

 

「(もう一度、あなたに…………会いた…………)」

 

そこからが、どうしても進まない。

 

「バッカじゃないの……」本をバサッと裏返してひとりごちる。「決定的にバカよ、バカ……」

 

すると、カツカツとスパイクの音をさせ、シンジがやってきた。

 

「何だよ、これ?」いきなり丸めた雑誌を突きつけて言う。

 

「な、何って……」あわてて本を隠すが、その動作が、後ろめたいものとシンジには映った。

 

「これは何だって訊いてるんだよ」

 

シンジの目には、強い怒りがこもっている。アスカは不承不承、雑誌を手にした。ファッション雑誌、明日発売の最新版だ。折込みされている部分を急いで開ける。

 

1ページを使った新作アルバムの広告宣伝。綾波の写真が使われている。写真の彼女は、深い海の底を思わせるような暗い青を背景に、荒涼とした砂の上に一糸まとわず、うつ伏せで横たわっている。片方の手には短剣が握られ、つま先までピタリと合わさった両足はひれを思わせる。

 

Deep Blue Sea”。Bの文字が強調されている。明らかに、人魚姫の最期のイメージだ。

 

何なのよ、この広告……。

 

「会社で聞いたら、こっちに紹介されたって……。ちゃんと紹介料も払ってるって。何なんだよ、これ?」

 

「別に……、本人の許可はちゃんと取って」

 

「本人に聞いてどうするんだよっ!!」

 

アスカは黙り込まされた。

 

「そっちがボクを利用したいのは知ってるよ。もともとそういう関係なんだし。だけど、そのために綾波まで利用するのはやめろよ。適当な気持ちで綾波に話しかけて、たぶらかしたりなんかするなよ! 迷惑なんだよ!」

 

シンジの凄まじい剣幕に、アスカは呆然としてしまう。

 

「綾波は、ホントはひとりで街歩くのだって危ないんだ。ほとんど聞こえないんだから。何も知らないくせに、ズカズカ土足で踏み込んで来るの、やめろよ!」

 

それだけ言うと、シンジは戻っていった。ねじった雑誌を地面に投げつけて。

 

響き渡った怒声に、みんなが自分を見ている。アスカは震える体を抑えながら、逃げ出すようにその場を離れた。

 

 

 

 

 

手持ち無沙汰になった彼女は、店の中を見回していた。

 

並木路の“Mumindalen”には、相変わらず他の客は入って来なかった。夕暮れの通りは渋滞が始まっていて、けたたましいクラクションの音が時折響いてくる。

 

2から戻ってきた彼は、改めて彼女を見た。光沢のある黒のベルベットのジャケットにクリーム色のセーター。真っ白な肌に肩口で切りそろえたショートヘアが整っていた。綺麗なおでこと色のハッキリとした瞳とがワンセットでとても美しい。化粧もマスカラと薄いリップくらいしかしていない。

 

「はい、これが原稿」

 

彼女は、ぶ厚い封筒を受け取ると、しげしげと眺めて言った。「ずいぶんと、お洒落ね」

 

「今日は、夜に制作発表だから。事務所のスタッフに綺麗にしろって言われててね。普段は綿パンにトレーナーだよ」タートルネックのセーターを着た彼は、苦笑して首の辺りを掻いた。

 

「執筆スタイルも普通じゃないって洩れ聞いたけど」

 

「普通じゃないと言うか……。一日机には向かっていないね。集中力がもたないから。せいぜい23時間が限度かな。確かに、その間は、隣で掃除機をかけてても聞こえないけど」

 

「書く以外の時間は?」

 

何もしてないことが多い。基本的には寝てる。最低12時間ぐらい。すると、残り12時間だろ。寝起きも悪いから、そのうち12時間はつぶれる。寝付きも悪いから、そこでまた時間を取られる。すると残された時間はほとんどない」

 

彼女はやれやれといった顔で、視線を店の中央へと移した。

 

店内のほぼ3分の1を占めるようにグランドピアノが置かれている。真っ白な布で覆われたその上には小さなバスケットがあり、中には音符模様の色とりどりのキャンディ。そして、<音が聞こえるキャンディです。どうぞご自由にお取りください>というカード。

 

真っ白なヨーグルトキャンディをひとつ、彼女は選んだ。

 

「続きを話そうか」

 

「そうね」彼女はテーブルに戻っていく。「スナフキンさん」

 

彼は、自分用の緑のマグカップを手にして彼女に見せる。

 

「知ってたんだね。この店の名前」

 

彼女は黙って小首をかしげた。

 

 

 

 

 

(耳が聞こえない私は、その分、ヒトより分かるようになってしまったことがある。例えば、ヒトの悪意。ヒトの敵意。ヒトの同情……という名の優越感。そして……ウソ。そんなものばかりわかるようになってしまったのは、自分が弱い証拠なのかもしれない)

 

綾波は公園の中を歩いていた。そばを仲のよさそうな男女が手をつないで歩いていく。遠い日の記憶が、頭をよぎる。

 

(そう……。あの時も、私には、脇目も振らずに進んでいく彼が、私に拭い切れないものを抱いていることが、なんとなくわかっていた)

 

女の子が大きな声で、何か言う。男の方がその発言に笑う。けれど、綾波には聞こえない。綾波はそれをぼんやりと見ている。あの女の子は、今、何を言ったのか。彼女は、音のない世界にひとりいた。

 

(風景はいつも同じ。石も木も、水も、分け隔てなく、そこにいてくれる)

 

いつものベンチに着いた。すると、百科事典のコピーが小石を重石にして置いてある。

 

(うりんこ:イノシシ科の幼児の総称。別名ウリ坊。体長4050センチほど。シマウリに似た模様があることからこう呼ばれる。親の後をチョロチョロとついて行く姿が愛らしく……)

 

振り向くと、彼がバスケットボールを手にして立っている。

 

付いて行った先のコートでは、ストリートバスケの大会が行われている。メンバーはこの指とまれ方式で、服装もまちまち。在日米軍のプレスセンターや宿泊施設が近いせいか、アメリカ人が多い。

 

結婚式の生演奏?」蛍光ピンクのシャツにヘアバンドを着けたカヲルは聞き返した。「どうして、また?」

 

綾波は、静かに視線をコートに送った。変わりたい、という意思表示だった。だが、彼は「止めた方がいいよ」と冷たく即答した。

 

「想像するだけでわかる。君のメロディは、拷問だ。拷問に耐えているか、もしくは郵便局で料金別納のスタンプをひたすら押させられているような気になる」

 

綾波はいつものように――冷静に――は(聞いて)いなかった。聞き飽きたお説教をまた聴くような顔をしている。

 

「僕らが知っても仕様がないけど、ヒトの世には、人生ゲームより意味のないことがたくさん存在するのさ」

 

カヲルはスローイングの真似をしながら言う。それを見て、綾波は不機嫌そうにため息をつく。

 

「楽しそうにしてない」

 

そう言った彼を、彼女は、何を言ってるんだ、という目で見た。

 

「始めたのは君だろ。長い休暇。ローーーング・バケーション。それがこれじゃ、あんまりだ」

 

次のチームの召集が始まった。先にコートに入ったアメリカ人たちが手招きしている。観客は沸き立ち、DJは軽快なヒップホップを大音量で流し出す。

 

「オーケー。イッツ・ア・ショータイム」

 

不敵な笑顔を浮かべ、大きく息を吸うと彼は力強く足を前に踏み出した。

 

彼は驚くほど軽やかに跳躍した。そして、鮮やかな色のシャツを棚引かせながら、大柄なアメリカ人たちの間隙を縫ってドリブルしていくさまは風に舞うひとひらの蝶を、続けざまにシュートを決めていくさまは、蜂を思わせた。指の先からつま先まで、彼の身体には、どこにも無駄な動きがなく、どの瞬間を切り取っても一枚の絵画のように調和が取れている。

 

観客をとりこにする彼を、綾波は眉間にしわを寄せて眺めている。

 

残り時間数秒のところで放たれるボール。終了のホイッスルが木霊する。山なりのシュートがゴールを撫で、ネットに吸い込まれる。

 

ブザービートが決まっての逆転勝利。観客は拍手喝采。DJが彼の名前を連呼している。

 

「すべての芸術は音楽に憧れる」戻ってきた彼はタオルで汗を拭きながら、かみしめるようにつぶやいた。「いい言葉だ。……だいたい、僕のだけど」

 

「(…………)」

 

「メロディは、誰かを思う心。そして、ヒトはそれを届ける。メロディを奏でる時、心は一緒に歌っているのかな?」

 

「(…………)」そんなことは、考えたことがなかった。

 

「その時、その曲と楽器は君の一部になっているのかい?」

 

「(…………)」

 

「心の炎は、誰かの火種を待ってちゃダメだ。薪は自分でくべ続けるものさ。雨であっても、晴れであっても」

 

彼は胸を押さえながら言った。

 

 

 

 

 

帰り道に楽器店に寄った時も、綾波の頭には彼の言葉がついて離れない。気が付くと、フルートのバイリンガルではなく、五線譜の入った黒板の前でチョークを手にしていた。

 

(楽しそうじゃない……? ……“楽しい”?)

 

周りでは、楽器を抱えた女子高生たちが彼女のうわさをしている。

 

「レイ。何をしてる? 時間だ」付き添いで来ていたゲンドウが、それに気づいて肩を叩く。

 

「(教えてください。“音楽”って何ですか?)」

 

突然の問いかけに、ゲンドウは困惑した。黒板には“音楽”という文字がびっしりと書かれている。

 

「(どうして“音を楽しむ”って書くんですか? “数学”や“科学”とどう違いますか?)」

 

綾波は思いつめたような表情を浮かべている。通訳から通される言葉を、彼は反芻した。すると、彼の後ろの方で、

 

「こんなのは音楽じゃありません」

 

教則本を抱いてごねる女の子を、母親が叱りつけ、手を引いていく。床に落ちて残された楽譜を、綾波はパラパラとめくった。

 

「……お前が思うものを、思うままに弾けばいい。だが、覚悟はしろ」

 

ゲンドウは諭す。楽譜に見入っていた綾波は、やがて、ピアノの前に立つと、ふたを開けて片手でポロンと弾いてみた。

 

 

 

 

 

綾波は部屋にこもりっぱなし。しかも、昨日の件もある。いつもの電話やメールが来るわけでもない。シンジはひとりで『My Way』に足を向けた。モニターでは代表戦をやってるが、全然盛り上がっていない。ビールを飲み、ため息をついていると、トウジが日向と青葉と一緒に偶然やってきた。

 

「お前のウチ、なんか、スゴそーだもんな。何でもありで」青葉が言うと、トウジは「毎日、サファリパークですわ」と肩を落とす。

 

「いいじゃないか、女ふたりいて」と日向がフォローにならないフォローをする。

 

「ひとりは妹です」

 

「ひとりは“これ”だろ」青葉は小指を立てた。日向は笑いながら冗談で、

 

「やめてくれよ。酔ってブラウス一枚になって“苦しいから、ブラ外して”とか言われてるとかさ」

 

「バカ。いくらなんでもそんなはしたないこと……」

 

だが、当の本人は背中を丸めて黙っている。三人は思わず固まる。見かねた青葉が「お前さ、あんまり“コレでいいのか?”とか考えない方がいいぜ」と忠告した。

 

シンジはちょっと聞き耳を立てる。

 

「それって誘導尋問でさ、しかも一番ヤバい。あんまりしつこく考えると、ほんの少し心ネガった時に“実は違うんじゃないか?”って勝手に思い始めちゃうだろ。特に、真面目な人間ほど」

 

「実は臆病者とか?」日向がまた調子に乗った。

 

「お前も人のこと言えないけどな。人の心ってのは、ハッキリそこに形があるわけじゃなくて、何かによって三角になったり四角になったりすると思うんだよ。このポテサラみたいにやわらかくてあやふやでさ。だから、相手にも自分にも、あんまり誘導尋問するのはどうかと思うわけよ」

 

シンジは食べかけのポテトサラダをじっと見つめた。さすがに、そのあたりについてはベテランの青葉だ。

 

「でもさ、そうなってくると、結局本当の心なんていうのはわからなくて、相手の言ってることややってること、信じるしかないってことか?」

 

「正直、押し付けがましい言葉だけどな。“信じる”なんて」

 

それまで黙っていたシンジが、口を開いた。

 

「ボクは言葉の前で……、っていうより、言葉にしなくても安心し合いたいなって。相手といるだけで安心みたいな。それで、離れててもいつも心の側にいるって思えて……」

 

「それ、理想高いし、要求高すぎるよ。相手、潰しちゃうよ」青葉が狼狽した。そして、誰も異を唱えない。

 

モニターが日本の敗戦を告げる。これで11分の崖っぷち。所々からあがる嘆声。

 

シンジはひとつ息をついた。結局、納得いく答えは聞けないまま、時間だけが過ぎていく。

 

同じ頃、綾波はビルの屋上で鉢植えに囲まれながら、満ちかかった月をじっと眺めていた。

 

 

 

 

 

人間は、変わり身が早いタイプとそうでないタイプとに分けられる。変わり身が早いタイプは目の前の問題に行き詰れば“面倒くさい”と見切ってさっさと別の道を探し、遅いタイプはいつまでもそこにこだわって泥沼にはまってしまう。

 

「最悪」

 

アスカの目の前にいるのは典型的な前者だった。それも、新しい道には常にお花が咲いているおめでたいタイプ。

 

「分かってたのよ。の冬、彼と別れたときから。多分、3くらい経ったら街のどこかで偶然出会って、そして彼に笑顔でこう言われる。“お前、あの頃とぜんぜん変わらないな”って。そして、私も笑顔でこう言う。“あなたは変わったじゃない”」

 

喫茶店で、彼女は話を聞かされている。

 

「今、“大丈夫?”って思ったでしょ? 大丈夫だよ。3ぶりに会った元彼に、回転寿司でひとりお皿積んでる姿を見られて、“お前ぜんぜん変わらないなー”って口パクされて、それで大丈夫な女がいるっていうなら大丈夫。しかも、むこうはひとりじゃなかった……」

 

そしてため息。ナツミはすすり泣きを始め、長い間が訪れた。

 

「アンタさ、人生楽しい?」

 

アスカがまったくもって暗いので、ナツミは顔を上げた。本当は全然泣いてない。

 

「人生は楽しいのかって訊いてるの」

 

いきなりな質問に、今度は彼女が戸惑った。

 

「楽しいかって聞かれれば、あんまり楽しくないような気もするけど、楽しいって思うことも結構多いよ。たとえば、友だちと焼き肉食べようってタン塩、網に載せた瞬間とか、誰も期待してなかったダブルデートで“ヤッホー、当て馬サイコー♪”みたいなのに出会えた時とか、そんな時に……」

 

「アンタの話なんか聞いてない」

 

話を遮って紅茶をすすった。楽しい具体例があまりに下らなさすぎる。

 

「だいたい、なんで真っ昼間から社会人相手に大学生が恋の相談に来てるのよ。授業に行きなさいよ、授業に」

 

「行ったよ。2だけ」ナツミは悪びれない。「それにヒマそーだったじゃない」

 

「違う。それは断固として違うわよ。アタシは仕事をする気はあるの。印刷機が回るその瞬間まで、ジャーナリストの使命に燃えてるの。でも、書くことがない。白紙の取材ノート、真っ白のパソコン画面。……そういうことよ」

 

「じゃあ、結局ヒマなんじゃない。どーせ」

 

タカをくくるナツミに、アスカは絶句する。一時が万事この調子で、さっきから脱力しっぱなしだ。

 

「……それで、本題は何なのよ?」

 

「だから言ったでしょ」ナツミはノートとペンを出した。「いろいろ教えてって」

 

“馬鹿シンジ”はどうしたのよ、とアスカが聞いても「それは昔の話」としか言わない。たったおとといでしょ、と言えば「“もう”おととい」となる。

 

「アンタって、男見るとき恋愛対象としての判断しかないの?」

 

「そんなわけないでしょ。私の中にはちゃんと理想のキャスティングがあってね……」

 

彼女は、色ペンでかわいくデフォルメされた似顔絵と、相関図をスラスラっと描き始めた。

 

「さしずめ、このオジサンは喫茶店のマスター。このメガネは私に田舎のミカンを分けてくれる近所の親切なお兄さん。そんで、コイツは私の荷物持ちの下僕A。そして、私をめぐって三角関係になっちゃってるのが…………なぁんてね♡

 

大きくため息をついて外を見たアスカに、彼女はすねた声を出した。

 

「ちょっと、妄想バクハツしただけなのに、これ見よがしにため息つかないでよ。哀しくなるから」

 

「アンタが悪い」

 

「じゃあ、とにかく早く教えてよ。まず彼女いるの? いないの? ねぇねぇねぇねぇねぇ……」

 

だんだんイライラしてきたアスカは質問に答えることにした。とにかく、さっさと追っ払いたい。

 

「いないとは聞いてるけど……。まぁ、いっか」

 

「“まぁ、いっか”って何なの? 気になるから教えてよ」

 

その時、床に落ちた皿が派手な音を立てて砕け散った。店内のざわめきが消え、スピーカーから流れるBGMがやけに大きく感じられる。

 

「……ウソでしょ?」

 

見ると、近くのテーブルで女が呆然と立ちすくんでいる。傍らにいたケンスケが話の後押しをする。

 

「いや、俺もあんま詳しいことは知らないけど……、まぁ、ホントかな……。俺、こう見えても結構バリアフリーで、ゲイとかホモとかのヤツの友達多くてさ」

 

「……深い……関係?」

 

立ち往生する女に、ハンチングハットを目深に被った“彼”は動揺する素振りも見せず、サングラスを鼻の頭まで下げて、彼女を上目使いに見た。その瞳の色に、女は圧倒された。

 

「これ以上、語らせないでくれ」

 

彼は“彼”の肩を掴み、真剣そのものの表情で語りかける。

 

「僕は彼と出会い、恋に落ちた。彼は、僕がいないと生きていけないタイプだ。だけど、君は僕がいなくても、100万年でも生きていける。それに……」

 

目縁に涙を溢れさせ、握った拳を小刻みに震えさせる女。唐突に笑み崩した彼は、そこにとどめを刺した。

 

「彼……寝させてくれないんだ」

 

「この……このカマ野郎っ!!」

 

女はコップを掴み、彼の胸元に水をぶちまけて、「私はカメじゃないわよっ!」と泣きながら店を出て行った。テーブルの3人は呆気にとられながらも、作戦成功を確信している。

 

「男のヒトが好きなんじゃないかって」とアスカ。

 

「……ウソでしょ?」

 

 

 

 

 

“バイト料”を貰うなり、ケンスケはさっさと帰っていった。

 

「お手洗いで変装したのね」アスカは手書きのシナリオ本“その女、凶暴につき”をめくりながら言った。

 

「まぁね」とカヲルは苦笑した。

 

着替えから戻ってきた綾波はグレープフルーツジュースを啜っている。

 

「ガムテープ外してみると、やっぱお姉ちゃん、オッパイ大きいもんね。女の子の方がもったいないような……」

 

「バカッ」とアスカはナツミの頭を張った。「さっきの……、泣いてたじゃない」

 

「一番プライド傷つかないんだ。好きな男に男がいたってのがさ」彼は全然取り合わない。

 

「あっ、それ分かるかも。ヘンに女がいたなんていう方が、よっぽど包丁キラリだもんね、女は」ナツミも同意する。

 

アスカはあきれた。「そういうもんなの?」

 

「何べん生まれ変わっても、あんな“一方美人”はお断りだよ。付き合ってもいないのに、こんなとこまで追いかけてきて」

 

「軽やかじゃなさそうだったものね。ちょっとストーカーみたいな、気がついたら携帯の着信履歴10くらい続けて入ってそう」

 

カヲルはうんうんとうなずく「“なんで非通知でかけると出るの?”とか」

 

「自分からいきなり相手の家行っちゃって“ピンポーン、来ちゃった”とか」

 

「もうちょっと待って、よく見てっていうのに、その“もうちょっと”が我慢出来なくて」

 

「タイミング外しまくり。想いの長さと量ばっかりスゴくて。結局、自分の気持ちの中で相手窒息させちゃうんだよね」

 

ふたりはべらべら延々と話している。会話に入れないアスカに、それまでジュースを啜っていた綾波がメモで<何の話?>と尋ねてきた。

 

<モテない女の話>と返すが、綾波には“モテない”の意味が通じていないようだった。

 

<好きな相手に、嫌われるだけ……ってこと>

 

文字を書きながら、なぜかため息が出る。

 

<どうして?>

 

「どうしてって……」

 

どうして嫌われるの? という意味か、どうして嫌われることをするの? という意味かわからなかった。

 

<いいこととイヤなこと。どうして、片方しか出来ないの?>

 

アスカは言葉に詰まった。またしても、完全にふいをつかれた感じであった。

 

「きっと、バカだからよ……って、一体、何の話してるのよ?」

 

思わずカッとなった。すると、妹が「モテない女の話でしょ」と言う。

 

「あ」

 

再び言葉に詰まる。奇妙な間が空いた。腕時計を見た彼は「さて、行こうか」と立ち上がる。

 

「君は、もうちょっとキラキラした方がいい」

 

表情ひとつ変えない綾波に、ポケットに手を突っ込んだまま言った。

 

 

 

 

 

ロッカールームで、シンジはひとりユニフォームに着替えている。

 

「言ったじゃないですか。ボクはそういうのには興味がない。行きたくないって」

 

マヤが背中を向けて立っている。シャツがパサリと床に落ち、ベルトの金属音や衣服の擦れる音が耳を擽る。

 

「……極秘情報なの。現地で、ひとり怪我人が出たって。容体はまだ不明だけど、場合によっては入れ替えがあるかもしれない。チケットだけはこっちで手配しておくから」

 

「ミサトさんに伝えて下さい。何回言われたって、ボクは断ります」

 

スライディングパンツを穿き、アンダーウェアを着込み、首にアクアチタンのネックをかける。そして、インナー用のユニフォームを上下に。彼女の存在にかまうことなく、シンジは着替えを続ける。

 

「せっかくの才能、もったいないって思ってるのよ」

 

スパイクの紐を結び、ケースからバットを適当に見つくろう。マヤが珍しく語気を荒めて言う。

 

「私たち、みんな、あなたのためを思って……」

 

「ボクはボクのために行かないんです。頭の中で、勝手にボクを作らないでください」

 

部屋を出たシンジは室内練習場に入る。打撃ゲージをセットし、マシンから放たれるボールを叩き打つ。どいつもこいつも……。勝手に人の未来や才能を推し量って口を出すことに、彼は心底苛立っていた。

 

 

 

 

 

ミサトの仕事は苦戦していた。可能性のありそうな選手を見つけても接触さえ出来ず、やっと出来ても、日本人だとわかった途端に門前払い。それどころか、日本から来ているはずの大学生や社会人たちにまでそっぽを向かれる始末。報道された来季からのルール変更は、いたるところで深刻なダメージをもたらしていた。

 

活動範囲は急速に縮小し、遂にはホテルとプレスセンター、支局の行き来が彼女の日課になってしまった。

 

そして、これでは意味がない。

 

「ほらよ。眠気覚まし」

 

デスクで不機嫌をむき出しにするミサトに、加持は街中で売ってる、焼けるように甘いコーヒーを差し出した。

 

「いいの? 油売ってて。就職活動は?」

 

「あいにく。“まず膝を治せ”。“機会を見て連絡する”。俺の予想だと、10年しても機会は来ないな」

 

「“暇になったらメールする”と同じね。男同士でも使うんだ。面倒くさいヤツとかに」

 

悪口を返しながら、ミサトは横目で、加持を探るように見た。こっちに来て以来、加持はどうも何かをやっているように思えてならなかったからだ。

 

加持は「なるほど」と肩をすくめて作り笑いした。どこかに寂しさを抱えた横顔だった。ほんの一瞬の間。

 

「いつまで……」と、こぼれかけた口をつむぐ。夢見てるのよ、という続きがあった。

 

「どうにもならないらしいな」

 

ひとりごとのようなつぶやきが、ミサトを現実に引き戻した。

 

「当たり前でしょ。全然ダメよ。選手のレベル云々以前に、こっちがノーサンキュー。金にならないってわかれば、人間なんて冷たいものよ。誰かの嫌がらせのせいで」

 

「そっちじゃない」

 

声の調子にトゲがある。加持は真顔になって言った。

 

「どうして、わざわざ人づてに頼むんだ? それじゃ来なくなることぐらい俺だってわかる。君らしくない」

 

「…………」

 

「思い通りにならなかったから、ペットだけでも手元に、なんて考えてないか」

 

「冗談は顔だけにして。相手は一人前の男子よ。ペットだなんて」

 

「見つけてきたのは君だ」

 

図星を突かれたミサトは、それでも、気丈を装って切り返した。

 

「前途ある若者を邪なヤツらから守ってるだけよ。せっかくの砂金を川にみすみす戻せる? 後悔したって遅いのよ」

 

「この世に後悔のないことなんてあるのか? 早いか遅いか、先か後かの違いがあるだけで、どんな決断だって、結局はいつかどこかで後悔するんだ。妙な母性本能やプライドのために、誰かを縛り付けるなら、俺は支持しない」

 

“やめろ”ではなく“支持しない”。いつだって、彼は自分を最後に突き放す。言うだけ言った後に。苦々しさが、精一杯の捨て台詞を吐かせた。

 

「加持君、本当に似てきたわね」

 

 

 

 

 

デパートの1のグランドピアノの前。綾波はノートを担当者に見せる。

 

『そちらの求人があるのを情報誌で見ました。私は耳が不自由ですが、ピアノが弾けます。採用していただくの難しいでしょうか?』

 

履歴書と録音データの入ったディスクを渡そうとしたが、採用担当者は首を横に振った。続いて、シティホテルを訪ねたが、「ウチじゃ、ちょっと……」と断られた。

 

「職業安定所に行ってみたら?」、「福祉課があるでしょ」……。

 

黄昏の橋の上で、メモしたバイト先の候補が次々と赤ペンで消えていく。

 

「全然ダメね……」アスカはヒザに手をあてがいながら言った。足が棒になりそうだ。

 

綾波は自分の演奏を録音したディスクをバッグから取り出した。なんだか、ゴミのような気がして、川に投げ捨てようかと思ったりする。が、橋の向こうに見える綺麗な夕焼けと、「ギブアップする?」という彼の言葉に、首を横に振って、何かを手話で話しかけた。その手の動きを、アスカはじっと眺めた。

 

そして、綾波はすたすたと進んでいく。カヲルは首をかしげた「分かんないのに言うかな……」。そして、犬のようについて行く。

 

アスカは何とも言えない表情を浮かべた。が、ナツミはもっと難しい顔をして首を左右に傾けている。

 

「私、頭の中に恋の引き出しがあるの」

 

「は?」

 

「で、その中に世界の男女が30パターンくらいに分類して入れてあるの。どんな相手でも、すぐベストポジションで戦えるように」

 

「どんな戦いよ……」

 

「でも、さっきから何べんやってもあのふたりは分類できないの。シンジさんとあのお姉ちゃんなら、ホント、絵に描いたような許婚って感じだけど、あっちは……何か“違う”んだよね」

 

公式に当てはまらない? 近い例もないの? と尋ねるアスカに、ナツミは、今から思えばだけど、と前置きして言った。

 

「サクラ組でよく遊んだ男の子と私、あんなだったかも。もう名前も忘れたけど」

 

「あいつらは幼稚園?」

 

「もうちょっと観察してみようよ」

 

綾波たちは、あとひとつだけ残っている求人先に向かった。

 

「申し訳ありません。今、責任者がいないんですよ」

 

ビルの地下にあるライブバーで応待してきた店員は言った。体よく断られているのだと察知したが、とりあえずディスクと履歴書を渡した。

 

「……では、一応、お預かりします。何かあったらこちらから連絡しますから」

 

綾波はうなずいて3人の元へと引き返した。すると、「待って!」と支配人と思しき女性が追いかけてきた。

 

「今日、少し、弾ける?」

 

綾波は、怪訝そうにはい……、とうなずく。その顔に気づいた支配人はさらに驚いた。

 

「あなた……、碇ユイさんと何か?」

 

 

 

 

 

演奏予定だったバンドのメンバーを乗せた車が、交通渋滞に巻き込まれて到着が大幅に遅れているという。求められているのは、それまでのつなぎで、採用も客の反応次第ということらしい。

 

貸衣装屋で大急ぎで調達したドレスに着替える間、ほかの3人は控え室で待っていた。

 

「……大丈夫なの?」アスカは落ち着きがない。バレたら確実にドボンだ。

 

「大丈夫。さっき、知らせといたよ。すぐ、来るんじゃない?」携帯を開くナツミの頭を、カヲルは子犬のように撫でた。

 

「はっ?」

 

「お姉ちゃん、ゴメーン。私、これから行くから」

 

「はぁぁっ?」

 

「宇都宮先輩から、デートのお誘〜〜い♪」

 

「ちょっと、アンタ。バクダン落とすだけ落として……」

 

アスカがそう言うのもかまわず、ナツミは消えた。入れ違いで、ドタバタと階段を駆け下りてくる音がした。そして、ドアが乱暴に開いて、

 

「綾波っ!!」

 

258……。やるね」カヲルは腕時計を見て感心した。

 

シンジが「綾波はどこなんだよ!?」と叫んだ矢先、背後から綾波が入ってきた。

 

純シルク仕立ての黒のワンピースドレス。後ろの衿ぐりは大胆に肩甲骨の下でカットされ、胸周りからウェストまでは光沢のある生地がチャイナ服のようにラインにぴったりとフィットしている。踝まである細めのスカートに白のストッキング、そして、黒のエナメルブーツを履いていた。艶麗としか言い表しえない、目を見張る美しさだった。

 

「何してるんだよ……。何だよこの格好!?」

 

とにかく、落ち着いて、落ち着いて。だめよ、いつものプッツンは――とアスカが懸命になだめるのに、カヲルは、

 

「アルバイトだよ。だって、スーパーのレジとか無理だろ?」とさらに煽ることを言う。おかげで、

 

「ふざけんなよっ!!“夜の店”じゃないかよ!」シンジは完全に怒り心頭になっている。「大体、綾波の何なんだよ、一体?」

 

「昔の知り合い。聞いてない?」

 

「寝ぼけたこと言うなっ! 綾波に昔の知り合いなんているわけないだろっ!!!!」

 

シンジは綾波の両肩をつかむと激しく揺さぶった。

 

「なんで、ピアノなんか弾くんだよ。わざわざ比べられなくたって、見せ物にされなくたっていいだろ? 仕事ぐらい、ボクがどうにかしてみせるし……。それまではいくらだってボクが……」

 

綾波は哀しそうな顔でうつむいた。シンジは思わず、右手で綾波の頬を張る。頬を押さえる綾波。

 

とにかく……帰るんだよ、と彼女の腕を引いて部屋を出ようとする。そこに、カヲルが立ちふさがった。

 

「ここに来たのは彼女の自由意思だ。取り消す権利は、彼女にしかない」

 

「ボクらの事情に、口を出すな」

 

「“ボクら”ね……。それ、“ボク”の間違いじゃないのかい?」

 

「…………」

 

「まぁ、分からなくもないよ。でも、仕方ない。ルールはルールだし、過去は取り消せない」

 

「何が、言いたいんだよ?」

 

「君のアンバランス。たぶん……原因はひとつだ。君……」

 

誰にも聴こえず、口の動きも読まれないよう、そっと耳元でささやく。

 

「だろ?」顔面蒼白なシンジにウィンクする。「さて、行こうか」

 

「……待てよっ!!」

 

シンジは血相を変えてカヲルの胸倉に掴みかかろうとした。だが、彼はその手を払いのけて、逆に頬を殴りつけた。シンジはあっけなく吹っ飛んでテーブルにぶつかり、グラスの割れるけたたましい音が響いた。

 

「ちょっと……何してんのよっ!」

 

「“やるな”って言われるとやりたくなる性分でね。それに、彼のこと、勘違いしてるのが多いからさ。ちょうどいい機会だ」

 

アスカの怒声を無視し、止める綾波を振り払い、彼は起き上がるシンジをその度に蹴り上げ、殴り飛ばす。急所や骨を外しながら。シンジの顔は膨れ上がり、唇からは血が吹き出してきた。綾波とアスカには、もうなす術がない。

 

「生きにくい世の中はいつも違うレベルだけど存在する。感性の豊かさが仇なして、グレる人間がいるということさ。矛盾や抑圧から不登校になる子どもたちは、僕は認める。いつか目が醒めたとき、世の中を救うだろうから。だけど、こうも分かりやすくグレるのは、単に頭が悪いか親のしつけの問題だ。縁日の柔らかいモナカさ。そのココロはすぐ溶けて金魚も掬えない」

 

黒い前髪を掴み上げ、嘲るように言う。もはや、勝負はついていた。

 

「これが彼の正体。惨めなものさ」

 

言い捨てて踵を返す。そこに、シンジが声にならない叫び声を上げて飛びかかった。ストレートが顔をかすめ、頬がわずかに切れる。シンジは勢い余って壁に突っ込んだ。

 

血を指で拭ったカヲルは、うずくまるシンジを眺めていたが、やがて、失望を露わにして椅子に逆座りした。

 

「早く決めてくれ。ひとりで行くか、ふたりで帰るか。ふたつにひとつ。誰も咎めないし、止めやしない。どうせ代わりなんだ」

 

室内を手で示して言う。綾波はそれを見た。ありとあらゆるものがひっくり返って、ぶちまけられて、壊れている。そして、目の前には傷だらけのシンジ。苦痛にあえぎながら、それでも綾波を見ている。もう怒りはない。だが意思のこもった表情をしている。

 

綾波はうつむいた。まるで、自分が打ちのめされたように、辛そうな顔をしている。懐の楽譜が、昨日の言葉を思い起こさせる。

 

――覚悟はしろ――

 

長い沈黙の末、綾波は首を振った。何かを諦めたように、微笑み、シンジを見る。「……わかった」とカヲル。

 

その時だった。楽譜を渡そうとした綾波の腕をアスカが引き戻し、体ごと、両の手で抱きこんだのだった。

 

「…………え?」シンジが驚嘆の声をあげる。

 

髪の毛を撫で、背中をトントンと叩く。強く、強く抱きしめる。そして、体を放し、両の手で(言う)。

 

「私の“がんばる”は、私だけの“がんばる”じゃない……でしょ?」

 

重なる視線。綾波はうなずいた。橋の上での言葉だった。

 

「じゃあ……いってらっしゃい。はい。321、ゴー」

 

ドアを開け、背中から押し出す。「へぇ」とカヲル。

 

「行くわよ」

 

意を決したように言う。そして、驚きと失意を隠そうともしないシンジに向かい、

 

「男でしょ。……何で……一番わかんないのよっ?」

 

 

 

 

 

演奏開始時間が近づいてきた。

 

照明が暗くなり、美しいライトがステージを照らす。綾波は静かにピアノの前へと足を進めた。ふたり、最前列のテーブルでそれを見ている。椅子をひとつだけ空けて……。

 

後ろでは、静まり返っていたはずの客席がざわめき始めた。興味本位な視線を送ったり眉をひそめたりする客が多い中で、呆然とする者や驚嘆の表情を浮かべる客がいる。「……ウソだろ?」「ユイさん?」と口々に述べている。

 

綾波は、椅子に腰を下ろすと、息を整えた。スウッと鍵盤に彼女の美しい手が舞い降り、演奏が始まった。

 

 

 

 

 

痛む体を引きずって、シンジはひとりトボトボと坂道を歩いていた。あたりは、すっかり暗くなっている。

 

どうして、こんな目に……。彼のプライドはすっかり傷ついていた。

 

「どいてどいてどいてーーーーーーーーー!!」

 

壊れたようなブレーキ音と共に、オンボロの自転車が突っ込んでくる。よける暇も無く、シンジは自転車に体当たりされた。乗っていた若い女は衝撃で生け垣に吹っ飛ばされ、積荷があちこちに飛び散った。

 

「あ〜、メガネメガネ……」

 

朦朧とするシンジの前で、彼女は何かを探している。アラビアンナイトに出てきそうな怪しい衣装。起き上がろうと後ろ手を着いたシンジの右手に、奇妙な感触が響いた。

 

かすかな音。あわてて何かを隠す彼に彼女は反応する。目つきがヒョウのように鋭くなる。

 

「いや、その…………?」

 

眼前の迫力に、押しつぶしたメガネを差し出したシンジは思い出した。相手は気づいていないが、広告代理店で、抗議に乗り込んだ自分を実に適当に扱ってくれた女だった。

 

「あ〜あ。フレームいっちゃってら。だめだ、こりゃ……って、あっ」

 

ひん曲がったメガネをかけたまま、彼女はシンジの手をとった。

 

「君、面白い手してる」

 

「え?」

 

「生命線が大きい。親指の付け根、金星丘も膨らみがあって、ところどころに切り込みが……」頬を擦り付けんばかりに見入る。

 

「あのさ……」

 

「何人?」

 

「何が?」

 

「女の数。何人くらいヤった、今まで?」

 

淡々と訊いてくる彼女。シンジは「そんなの……覚えてないよ」と言ったが、彼女は“覚えてないくらい”の方で解釈した。

 

「中指と薬指の間にはアーチ。ますかけ線……。天下取りの線が左にも右にも。いいなぁ……。しっとりしちゃう……」

 

恍惚とした表情を浮かべる彼女に、シンジはどうしたものか、戸惑いを隠せない。

 

「……たかが手だろ」

 

「わーってないなぁ。手は口ほどにモノを言うの。“運命手にする”とは言っても、足にするとは言わないでしょ」

 

「……運命?」

 

「君、運だけは強いから。自分からがけ下飛び降りてくくらいのことしないと、女神様はもう振り向かないよ」

 

狐につままれたようなシンジを放って、彼女は鼻歌を口ずさみながら散らばった商売道具をかき集める。

 

「イイもの見せてもらったから、見料は弾んどく」

 

じゃね、と自転車のペダルに足をかけた彼女に、シンジは「待ってよ!!」と声をかけた。

 

「君は、ボクの運命が分かるの?」

 

「…………」

 

「ボクの明日が、ボクの未来が、君には見えるの?」

 

彼女は笑って首を振る。

 

「占いの仕事は、運命とにらめっこさせるだけ。笑うも泣くも心のまま」

 

「心の……まま」

 

「人の生は風の如く。生きるも死ぬも風の吹くまま気の向くまま。いやぁ愉快、愉快」 

 

彼女は、今度こそ去っていった。残されたシンジがふと見やると、巨大な看板が目に入った。

 

青い空の下に広がる一面のヒマワリ畑。真ん中に青い髪の女の子がひとり立っている。透き通るような美しい裸体に、純白の大きな羽を生やし、空を仰いでいる。そして、“I have a dream.(私には夢がある)”という大きなロゴ。aの文字が強調され、その下にはメッセージが書かれている。

 

So even though we face the difficulties of today and tomorrow. I still have a dream.(たとえ今日や明日、苦しみが待ち受けていようとも、私には夢がある)

 

綾波が出た広告。その、もうひとつのパターンだった。

 

シンジの胸に、自分を振り切って出て行った時の綾波の姿がよぎる。綾波の夢……。それは一体……?

 

そう思ったとたん、シンジの心はもう、綾波のところへと走り始めていた。

 

 

 

 

 

綾波の演奏は続いている。

 

彼女のメロディはクラシック演奏のお手本と言ってもよく、音符の一つ一つが寸分のミスもなく的確に演奏されていく。細かい音符や記号を正しく押さえ、転調にも崩れることがない。

 

「どう思う?」カヲルは尋ねた。

 

「……綺麗ね」

 

「他には?」

 

そう言われても……。アスカは目を凝らして彼女をもう一度見た。ペダルを踏む足がかすかに震えている。目はところどころで楽譜を追い、指先も含めて、両の腕の動きが硬い。何度も唾を飲み込んでいる。弾いているというより、弾かされている感じだ。

 

緊張してる……?

 

「悪い癖だよ。土壇場で自分にもやをかける」だが、何かをしようというそぶりはさらさら見せない。

 

曲が終わった。まばらな拍手。周りでは「ホント、ソックリだよな」「腕はともかく」という会話。

 

疲れきっていた綾波は時計を見た。与えられた時間は残りわずか。反応は芳しくない、興味本位の視線であることも理解できた。結局、自分は代わり“ですら”なかったのだ。

 

思うように弾けない。でも、弾くしかない。

 

最後の演奏を始める覚悟を決めたとき、後方の扉から、ガチャっという音がして、光が差し込んだ。聴衆が皆、その方をわずかに見る。

 

入ってきたのは、シンジだった。彼は、会場の空気を感じて頭を下げると、そのままそこに立った。

 

綾波は、シンジがいることに気がついて、目を凝らした。

 

シンジは、綾波を見ている。ひたすら、綾波を見ている。彼女は、穏やかな表情でシンジに応えると、ふわりと手を挙げ、静かに鍵盤に降ろした。

 

ほんの一瞬、会場を小さなどよめきが覆う。ジャズアレンジされたその澄んだバラードは――。

 

 

 

B’zの『今夜月の見える丘に』。

 

 

 

大勢の観客の前で一心不乱に曲を奏でる綾波。演奏が胸に染みこみ、聴く者の心をかき立てていく。譜面台の楽譜には目もくれず、ピアノを自分自身が乗り移ったかのように弾きこなす。

 

シンジは立ち尽くしたまま、そのメロディに耳を傾けた。その純粋さと、込められた意志の強さに、彼は、それが紛れもなく「綾波」であること、そして、それが自分の与えたかったものであることを、今、完全に思い知らされた。そして、そんなふうに感じる自分に歯がゆささえ感じた。自分が自分であるために一番つらい道を選ぶ綾波の姿を、彼は、必死に見つめていた。

 

繊細さとシャープさ、切なさと力強さが相まった音符の螺旋は、リフレインを重ねるごとに膨らみを増し、息さえつかせない音符の奔流は、鍵盤を端から端まで駆け巡り、ペダルポイントの上ではさらに激しさを増す。頬を伝う汗が照明を浴びてキラキラと輝く。血液の流れや鼓動さえ、音に感じられていく。

 

 

 

 

 

<私にもっと優しくしてって、そんなことを言うつもりはないの。私は今のままで、十分幸せだから>

 

グランドピアノの前に座っている彼女は、両手で膨らみかけたお腹に触れる。

 

<だけど、あなたが幸せになるためには、やっぱり誰かに優しくしてみることが必要だと思うの。はじめはウソでもいい。心がこもってなくてもいい。でも、そのうち、いつか本当の優しい人になれると思うの。そしたら、あなたもきっと幸せになれる。だって、人に優しくすれば、自分も優しい気持ちになれるでしょ?>

 

真っ暗な部屋の明るい画面。そこだけ、まるで大輪の花が咲いたようだ。

 

<だから、誰かが何かを始めるときは、応援してあげて。フレーフレー!って>

 

ゲンドウは受話器をとった。机の上には、磨き上げられた銀のフルートが置いてあった。

 

 

 

 

 

そして――綾波の演奏が終わった。その素晴らしさに、会場の全員が立ち上がり、盛大な拍手が巻き起こった。客のひとりから大きな花束が渡される。人々に囲まれて喝采を受けていた綾波は、シンジのことを捜した。

 

彼はいなかった。綾波は、アスカたちのいる方へ足を向けた。

 

「……これ、渡してくれって」アスカが一輪の花を差し出した。粗末な包装のヒマワリだ。

 

綾波はそれを受け取ると、急に走り出した。会場の人々が唖然として見ているのもかまわない。

 

「…………」走っていく姿を目で追いながら、アスカの胸に、一瞬だけ、強烈に淋しい思いがよぎった。

 

綾波は走った。探しても探しても、彼の姿はどこにも見えない。彼女はあせって、会場の外を探し続ける。

 

いた。シンジがいた。通りの向こうで、タクシーに乗ろうと車道に出ている。

 

自分がここにいることを知らせようと、彼女は小石を投げたが、距離がありすぎて届かない。気がついても、今の彼に自分の言葉は届かないかもしれない。シンジは今にも車の列へと消えようとしている。

 

綾波は、通りへ飛び出した。車の流れをせき止めながら。無数のタイヤがアスファルトで焼けて悲鳴を上げ、怒号とクラクションが空気をつんざいた。

 

「バカヤローッ!! 死にてぇのかっ!!」

 

汽笛のようなクラクションを派手に鳴らして、ダンプの運転手が彼女を怒鳴りつける。かまわず、綾波は進んでいく。中央分離帯を越えたところで、バランスが崩れた。

 

「綾波っ!!」

 

車が、止まりきれそうもないスピードで迫ってくる。倒れこむ寸前の綾波を、飛び出したシンジは力強く抱きかかえると、間一髪のところで歩道に転がり込んだ。

 

息を切らしている綾波に、彼は哀しげな横顔を見せながら言った。

 

「……夢、見つかったんだろ。楽しいこと。ひとりでやれるんだろ」

 

綾波は手にしたヒマワリを見せる。転んだ拍子で、折れてしまった黄色いヒマワリ。手がゆっくりと動く。

 

「(始めて会った日、あなたが持っていたヒマワリ)」

 

彼の目が大きく見開かれた。

 

「(どんなときも真っ直ぐに、お日様を向いて、いじけて咲くことをやめたりしない。ずっと、ヒマワリになりたかった)」

 

訴えるような手の動きを、彼は声に出してつぶやいた。

 

「花言葉は……“君は、素晴らしい”、そして……“いつも、君のそばにいる”」

 

その手を見つめるうち、胸のうちにどうしようもない感情が押し寄せる。鼓動が高鳴り、息が切れる。目に涙があふれてくる。

 

「カッコ悪いな。いつも」

 

「(どうして?)」

 

「一度くらい、カッコよくいたいのに」

 

シンジは上着を脱ぐと、綾波の肩にそっとかけた。そのまま、肩を寄せる。

 

「さっきの演奏。きっと……、きっと、1万キロ離れた人の心にだって届いたよ」

 

「(…………)」

 

「だれも聴こえなくていい……。ボクひとりでいいのに。そうすれば……」

 

綾波は首を振った。

 

「(そしたら、ピアノが要らなくなる)」

 

「そうか。そうだったね……」シンジは空を仰いで言った。「ダメか……」

 

晴れ渡った夜空には満月が浮かんでいる。月明かりの下で、ふたりはそのまま、不器用にたたずんでいた。

 

碇君。この世は、綺麗だった……。

 

高さ90センチから見る、世界は綺麗だった……。

 

悩み事なんてみんな、ドロップスのように溶けて、空の向こうに消えてしまって……。

 

あなたと過ごした、ラスト何ヶ月で、私の人生は星屑をまいたように輝くことができた……。

 

 

 

 

 

「何やってんだろ……、アタシ」

 

歩道橋の上からふたりを眺めていたアスカは、来た方に向かって歩き出した。彼女を送り出したのは自分なのに、この淋しさはなんだろう。でも、今さらどうすることも出来ない。

 

「ジェラシーって怖いよね。心の奥底で、恋敵の存在を疎ましく思う気持ちは、その恋敵の失敗を心の奥底で願ってしまうんだ」

 

カヲルがうすく笑いかけながら立っていた。アスカは、引きつった顔をする。

 

「心と体は密接につながってる。良くも悪くもね。だけど、あいにく、ヒトっていうのはそうデリカシーがある存在じゃない。むしろデリカシーが薄い人間に限ってデリカシーに過敏になるからおかしなものだよ。何も気にする必要なんかない。その程度でしかない普通の人間なんて、いくら傷つけてもかまわない。実際、ああも簡単に再生するんだから」

 

「アンタは……、アイツがキラいなの?」

 

彼は答えない。ただ静かに、深淵に思いをはせるような笑みを浮かべるだけだった。

 

 

 

 

 

翌朝、シンジは寝起きのボサボサ頭のまま、冷蔵庫から水を出した。そのまま飲みながら、ソファにストンと座ると、メモが置いてあった。

 

<練習に行ってきます>

 

テーブルには、昨日ひとりで浮かれて飲みあかした残がいが広がっている。綾波は自分が知らぬ間に帰ってきて、起きる前に出て行ってしまったらしい。

 

「待ってたのにな……」

 

水をまたひと口飲んでひとりごちる。それでも、今は幸せだった。

 

ピアノ買わなきゃな。でも、ウチ狭いしな。引っ越そうかな。でも、それってやっぱり……。その前にはまずちゃんと……。

 

「やっぱり、そうだよ……。うん」

 

綾波を好きでよかった。きっと、死ぬまでハッピーだ、ボクは。本当に嬉しくなって彼女の部屋まで行ってベッドで飛び跳ねた。

 

 

 

 

 

屋上で綾波が彼女に再会できたとき、彼女は、ひどくニヒルな雰囲気を漂わせていた。

 

「(……ありがとう)」

 

すると、アスカは綾波に向かって、企画書を見せた。

 

『耳の聞こえない美女を発掘!!広告不況の昨今、人目を惹くには最高の素材!!』

 

表題が綾波の目に飛び込んでくる。彼女は手にとってめくる。

 

『音楽を志す綾波レイさんは少女時代、原因不明の高熱で聴覚を失った。そんな彼女が醸し出す音は、静寂が込められた神秘的で透明な世界。薄幸の美女としての生い立ちを背負った彼女の写真はまさにこのアルバムのコンセプトである……』

 

もっと違ったことを言ってやれたのかもしれない。しかし、アスカは、わずかに顔を硬くすると、

 

「あの広告は、アンタのことなんか何にも触れてない。イメージの押し付け。不幸のただ乗り。これがアタシのやったことよ」

 

と言った。

 

「これがもうひとつの現実よ。例えアンタが素晴らしい曲をいくら演奏したって、アンタの才能より、アンタがどんな過去しょってて、どんなおとぎ話が出来るかってことにだけ関心がある連中が掃いて捨てるほどいるの。アタシの仕事は、そういう連中の先頭切って走って、そいつらの懐を満たしてやることなの」

 

綾波は何も言わず、アスカは追い打ちをかけるように、

 

「世の中ってのは、キレイごとばかりじゃないのよ。アンタ言ってたわよね。いいこととイヤなことは片っ方ずつって。そうかもね。だけど、世の中じゃイヤなことの方がずっと多いのよ。アンタが思ってる以上に」

 

綾波は困惑の表情を浮かべた。

 

「さっさと帰って、またワガママ聞いてもらいなさいよ。……手乗りの鳥みたいに」

 

「(手乗りの鳥?)」

 

「結局、どこにも行けない」

 

「(どこにも、行けない?)」

 

「残念だったわね。“ありがとう”なヒトじゃなくて」

 

彼女は、綾波に背を向けて立ち去ろうとしたが、綾波はその腕を掴んだ。

 

「(違う)」

 

そして、彼女は振り返った。

 

「(あなたは“本当のこと”をしてくれた。誰も、碇君も遠ざけてた“私の本当”を……あなたは、教えてくれた)」

 

彼女は唇を噛んだ。綾波はずっと寂しさを湛えた瞳でアスカを見ていたが、

 

「(……だから、ありがとう)」

 

「やめなさいよ、その言葉。アタシに、ありがとうとか言わないでよ。……バカ過ぎるわよ」

 

アスカはみじめな気持ちになってくる。耐えられなくて、今度こそ立ち去ろうとした。すると、綾波は彼女の背中にしがみついて顔を埋めた。そして、綾波は、彼女にとって忘れられないひとことを告げたのだった。

 

「(羽。片っ方の羽が……折れてる)」

 

 

 

 

 

綾波の部屋の天井には、ふたつのポスターが綺麗に並べて飾ってある。古ぼけたボールを片手に、シンジは電話に出ていた。

 

<肉離れですって。チームに欠員が出たの。シンジ君、話には聞いてるでしょ。準備が出来次第、すぐにこっちに来て>

 

シンジのリアクションはない。その意味を知りつつも、ミサトは単刀直入に言った。<あなたが、必要なの>

 

<こっちの下馬評では完全に蚊帳の外。正直、予選突破難しいだろうって。さすがに悔しくてね。だから……お願い>

 

ミサトはもう一度繰り返した。<お願い>。だが、シンジは「どうしてなんですか?」

 

「どうして、ボクなんですか? 他じゃなくて」

 

<…………>

 

「ボクが行けば、優勝できるんですか?」

 

<……それはないわ>

 

ミサトは迷いなく、きっぱりと言った。

 

<あなたひとりが来た位でどうにかなるほど、状況は甘くない。大して変わらない、結局負けるかもしれない>

 

…………」

 

<でもね、シンジ君>

 

ミサトは、自分に言い聞かせるようにゆっくりと言葉を続けた。

 

<私は決めたの。明日、後悔をするかどうかより、今、後悔をしたくないって。あなたともう一度何かが出来るなら、もう一度、一緒にやりたかった。だからあなたに声をかけた。だからあなたに電話をした。ただ、それだけよ。もう、これで後悔はない>

 

答えはいい、ありがとう――。その言葉が、シンジの胸を急に寂しいものにした。なんだか、別れの言葉みたいだ。

 

「……ミサトさん」ざらつくボールを静かに見つめながら言う。そして……、

 

ミサトはカシャリと受話器を下ろした。

 

「仕様がないさ。分かり切ってた話だ。……?」

 

ミサトは、意外さが少しだけ、ほとんどが“呆れた”で出来た顔をしている。

 

「……“いいですよ”って」

 

「あん?」

 

「ったく……、甘えるクセに素直じゃないんだから」

 

すると、ソファに寝転がった加持が「顔、ニヤけてるぞ、オバサン」とまるで他人事のように言うので、ミサトはピキッとなった。

 

「アジアくんだりまで来てヒモみたいな生活してないで、とっとと職探しに行きなさいよ、オッサン。情けなさ過ぎでしょ」

 

加持を足蹴にして追い出したミサト。どいつもこいつもと内心愚痴りながらも、到着時間を確認し、クローゼットで服を見繕っていたときに気になっていたのは、つい今しがたの電話だった。ずっとずっと頑なだった彼が、少しだけど、心を開いてくれた、その理由……。

 

気になるのは、彼をそれなりにも見続けてきた元保護者としてなのか、それともひとりのただの女としてなのか。一生懸命暗示をかけようとしたけれど、それはどう考えても、ひとりのただの女としてなのだった。

 

 

 

 

 

「綾波に伝えておいて。“すぐ、帰るから”って」

 

荷物を詰めながら、用件だけ伝えると、シンジは電話を切った。そしてその日の午後、彼は旅立った。

 

<……最後はベースボールです。タイで開催中の国際大会。決勝トーナメント進出の瀬戸際に追い込まれた日本代表は、明日のオーストラリア戦を前に、公開練習を行いました>

 

深夜のスポーツニュースが、現地からの映像を流している。

 

「“強豪オーストラリアを相手に苦戦が予想される中、ウインドノーツから昨日派遣された碇選手を含め、一部リーグ出身の選手たちには大きな期待が寄せられており、ここ数年続いた、国際大会での不振に歯止めがかけられるかどうかが注目されています”……オーケー?」

 

綾波は、夜食のカップ麺に手をつけながらうなずく。「じゃ」とくつろぎスタイルのアスカが手話で切り出す。

 

「アタシの話するわよ。……どうすんのよ、このピアノ?」

 

部屋の一角を指差す。シンジの個室を完全にふさぐようにして、立派なグランドピアノが鎮座している。

 

「怒られるとか思わなかった?」

 

「(誰に?)」

 

「アンタ以外の誰でも。全人類引くアンタ」

 

「(……さっき)」つまり、仕事から帰ってきて、運び込まれたピアノを見たときだ。

 

「アンタって、やることなすことどうしてこう無計画なのよ。どうして思いついたら即で、やってから考えるの?」

 

萎れた綾波は「(ごめんなさい)」と謝る。

 

「別にいいけど。どうせ、アタシは頼まれただけだし。帰ってくるまでのボランティアさんだし」

 

綾波は神妙な顔をして立ち上がった。“ボランティア”という言い方が良くなかったのかもしれない……。心配と後悔の念がよぎったアスカの前に、綾波は株券の束をドサッと置いた。

 

「(要るだけあげる)」

 

「い、いらないわよっ! こんなもん!」

 

押入れに戻されていく株券。そこに株やリゾートの会員証が山と眠っていることに気づくのは間もなくのこと。

 

数日とはいえ、こんなルームメイトと暮らすのか……。アスカは、軽いめまいを覚えていた。

 

 

 

 

<後書き>

Youです。ご無沙汰しております。

頭の中が「あーでもないこーでもない」なうちに、月日が経ってしまいました。申し訳ありません……。

サブタイトルの前者は、B’zの曲名。

Pに北川景子、相武紗季に貫地谷しほり、伊藤英明、溝端淳平、永井大などなど、超豪華キャストの青春ドラマの主題歌です。

名実共に「真打ちの彼女」を扱わせていただく以上、やはり「王者」の歌が相応しいかと思いまして。

強いビートに一度違和感を覚えるかもしれませんが、そんなに外してもいません。ただ、自分が描いたらこうなりました、と。

物語としては、第5話の世界をベースにしつつ、最近好きな部分を上乗せして作っています。

スロットのメリハリや意外性、新旧混合のミックス感を楽しんでいただければと。

ラストの展開ですが、「それはまた、別のオハナシ」ということで……w

ではでは。




Youさんの「In This Country フィールドの天使たち」の第6話を掲載させていただきました。
前回の第5話から約1年ぶりの最新話ですね; ずっと待ってましたっ!
Youさん執筆お疲れさま&投稿ありがとうございました〜。

いやーこの最新第6話もYouさんのアダルティックな作風がこれでもか!というぐらい凝縮されていましたね。
以前にも書きましたが、大人向けの独特の世界観を持っているこの「In This Country フィールドの天使たち」は、一種独特な読後感を提供してくれますね。
今回はかなりあっけらかんとした性格のトウジの妹であるナツミも含め、多くのキャラについて描かれていますが、やはり一番印象に残ったのはレイでした。
もちろんアスカも印象に残るのですが、動のアスカに対し、静のレイの圧倒的な存在感は、静だからこそ醸し出せるパワーを感じます。
ミサトと加持が滞在するタイで行われているアジアパシフィック・カップにシンジも参加することになりましたし、日本に残るアスカとレイの共同生活も気になります。
次話も楽しみにしております!

作者のYouさんに作品のご感想をっ!
感想は作家の元気の源、是非お願い致します。



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