S t u d i o U T A H I M E / K A N S U I G Y O
Maria Sama Ga Miteru
マリア様がみてる
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笙子・オーバードライブ


01: 蔦子さんと笙子ちゃん

「蔦子」
それは音声にならなかった。写真部の展示会場の受け付けに座る生徒が、プロのような商業用の微笑をたたえてこちらを見上げる。もう一度、おなかに力を入れて。
「蔦子さま、武嶋蔦子さまはこちらにいらっしゃいますか?」
「蔦子さまは今は不在なんです。」
受付の生徒は申し訳なさそうに言い、
「スケジュールは一応あるんですが、何しろ今日は学園祭ですから、蔦子さまは撮影に飛び回っていて私達にも正確な行方はつかめないんです。」
と答える。
「そうなんですか。ありがとうございました。」
内藤笙子はそう言って会場の奥に目をやる。すると目に入るのは、モノクロやカラーの写真の断片で、青い空、若い男性の笑顔、奇妙に曲がったコンクリートの壁。
見覚えのある写真の一部が見えている。これは確か去年の蔦子さまの最高傑作、「躾」だ。
「ちょっと見ていってもいいですか?」
笙子がそう言うと、
「どうぞ」
またしても、あの微笑み。かつて自分もそうだったから、これが訓練されたものだと笙子にはわかる。
会場に入って「躾」の前に立つ。去年の写真の再掲だからか、会場の入り口に近い隅にそれはある。写っているのは紅薔薇様の小笠原祥子さまとその妹、福沢祐巳さま。まだ姉妹になる前の姿だけれど、この写真がきっかけで姉妹になったという話も聞いている。祥子さまはやわらかな目で制服のタイを直し、祐巳さまは少し驚いたような、でも素直で自然な目をしている。それはまるで既に姉妹であるかのよう。運命。奇跡。そんな言葉が笙子の頭をよぎる。そして次に心に浮かぶのは、蔦子さまの顔、縁のない眼鏡レンズ、カメラボディのクロームの輝き。
高等部のバレンタインデーのイベントにフライング参加して、そこで笙子は蔦子さまに出会った。蔦子さまは賢くて、やさしかった。それ以来、蔦子さまのことは一度も忘れたことはないけれど、でもそれから一度も会っていない。
会ってしまったら、あの約束を果たしてしまったら、もうつながりが途切れてしまうような気がしたから。
でも今笙子がここにいるのは、蔦子さまに会う決心ができたから。学園祭という、祭りの雰囲気がそうさせたのかもしれない。勢いでここに来てしまったけれど、蔦子さまは撮影に飛び回ってるはずで、会えない可能性のほうが高いのはちょっと考えればわかりそうなものだった。バレンタインのイベントでも、姉の制服を持ち出したまではよかったけど、その後のことはあまり考えていなかった。我ながら成長してないな、と思う。
笙子は会場を出て、高等部のあちこちを見て回ったが、蔦子さまに会うどころか姿を見かけることもなかった。
会いたい。今は素直にそう思える。
会えたらその後どうするの?そんなのまだわからないに決まってるじゃない。

「困ったなぁ」
学園祭の翌週のある放課後、教室で写真の整理をしながら武嶋蔦子は伸びをする。
その様子を見つけて、祐巳さんが近寄ってくる。いつもの陽気な足取りだ。
「蔦子さん、どしたの」
「ああ、祐巳さん」
祐巳さんは机に広げられた写真の中の一枚を見て、
「わかった。蔦子さんはこの写真の子のことで悩んでいる!」
立ったまま人差し指を勢いよく蔦子に向ける。もう一方の手は腰で、背をちょっとそらしている。
今度はそうきたか。相変わらず面白い人だ。でも悩んでいる、というのは本当。当たってる。蔦子は平静を保ち、そのことが表情に出ないようにする。
祐巳さんは近くの椅子を引きずってきて蔦子の近くに座ると、写真に顔を寄せてくる。
「それ、チョコちゃんでしょ。バレンタインの」
「笙子ちゃんよ。一年椿組、内藤笙子。内藤克美さまの実の妹。」
「一年?!」
祐巳さんの目が丸くなる。
「そう。だからバレンタインのときは中等部。道理で見当たらないはずだわ。」
「高等部の制服を着てたけど」
「多分お姉さんの制服を持ち出したんでしょ。」
「そうか!」
この独特のテンポの遅さと大げさな身振り。祐巳さん今日もいい味出してるなぁ。
「でもさ、」
祐巳さんは真顔になって蔦子を見る。黒くて大きい、よどみのない瞳が蔦子の目を見る。
「身元が判明したなら悩むことないじゃない。写真を渡しちゃえば終わりでしょ。」
「そう、終わり。終わっちゃうんだなぁ」
うかつだった。「終わっちゃうんだなぁ」は余計だった。すかさず祐巳さんが食いついてくる。珍しいこともあるものだ。
「蔦子さん、」
と言うと祐巳さんは蔦子の肩に手を置き、顔を近づける。少し上目使いになっている。
「わたし、蔦子さんにはいつも助けられてるでしょ。だから何か、少しでもお手伝いできれば、と思って。」
蔦子は不思議に思った。へえ、祐巳さんもこんな表情をするんだ。いや、するんだろうけど、初めて見た。
蔦子は答える。
「別におせっかいでやってる訳じゃないのよ。おもしろそうな人にちょっと質問するだけで。わたしが答えるんじゃなくて、その人自身が答えを見つけるの。だからわたしが助けた訳じゃない。」
そういえば、そんな哲学者がいたっけ。確か奥さんがすごく怖い人で。でもそれならどうしてそんな人と結婚したんだろう、と蔦子の思考は彼方へ飛ぶけれど、
「蔦子さん、」
祐巳さんの顔がいつの間にかさらに近づいていて、それが蔦子を現実へ引き戻す。
これか。これに祥子さまはやられたのか。祐巳さんのことだから計算はないはずだけど、かなりかわいい。恋愛なんて随分遠ざかっている(ような気がする)けれど、これを食らって平気でいられる人はあまりいないだろう。蔦子はそこで、あまり動揺していない自分に気づいた。これ以上笙子ちゃんのことに突っ込まれたくないし、もうひとつ思いついたこともある。こんな表情を自分もできるのか、と。
そこで蔦子は思い切り上目使いになって額を祐巳さんの額に押し付ける。目はそらさない。
放課後の教室で二人きりの女子高生が超高濃度で見つめ合う異様な光景が数秒間続いた。二人とも目に力が入りすぎている。
先に吹き出したのは祐巳さんのほうだった。
「蔦子さぁん!」
目に涙を浮かべて、全身で笑っている。
蔦子も次第に我慢できなくなって、最初は小さく、次に豪快に声を出して笑った。

その日はその笑いを最後に、祐巳さんと別れた。
笙子ちゃんに写真を渡せない本当の理由を、祐巳さんは気づかなかったに違いない。蔦子には確信があった。なぜなら祐巳さんはそういう人で、それが祐巳さんのいいところだから。
そして蔦子は、自分の中で次第に笙子ちゃんに焦点が合っていき、その像が鮮明になっていくのを感じていた。
四角く切り取られた、時空のカードが無限に舞う中で。



02: 薔薇の館

会おうと思うと、会えない。
笙子は今まで何度か蔦子さまを校内で見かけたことはあった。銀杏並木、中庭、そしてマリア像の前。
そういうところに足を運んでみても、やはり蔦子さまはいない。写真部の部室に行けば会えると思うけど、いつまでもそこで待ってる訳にはいかないし。蔦子さまは二年松組だから、休み時間に二年松組に行けば会えるんだろうけど、休み時間は短いし。できれば昼休みとか放課後がいいな。そうすれば、写真をもらうだけじゃなくて、なくて、えへへ。
笙子は突然目の前に人がいるのに気づいた。笙子は座っていて、その人は立っているから顔が見えない。その人の顔は音もなく下がってきて、笙子の視界に入る。深い緑の制服、白い手、切りそろえた前髪。
「のっ乃梨子さん!」
「ごきげんよう、笙子さん。」
乃梨子さんは笙子の机の反対側にしゃがみこんで、机に頬杖をついている。
「いっいつからここに?」
「三分ぐらい前かな。まぁ、落ち着いて。」
笙子は何も言い返せない。耳まで赤くなっていくのが自分でもわかる。
「悩んでいる割には、楽しそうだったけど、百面相。祐巳さまも時々するけどね。」
祐巳さま。紅薔薇のつぼみ。乃梨子さんは、白薔薇のつぼみ。お姉さまは確か藤堂志摩子さま。白薔薇。二年生。二年生?
笙子は顔をあげて、
「乃梨子さんのお姉さまとお話がしたいの。ある二年生の人について。」
と尋ねる。二年生の志摩子さまなら、蔦子さまのことを知っているかも。笙子は時々思うことがある。自分って結構チャレンジャーだなぁって。
「その『ある二年生』が誰か、聞いてもいい?」
黒い瞳がまっすぐ笙子を見る。威圧的なところはないけれど、意思を感じる。
笙子が答えずにいると、乃梨子さんは、
「蔦子さまに変な顔の写真でも撮られたの?」
と言って立ち上がる。
「どうして」
次の言葉が出てこない。そうじゃなくて、なんて言ったらいいか・・・
「じゃさ、これから薔薇の館に行こう、一緒に。志摩子さん、いるから」
乃梨子さんはかばんを取りにいき、鍵がかかっているのを確かめてからこちらに戻ってくる。
「でも、薔薇の館って」
「大丈夫。わたしがついてるから。」
と乃梨子さんは笙子の手をとって歩き出そうとする。笙子はあわてて自分のかばんを持ち後についていく。
薔薇の館に着くまで、二人は無言で、ずっと手をつないでいた。

「さて」
と言うと乃梨子さんは手を離して、ノックもせずに薔薇の館の扉を開ける。少し軋むような音がするけれど、
「薔薇の館へようこそ、笙子さん。」
と大げさに手招きする。
「でもわたしなんかが入っていいの?」
「志摩子さんに用があるんでしょ?それで問題ないよ。さあ」
と言って、笙子の後にまわり両肩を手のひらで押し、二人で薔薇の館の中に入る。乃梨子さんは扉を閉めると、
「この学校って、変だよね」
と言いながら笙子の前を通り過ぎ、階段を上っていく。笙子は後に続いて階段を上る。この階段は足を乗せるとはっきりと軋む音を出すので、笙子は少し不安を感じる。
「変?」
「そう。生徒会役員が『薔薇様』とか呼ばれてるし、生徒会室が独立してるのは良いとして、名前が『薔薇の館』。いったいどこの、いつなの、ここは。」
「でも乃梨子さんは、ロサ・ギガンティア・アン・ブゥトン、なんでしょう?」
笙子は流暢に発音してみせる。
「もう慣れたよ、そのへんは。基本的にみんな良い人だし。濃いけど。でも変なものは変。」
笙子はずっとリリアンなので、乃梨子さんのいうところの「変さ」が今ひとつつかめなかった。

二階の会議室の扉からは、少しだけ話し声が漏れ伝わってくる。内容まではわからない。気後れのせいか、笙子は思わず下を見てしまう。古ぼけた木の床、お菓子のような扉、鈍いクロームのドアノブ。
そして乃梨子さんは何の前ぶれもなく扉をあけ、中に入ってしまう。笙子は少し戸惑ったが、続けて中に入る。
「ごきげんよう」
乃梨子さんの声が聞こえる。
「いいところにきたわね、乃梨子。」
笙子は声の主に目をやる。色白で長い巻き毛のきれいな人が目に入る。この人は藤堂志摩子さま。ロサ・ギガンティア。
「こちらの方は?」
と志摩子さまが言う。志摩子さまの隣に座っているのは島津由乃さま。その隣は多分新聞部の人だと思うけど、名前が思い出せない。
「あ、」
と乃梨子さんが言いかけるけれど、
「一年椿組、内藤笙子です。」
笙子は自分で答えた。大丈夫、声が裏返ったりしてはいない。
後ろ向きに座っていた祐巳さまが立ち上がって振り返る。理由はわからないが、最大限に微笑んでいる。この微笑みは作られたものではない。とても自然なものだ。祐巳さまはそのまま無音で笙子の横に歩み寄り、左手をひらめかせて笙子の耳にあて、小声でささやく。
「知ってるわよ」
世界がゆっくり、確実に回り始めた。何か、どこかにつかまらなきゃ。早く。このままじゃ・・・
祐巳さまはさらにもう一言ささやく。
「フ・ラ・イ・ン・グ!」
なんだ、そっちのほうか。いつの間にか世界は止まっていて、笙子はまっすぐ立っている自分に気づく。席に戻る祐巳さまが見える。その席の隣に座っていてこちらを振り返って見ているのは、写真部のエースで副部長の武嶋蔦子さま。
笙子の周りで、世界がまた、回り始めた。

新聞部の真美さんの企画で、由乃さんの写真を撮った。リリアンかわら版で月末の剣道の交流試合を応援する記事を掲載するのだが、それで使われるものだ。その写真ができあがったので、真美さんの企画を元にどの写真をどこに使うかの打ち合わせが今、薔薇の館の二階の会議室で行われている。
集まったのは山百合会からは祐巳さん、由乃さん、志摩子さん。令さま今週はずっと部活で不在、祥子さまもお父様の都合でしばらく日本にいないらしい。新聞部からは真美さん、写真部からは蔦子が参加している。
それで次第に企画はまとまりつつあり、「リリアンの制服で竹刀を構える真剣な表情の由乃さん」、を主たる写真として使うことになった。由乃さんが迫真の演技で竹刀を真剣白刃取している写真もあって、蔦子としてはこれもぜひ載せたかったが、今号では没になった。写ってはいないが真剣白刃取で竹刀を持っていたのは祐巳さん。祐巳さんと由乃さんがどうしても竹刀で遊んでしまうので、なんでもない写真なのに撮影が大変だった。
「じゃ、これで決定ね。」
真美さんがシャープペンシルでレイアウトを大まかに描いた紙を軽くたたく。二度。それと同時に、蔦子の後方でビスケット扉が開いたようだ。
「ごきげんよう」
二条乃梨子ちゃんの声だ。白薔薇のつぼみ。
「いいところに来たわね、乃梨子。」
と志摩子さんが言って、続けて問いかける。
「こちらの方は?」
もう一人誰か来ているのか。しかし蔦子は気にとめず写真の片づけをしようとテーブルに手を近づける。
「あ、」
と言う乃梨子ちゃんに続いて、蔦子は意外な名を耳にした。
「一年椿組、内藤笙子です。」
祐巳さんが立ち上がった。蔦子の目は祐巳さんを追う。いつもの無邪気なステップだが、今回は足音がしない。振り返る蔦子の目にあの少女の姿が飛び込んでくる。内藤笙子。少しウェーブのかかった髪、ダークブルーのリボン。白くて細い手首。
祐巳さんは笙子ちゃんの側に立つと、何か耳打ちをした。
一瞬笙子ちゃんは動揺したようだが、すぐ立ち直ったように見える。
祐巳さんが満面の微笑をたたえて戻ってくる。無音だ。
「笙子さんのご用件は何なのかしら?」
志摩子さんが言うと、乃梨子ちゃんは、
「お姉さまとお話がしたい、と」
と言うけれど、
「でもその必要はないみたいね」
と今度は笙子ちゃんに向かって言う。
「蔦子さま」
笙子ちゃんは蔦子に向かって歩き出すけれど、目がうつろだ。
「ちょっと、大丈夫?」
由乃さんが音を立てて椅子から立ち上がる。
「笙子ちゃん!」
蔦子のその一言で笙子ちゃんの目に光が戻り、蔦子の座る椅子まで歩いてくる。
祐巳さんが、
「ごめんね笙子ちゃん、わたしが変なこと言ったせいで」
と謝るが、笙子ちゃんは
「いいえ、祐巳さまのせいではないんです。ちょっとめまいがして。でももう大丈夫です。」
と答えて、蔦子のほうに向き直る。
「ごきげんよう、蔦子さま。」
「ごきげんよう、笙子さん。」
とは言ったものの、二人とも次の言葉が出ない。笙子ちゃんは何も言わず笑んでいるが、カメラを向けているわけでもないのに不自然な笑みだ。無言のうちに時が刻まれる。蔦子はこのままではよろしくない、と思い、場面転換を図ることにした。ここは人が多すぎる。
「わたしこの子と写真の約束してるんだわ。部室に戻るね。真美さん、後は任せた。」
と言って蔦子が立ち上がると、真美さんは腕を上げてOKのサインを出す。
「祐巳さん、さっきのことは気にしないで。大丈夫だから」
と蔦子は祐巳さんの肩を軽くたたく。
「行きましょう」
蔦子は自分のかばんを持つともう一方の手で笙子ちゃんの肩に触れ、開いたままのビスケット扉を通って会議室を出る。そして階段を下りて、二人で中庭に出る。

「行っちゃいましたね。」
ビスケット扉を閉めてさっきまで蔦子さんが座っていた椅子に乃梨子が腰掛けて言う。
「笙子さんはわたしに用があったのではないの?」
志摩子が尋ねるが、乃梨子が言うには笙子ちゃんは最初から蔦子さんと話がしたかったらしい。
「でも何かただならぬ雰囲気じゃなかった?あの二人。」
由乃さんが身を乗り出してきた。志摩子もそう思っていたところだ。
「やっぱりそう思いますよね、普通。」
と乃梨子。
「はぁ〜」
これは祐巳さんのため息。
「わたしが変なこと言ったからかなぁ」
「それはないって」
というのは由乃さん。
「本人が否定してたじゃない」
「それに、こういうときの蔦子さんはあてになるのよ。大丈夫。」
真美さんが銀色のシャープペンシルを器用に回しながら言う。クロームのメッキが一瞬、光を放つ。
志摩子には祐巳さんだけが事態を把握していないように思え、多分そうなのであろうが、このことはこれ以上祐巳さんには言わないことに決めた。



03: 「お土産」と「お願い」

「まさか、薔薇の館で会うことになるとはね。」
蔦子は笙子ちゃんとクラブハウスにつながる通路を並んで歩いている。
「でもどうしてわたしが薔薇の館にいるってわかったの?」
「勘です。思いつきによる勢いのせいです。」
面白い子だ。しっかりしてて、行動力もある。カメラを持たせればいい写真を撮るだろう。妹として問題ない。妹?誰の?
蔦子は考え込んでしまう。この子は危険だ。これ以上深入りすると平常心を保てなくなってしまいそうだ。撮影者としての本能が、そう告げている。蔦子は常に被写体とは第三者の位置にいることに徹してきた。そのほうが被写体の自然な部分を引き出せると信じているからだ。だからこそ、盗撮まがいのこともしてきた。
「蔦子さま、わたし、お邪魔ですか?」
無言の時間が長かったせいか、笙子ちゃんがそんなことを聞いてきた。
「いいえ。全然。」
と蔦子は答えるけれど、また無言になってしまう。

写真部の部室についた。
「さあどうぞ」
蔦子はドアをあけ、笙子ちゃんを中に迎え入れる。
「お邪魔します」
と笙子ちゃんが言うけれど、部室には誰もいない。
「まあ適当に座って」
蔦子はテーブルの周辺に乱雑に置かれた椅子を示す。
笙子ちゃんが座ると、その隣の椅子に蔦子は座り、白い大きな封筒をテーブルに置く。その封筒には「笙子ちゃん」と書いてある。蔦子はその封筒から写真を取り出して並べてみせる。
「うわぁ、こんなにたくさん」
「バレンタイン以降に撮ったのもあるからね。」
蔦子はもうひとつ包みを取り出してテーブルに置く。それはきれいな包装紙で包まれていて、リボンがかけてある。
「これは?」
「お土産よ。修学旅行の。ま、たいしたものじゃないけど。」
「わたしに?」
「それ以外に誰かいるとでも?」
蔦子は笑ってみせる。この笑顔は自然に見えるだろうか。
「あけてもいいですか?」
と笙子ちゃんが聞くので、
「どうぞ」
と言う。
笙子ちゃんが包みをあけると、それは写真立てだった。シンプルでとてもかわいらしい。
「ありがとうございます!!」
「どういたしまして。」
笙子ちゃんは早速何枚か写真を手にとると写真立てにあててみたりしている。が、そのうちに手の動きが止まる。顔もうつむいてしまい、表情がわからない。
「笙子ちゃん、どうしたの?」
蔦子が立ち上がり声をかけると、笙子ちゃんは顔をあげて、
「蔦子さま・・・」
とつぶやく。目に涙が浮かんでいて、一粒のしずくが頬を伝い流れ落ちる。そして笙子ちゃんは突然蔦子に抱きついてきた。蔦子は押されて椅子に座ってしまい、笙子ちゃんは床にひざをついている。
これは想定していなかった事態だ。でも蔦子の両手は自然に笙子ちゃんの背中にまわる。
「蔦子さま・・・」
笙子ちゃんが小声で言う。
「お願いが・・・あります」
蔦子は何も言わない。
「妹に、してください」
蔦子は何も言わない。
これも想定外だが、実はそんな風に期待したことがない訳でもないのだ。しかし、撮影者の立場を貫くには。
「蔦子さま・・・」
別に妹ができたからって、撮影活動に大きな影響が出るとは思えない。しかし、自分が自分でなくなってしまうような気もする。撮影者としての本能が、警告を発する。でも、「自分」なんてどんどん変わっていくものでしょう?三年前の自分の何パーセントが今の自分に残ってるっていうの?
「ごめんね」
蔦子が声を絞り出し、やっと言う。笙子ちゃんは体を離して蔦子の目を見る。笙子ちゃんの目は涙で真っ赤だった。
「ごめんなさい、わたし、変なこと言っちゃって。お土産。イタリアでもわたしのこと覚えていてくれたのがうれしくて。」
笙子ちゃんはそう言うとかばんを取り、
「ありがとうございました。蔦子さま。ごきげんよう。」
立ち上がった笙子ちゃんは後を向き、部室を出て行こうとする。
蔦子は座ったまま立ち上がれない。
「昼休みは、昼休みはたいていここにいるから。またいつでも来て。」
そこまで言ったところで笙子ちゃんはドアを開けて部室を出て行き、見えなくなった。
ドアが閉まる。蔦子はしばらく呆然としていた。笙子ちゃんの写真やお土産の写真立てがそのまま残されている。
これでよかったのだろうか。イタリアで密かに買ったもうひとつのお土産、ロザリオがかばんの中に入ったままなのを蔦子は思い出した。急に涙が溢れ出してきた。眼鏡を外して目をこすってみたけれど、涙が止まらない。自分はこんな、感情に流されるような人物じゃなかったはずだ。でも、涙が止まらない。蔦子は部室のテーブルに突っ伏して泣いた。ほかに誰もいないことが、せめてもの救いだった。



04: 志摩子さんと乃梨子ちゃん

「蔦子さんは今日お休みなのよ」
昼休みの薔薇の館。志摩子はお弁当を食べながら乃梨子に話し掛ける。
「笙子さんは来てますよ」
ご飯を一口飲み込んでから、乃梨子が答える。
「何かあったようね。」
「やっぱりそう思います?お姉さまも」
「蔦子さんはね、他人との距離のとりかたがうまいのよ。指摘も的確。洞察力もある。でも」
「自分のことになると」
「そのようね。」
志摩子は箸を置いて、自分の手を見る。巻き毛が一筋崩れて、その手首に落ちかかる。そこにはかつて聖さまからもらったロザリオがあった。今そのロザリオは、乃梨子の首にかかっている。
「別にそんなに考え込まなくても、もっと気軽に渡してしまえば良いのに。」
「お姉さまがそれを言いますか、それを。」
乃梨子は意地悪そうに言ってくる。
志摩子はちょっと笑ってから、
「そうね。きっと今の蔦子さんは、あの時のわたしと同じ心境なのでしょう。」
志摩子は乃梨子のほうを見て、
「わたしね、蔦子さんに借りがあるの。乃梨子とのことで。たいしたことではないんだけれど、助けられたのよ。」
と言う。乃梨子は卵焼きを箸でつまんでいたが、それをお弁当箱に戻してしまう。
「だからね、少し背中を押してあげようと思うの。少しだけね。それだけで、蔦子さんには全て伝わると思うわ」
「それなら、わたしも微力ながらお手伝いさせていただきますね。」
と言って、乃梨子は卵焼きを口へ運ぶ。
ビスケット扉が開き、祐巳さんが入ってきた。
「後れてごめん。もう食べおわっちゃった?」
「いいえ」
志摩子は再び箸を持ち答える。
「今日由乃さんがお休みでね、蔦子さんもお休みなの。由乃さんはともかく蔦子さんは珍しいよ。どうしたんだろ」
祐巳さんは椅子に座ってお弁当の包みを開きながら、
「蔦子さん、心配だな」
志摩子が乃梨子に目配せする。
「笙子さんは来てます。特に変わったところはありませんでしたよ。」
と乃梨子が言うと、
「そっか、それならいいんだ。まぁ、蔦子さんだってたまには体調くずすときもあるよねぇ。」
と祐巳さん。
今度は乃梨子が志摩子を見る。
祐巳さん、本当にわかってないんだなぁ。
でも、そのおいしそうにお弁当を食べる祐巳さんを見ていると、なんだか心が休まるような気がしてくる志摩子なのだった。



05: 薔薇の館の異変

放課後。薔薇の館。令さまは由乃さんの病気がうつったとかで、今日からしばらく病欠らしい。だから今、薔薇の館には志摩子さんと乃梨子ちゃん、それと祐巳の三人しかいない。今日はまた真美さんが来るのかもしれないけど、それ以外は別にすることもないのでみんなでお茶を飲んでいた。
窓際に座って学園祭の書類を見ているのは乃梨子ちゃん。べつに真剣に見ているわけでもなく、流し読みしているようだ。
「あ」
と乃梨子ちゃんは声を上げる。すばやく何ページかをめくると再び手が止まる。
「ここと、ここも」
「どうしたの、乃梨子?」
志摩子さんが声をかける。
祐巳も乃梨子ちゃんの側による。
「ここと、ここですが、数字が合っていません」
志摩子さんも資料を覗き込み、
「本当だわ。」
「本当だ。」
祐巳にもそれが単純なミスだということはわかる。しかし重要なのは、それがお金に関することだからだ。先生方に提出した書類にミスがあったとなれば、今後どんな悪影響が出るかわからない。すぐ訂正して再提出しなければ。
「問題は、ですね」
乃梨子ちゃんが言う。
「それはわかってるって」
祐巳が答える。なんで志摩子さんも乃梨子ちゃんも落ち着いてるんだろう?
「この他にも間違いがあるかもしれないということです。」
「えー!!」
祐巳は驚いて変な声を出してしまう。
「間違いがありそうな書類はどのぐらいあるのかしら?」
志摩子さんは冷静だ。
「えっと、このへんかな。ここから、ここまでの7冊。」
と言うと乃梨子ちゃんがそのファイルをテーブルに持ってきて並べる。
「これを全部見るの?!」
「おそらくは。」
祐巳は文字通り頭を抱えた。両肘はテーブルにつけている。
「志摩子さん、どうしよう」
「とりあえずミスがあったことを先生方に知らせて、そのあと確認後再提出、かしらね。」
と志摩子さん。あくまで冷静だ。
「今から確認を始めますか?」
「今日はもう遅いから、先生への連絡だけして、あとは明日にしましょう。祐巳さん、これでいいわよね?」
やっと落ち着いてきた祐巳だが、
「そっそうしましょう」
と言うのがやっとだった。さすが、志摩子さんは二年生でも薔薇様だけのことはある。
「じゃ、わたしたちは職員室によってそのまま帰ることにするわ。祐巳さんも無理せず、今日は帰りましょう。」
志摩子さんと乃梨子ちゃんはファイルを一冊だけ持って、会議室を出て行った。
さあて。このファイルをどうする。今週は三人しかいないから手がかかりそうだ。一日や二日では終わらないだろう。
その時、ある考えが祐巳の頭に浮かんだ。「助っ人」だ。
だれか暇そうな人にお手伝いしてもらおう。今日はもう誰も捕まらないだろうから、明日誰かに頼もう。
そう思うと、少しだけ肩が軽くなったような気がする。
祐巳は三人分のカップを洗うと薔薇の館を出て、家路についた。



06: 薔薇の館の異変(2)

「やっぱりちょっと無理そうな感じだよねぇ」
昼休み、薔薇の館。ファイルをざっと見ていた祐巳さまが言う。青いファイルの表紙。クロームの止め金具。端が少し折れた白い紙。
「乃梨子ちゃん、一年生でお手伝いしてもらえそうな人、いるかな。あ、可南子ちゃんと瞳子ちゃん以外でね。」
お弁当箱を片付けながら乃梨子が答える。
「どうして瞳子や可南子はだめなんです?」
「学園祭の時にいろいろしてもらっちゃったからね。あんまりタダ働きさせても悪いし。だから今回は別の人で、誰かいないかな?」
「そうですね。」
祐巳さまの言うことはもっともだ。乃梨子は考える。仕事ができて、暇があって・・・・そうだ。
「いい人がいますよ」
「えっ!誰?」
祐巳さまはテーブルに身を乗り出してくる。
「一年椿組の内藤笙子さん。」
「笙子ちゃんかぁ」
祐巳さまは今度は背をそらせて椅子にもたれかかる。
「悪くないと思いますが。祐巳さまと縁がないわけでもないですし。」
しまった。「縁」は余計だったか。蔦子さま、申し訳ない。
祐巳さんは少し考えているようだったが、
「よし。決めた。放課後迎えに行くから、掃除が終わったら教室で待ってて。」
と言う。乃梨子は、
「はい、祐巳さま。」
と答えて同意する。志摩子さんも頷いている。ちょっと生活に変化があったほうが、笙子さんも気がまぎれていいでしょう。きっと。
蔦子さまは、多分、大丈夫なはず。理由は、祐巳さんが話題に出さないから。

「お手伝い?わたしが?」
放課後の一年椿組の教室で、笙子は自分で自分を指差している。
「そう。簡単な仕事だから。ただ量が多いうえに人が足りなくて。」
乃梨子さんは困った様子で言う。
「別にいいけど」
写真部の部室には行きにくいけど、薔薇の館なら、なんとかなるかな。あれ以来、蔦子さまとは会っていない。
「蔦子さまも来るの?」
笙子は思い切って聞いてみる。
「来ないよ。今回の件は山百合会内部の話だから。」
しばらく考えていた笙子だけれど、
「わかったわ。行きましょう」
と答える。
「ありがとう!」
乃梨子さんはあまり人前で笑わないようだったけれど、こんな乃梨子さんの笑顔を、笙子は初めて見た。
「ごきげんよう」
祐巳さまの声だ。笙子と乃梨子さんは同時に振り返る。
「おや皆さんおそろいで。乃梨子ちゃん、説明終わった?」
「はい。来てくれるそうです」
「よかった。じゃいきましょうか」
三人は一緒に一年椿組の教室を出て、中庭に向かう通路を歩いていく。
笙子は、教室で自分たち三人を見ていた背の高い人影に気づかなかった。

中庭に出るところで、瞳子さんと出会った。瞳子さんは急に不機嫌になった様子で、祐巳さんに何か苦情を言っているようだ。瞳子さんは有名人だし、祐巳さんと対立しているという話も聞いていたけれど、どうもそうではなく、一方的に瞳子さんが感情的になって、祐巳さんはそれをなだめている、といった感じがする。笙子は聞き流しているけれど、そのうち瞳子さんは走り去ってしまった。
「なんであんなに意地をはるのかねぇ」
乃梨子さんはため息混じりだ。
「いつものことよ。元気があって大変よろしい。」
祐巳さんは全然気にしていないみたいだった。

薔薇の館の二階の会議室では、志摩子さまが待っていた。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう、笙子さん。」
志摩子さまはその微笑にそぐわないほどの量のファイルを前に座っている。
「じゃ祐巳さん、早速だけど手順を教えてあげて。」
「はい。」
祐巳さまが青い表紙のファイルをめくって手順を教えてくれる。基本的に確認作業なので、見落とさないのが第一であって、作業自体は簡単なものだ。
笙子は厚いファイルに向き合うと、リストに指を走らせながら作業を始めた。

「皆さん、終わったかしら?」
志摩子さんが問いかける。
後二つ。よし、異常なしだった。
「終わりました。」
笙子が言うと、乃梨子さんも終わったという。祐巳さまは後一ページと言ったところ。
薔薇の館って、ちょっと楽しいな、と笙子は思った。志摩子さま、祐巳さま、乃梨子さん。仲間って、こういうことをいうのかな。敦子さんや美幸さんとは違う一体感が感じられる。
「おわったー!」
という声とともに祐巳さまは机に上半身を倒れこませる。
「お疲れさま」
志摩子さまは自分の担当のファイルを置いて微笑みながら言う。志摩子さまの微笑みはずいぶんと印象が変わっていて、自然とか不自然とかを超越したところにある。いつか自分も、そんな微笑をすることができるようになるのだろうか。
「これで問題箇所の洗い出しは終わったから、あとは再計算とか訂正とかね。それは明日にしましょう。」
「思ったより少ないというか、多いというか」
祐巳さんがみんなの作業結果をつき合わせて、ため息をつく。
笙子は蔦子さまのことを思い出してみる。縁のない眼鏡のレンズ、乱雑に物が置かれたテーブル、置いてきてしまった写真立て。悲しく切なくなるけれど、以前ほどではない。この人たちと一緒にいると、少し元気が出てくるような気がする。でも、やっぱり蔦子さまのことは忘れられない。蔦子さま、今頃部室かしら。それとも運動部の撮影かしら。
「さー終わった終わった。みんなかえろ」
祐巳さんが伸びをしながら言う。
「まだ明日もありますよ。」
と乃梨子さん。
「大丈夫。明日には終わるって。ねぇ笙子ちゃん」
笙子は突然話を向けられたので、
「はい、終わると思います。」
としか言えなかった。祐巳さんって、不思議な人だなぁ。この人には表裏とか打算が感じられない。微笑みといえば、祐巳さんの微笑みも独特の良さがある。透明で無防備な感じ。
それを見ると、うまくカメラの前で笑顔を作れなくて悩んでいたことが、なんだか笙子にはどうでもよいことに思えてくるのだった。



07: 第三の女

紅薔薇のつぼみこと福沢祐巳さまが、「第三の女」を薔薇の館に引っ張り込んだことは、すでに多くの人の知るところとなっていたようだった。笙子が朝教室に入るなり、敦子さんと美幸さんが迫ってきて、教室の隅に連れて行かれる。
「薔薇の館に通ってるって、本当?」
「どなたかの妹になるの?」
「ちょっと待って。誰も妹の話なんかしてないし、ちょっとお手伝いさせてもらってるだけ。それだけよ。」
「結構祐巳さんと親しそうだったって証言もあるのよ。」
「証言!?」
「瞳子さんと可南子さんが見たそうよ。別々に。」
「通ってるって、今日が二日目なのに、そんな言い方するかなぁ。」
「祐巳さまってどんな感じの人?」
「由乃さまって怒ると怖いって本当?」
笙子はどう答えたら良いかわからず、勢いに押されただ立ちすくんでしまう。
「はーいごきげんよう」
強引に乃梨子さんが割り込んでくる。そして笙子の前に立ちふさがるように立つ。
「今山百合会ね、薔薇さまが不在でちょっと人手不足になっててさ、わたしからお願いして笙子さんに来てもらってるの」
「そうか乃梨子さんは」
「白薔薇のつぼみ。」
「そういうこと。さぁ帰った帰った」
ちょっとした人垣ができていたようだったけれど、乃梨子さんのその言葉で人垣は次第に崩れていった。
「ありがとう、乃梨子さん」
「この学校、変でしょ」
「変?」
「運動部の先輩に人気が集まったりするのは普通だけど、生徒会役員に人気が集まるって、あんまり他じゃ見かけないと思うよ。」
そう言うと乃梨子さんは席に戻っていった。
また「変」だ。わたしたちが変なのか。乃梨子さんが変なのか。
でも笙子には、やはり乃梨子さんのセンスは今ひとつつかめなかった。



08: 「メモ」と「カメラ」

昼休みの部室に蔦子はいる。さっきフィルムを一本現像し終わったところだ。
誰かがドアをノックする。蔦子は何も答えないが、その人は勝手にドアをあけ入ってくる。少しだけ胸の高鳴りを感じる。
「ごきげんよう」
新聞部の真美さんだった。笙子ちゃんとは、あれから会っていない。
真美さんは勝手に蔦子の隣に座ると、
「ちょっと話しておきたいことがあるんだけど、いい?」
と言う。蔦子は無言で頷く。
「月曜日休んでたけど、大丈夫?」
「大丈夫よ。」
真美さんは両肘をひざにつけて前かがみになり、
「土曜日、笙子ちゃんと薔薇の館を出たでしょ。あのあと、何かあった?」
と聞いてくる。
「悪いけど、その質問には答えられないわ。」
と蔦子は言い、今度は聞き返す。
「なぜそんなことを聞いてくるの?」
「自分でわからない?」
と言って真美さんは背をそらすように体勢を変える。
「写真がね、違うのよ。」
真美さんは持ってきた封筒から何枚か写真を取り出してテーブルに並べる。昨日蔦子が渡した写真と、それより前のものがある。
「武嶋蔦子の写真は、トリミングなしでもそのまま使えるほど、被写体がバランスよくフレームに入っている。」
そう言って真美さんは一枚の写真を指差す。そして別のもう一枚を指差して、
「これは昨日の写真。違うでしょ。アングルやフレーミングに迷いがある。」
真美さんはまた前かがみになり、
「だから何かがあったんだろうな、と思ったのよ。」
「まいったなぁ」
「表情に出なくても、写真には出るのよ。」
「誰かさんは顔にそのまま出るけど」
「そういうこと。」
真美さんは続けて、
「蔦子さんが何に困ってるか、聞かないわ。だけどわたしたち、二度とない高校時代を送っているわけでしょう。だから、思い切ってやったほうがいいこともあるんじゃないかと思ってるの。迷っているなら、やってみれば?その場の勢いで、でもいいから。」
「やらずに後悔するぐらいなら」
「そう。」
「真美さん、なんかオヤジみたいなセリフだよ。」
「うっすらと汗の浮かんだ女子高生の写真をコーフンしながら撮りまくっている人に言われたくはないわね。」
蔦子は小さく笑った。あれから初めて笑ったように思える。真美さんも笑っていて、それがとてもかわいらしかった。



09: 妹

「終わった〜」
両手を上げて椅子の背もたれに体を預ける祐巳。
「お疲れさま。あとは職員室にもって行くだけだわ。」
と志摩子さんが言い、
「笙子さん、乃梨子、ありがとう」
「いっいいえ、こんなことでしたらいつでも」
と言うのは笙子ちゃん。笙子ちゃんってよく見るとかわいいよね。性格も良いし。瞳子ちゃんや可南子ちゃんとは違う。まぁ、別人なんだから違って当たり前か。ノーチェックで残っているいい子も結構いるものなんだなぁ。
祐巳はお姉さまである祥子さまから、妹を作れ、と言われてしまっているが、祐巳自身は妹というものにあまり興味をもてないでいた。お姉さまには強い思い入れがあったけれど、どんな人が自分の妹にふさわしいのか、妹がいたとしても何を妹に与え求めるのか、実感がなかった。
でも。
今回の件で笙子ちゃんを見ていて、妹という存在がなんであるかわかったような気がする。
蓉子さまが祥子さまにロザリオを渡したときの気持ちが、わかるような気がする。

翌日の昼休み。薔薇の館。今日から由乃さんが復活して、二年生が三人そろった。
お弁当を食べながら、祐巳は昨日の想いを尋ねてみることにした。
「わたしね、笙子ちゃんを妹にしようと思うの」
志摩子さんと由乃さんの箸が止まる。祐巳はかまわず続けて、
「どう思う?」
「どう思うって・・・」
由乃さんは言葉に詰まっている。
「志摩子さんは?」
「そ、そうね、まだ会ってそんなに日がたたないから、もう少し様子をみたほうが良いんじゃないかしら。」
「由乃さん」
「祐巳さんがそうしたければ、そうすれば。」
なぜだか二人の反応が期待してたものと違うので、祐巳は戸惑った。由乃さんなんかOKOKゴーゴーって言ってくれると思ったのに。
「たとえば、よ」
由乃さんが箸を宙に向けながら、
「わたしがある人を妹にしたいって祐巳さんに相談したら、なんて言う?」
「由乃さんがよければ問題ない」
「でしょ」
「姉妹は個人的な関係だから、当事者以外がどうこう言うものではないわ」
と志摩子さん。
なるほど。そういうものかなぁ。祐巳は窓から外の景色を見る。校舎の窓のサッシが、クロームのように光っている。
そのとき、困り果てたような顔で由乃さんと志摩子さんが視線を交わしていたのを、祐巳は気づかなかった。

その日、掃除が終わると祐巳はまっすぐ一年椿組の教室へ行った。笙子ちゃんはすぐに見つかった。
「急で悪いんだけど、わたしと薔薇の館に来てくれないかな?」
と祐巳が言うと、笙子ちゃんは
「またなにかお手伝いですか?」
と言うので、
「今回はちょっとお話をしたいだけ。時間はかからないから。」
と祐巳が答えると、
「はい、いいですよ」
と言ってくれる。
「じゃ、行きましょう」

「可南子さん」
瞳子が後を向かずに言う。
「どうして後をついてくるの」
「瞳子さんがわたしの前を歩いているだけです。別に追いかけてる訳じゃありません。」
さっき、祐巳さまが笙子さんと出て行った。乃梨子さんはまだ教室に残っていたから、何か二人だけであるはずだ。だからって、追いかけてどうなるというのだ。
祐巳さまと笙子さんが薔薇の館に入っていくのが見えた。扉が閉まる。瞳子はそこで立ち止まる。可南子さんが追いついてきて立ち止まる。
「入ってみますか?薔薇の館。」
可南子さんが大胆なことを言い出すけれど、瞳子は答えず、ただ立っていることしかできなかった。
だから、もう一人、前髪を切りそろえた一年生が後ろにいたなんて、気づきもしなかった。

薔薇の館には、誰もいなかった。
「みんなどこ行っちゃったんだろ。ま、ちょうどいいかな。」
と祐巳さまは言う。
「ちょっと待っててね」
祐巳さまは紅茶を入れてくれているようだ。
「お構いなく」
と笙子は言うけれど、
「サービス」
祐巳さまは紅茶をテーブルに置くと、笙子と向かい合って座る。
「笙子ちゃん」
と祐巳さまはにっこりと笑って
「わたしの妹になってくれないかな」
あの、無防備な微笑み。
「それは・・・」
「スールの申し込みなんだけど、ダメかな?」
「いえ・・・」
「じゃOK?」
笙子は答えられない。
目をあげると、祐巳さまはあの微笑で待ち構えている。
微笑み。
笙子は強引に笑顔を作った。そして答える。
「今は急で、どうお答えしていいか判りません。明日まで考えさせていただいていいですか?」
「もちろん。」
「今日はこれで失礼します。」
笙子は立ち上がると、振り返りもせず会議室を出て階段を下り、薔薇の館を出た。
微笑み。
あの無垢な微笑が、今の笙子にはとても怖かった。

笙子は一年椿組の教室に戻ると自分の席に座った。あの祐巳さまの微笑が頭から離れない。蔦子さまにはスールの申し出をしたけれど、断られてしまった。今度は祐巳さまが、自分を妹に、と言ってくれている。蔦子さまのことは忘れられない。でも、忘れなければならないのだろうか。だとしたら、その方法は。
いつのまにか、涙が一筋流れ落ちていた。
笙子の様子に気づいた敦子さんと美幸さんがこちらに来て、
「どうしたの笙子さん?」
「泣かないで、ね。一緒に帰りましょう」
と言ってくれる。



10: 「事態は急を要する」

祐巳さんの感情は顔に出る。だから、祐巳さんが決意を固めていることが由乃にはわかる。しかし、放課後由乃は祐巳さんを見失ってしまった。
志摩子さんが二年松組の教室に入ってきて、小声で聞いてくる。
「どう?」
「行っちゃったみたい。でも薔薇の館とか、目立つところには行かないと思う。」
「蔦子さんは?」
「ごめん、気をつけてたんだけど、見失った。」
由乃は言う。
「でも祐巳さんに何て言うの?笙子ちゃんはやめとけって?」
「そうじゃないわ。でも笙子ちゃんは、蔦子さんのものだわ。」
志摩子さん、言い切ってる。言い切ってるよ。
「想いが一致している方を優先すべきだわ。」
そういえば、志摩子さんは祥子さまの申し出を断って、聖さまの妹になったんだっけ。
乃梨子ちゃんを妹にするときも、悩んでたっけ。
「事態は急を要するけど、まだ間に合うかも。わたし、蔦子さんを探しにいくわ。」
そういうと、志摩子さんは足早に教室を出て行った。
由乃は、というと。
「古い温室にでも行ってみるかな。」
由乃も教室を出た。



11: 銀杏の中の桜

蔦子さんはどこにいるのか。去年は同じクラスだったが、確か放課後は撮影で外に出ていることが多かったようだ。しかし、志摩子には正確に思い当たる場所などなかった。
講堂の裏手に、銀杏並木に一本だけ桜の木が混じっているところがある。志摩子にとって多くの思い出がある場所だ。いつのまにか、志摩子はここへ来ていた。桜の木の周りを一回りしてみる。すると、さっきまでは見えなかった人影が見えてくる。肩の辺りで切られた髪。縁のない眼鏡レンズ。そして手にしたカメラ。
志摩子は思わず駆け寄ってしまう。
「ごきげんよう、志摩子さん」
蔦子さんのほうが先に声をかけてくる。
「ごきげんよう」
「こんなところで志摩子さんに会うなんて、ちょっと話ができすぎているかな。この場所は、志摩子さんにとてもよく合っている、と思うのよ。」
「わたしに言わせると、ここは蔦子さんらしくない場所だわ。」
と志摩子が言い、
「いつもの蔦子さんなら、こんなところへは来ずに部活動とかを撮ってる、と思うんだけど」
蔦子さんの目を見る。そしてわかりきった上で聞いてみる。
「なにかありましたの?」
「まいったなぁ」
蔦子さんは空を見て、
「最近ね、みんなわたしのこと、変だって言うのよ。何かあったのかって。」
蔦子さんは立ち止まる。そして、
「まぁ、何かあったわけだけど。」
と小声で言う。
「そのことが何か聞かないけれど、蔦子さんは、ご自分の想いはお判りなんでしょう?」
蔦子さんは答えずに歩き出す。
志摩子も歩きながら、
「今のお気持ちをね、大切にするのがいいと思うの」
そして、
「たいていの悩み事は、他人から見たらたいしたことのないものだわ」
と続ける。
蔦子は再び立ち止まり、志摩子の目を見る。
志摩子はこんな風に蔦子さんの目を見るのは初めてだ。レンズの向こうで黒く澄んでいて、でも混乱に満ちている。
「たいしたこと、のないもの」
蔦子さんは視線を志摩子からそらして、つぶやくように言う。
「そうよ。他人から見たらね。」
志摩子は蔦子さんを見たまま、
「わたし、乃梨子を妹にするときにね、悩んだわ。でもね、ロザリオ渡したら急に楽になって。でも自分が悪いほうに変わるなんてこと、なかったわ。今は乃梨子や蔦子さんに感謝してる。」
「わたしに?」
「そう。半年前、中庭で助けてくれたわ。」
蔦子さんは志摩子に向き直って目を見つめ、両手を志摩子の肩に置く。
「考えるな、感じるんだ。」
と言う。志摩子は何のことだか判らず、不思議そうな顔をしていると、蔦子さんはかまわず続けて、
「速く動こうとするな。速いと知れ。」
と言う。
「映画のセリフよ。」
蔦子さんは手を離して再び歩き始め、
「っていうことか」
と独り言を言う。
「志摩子さん」
と蔦子さんは前を見たまま言い、
「答えは出ると思う。少し時間がかかるけど。志摩子さんの言いたいことはよくわかったわ。」
「蔦子さん」
「これからグラウンドにでも行って写真を撮ってみるよ。ありがとう。」
そして志摩子は、蔦子さんがグラウンドの方に去るのをずっと見つめていた。



12: 取材

一時間目と二時間目の間の休み時間に、二年松組の教室の後ろの入り口に立っている女の子を見つけた。確か一年の内藤笙子さんだ。薔薇の館で会ったことがある。目が合うと、軽くお辞儀をする。
真美は笙子ちゃんのいるところまで歩いていく。
「何かご用かしら?」
「福沢祐巳さまはいらっしゃいますか?」
「祐巳さんね。いるわよ。呼んだほうがいい?」
笙子ちゃんは
「はい」
と答える。
「ちょっと待っててね。」
そう言うと真美は教室の中にに戻り、考える。
昨日祐巳さんは薔薇の館で笙子ちゃんと二人だけで何か話をした。そのことは由乃さんから聞いている。何でも乃梨子ちゃんが薔薇の館に入る二人を見ていて、志摩子さん経由で由乃さんに情報が入ってきたところだ。
笙子ちゃんは、何か重大な案件であそこに立っている。間違いない。
祐巳さんの姿も見えるけれど、真美は由乃さんの所に行く。
「笙子ちゃん、きたわ」
「どうするの?」
「さりげなく取材しましょう。」
「インタビューが取れるわけないと思うけど」
「聞こえてくるものは仕方がないでしょう」
それだけ言うと、真美は祐巳さんのところへ行き、笙子ちゃんが来た事を告げる。

まったく、真美さんったら。
祐巳さんが笙子ちゃんと教室を出るタイミングを見計らって、真美さんは教室の前の扉から廊下に出る。由乃も後に続く。
「由乃さん、こっちを向いて、そのままついてきて」
由乃は真美さんと向かい合わせになる。真美さんは祐巳さんの背中側から近づいて行くので、由乃もそれに合わせて後ろに下がって移動する。多分、外から見ると雑談する二人組みが二組いるように見えるだろう。そのうちの一方が、別の一組に近づいていく。
「止まって。後ろを振り返らないで。」
と真美さんが小声で言うと、笙子ちゃんの声が聞こえてくる。
「・・・昨日のお話、お受けしようと思います。」
「よかった、ありがとう」
これは祐巳さんの声。
由乃は真美さんと顔を見合わせる。
祐巳さんの声が続く。
「ロザリオが、まだないのよ。新しいのを用意するから、少し待ってくれる?」
「はい」
祐巳さんは祥子さまのロザリオは手元に残すつもりらしい。
「月曜日の放課後、マリア像の前でね。ロザリオはその時。」
「はい。」
「そうだ、蔦子さんに写真とってもらおうよ、ね。」
笙子ちゃんは答えない。
「蔦子さんにはわたしからお願いしておくから。じゃ今日はありが」
祐巳さんがそこまで言ったところで、真美さんが後ずさりして祐巳さんから離れていく。由乃もそれに続いて真美さんとの距離を保つ。
「もう後ろをみてもいいわよ」
と真美さんが言うので振り返ると、祐巳さんの姿は廊下にはなく、笙子ちゃんの後ろ姿が見えるけれど、角を曲がって見えなくなってしまう。
「これが『取材』なの?」
「まあね。でもこの方法は志摩子さんには通じない。」
「やったことあるの?」
「さぁ」
真美さんは両方の手のひらを上に向けて、肩をすくめて見せる。
まったく、真美さんったら。
あきれてものも言えないわ。



13: 「あの人」

乃梨子は朝から笙子さんの動きを気にしていたが、一時間目の休み時間に見失った以外、目だった動きはなかった。放課後になっても、笙子さんはなかなか帰ろうとせず、何かの文庫本を読んでいる。教室の生徒が少しずつ減り、笙子さんと乃梨子だけが残った。そのとき、笙子さんは立ち上がると乃梨子のほうへ歩いてきて隣に座る。
「乃梨子さん」
笙子さんは乃梨子の目をじっと見つめる。
「わたし、どうしたらいいかわからない。」
乃梨子は今回の三角関係について詳しく知っている。祐巳さまが片想いなのも、蔦子さまが写真か妹かの二者択一を迫られていることも。それでも、蔦子さまが笙子さんのことを想っていることも。
でも、こういうことはまわりの人たちがいくら走り回っても、最終的には当事者が決めることだ。
乃梨子は何も答えず、笙子さんの手をとった。
笙子さんはやっと絞り出したような声でつぶやく。
「わたし、このままじゃ・・・」
乃梨子は手にすこし力を入れて言う。
「笙子さん、笙子さんが本当に大切に想う人はだれ?」
笙子さんは答えない。
「それが誰だかわかっていれば大丈夫だよ。」
笙子さんが手を握り返してくる。
「大丈夫。信じて。あの人は必ず助けてくれる」
「あの人・・・」
「わたしのお姉さまもそうだった。でも、わたしを捨てずに助けてくれた。だから。」
「乃梨子さん!」
笙子さんは乃梨子に抱きついてきた。乃梨子は座っているので、笙子ちゃんは床にひざをついてしまう。
乃梨子は笙子さんの背中に両手をやさしく回しながら言う。
「大丈夫。信じて。あの人を。」



14: ロザリオ

蔦子が二年松組の教室で写真の整理をしているのは、単に部室に人が多かったからだ。かばんを机の上に乗せて開け、写真の入った封筒をいくつか取り出す。
「ごきげんよう」
志摩子さんが教室に入ってくる。
「ごきげんよう、珍しいわね。こんなところで会うなんて。」
蔦子は努めて明るく言ってみせる。
祐巳さんから、来週の月曜の放課後に写真を撮ってくれるように頼まれた。祐巳さんは詳しいことを教えてくれなかったが、どうもいやな予感がする。
「乃梨子の写真、お持ち?」
志摩子さんが微笑みながら言う。
なるほどそういうわけか。
「しばしお待ちを。」
蔦子はかばんに手を入れて中の封筒を取ろうとするけれど、うまくつかめない。そこで蔦子はかばんを傾けて、封筒を手前に出そうとした。
その時、金属音とともに何かが滑り出た。
「あっ」
蔦子は声を上げる。しまった、ロザリオが。
それはすでに机上にあった別の封筒にぶつかり、机の上に止まる。ロザリオ。秘密のお土産。クロームに光るフレーム。
蔦子は思わず志摩子さんを見る。
志摩子さんは驚いた様子もなく、微笑んだままだ。
「蔦子さんにも、いろいろな想いがおありでしょう。わかるわ。」
志摩子さんは追求してこない。
「ごっきげんようっ」
突然祐巳さんが現れた。蔦子はあわててロザリオを手で隠し、そっとかばんに戻す。今の、祐巳さんに見られただろうか。
「珍しいわね。蔦子さんと志摩子さんなんて。」
「そうでもないわよ。乃梨子の写真を分けてもらおうと思ってね。」
志摩子さんは、ロザリオのことを口に出さない。
「そうなのよ。だから今ね、整理しようとしてたところ。祐巳さん、欲しい写真ある?」
蔦子はできるだけ平静を保ちながら、祐巳さんに尋ねる。

祐巳が二年松組の前を通りかかると、志摩子さんの姿が目に入った。蔦子さんと写真を見ているようだ。面白そうなので、気づかれないように教室に入った。
でも。
蔦子さんはロザリオを持っていて、あわてて隠した。なぜ隠すんだろう。誰に渡すんだろう。あるいは、誰かからもらったのか。蔦子さんは「生涯独身」とよく言っていたけど。
「祐巳さん、欲しい写真ある?」
と蔦子さんが聞いてくるけれど、
さっきのロザリオが気になって、
「ううん、今は別に。」
という言葉しか出ない。志摩子さんの微笑みのせいで、蔦子さんの気持ちがよくわからない。ロザリオのことを聞ける雰囲気じゃなかった。
「もしゴージャスなお姉さまの写真が撮れたら教えて。」
祐巳はそれだけ言うと、教室から出て行った。



15: 家族

日曜日。晴れ。蔦子は自宅の自分の部屋で過ごしている。笙子ちゃんのこと。祐巳さんに見られたかもしれないロザリオのこと。明日の放課後の撮影の約束のこと。いろいろなことが蔦子の心をめぐる。志摩子さんの微笑み。真美さんの指摘。渡せなかったお土産。
だめだ。
こんなときは体を、手を動かすに限る。蔦子はずいぶんと使っていないカメラを分解して掃除しようと思い、棚からその古いカメラを取り出す。このカメラについては、確か特集記事が載っていたカメラ雑誌があったはず。蔦子は本棚を探し、程なくその本を見つける。
その本のページをめくるうち、ある写真が蔦子の目に入る。投稿された写真だが、これといって特徴のない家族の写真。お母さんと娘。しかし、蔦子はその写真から目が離せない。若いお母さんが、まだ小さな娘を抱いている。お母さんの年齢は二十代後半ぐらいだろうか。女の子は三歳か四歳ぐらい。撮影者は多分その子のお父さんなのだろう。お母さんもその娘も微笑んでいる。志摩子さんとも、祐巳さんとも違うその微笑み。本当に気を許せる者同士の間の微笑み。夫婦の間の微笑み。親と子の間の微笑み。こんな微笑みを、自分には決して撮れないのだと、蔦子は気付く。一歩踏み込まないと撮れない微笑が、そこにはあるのだ。蔦子は本棚からアルバムを取って開く。そのアルバムには、蔦子の父や母、幼い自分が写っている。やはり、その微笑だ。
どうして、こんな簡単なことに気づかなかったのだろう。高校生の自分には想像もできない、一歩踏み込まないと撮れない微笑が、表情があるのだ。
涙があふれてくる。笙子ちゃん、ごめん。写真か、笙子ちゃんか、の二者択一なんて初めからなかったのだ。両者は共存できるどころか、笙子ちゃんを通してしか見えない世界があるのだ。
どうして、どうしてこんな簡単なことに今まで気づかなかったのだろう。
もう蔦子に迷いはなかった。



16: 愛していると云ってくれ

マリア像の前は今も様々な出来事や想いが交錯していく場所だ。そのせいかマリア像の周辺の茂みには、いわゆる獣道(けものみち)のような、ちょうどマリア像の前を覗き見できるような空間がいくつかある。蔦子もその存在を知っている。多分真美さんも知っているだろう。
約束の時間の五分前に蔦子はマリア像の前に来たが、もう祐巳さんは来ていた。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう。蔦子さん。今日はね、わたしの妹の写真をとってもらおうと思ってるの。」
「えっ」
蔦子は驚いて声をあげる。妹。可南子ちゃんだろうか。瞳子ちゃんだろうか。
しかし、そこに現れたのは、一年椿組の内藤笙子ちゃんだった。そんな、そんな馬鹿な!?
「ごきげんよう、笙子ちゃん。もっと近くに来て。」
祐巳さんがそう言うと笙子ちゃんは
「ごきげんよう、祐巳さま」
と言って祐巳さんから二メートルぐらいまでのところまで近づくが、そこで止まってしまった。
蔦子はカメラから手を離してしまう。カメラの重みが、ストラップのかかった首に伝わってくる。
なぜ。どうして。蔦子は今目の前で起こっていることが信じられない。
笙子ちゃんも立ち止まったままで、前へ出ない。
「どうしたの笙子ちゃん。蔦子さんも変だよ。目が死んでるよ」
と祐巳さんが言うけれど。ロザリオを差し出しているけれど。
笙子ちゃんを見ると、笙子ちゃんも蔦子を見ている。時間が流れていくのが見える。
「ねぇ」
どこか遠くから、祐巳さんの声がする。
その時、何かが、確実に変わった。カチリ、という音はない。
世界が一瞬大きく歪み、全てのものがかすむ。直後、世界の焦点が完全に合い、元に戻る。以前よりくっきりと。蔦子は何かを叫びながら走り出していた。

「今日はね、わたしの妹の写真をとってもらおうと思ってるの。」
と祐巳が言うと、蔦子さんは、
「えっ」
と驚きの声をあげる。
それはそうでしょう。ないしょだったんだから。
笙子ちゃんもやってきた。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう、祐巳さま」
と笙子ちゃんは言うけれど、少し離れたところで立ち止まってしまった。
蔦子さんもカメラから手を離してしまっていて、これじゃ撮影どころじゃない。
「どうしたの笙子ちゃん。蔦子さんも変だよ、目が死んでるよ」
と祐巳は言うが、二人とも見つめ合っていて、まるで祐巳の声が聞こえないようだ。こっちはロザリオを差し出しているのに。
「ねぇ」
と祐巳は声を出す。
ロザリオ。蔦子さんが隠した。見つめ合う蔦子さんと笙子ちゃん。薔薇の館。蔦子さんが笙子ちゃんを連れ出した。写真立て。
祐巳の中で、ばらばらに舞っていた事象が今、ひとつの形になって回転し、それを構成する面がクロームのようにきらめく。
「ごめん祐巳さん、この子は譲れないわ。」
蔦子さんの声がする。そんな。そんな話って。
「笙子!一緒に来て!」
蔦子さんは笙子ちゃんの手を取ると、そのまま二人で走り去ってしまった。行ってしまった。
「そんなあ」
祐巳は体から力が抜けて、地面にひざをつき、そのまま腰を落としてしまう。
「そんなことなら、早く言ってよう!」
何よこの展開。力が抜けて、涙も出やしない。
瞳子ちゃんと可南子ちゃんが、明らかにマリア像の脇の茂みにひそんでいたかのように突然現れる。
「祐巳さま」
可南子ちゃんが声をかけてくれる。
「なによ」
祐巳はちょっとやけくそな返事をする。
「お気づきにならなかったのですか、本当に?」
「知ってる訳ないでしょ!」
「祐巳さま」
今度は瞳子ちゃん。
「祐巳さまの鈍感にもほどがあります。」
また人影が現れた。もう何が起こっても驚かないんだから。
「先を越されなくて安心したわ」
と言うのは由乃さん。
真美さんもいる。
「まあそういうことだから、今回は許してあげて。もちろん記事にしないから。ね。」
「みんな、知ってたの?」
祐巳は突然現れた人たちに言う。
「一応、ね」
答えるのは由乃さん。
「志摩子さんも?」
「多分」
「なによーっ!」
もう、どうしていいかわからない。そうだ、ケーキでもやけ食いしてやる。
「真美さん!」
「はっはい祐巳さん」
「今度ケーキおごって。食べ放題で!」
「はいはい、いくらでもおごってあげるから、だから許してあげて。」
由乃さんが答える。由乃さんも真美さんも、今まで見たことのないような笑顔を浮かべていて、それで祐巳は少しだけ、許せるような気になってきて。でも、ケーキは食べさせていただきますからね!



17: 彼方の滑らかな石

志摩子は乃梨子とマリア像の周りの茂みを抜け出し、祐巳さん達に見つからないように薔薇の館の二階の会議室に戻った。
乃梨子が紅茶を入れてくれる。
「蔦子さんにはね、借りがあったのよ。乃梨子にロザリオを渡すとき。」
志摩子は続けて、
「これで返せたかしら?」
と言う。乃梨子は二人分の紅茶をのカップをテーブルに置くと、
「ええ。お姉さま」
と言って紅茶を飲む。
「でも、お姉さま」
「なあに?」
「マリア像の周りの茂みにあんなに穴があるとは思いませんでしたよ。」
志摩子はちょっと笑って、
「聖さまに教えてもらったのよ」
と答えて紅茶を飲み、
「中に入ったのは今回が初めてだけど」

写真部の部室。蔦子と笙子ちゃんのほかは誰もいない。椅子に座る笙子ちゃんの首には、蔦子のロザリオがかかっている。そして、あの写真立ては今笙子ちゃんの手にある。
笙子ちゃんは少し涙を浮かべていて、
「うれしい。蔦子さま、ありがとうございます。」
と言う。そして、
「でも本当にいいんですか?わたしで?」
と問いかける。
蔦子は立ったまま腰を折って顔を笙子ちゃんの顔に近づけて、
「少し悩んだけどね、判ったの。あなたはわたしの世界を広げてくれるって。縛るどころか。だから。」
と言い、今度はちょっと背をそらしたように立ち、片手を胸に当てて、
「それにね、妹の一人や二人で自分を見失ったりしないわよ。わたしを誰だと思ってるの?」
笙子ちゃんは蔦子を勢い良く指差して、
「写真部のエースで副部長、二年松組、武嶋蔦子だ!」
それから二人で笑った。笙子ちゃんの笑顔は、今までに見たことのないほど良いものになっていた。
もう笙子ちゃんは大丈夫だと、蔦子は思った。



(おしまい)




あとがき

えーあとがきです。
「笙子・オーバードライブ」は、蔦子さんが自分の写真の限界を笙子ちゃんとの交流で知り、
それを乗り越え、成長するお話です。
ということなんですが登場人物が多い上一筋縄では行かない人ばかりです。

蔦子さん  :主役ご苦労様。まだまだ高校生の彼女ですが、笙子ちゃんのおかげで一歩成長できたことでしょう。
笙子ちゃん :もう少し心理を掘り下げたかったかな。もう一人の主役。普段はいい子だけど時々オーバードライブすることもある人。
真美さん  :蔦子さんのアドバイザーと言うことで、予想以上の活躍です。ご苦労様でした。
志摩子さん :このお話の影の支配者。見抜いていた人。さすがです。
乃梨子ちゃん:暗躍する白薔薇。やはり白薔薇は暗躍したほうが面白いですよね。
由乃さん  :今回はチョイ役でごめん。本誌(妹オーディション)では活躍しているので許して。
瞳子ちゃん :チョイ役すまぬ。祐巳さんのフォロー有難う。
可南子ちゃん:またまたチョイ役ですまぬ。瞳子ちゃんと一緒に祐巳さんの面倒みてやってね。
祐巳さん  :悪役。ちっとも悪いことしてないのに、微笑んでいるのに、悪役。ケーキおごるから許してね。



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