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ET IN ARCADIA EGO
我もまたアルカディアにありき


 17世紀の画家・プッサン(Nicolas Poussin) の作品に“アルカディアの牧人たち”という絵がある。“アルカディア”とは,イタリア・ルネッサンスの牧歌にうたわれたギリシャの「理想郷」のことであるが,その丘に,三人の若い羊飼いと女神とおもわれる女性がきちんとした構図で描かれている。青春を謳歌している三人は,くったくなく古い石棺の墓碑銘をなぞり,女神がやさしく青年の肩に手をのせ微笑んでいる。──その墓碑名に,ラテン語で“ET IN ARCADIA EGO( 我もまたアルカディアにありき)” と刻まれている。 死がまだ遠い存在である若者たちと, 人間の生と死の摂理を知っている女神と,この墓碑名──。“我もまたアルカディアにありき”という死者の言葉は,「かつては俺だって,この地上の楽園に生きていたのだ,お前たちのように。お前だってやがて...」と,今を生きるものたちに強がりを言っているのであろうか...

 いや,むしろこうだと思う。もしこの記銘を刻んだものが死者自身であれば,生前のことであったであろうし,死後に誰か他の人が刻んだとすれば,そのだれかはそのとき生きていたはずだ。銘を刻んだものが,死者自身であれ他者であれ,ノミとハンマーで大理石に文字を彫った現実の所作があった。石棺の中の死者がなんであるかは問題ではない。むしろ,この銘を実際に刻んだ人間の存在が気にかかる。

“我もまたアルカディアにありき”の「われ」は,墓碑銘を刻んだ「作者」なのだ。「その男」は,ノミの音を響かせ,大理石の飛沫を飛ばし,“わたしは今こうして地上に生を受けている”ことを実感する。彼の所作は,その証なのだ。ピラミッドをはじめ,人類が遺した遺産がすべてそうであるように。“我もまたアルカディアにありき”の墓碑銘は,「文化」という人間の所作の根源=fuenteであるとおもう。

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