みんな以外のうた オタクと永野のりこをめぐる文章

ななしのごんた


永野のりこ。
ナガノ(以下、「永野のりこ」を親しみを込めて「ナガノ」と書く)マンガはマイナーなので
ココを読んでいる人は恐らくほとんど知らないだろう。

代表作『みすてないでデイジー』(徳間書店・現在はアスペクト刊)を例にあげて簡単に言うと、
「メガネくんなマッドサイエンティストがオカッパの女(の子)を好きになるが、
気持ちをストレートに出すことができず、マッドサイエンティスト的な「ちょっかい」をかけてしまう」
というようなストーリーである。
『デイジー』の他でも『god save the すげこまくん!』や『どうしちゃったの?!KENにいちゃん』
でも基本は同じである、というか、ほとんどそのまんまである。
ナガノはよほどこのパターンに思い入れがあるのだろう。

ナガノのマンガで主役を演じるのはマッドサイエンティスト等の、いわゆる「オタク」である。
世の中で異端視されがちで、普通のマンガでは脇役にされる「オタク」が主人公というのは
珍しいのではないだろうか。

普通のマンガでは決して主役になれない「オタク」がどうして主役なのか。
それはナガノ自身が「オタク」であるからだ。
一つ例を示そう。

ナガノは小学生のころ、ある映画を見てその中の「悪いお兄さん」に感情移入したそうだ。
次の日に、学校に行って映画の話をしたら他のみんなは「主役の女の人」に感情移入していて

「主役の女の人が悪いお兄さんにいじめられてかわいそう」と言っていた。
ナガノは「悪いお兄さん」に感情移入していたため、みんなに非難されて結局「それからはもう、見た映画の話をしないことにした」という出来事があったらしい。

他にも「みんなが青春を送っていたのに自分は取り残されたようだった」等、
他人(=みんな)と違った感性を持ったナガノは世界に対する違和感を持ち続けていたらしい。
(その辺は『すげこまくん』の単行本のおまけマンガ「どろみちゃん」に詳しい)

ナガノが「オタク」であるということについて
もっと分かりやすい例で言うと、ナガノは怪獣・特撮・アニメ・音楽が非常に好きである(笑)

世間一般の「みんな」と違う視点を持つ。「みんな」と違った感性を持つ。
それは、現代に特徴的な自我である「オタク」である証拠に他ならない。

世界と切り離された自分。今ある世界に違和感を感じる自分。
それを感じた人は、ある人は「世界と統合しようと必死になる」し、
ある人は「オタクになって自分の世界を作り逃避する」。

後者の、「オタクになって逃避する」のは、「世界に統合しようとして必死になる」よりは楽だが
その分、いざ世界に出る必要に駆られたときに困る。
世界は(少なくとも今の世界は)オタクにとってまだまだ「冷たい世間」だからだ。

昔のオタク(仮に「オールドオタク」とでも呼ぼう)は自分たちを否定しかかってくる冷たい世間から自分(たち)を守るために、必死で理論武装した。自らを正当化するために、たくさん本を読み「自分が何者であるか」を探した。

昔のオタク(仮に「オールドオタク」とでも呼ぼう)にはそういう屈折があった。
そして理論派のオールドオタクが世に出始めて、世の中に居場所を作った。

若いオタク(「ニューオタク」と呼ぶ)はオールドオタクの屈折を持たない。
「オタクの遊び場」はオールドオタクによって整備され、
オタク関係のモノを取り扱う店も増えた。居場所は既に用意されていた。
ニューオタクは、ただ楽しい時間を過ごし、オタクは同じオタクジャンルの中で広がりつつも閉じていった。

ニューオタクは、自分たちがオタクであることについて、あたりまえのように誇りに思い、当然のように「自分はオタクである」と振る舞う。
しかし、彼らが世間に出たとき、実際にはまだ冷たい風が吹いているのを知らない。
「オタク」はまだ世間的には少数派であり、世界は変わった者、少数派の者に対してひどく傲慢だからだ。

その傲慢性が現在の日本で一番表れているのが「いじめ」である。
個人的な印象で恐縮だが、
小・中学生時代にいじめられなかった「オタク」というのは存在するのだろうか?
オタクなら誰しも、多かれ少なかれ、いじめられたり、からかわれた経験はあると思うのだが。
(私自身も中学生時代にはいじめられたこと有。)

いま思えば中学時代というのは校則に縛られ、勉強に縛られ、学区に縛られ、
かといって逃げることもできず、(昔は「不登校」なんて単語なかった)
息の詰まるような生活の中でエネルギーを発散できずにいる故、
誰かがスケープゴート(いけにえ)となって、いじめられなくてはならなかったのではなかろうか?

“来るんじゃなかった そう思いたいけど思えないよねえ(中略)
まだ知らないんだものね 原さんは 家と学校 その外に それ以外の場所がはてしなくあることなんて”
(『電波オデッセイ』1巻より)

『電波オデッセイ』(アスペクト刊:現在も「コミックビーム」で連載中)
は、今までのナガノ作品とは違って、ギャグのオブラートに包まれていたシリアスな面をストレートに描いた作品である。
基本的な舞台は中学校。

カンタンにストーリーを紹介すると、

「この世界に絶望しかけ、登校拒否をして「消えたい(=死にたい)」と思っていた主人公の少女・原さんは、目の前に突然現れた、人型をした謎の存在「オデッセイ」に「君は旅の途中で地球に来た『観光客』なんだ。ここ(地球)から持って帰れるおみやげは心だけ」ということを言われる。
原さんはオデッセイの言葉によって意識のベクトルが変わり、
たくさんの「おみやげ」(=良き思い出)を探すために外に出て、いろいろな経験をする。」

という話である。その中で、いろいろな出来事、リリカルな文章が連なりこのマンガは構成されている。

『電波オデッセイ』では世界にいることの辛さ(いじめ、争い、恋愛の悩み、親に捨てられた子ども等)
が描写される。

“きこえてくるのは 『悪いニュース』ばっかり ぜんぶのことばのうしろに『あのこと』が かくれている だからもう なにもききたくない あと一撃で もうおしまいだ
あとひとつでも そんなニュースをきいたら ほんとにもう この世界をおしまいにしなければ”
(1巻より)

原さん、そして原さんの同級生は世界の辛さによってさまざまに悩む。
しかし、彼らは視点を変えること、そして周りの善意によってそれぞれ立ち直ってゆく。

『電波オデッセイ』1巻では原さんの友達、トモ子が自分の存在を認められなくなり、拒食症になって悩む。

トモ子は自らを、若山牧水の有名な歌
「白鳥は 悲しからずや 空のあお 海のあおにも 染まずただよう」
に出てくる白鳥になぞらえ、“かなしい かんじだよ”と言う。

この歌は教科書にも載っていて、読んだことのある人も多いと思う。
トモ子(そして、この歌の読者の大多数)はこの歌を

“私は もう 生まれてしまって ここにいる
青い空にも 海にも とりまくすべてに 紛れられず
切り離された 世界の中に 白くおとされた 点のような
かなしいかんじだよ”
(1巻より、トモ子のセリフ)

と、悲しい歌だと読解していることだろう。

しかし、永野のりこはこの歌に新しい視点を導入している。
「新しい視点」とは、原さんが牧水の歌の白鳥について、トモ子に語りかけた

“(とりは)泣いてたねっ かなしくて!! 
でもさ 「泣きながら 目え閉じて 飛ぶのもやっぱ あぶねーし」とか思ってぇ
でさ 目をあけて 顔をあげて 見てみたら
空がね 青いわけよ 海もね もう 青くてさ
とりは そのとき
ああ 空も海も 青くて「キレイだな」って思ったんじゃないのかな
そんでなんだかもう 目を見開いて 白い点みたく漂っていることなんか 忘れちゃって
そんな自分のようすなんて 見えなくなって そうして
飛んでいったんだよ
青い空と 青い海を 見ながら 「その向こうに なにがあるのかな」って”
(1巻より、原さんのトモ子へのセリフ)

という、新しく、それまでよりも高い位置から見た、前向きな視点である。

このように、永野のりこの漫画はかなしく辛い世界から

“でも もう なんでだか忘れちゃったけどさ
なんでかあたしが まだこうして「いる」わけだから
それって どっかになんか そっからの 抜け道が あったってことだよね”
(1巻より)

いろいろな「抜け道」を提示してくれる。

(個人的な話だが、私はいわゆる「カウンセリング」を受けたことがある。
カウンセリングとは、資格を持ったカウンセラーが薬や医療処置を使わずに、
言葉によって、クライアント(受け手)の悪い方向に固まった考えをほぐし、新しい視点を提示する行為のことである。
カウンセリングという行為はクライアントにとっての新しい視点=「抜け道」を示唆してくれる行為である。

ナガノのマンガはある意味この「カウンセリング」に近いのではないだろうか?
少なくとも私はナガノのマンガを読むと、カウンセリングを受けたときのように大泣きしてしまう。
そして涙を流した後は非常にすっきりするのだ。ナガノマンガを読む行為は私にとってカタルシスである。)

“青い空にも 海にも とりまくすべてに 紛れられず 切り離された”
「世間に交われない白鳥」とは、オタクであるところの私や、あなたのことかもしれない。

しかし、ナガノマンガは
“青い空と 青い海を 見ながら 『その向こうに なにがあるのかな』”と思って
「飛んでいった白鳥」という、さらに高い視点で私たちを苦しい世界から高みへ引き上げてくれる。

「オタク」は世間にもたくさんいるが、ナガノのマンガの支持者は今のところそれほど多くない。
何故かというと、いかにもオタク受け(オタク受けの一例:アニメ絵で童顔の巨乳ガールがさえない主人公にいきなりベタ惚れ、等(苦笑)のしそうな雑誌でなく、
「少年キャプテン」(徳間書店『みすてないでデイジー』等)や
「コミックビーム」(アスキー『電波オデッセイ』)というマイナーな、「まんがマニア受け」の雑誌で連載したり、メジャー媒体での連載もあったが、それはオタクからは最も遠いであろうと思われる「ヤングマガジン」(講談社『GOD SAVE THEすげこまくん!』)での連載だったりして、ナガノは非常に「オタク向け」のマンガ家であるのに何故か今まで「オタク向けの雑誌」でほとんど連載したことがなかった。

ナガノのマンガのテーマは、シリアスな作品においてはもちろん、ギャグな作品においても重い。
重い故、現実逃避しているオタク者にはキツいかもしれない。
でも、私は自分のこの「オタクである苦しみ」から目を背けたくないし、
「自分のオタク性」について考えたいと思っている私のようなオタク者もたくさんいるはずだ。

そんなナガノが新しく連載をはじめることになった。
6月末に新しく講談社から創刊される「マガジンZ」というマンガ雑誌である。
この雑誌「マガジンZ」は数年前から増えた「メディアミックス」型

(注※メディアミックス型…アニメでの進行が先に予定され、あわせた形でマンガが描かれること。メジャーな例でいうと
「少年エース」での『新世紀エヴァンゲリオン』の連載や「週刊少年サンデー」での『機動警察パトレイバー』等。)

のマンガ雑誌で、メディアミックス型の作品&その他マンガ家のオリジナル作品(ナガノの新連載は後者)で占められるという。
インターネット上での予告で「マガジンZ」に掲載されるメディアミックスの作品名を見ると、
オタクを対象としているだろうと思われる作品が多く見られた。
(メディアミックス型、という形自体がそもそもオタク向けという感じもするが^^;)
「マガジンZ」でナガノの作品が連載されるということは、
ナガノのマンガの読者に成りうるだろう「オタク」にナガノ作品をアピールする絶好の機会ではないだろうか!!
これからナガノマンガの読者が増え、オタクな彼らがナガノマンガに共感し、救われることを私は期待する。

ただのギャグマンガを求めるなら、ナガノを読む必要はない。
他にもっと面白いマンガはいくらでもある。
ただ、絵がうまいマンガを求めるなら、ナガノを読む必要はない。
ナガノより絵がうまいマンガ家なんて星の数ほどいる。
ただ、浮き世のつらさを忘れるためにマンガを読むなら、ナガノを読む必要はない。
ナガノのテーマは重い。

しかし、あなたが、この「違和感を感じる世界」にあって「ここで生きる」方法を知りたいなら、
ナガノを読め。そこにキーワードがあるはずだ。

追伸:

ここまで書いてなぜか思い浮かんだのは鶴見済(『完全自殺マニュアル』『檻のなかのダンス』等)。
鶴見済とナガノって「違和感を感じる世界」へ「何らかの形でアプローチ」しているという点で近いかな、と
思います。
ただ、鶴見済は「苦しい世の中から逃げちまえ」と言っていてある意味消極的だけど
ナガノのマンガには「苦しい世の中だけど、抜け道を探して突破しよう、とにかく世間とかかわりたい」
という積極性が見られます。
そういう意味では鶴見済とナガノは対立してますね。

逃げることについては否定しません。逃げる方が大切な時もあるし。(『人格改造マニュアル』には救われたよ)
でも、私もやっぱり「世間とかかわりたい」からナガノの方が好きなんです。


付録:永野のりこ・まんがリスト(初心者向け)

『電波オデッセイ』1〜3巻
『ちいさなのんちゃん』(育児まんが。永野のりこは一児の母である。笑えて泣ける本)
『ハネムーンプラネット』(ナガノ描くところの家族まんが)
『みすてないでデイジー』全2巻(ナガノの原型ギャグまんが)
『Sci-Fiもーしょん!』(ナガノの初の作品集)
『GIVE ME たまちゃん!』全2巻(ナガノ版『夏への扉』)
『科学少年01くん』(ナガノの基本・SFマンガ集)
(以上アスペクト(アスキー)刊。漫画専門書店で探すか、アスキーダイレクトで通販しましょう)

『GOD SAVE THE すげこまくん!』全12巻・ナガノクロニクル(講談社刊)
『どうしちゃったの?!KENにいちゃん!』ナガノエッセンスはこの1冊で!(ワニマガジン社刊)

他にもあるがとりあえず割愛

・インターネット上のナガノ

永野のりこについてのサイト「ミミちゃん」。<まずはココ。基本。


モドル

1999/06/20 Nanashino