S t u d i o U T A H I M E / K A N S U I G Y O
Maria Sama Ga Miteru
マリア様がみてる
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Diary

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お泊まりでGO!


三日ぐらい前から笙子ちゃんの様子がおかしい。おかしいと言うか、何か言いたげなそぶりを時々見せる。何だろう。どうした。落ち着け武嶋蔦子。なにかあったとしても、まだスールの申し込みと決まったわけじゃない。しかし、もしそうだったら、どうする?いや待て。なぜそうなる。まだ何もわかってないのに、スールだなんて。とりあえず、落ち着け、わたし。
「ふー」
放課後の写真部の部室には蔦子しかいない。深呼吸したら少し落ち着いたが、今日は胸騒ぎがする。こんな状態じゃフィルムの現像は失敗するに違いない。焼付けならまだしも、フィルム現像の失敗は取り返しがつかない。今日の分は明日に回そう。それがいい。
蔦子は椅子に座ったまま、部室をぐるりと見回す。部室には何冊か写真集が置いてある。そのうち空ばかりを収めた写真集を一冊取り、ページをめくる。最初は、どこか南の島の空。昼間の空。白い雲。そして夕焼け。蔦子はぱらぱらとページをめくり、その本を置く。そして別の、蔦子が撮った写真のアルバムを取る。祐巳さん。ころころと表情の変わる祐巳さんは、今でも最高の被写体だと思う。一年の時は同じクラスにいて、蔦子の近くにいた。二年になってもクラスは同じだが、祥子さまの妹になった祐巳さんは、なんだか遠くに行ってしまったような気がする。この奇妙な喪失感は何だろう。
そのとき、ドアが開いて笙子ちゃんが入ってきた。
「ごきげんよう」
「蔦子さま?ごきげんよう」
笙子ちゃんは普通だ。極めて普通。しかしまだ蔦子の胸騒ぎは収まらない。笙子ちゃんはかばんを置くと、蔦子の隣の椅子に座った。
「祐巳さまですね。あ、空の写真集。蔦子さまも写真集を見るんですね」
と笙子ちゃんが言うので、
「わたしだって写真集ぐらい見るわよ。家にもたくさんあるしね。」
そこで笙子ちゃんの表情が硬くなる。なんだ。どうした。ついに来るのか?!
「あの」
「何?」
落ち着け、蔦子。まだ何も始まっていないじゃないか。
「家、なんですけど」
「家がどうかしたの?」
「蔦子さま」
家、というからにはスール方面の話題ではないようだ。しかし、言いにくそうに笙子ちゃんは言葉を搾り出す。
「蔦子さまの家に、遊びに行きたいんですけど、週末に」
つながった。たしか週の頭に、今週末家族が誰もいなくて週末は私一人、なんて話をしたんだった。もしかして、笙子ちゃんはその話を聞いてからずっと言いあぐねていたのだろうか。かわいいなあ。しかし、もしかしたら妹にしてくれ、なんて言われたらどうしようと思っていた私は何なのだろう。安堵とともに、笑いがこみ上げ、声を出してしまう。
「蔦子さま」
「ごめん、ちょっと思い出し笑い。ごめんね」
「それで、どうでしょうか」
「いいわよ。歓迎するわ。日曜日でいいわね」
「土曜日からはどうでしょうか」
「いいけど、土曜日は午前中学校だから時間が少ししか取れないわよ」
「あの、そうじゃなくて」
蔦子は気づいた。待て待て、土曜日「から」ってなんだ。「から」って。
「笙子ちゃん」
「はい」
「あなたの望みを、簡潔に言いなさい」
笙子ちゃんはため息をつき、息を吸うと、一気に言った。
「週末、蔦子さまの家に遊びに行きたいんです。お泊りで。」
「お泊まり、ね」
「はい・・・」
「その点は、笙子ちゃんとしては外せないんだ?」
「だめでしょうか?」
「いえ、そうじゃないのよ。そういうことを随分してないな、と思って。」
「それじゃ」
「おもしろそうね。いらっしゃい」
「はい!」
笙子ちゃんの笑顔がとてもまぶしい。写真一筋でやってきたつもりだけど、写真とは無関係にこんな気持ちにさせてくれる子に出会えるなんて、今まで思ってもみなかった。
「うちにはカメラとか写真しかないし、ご馳走もできないけど、それでもいい?」
「はい。蔦子さまと一緒にいられるなら」
こういうことはあまり平然と言わないものだと思うが、このふわふわ美少女ときたら。大物なのか、天然なのか。結局今回の話はスールとは無関係だった訳だけど、これじゃ胸騒ぎが収まらないじゃないか。
「土曜日、一度家に帰ってから最寄の駅まで来て。駅まで迎えに行くから」
「駅から遠いんですか」
「歩けるけど、近くは無いわね。」
「わかりました」
笙子ちゃんは憑き物が落ちたようにニコニコしている。蔦子は当日のことに想いを巡らす。食べ物はコンビニ調達でいいだろう。自転車で迎えにいけるし。問題ない。問題は。
「ねえ、笙子ちゃん」
「はい」
「当日やりたいこととか、他に連れて行きたい人とか、いる?」
「いえ、別に。わたし、蔦子さまと二人がいいんです」
まあ、それならそれでいいでしょう。この武嶋蔦子、受けて立ちましょう。
結局、蔦子の胸騒ぎはドキドキに変わり、それは土曜日まで続いたのだった。



駅の改札を出て少し歩くと、蔦子さまが立っているのが見えた。蔦子さまはジーンズで、薄いコートを引っ掛けるように着ていて、ラフな格好も絵になる。けれど、脇に止めてあるかごがついた自転車が緊張感を崩している。
「蔦子さま!」
笙子は小走りに蔦子さまに近寄ると、思わず腕を取る。蔦子さまは、
「いらっしゃい」
と声をかけてくれる。
「ご、ごきげんよう」
なんだか変な挨拶になってしまった。蔦子さまは笑って、
「今日は「ごきげんよう」じゃなくてもいいでしょう」
「そうですよね」
笙子は思わず下を向いてしまう。電車を降りるまで、蔦子さまを見るまではあった原因不明の勢いは、なんだかなくなってしまった。蔦子さまに学校の外で会うのは初めてで、恥ずかしいような気になる。
「寒いのにそんなミニスカートで」
「気合ですから」
「うちでごろごろするだけなのに?」
「いいんです」
「ま、いいけど」
蔦子さまは笑っているようだ。そして、笙子のバッグを自転車の前のかごに入れてくれる。
「うちにね、何も無いのよ、食べ物とか、飲み物とか、お菓子とか。これから買出しに行くけど、いい?」
「はい」
「買出しといっても、コンビニだけど」
蔦子さまは自転車を押して、笙子と並んで歩く。
「静かないいところですね」
「住むにはね。通勤通学にはちょっと不便かな」
少し歩くと、蔦子さまは、
「ここにしましょ」
と言ってコンビニの前に自転車を止める。笙子は自分のバッグを自転車のかごから持ち出して、蔦子さまの後をついていく。
コンビニに入ると中は広くて、驚くべきことに奥のほうは書店になっているようだ。
「ここ本屋さんもやっているんですか?」
「そうよ。24時間やってる本屋さん。便利でたまらないわ」
蔦子さまはそう言うと、お菓子の棚の前に行き、手当たり次第にかごに放り込んでいる。いや、よく見るとちゃんと選んでいるようだ。
「そんなに買うんですか」
と聞くと、
「いや、だって本当に何も無いから。余ったら家族の誰かが食べるし。笙子ちゃんも好きなの買っていいよ。今日はわたしのおごり。」
「でも、そんな」
「いいのいいの気にしない。それに、ここで買っとかないと本当に後悔するから。笙子ちゃん、辛いの大丈夫?」
「はい」
と笙子が答えると蔦子さまは激辛ポテトチップスをかごに入れている。
それなら、と笙子は前から食べてみたかったチョコレートのお菓子を二種類、蔦子さまのかごに入れた。
「ありがとうございます」
「素直で大変よろしい」
蔦子さまは笑った。そうだった。この笑顔が見たかったんだった。今日これからもたくさん見られるといいな、と笙子は思った。
お菓子でかごがいっぱいになると蔦子さまはもう一つかごを取った。
「晩ご飯と明日の朝ご飯も買わないとね」

もう一つのかごをお弁当やサンドイッチでいっぱいにした蔦子さまは、レジで会計を済ますと大きな袋を二つもって店の外に出る。自転車のかごに飲み物の入った重い袋を入れ、お菓子の袋はハンドルに下げる。
「ごめん、笙子ちゃん、バッグ入らなくなっちゃったから自分で持って」
「はい、もちろん」
自転車のハンドルはかなり重くなっているはずだが、蔦子さまは苦も無く押していく。二人で並んで歩いていると、笙子はなんだか楽しくなってきた。新婚さんって、こんな感じなのかしら。二人で買い物した帰り道。新婚さん。考えすぎよ、笙子。何よ、新婚さんって。
「どのぐらい歩くんですか」
「15分ぐらいかな。ちょっとあるよ」
「蔦子さまは毎日歩いているんですか」
「まあね。慣れよ。慣れ。」
それから、蔦子さまといろいろなことを話した。昨日見たテレビ番組のこと、二時間目の先生のギャグがすべったこと、電車で見かけたかっこいいOL風のお姉さんのこと―



「さあ、着いたわ」
ここが蔦子さまの家だ。一戸建てで、敷地が広い。蔦子さまは自転車をガレージに入れたが、このガレージは自動車が三台とめられるだけの広さがある。その端に蔦子さまは自転車を止める。ガレージの真ん中に、赤いスポーツカーが止まっている。車に詳しくない笙子が見ても、かっこいいと思う。滑らかな曲面で構成されたその車の後部には、大きな羽がついている。
「この車、かっこいいですね」
「あら、笙子ちゃん車のことわかるの?」
「わかりません」
蔦子さまは笑いながら、
「兄貴の車よ。RX-7っていう、もう古い車なんだけど、随分お金かけてたわ」
「RX-7.・・・」
「そう。でも兄貴は「FD」って呼んでる。「俺のFDに触るなよ」とかね。でも二人しか乗れないし、不便な車。ドライブ専用。」
笙子は重大なことに気づいた。
「蔦子さまにお兄様がいらっしゃるんですか?」
「そうよ。話さなかったっけ?」
「いいえぇ」
笙子は大げさに驚いてみせる。
「そっか、でもまぁ、そういうことなのよ。兄貴は今週は友達と出かけてるから安心して」
「はあ」
「いきましょ」
蔦子さまはお兄さんとあの車でドライブしたりするのだろうか。そんなことを考えると、何故か面白くない笙子だった。あれ、なんで面白くないんだろう。
蔦子さまはガレージのシャッターを閉じると、袋を持って階段を上り始める。ガレージは道路面と同じ高さにあるが、蔦子さまの家の庭は階段を上がった一段高いところにあり、ガレージの上にも広がっているのだ。階段を上ると二階建ての大きな家が見えてくる。
蔦子さまは玄関の鍵を開け、ドアを開けながら、
「笙子さん、武嶋家にようこそ」
と大げさに手招きをする。笙子はどうしたらいいかわからず、
「お、お邪魔します」
と言うのが精一杯だった。
「何緊張してるのよ」
蔦子さまは笙子の頭をぽふ、とたたく。
だって憧れの蔦子さまのおうちに入るんだもん。お泊りなんだもん。
「蔦子さま」
「何?」
「今までお友達をご招待したことはあるんですか?」
「うーん、ないね。真美さんも、祐巳さんも、ここに来たことは無いよ。というか、笙子ちゃん、あなたが初めてよ」
そう言われると、なんだかうれしくなって笑みがこぼれてしまう。
「なによ今度はニヤニヤして」
「えへへ」
「さあ上がった上がった」
広い玄関を少し歩くと階段があり、蔦子さまの後をついて笙子は階段を上っていく。二階の廊下の少し先にあるドアを、蔦子さまは荷物を床に置いて開ける。
「ここがわたしの部屋。入って」
笙子は促されるまま蔦子さまの部屋に入った。
「うわあ」
思わず声が出てしまう。広い。十二畳、いや十四畳ぐらいはあるだろうか。手前に本棚があり、その隣に机があって、それとは別に部屋の真ん中に大きなテーブルがあり、その上にはアルバムや写真が散らばっている。部屋の一番奥にベッドと窓がある。このベッドも大きい。セミダブルぐらいはありそうだ。机の反対側の壁には洋服屋さんのフィッティングルームみたいなカーテンつきのブースがあり、そこには見覚えのある黒い機材が置いてある。そして、写真部の部室と同じ薬品の臭いがかすかにただよう。
「どうですか、この部屋は」
「どうって、すごいですよ蔦子さま、わたし感動しました」
「大げさな。でも女子高生の部屋には見えないでしょう?」
「無駄な飾りが無くて、機能的ですね」
「ほめ言葉と受け取っていいのかな?」
「もちろんです!」
蔦子さまは荷物を持って部屋の真ん中のテーブルに行く。さっきは見えなかったソファがテーブルの向こう側にある。蔦子さまは笙子をソファに座らせるとテーブルを手早く片付け、お菓子やお弁当の入った袋を置く。
「もともとは二つの部屋だったんだけど、わたしが中等部のときに壁をブチ抜いて一つにしたのよ」
蔦子さまは袋からお菓子を取り出して並べ、飲み物の入ったペットボトルを取り出す。
「あ、コップが無い。ちょっとまってて」
呼び止める間もなく、蔦子さまは部屋を出て行ってしまった。
笙子は深呼吸をした。蔦子さまの部屋は、部室と同じ匂いがした。なんだかそのことが楽しくて、思わず笑みがこぼれてしまう。いかにも蔦子さまらしい。部屋を見回してみる。あの黒い機材は基本的に学校の暗室にあるものと同じで、写真を焼きつける装置のようだ。薬品や現像用のバットが整然と並べてある。使うときはカーテンを閉じて遮光するのだろう。テーブルに目を戻すと、ここにも本棚が壁に沿って作り付けてある。そこには、本や雑誌の他に古いカメラが何台も並べてある。笙子はその棚に、飛行機の模型が二つあることに気づいた。飛行機。蔦子さまが飛行機好きなんて話は聞いたことが無いけれど、でも、笙子はその飛行機がとても気になった。一つは三角で尖っていて、もう一つは三日月のような三角で丸い。そして両方とも白く塗られている。白くて尖った三角と、白くて丸い三角。なんだか蔦子さまの秘密を知ってしまったような気がして、笙子はちょっとワクワクした。
「お待たせ」
蔦子さまがコップを持って戻ってきた。
「コーラでいい?」
「はい」
蔦子さまは笙子のコップにコーラを注いでくれる。自分のコップにも注ぐと、
「じゃ、なんかよくわかんないけど乾杯」
と言ってコップを差し出すので、笙子もコップを差し出して、軽くぶつけて音を出す。
蔦子さまと顔を見合わせて、笑う。
笙子は思う。多分、今、人生で最も楽しい時を過ごしているのかもしれないと。

少し外が暗くなってきたので、蔦子さまが部屋の照明のスイッチを入れた。リモコンだ。
「それで、飛行機なんですけど」
「飛行機がどうしたの?」
「あれです」
笙子は棚の飛行機の模型を指差す。
「ああ」
「蔦子さまは飛行機お好きなんですか?」
「ちょっとだけね。お父さんの影響。あとでお父さんの書斎を見せてあげるわ。飛行機だらけよ」
「あの飛行機、面白い形ですね」
「笙子ちゃん、飛行機のことわかるの?」
「わかりません」
蔦子さまは声をあげて笑い、
「丸いほうはアブロ・バルカン。イギリスの爆撃機。尖ってるほうはアメリカのXB-70、バルキリー。実験機。」
と教えてくれるけど、さっぱりわからない。
「アニメやSFに出てくるやつじゃないんですか?」
「両方とも実在した飛行機よ。もう30年前ぐらいになるけど」
「そんなに古いんですか!」
「にしては、古くないでしょ」
「はい。未来の飛行機のように見えます」
「笙子ちゃん」
「は、はい」
蔦子さまはコップをテーブルに置いて、こちらを見ている。レンズの向こう側の、黒い瞳。
「あなた、センスがあるわ」
「そ、そうですか」
「飛行機でもカメラでもなんでも、性能を追求すると自然に美しくなるのよ。初めて見て、あの二機を優れていると思えるなんて普通じゃないわ」
「そ、そうですか」
蔦子さまの顔がだんだん近づいてくる。
「あなたは気づいてないかもしれないけど、あなたには色や形について才能があるのよ」
「そ、そうなんでしょうか」
蔦子さまの気迫に押されて、そうなんですか、しか言えなくなってしまう。あの、そんなにアップにならないでください。蔦子さま。
「あなたを弟子にする決心がついたわ」
蔦子さまは既に「熱く語るモード」に入っているようで、もうこちらから口をはさめない。
「写真部に入ったら、写真をやらないといけないわけよ。でもあなたがどのぐらいできるか、見当がつかなかった。でも、バルキリーがかっこよく見えるなら、バルカンがかっこよく見えるなら、大丈夫だわ。笙子ちゃん、カメラ持ってる?」
「姉のお古のデジカメしかありませんが」
「三百万画素ある?」
「わかりませんが多分あると思います。買ったときは高かったと言ってましたから」
「結構。早速来週からそれで撮ってみて。被写体は何でもいいから」
写真のことになると、蔦子さまはとたんに真剣になる。そこがかっこよくて、素敵なところなんだけど。でも、「妹」じゃなくて「弟子」なんだなあ。今蔦子さまは、完全にカメラマンになっているんだわ。笙子はそう思うことにした。
「バルキリーには、悲しい話があってね」
蔦子さまは一度模型のほうを向いて、頭の後ろに両手をおき、深くソファに座りなおした。そして天井を見ながら、
「いろいろあって、バルキリーは、二機だけこの世に生まれ出ることができたの。本当は、もっとたくさん作られる予定だったんだけど」
蔦子さまは天井ではなく、まるで空を見ているように、
「その二機は姉妹といっても良かった。この世で二人だけの存在だった。でも」
蔦子さまは今度は頭を抱えるように前かがみになり、
「事故が起こってしまったのよ」
「事故って?どんな?」
笙子の問いに、蔦子さまはまるで自分の親戚に何かがあったように言う。
「妹、二号機のほうがね、別の小型機と空中衝突。操縦不能になって、ばらばらに分解して飛び散って。パイロットは一人は脱出できたけれど、もう一人はバルキリーと一緒に天に召されてしまった。モハベ砂漠で。」
蔦子さまは深く息をつき、天井を見ている。
「これは実話なのよ。でも伝説のバルキリー、北欧ではワルキューレと言うけど、これと妙に符合するんだわ。ワルキューレの仕事は戦場で死んだ戦士のうち、有能な者の魂を大神オーディンの王宮ヴァルハラに連れて行くことなの。だから、この世に二人現れたワルキューレのうち一人は、一人の有能な戦士をみつけ、その魂とともにヴァルハラへ去った。そういうわけなのよ」
蔦子さまはため息をつき、
「ミーハーかも知れないけど、そういうドラマがあるのも、わたしがバルキリーを好きな理由なの」
ワルキューレの話にはよくわからないところもあったけど、蔦子さまってクールで理知的だけなんじゃなくて、ロマンティストでもあるんだな、と笙子は思った。蔦子さま、かっこいい。
「ごめんね飛行機の話なんかしちゃって。つまらなかったでしょう。わたし、語りだすと止まらないから」
「それはよくわかってますよ」
笙子はちょっと笑って言った。部室でもよく蔦子さまはこんなふうにノンストップ語りをすることがある。話の内容がわからなくても、笙子はそんな風に語る蔦子さまを見ているのが好きだった。
「よくわかっている、だとう」
蔦子さまは突然、笙子の両肩に手を置いて押してきた。顔は笑っている。笙子はソファに手をついて支えようとしたがすべってしまい、そのまま蔦子さまに押し倒されてしまう。蔦子さまは笙子に完全に覆いかぶさり、今蔦子さまの頭は笙子の頭のすぐ隣にある。耳同士が触れ合っているし、胸が押される。蔦子さま、胸が結構大きいんだわ。でもこれちょっとアブナい状態じゃないかしら。蔦子さまの胸の鼓動が伝わってくる。笙子の胸の鼓動も速まってくる。蔦子さまは何故か動かない。
「蔦子さま」
その声が終わらないうちに、蔦子さまはソファに手をついてゆっくりと上半身を起こす。笙子の正面に蔦子さまの顔が来る。蔦子さまは片手で眼鏡を直すと、そのまま髪をかきあげる。蔦子さまの顔をこんなに近くで見るのは初めてだ。綺麗。笙子は思わず蔦子さまの背中に手をまわしてしまう。私たち、どうなってしまうのかしら。部屋には二人きりで、他には誰もいない。もう心臓が破裂しそうだし、お腹も・・・え、お腹って、何よ。
「笙子・・・」
蔦子さまはそう言ったきりこちらを見つめている。その時、笙子のお腹が空腹の音を発した。蔦子さまは破顔一笑、
「こいつめぇー」
といって抱きついてきた。ぎゅうぎゅう抱きしめられる。笙子は恥ずかしかったけれど、やっぱり笑いがこみ上げてきて、蔦子さまを抱き返す。ひとしきり抱き合うと、蔦子さまは腕を笙子の体から離し、上体を起こして座りなおす。そしてまだ笑みの残った表情で、
「食事にしましょうか」
と言う。



蔦子はキッチンの電子レンジで温めたお弁当やサラダをテーブルに並べる。丸いトレーに載ったオードブルのセットのラップをはがしながら、
「こんなのでごめんね。手作りが良かった?」
と言うと、
「いいえ、蔦子さまとならなんでも」
と笙子ちゃんは返してくる。
「そう、よかった」
蔦子はさらりと流したけれど、やっぱり・・・だよなあ。
蔦子はフライドポテトをつまみ、口に放り込む。笙子ちゃんも唐揚弁当を食べ始めた。笙子ちゃんはご飯を一口飲み込むと、
「蔦子さまはお料理とかしないんですか?」
「しないねえ」
このところ蔦子の生活は写真を中心に回っている。お料理とか、編物とか、したことがない。レトルトのカレーを温めるのは、料理とは言わないだろう。
「まあ、わたしは写真屋さんだから。」
そう言って、ハンバーグを割り箸で切り分ける。
笙子ちゃんはしばらく無言で食べていたが、突然、
「さっきわたし達抱き合いましたよね、ソファで」
蔦子は口の中のご飯を吹き出しそうになった。事実だが、そこだけ切り出すとなんともエロティックな響きだ。
「わたしのお腹が鳴らなかったら、蔦子さまどうしてました?」
極めて難しい質問だ。どう答えたものか。あのときは、蔦子自身どうしていいかわからなかった。綺麗な子だと思いながらただ笙子ちゃんを見つめるばかりで。
「もしわたしが男だったら、キスしてたかもしれない」
・・・最悪の答えをしてしまったかもしれない。
「いっ一般論よ。男女の仲なら、そうしたことで進展していくんでしょうね」
このフォローの効き目はいかがなものか。
「本当はね、どうしたらいいかわからなかったの。」
「実はわたしも、どうしたらいいかわからなかったんです。ドキドキして」
と言って、笙子ちゃんはたくあんを摘み上げる。笙子ちゃんは、それ以上追及してこなかった。

笙子ちゃんはオードブルのトレーに残ったエビチリをつつきながら、
「蔦子さまはお菓子とかも作らないんですか?」
と聞いてくる。
「つくらないねえ」
「バレンタインでチョコ作ったりしませんでした?」
「高等部に上がってからは、してない」
バレンタインは写真撮影で忙しくて、それどころじゃないのだ。
「チョコあげたことはあります?」
「ないねえ」
「じゃ、もらったことは?」
「あるわよ」
笙子ちゃんが身を乗り出してきた。
「誰からですか?」
「いや、そんなんじゃないのよ。写真のお礼にとか、いわゆる義理チョコ。毎年何人かくれる人がいるのよ」
「ホワイトデーにお礼してます?」
「してない。お礼にお礼してたら変でしょ。」
エビチリの残りがなくなった。笙子ちゃんはちょっと考えた様子で、
「さっき、高等部に上がってからは、チョコあげてないって言ってましたよね」
「うん」
「じゃ、中等部のときはあるんですか?」
「教えてあげない。」
「教えてくださいよう」
「教えてあげない。」
今度はそうきたか。蔦子は笙子ちゃんのほうに向き直り、両手を笙子ちゃんの両肩に置いて、
「俺の昔の女のことなんか聞くんじゃないぜ」
笙子ちゃんはちょっとびっくりしたようだが、かまわず続ける。
「俺が愛しているのは、おまえだけだ」
蔦子は手を笙子ちゃんの肩から離し、正面向きに座り直して足を組む。
「ってなわけで、兄貴によれば、どんなに聞かれても、男は昔の彼女の話を今の彼女にしちゃいけな」
気がつくと笙子ちゃんがこちらを見ている。目に大粒の涙をためて。
「どっどうしたの」
「蔦子さま」
「はい」
「本気にしちゃったじゃないですか」
「え」
「愛してるって、本気にしちゃったじゃないですかぁ!」
なんか今日わたし、全然ダメ。
「いや、笙子ちゃんのことは好きだよ。大好き。だから今もこうして」
「責任とってください」
「せ、責任って」
笙子ちゃんの目から涙がこぼれる。
「抱いてください」
蔦子は飛び上がるほど驚いたが、これはエロティックな意味ではないはずだ。蔦子は笙子ちゃんに両手を回し抱き寄せる。
「愛してる、って言ってください」
困った。大変困った。しかし今は「言う」の一択しかないのではないか。
「愛してるよ、笙子」
「もう一度言ってください」
「愛してる」
やれやれ。まるで子供をあやす母親のようだ。
「もう一つお願いしていいですか」
「いいわよ」
なんかもう、ちょっとやけくそ。もう、なんでもする。
「・・・キス、してください」
さっきの取り消し。
笙子ちゃんは蔦子の腕の中で目を閉じて、その時を待っている。よほど本気にしちゃったのが恥ずかしいのか、照れくさいのか。意地になっているように見えなくもない。どうする蔦子。行くしかないのか?いやしかしそれは。
電話が鳴った。蔦子は口から心臓が出るかと思ったが、笙子ちゃんから手を離し、
「ごめん。電話、お父さんの仕事関係かもしれないから」
と言ってソファから立ち上がる。蔦子は電話機のある勉強用の机に歩いていき、電話を取る。
「もしもし、武嶋ですが」
「ああ、蔦子さん?」
「真美さん!?」
「笙子ちゃんとお楽しみのところ悪いわねえ」
「!?」
蔦子は反射的に窓を見る。が、カーテンが閉まっていて外からは見えないはずだ。それに、ここは二階。
「どうして」
「部室で言ってたじゃない。今日笙子ちゃんがお泊りで来るって」
「聞いてたの!?」
「壁にキャサリン障子にメアリーって言うじゃない」
「真美さん、それ全く笑えないから。これっぽっちも」
蔦子はダメを押してやる。
「わはは」
真美さんの様子がどこかおかしい。テンションが高すぎる。
「それで今どこにいるの、真美さん」
「安心して覗いたりしてないから。かまかけただけだよん。今家。日出実が遊びに来てるの〜」
その時、電話の向こうで「ゴッ」と鈍い音がした。
「ちょっと何、今の」
「お姉さま!」
日出実ちゃんの声だ。
「真美さん、大丈夫なの?」
しばらく無音が続くが、
「ごめん、転んじゃった〜」
「どうして電話してるだけで転ぶのよ。お酒飲んでるの?」
「ちょっとだけねぇ〜」
「すみません蔦子さま」
突然声が日出実ちゃんに変わる。
「お楽しみのところ申し訳ありません」
お楽しみ。全くどいつもこいつも。
「お楽しみはどうでもいいのよ。真美さんは大丈夫なの?」
「はい、なんとか。ああっお姉さますっすみませんこれで失礼しますっ」
電話は一方的に切れてしまった。
「なんだかなあ」
蔦子は電話機を置いた。真美さんのことが心配だが、日出実ちゃんがついてるなら大丈夫だろう。その前に、自分の心配をしないと。蔦子はできるだけゆっくりソファに戻った。笙子ちゃんはうつむいていたが、蔦子が戻ると顔を上げる。まだ涙の跡が見える。
「蔦子さま、ごめんなさい」
「さっきのこと?いいって。気にしない」
電話の間に笙子ちゃんは冷静になったようだ。大丈夫。蔦子は笙子ちゃんの頭をくしゃくしゃとなでる。
「蔦子さま」
「なあに」
「もう一つだけ、お願いがあるんですが」
「何でも言ってごらんなさい」
そう言って蔦子は微笑む。
「もう少しの間、わたしを抱いていてくださいますか?」
蔦子はなにも言わず頷くと、笙子ちゃんの体に両腕を回し、抱き寄せた。笙子ちゃんが体重をあずけてくる。その重さが妙に心地よかった。この子と一緒にいると、なんだか満たされる気がする。その時祐巳さんが、祥子さまと一緒にいる祐巳さんの姿が、蔦子の脳裏をよぎる。



一階のキッチンで、食べ残しや使い終わったトレーの片づけをしているとき、笙子は半ば夢見心地だった。ソファで蔦子さまに抱かれていたときの感覚がそのまま今も残っている。蔦子さまの手のひら、胸、そして髪の匂い。でも笙子には、まだ「やらなければならないことが」あるのだった。きっと蔦子さまは驚くに違いない。自分でもなんでこんなことを思いついたのか不思議だったけれど、楽しそうだし、いいじゃない。
二階の蔦子さまの部屋に戻ると、蔦子さまは、
「テレビでも見る?」
と言って明らかにテレビとは違う、パソコンのような機械に手を伸ばすけれど、
「いえ、他にやりたいことが」
「何?」
「お風呂です」
「ああ。二階にもお風呂があるから、そこでシャワーを浴びたらいいわ。それとも湯船につかりたい?」
「あの」
「日本人なら湯船につかりたいよねえ」
いざ、となると、なかなか言い出せない。笙子はお風呂の準備のために部屋を出て行こうとする蔦子さまの袖をつかんだ。蔦子さまは足を止める。
「蔦子さま」
「なあに?」
「一緒に入りませんか、お風呂」
「え」
蔦子さまは固まっているけれど、
「いいじゃないですか。楽しいですよ。温泉みたいじゃないですか」
「うちは温泉じゃないんだけど」
「蔦子さまぁ」
笙子は蔦子さまの腕にしがみつき、上目使いで蔦子さまを見る。困惑の表情が蔦子さまの顔を流れていくけれど、
「わかった。おつきあいしましょう」
と言う蔦子さまの表情が硬いので、
「大丈夫ですよ。襲ったりしませんから」
蔦子さまは声を上げて笑い、
「あたりまえよ。もしかしたら、わたしが襲うかもよ?」
と言うなり笙子の頭をくしゃくしゃとなでるので、
「蔦子さまなら」
と言ってみる。すごく恥ずかしいけど。
蔦子さまはもう普通に笑っていて、
「一階のお風呂のほうが広いから、そっちの準備をしてくる。ちょっと待ってて」
と言って部屋を出て行く。
蔦子さまに近づきたい。蔦子さまのことをもっと知りたい。その手段として到達した結論が、「一緒にお風呂」だった。必殺技のつもりだった。うまくいくといいけど。笙子はソファで、着替えをバッグから出したりしながら蔦子さまが戻るのを待った。

「ここよ」
と言って蔦子さまが開けたドアの先は浴室につながる脱衣所なのだが、ここも広かった。長いカウンターテーブルに洗面台があり、大きな鏡が壁にかかっている。
「もうお湯は張ってあるから。お先にどうぞお客様」
「はい」
笙子は脱衣所に入り、カウンターの空いているところにバスタオルと着替えを置くと、髪を解いて着ているものを脱ぎ始める。さっさと脱いで全裸になったところでふと振り返ると、蔦子さまはまだブラとショーツをつけていた。ウェストが細い。つい見入っていると、
「見ないでよ恥ずかしいんだから」
「蔦子さまスタイルいいですねぇ」
「そんな事はいいから入りなさいよ。笙子ちゃんはもう裸でしょ」
「えへへ」
笙子はクロームのドアノブを引いて浴室に入る。ここも広い。浴槽には余裕で三人ぐらい入れそうだ。
「先にお湯に入っていいわよ」
ドア越しに蔦子さまの声が聞こえてくる。
「でも」
「いいから」
「はい、それじゃ」
笙子はシャワーからお湯を出して全身にかけ、念入りに流す。蔦子さまはまだ浴室に入ってこない。笙子はお湯に入って、ドアのほうが見えるように座る。蔦子さまが入ってきた。タオルで胸を隠している。そして、眼鏡をかけていない!
「どうして胸を隠しているんですか」
「恥ずかしいからよ。いいじゃないそんな事どうでも」
蔦子さまは胸からタオルが落ちないように器用にお風呂の椅子を引っ張ってきて座る。タオルにボディーソープをとって、体を洗い始める。
「蔦子さまはどこから洗うんですか」
「ご覧のとおり、腕から。上から下に向かって洗う」
「私と同じです!」
蔦子さんの体はあっという間に泡に包まれる。手早く体や脚をこすり、洗い終わったと見るやシャワーからお湯を出して泡を流す。泡の中から蔦子さまの胸が露になる。蔦子さまの肌は濡れて光り、なんだかとても艶かしい。女の笙子が見てもなんだかぞくぞくしてしまう。
「蔦子さんの胸、大きいですよね」
「そうかな?あまり意識したことないけど」
「肩がこりませんか?」
「わたしはカメラで鍛えてるから。ところで笙子ちゃん」
眼鏡をかけていない蔦子さまの目がこちらを見ている。眼鏡をかけていない蔦子さまもきれいだなあ。
「はい」
「ずっと見てるつもり?」
「できれば」
笙子が笑って言うと、
「まったく。場所はあるんだから、笙子ちゃんも体を洗いなさい」
「はあい」
笙子はお湯から出て、体を洗い始めた。蔦子さまは髪を洗っている。笙子が体を洗い終わらないうちに蔦子さまは髪を洗い終わって、湯船に浸かってしまった。今度は、笙子が見られる立場になる。なんかすっごい恥ずかしいんですけど。
「笙子ちゃんの胸はかわいいわね」
「ちょっと小さいかなって気にはしてるんですけど、わたしは胸以外も細いのでこんなものかと」
「モデル体形ね。着るものに困らなくていいでしょう?重ね着しても太くならないし」
「それはありますね。密かな自慢なんです」
笙子は髪を洗い始めた。蔦子さまと同じシャンプー。うふふ。
シャワーで髪を流して髪を洗い終わると、笙子はお湯に入り、蔦子さまと並んで座った。
「男の人は男の人で、女の人は女の人で、女の人の胸って気にしますよね。何故なんでしょう?」
「やっぱりわかりやすいからじゃないかしら」
蔦子さまが答える。
「体の正面にあるし、赤ちゃんのときからお世話になってるわけだし。おっぱいネタのジョークは小学生でもわかるからね。」
説得力があるような気がする。
「じゃ、男の人はどこを気にしてるんでしょうか?」
「ああ。それなら知ってる」
「どこなんですか?」
蔦子さまはニヤリと笑い、
「今いやらしいこと考えたでしょ」
「いえ、決して、そんな」
と笙子は言うけれど、顔が赤くなっていくのが自分でもわかる。
「そう?じゃ言ってみてくれる?」
「そんな・・・言えません」
「どうして言えないの?」
「蔦子さまぁ!」
「ふふふ」
「それじゃあ蔦子さまは言えるんですか!」
「言えるわよ。正解は、髪の毛」
「えーっ!」
蔦子さまは勝ち誇ったように笑い、
「うちのお父さんがお母さんにね、よく髪のチェックさせてるのよ。で、聞いたら、女の人が太ることを恐れるように、髪が薄くなるのを恐れているんだって」
その心理は、笙子にはよく理解できなかった。
「女にはわかるまいって言ってたから、まあそういうものなんだと思うしかないけどね」
蔦子さまにもやはりピンと来ないらしい。男と女って、不思議。
「あー面白かった。さて、出ようか?」
「もう少しいいじゃないですか。ゆっくりしましょうよ」
蔦子さまから意外な攻撃を受けてしまったので、なんとか反撃したいと笙子は思った。
「あの、蔦子さま」
「何?」
「胸に触ってもいいですか?」
蔦子さまは無言で姿勢を保ったままスローモーションのように笙子の向こう側に倒れ、水音とともに水中に没してしまう。お湯の中で倒れた蔦子さまは目を開いたままで、口から空気の泡がごぼごぼと出ている。髪がゆらゆらと揺れている。
「ちょっ、蔦子さま!」
笙子は蔦子さまの肩に手をかけて引っ張ったが、蔦子さまを起き上がらせられない。笙子は立ち上がり、体勢を変えてもう一度引っ張り上げようとしたその時、蔦子さまはお湯から顔を出した。笙子は浴槽にしりもちをついて座ってしまう。蔦子さまは両手で髪を後に流すと、顔の水気を両手で払う。
「考えたんだけど」
「びっくりさせないでください!」
「ごめん。ちょっとインパクト大きかったから」
「考えたって、お湯の中でですか?」
「一応な」
蔦子さまはまたしてもニヤリと笑い、
「笙子ちゃんが触らせてくれたら、触ってもいい」
勝てない。蔦子さまには、絶対勝てないのかもしれない。どうする笙子?
「ふふふ。出ようか?」
「ちょっと待ってください」
「え」
「触ってもいいです」
「え」
「いいと言っているんです」
「え」
蔦子さまの顔からニヤリが消えた。さあ、どうする蔦子さま?
蔦子さまはしばらく考えていたけれど、
「笙子ちゃんには勝てないな。覚悟は?」
笙子は黙って頷く。
笙子の左の胸が、蔦子さまの右手に包まれる。敏感なところには触れていない。蔦子さまは手に力を入れたり抜いたりしていたが、
「いい乳じゃ」
と言って手を離す。笙子は吹き出して笑ってしまった。
「さあーて出ようかなー」
蔦子さまが一瞬の隙を突いて立ち上がろうとするので、笙子はあわてて蔦子さまの腕をつかむ。
「蔦子さまずるい。今度は私の番ですよ」
「ダメだったか。うまくいくと思ったのになあ」
「覚悟はいいですか?」
「どうぞ」
この期に及んでも感じられる余裕が悔しかったけれど、笙子は蔦子さまの左の胸に自分の右手を当てた。が、手のひらに収まらない!
思い切って下から持ち上げてみると、ちゃんと持ち上がる。もう一度持ち上げてみたが、確かに持ち上がる。
「蔦子さま」
「何?」
「量りで胸の重さが計れますよ!」
今度は蔦子さまが吹き出して笑った。笙子は蔦子さまの胸から手を離した。
「どうしてそんな発想が?」
「いえ単なる思いつきです」
笙子は笑って答えた。今回は、引き分けだと思う。危なかったけど。
「さ、出るよ」
蔦子さまは立ち上がって、浴槽から出る。蔦子さまのお尻や脚につい見とれてしまう。蔦子さまは浴室を二、三歩ドアに向かって歩くと、何を気にしたのかちょっと下を向いてこちらに体を向けた。その時、蔦子さまの全裸の全身が笙子の目に入った。知的な顔。濡れた髪。首筋から肩、腕につながるライン。豊かな胸。細いウェストから腰、太ももから足首への滑らかな流れ。こんなに美しいなら、確かに時空から切り取って残しておきたいと思う。蔦子さまは女子高生の美しい瞬間を切り取って残すと言っているけれど、そのために隠し撮りまがいのこともするけれど、その気持ちが今、笙子にはっきりとわかった。ヌード写真というわけには行かないけれど、学校の日常の中にも美しい瞬間は必ずあるはずで、蔦子さまはそれを追いかけているのだ。
蔦子さまは椅子の位置を足でちょっと直すと、シャワーを出して全身を流し、浴室を出て行く。笙子も浴槽を出てシャワーを浴び、浴室を出る。



笙子はまたしても夢見心地だった。二階の蔦子さまの部屋のソファで、蔦子さまが笙子の髪に指を通し、ドライヤーで髪を乾かしてくれているのだ。とてもいい気持ち。髪の毛を触ってもらうのは気持ちいいけど、今回は相手が蔦子さま。気持ち良くない訳がない。気持ち良すぎて、時々意識が飛びそうになる。わたし、眠いのかしら。今日はいろいろなことがあったけれど、「一緒にお風呂」作戦はうまくいったみたい。だって、今こうして蔦子さまの指が・・・
「笙子ちゃん、眠いの?」
「えっあっ大丈夫です」
「もう少しだからがんばって起きてて」
「はい」
蔦子さまは首の後から上に向かって、一番ドライヤーの風のあたりにくいところをもう一度やさしくなでてくれる。その後頭全体をぐるっと風と指を流して、
「これでいいでしょう。おしまい」
「ありがとうございますう」
笙子はそのままソファにばったりと倒れた。気持ちよくて、本気で眠ってしまいそうだった。
「ちょっとここで寝ないでよ」
「蔦子さまぁ」
「しょうがないわね」

「しょうがないわね」
蔦子は姉妹を作らないと決めていた。女子高生の美しい瞬間はいつどこに現れるかわからない。だから少し離れたところから全体を見る必要があった。でも最近、そういう自分が孤独な存在であることに気がついた。いや、知ってはいたのだが、それを意識し始めた、と言ったほうがいいだろうか。孤独。それは自由を意味していた。ところが、祐巳さんが薔薇の館へ去ってから、孤独のもう一つの面、寂しさを意識するようになった。それはしかたのないこととあきらめて、日々の活動に身を埋没させていた。そんな時、笙子ちゃんが現れた。バレンタインのイベントの時だ。それ以来、蔦子はこの子のことを忘れたことはなかった。日々想いは募り、妹にすることを考えたことも何度となくあった。姉妹を作らない決意はあったが、笙子ちゃんを身近に置きたいと思う気持ちは不思議とそれと矛盾するものではなかった。
「ほら、立って。こっちへいらっしゃい」
「はあい」
この空虚な感じ、「冬の寂しさ」を埋めるには、笙子ちゃんを手元に置くほかない。リリアンでは、それは「妹」にすることを意味する。妹ができると視野が狭くなるかもしれないが、それより今はこの子が欲しい。愛しい。
「じゃここに寝て」
「ふわい」
今回のお泊りは笙子ちゃんの用意した罠で、押しかけ女房に居座られるような感じがするけれど、不思議と嫌な気はしない。それに今日一日でわかったことがある。笙子ちゃんがどれだけ蔦子を好いていてくれるか。蔦子がどれだけ笙子ちゃんを愛しているか。それは痛いほどわかった。だから、この子を妹にすることになんの障害があろうか。
蔦子はベッドに笙子ちゃんを寝かせると、自分もそのとなりに入って、毛布と布団をかける。笙子ちゃんはもう小さな寝息を立てていた。本当はこうして並んでベッドに入って、怖い話やちょっとHな話をしようかと思っていたのだが、なんだかもう寝てるし。蔦子は上半身を起こすと笙子ちゃんの頬にキスして、眼鏡を外してベッド脇のテーブルに置き、そして仰向けになり目を閉じた。ベッドの中で笙子ちゃんの手が蔦子の手に触れた。手のひらを合わせて軽く握ると、握り返してくる。それだけのことが、蔦子にはとてもうれしく思えた。



あったかい。ふわふわ。最初に感じたのはそんなことだった。あれ、ここどこ。笙子は目を開ける。天井の模様がいつもと違う。あ、そうか、蔦子さまの家に遊びに来てたんだった。でもちゃんとお布団で寝てる。お風呂から出て、髪を乾かしてもらって。しかし笙子にはそこから先の記憶がなかった。カーテンが閉まっているけれど、かなり明るい。随分遅くまで眠ってしまったようだ。今何時なんだろう。何気なく隣を見ると、眼鏡を外した蔦子さまが眠っている。蔦子さまって眼鏡を外したところもすてき。
「えーっ!」
笙子は事態を全て理解した。昨晩は蔦子さまと同じ一つのお布団で寝てしまったのだ。そんな。そんなの聞いてないよ!
「う・・・ん・・・」
蔦子さまが目を覚ました。蔦子さまは寝たまま体をこちら向きに変えて、片手で目をこすりながら、ゆっくり目を開ける。
「・・・おはよう、笙子ちゃん」
「つっ蔦子さま」
「どうしたの」
「いっ一緒に寝てるんですけど」
「嫌だった?」
「いえそうじゃなくて」
「本当はね、別々に寝ようと思ってたのよ。でも笙子ちゃん先に寝ちゃったでしょ。で、ベッドまで連れてきたんだけど」
笙子は無言で聞いている。
「寝顔がかわいかったから、一緒に入っちゃったの。ベッド。」
「蔦子さま・・・」
「なあに?」
眼鏡でも、カメラでもない、レンズ越しでない蔦子さまの黒い瞳。やさしい微笑み。とても近くで。
「・・・もしかして私に何かしました?」
「どうしてそうなるのよ」
蔦子さまは笑って、
「マジックで顔に落書きするとでも?」
笙子はとっさに顔に手を当てるけれど、
「そんなことしてないわよ」
「そっそうですよね」
「でもね、」
「?」
「ほっペにちゅーはさせてもらったから」
「!」
「ふふふ」
蔦子さまはお布団にもぐってしまった。
「蔦子さま・・・」
笙子はなんだか恥ずかしくて、でもどうしたらいいかわからない。きっと顔が赤くなっているに違いない。蔦子さまがお布団から顔を出した。蔦子さまも、顔が赤いみたい。
「朝ご飯にしようか?」
「はい」
蔦子さまは上半身を起こしてベッド脇のテーブルから眼鏡をとってかけると、そのテーブルに載っている時計を見た。
「あれー十二時だよ」
「本当ですか?」
蔦子さまはベッドを出てカーテンを開ける。昼間の日差しが部屋に差し込む。
「ちょっと寝過ぎちゃったかなあ」
「そうですね」
「貴重な時間を無駄にしちゃったかしら」
笙子はベッドに腰掛け、
「そうは思いません。だって、ずっと一緒だったんですから」
「そう。それならよかった」
蔦子さまはソファまで歩いていき、
「サンドイッチ、いくつ食べる?」
と聞くので
「ひとつ、ください」
と笙子が答えると、頷いて部屋を出て行った。

笙子がソファで待っていると、蔦子さまがサンドイッチをたくさん持って戻ってきた。
「こんなに食べられませんよ!」
「いやほら、種類があるからさ。どれでも好きなのをどうぞ」
笙子はハムとレタスのサンドイッチを手にとった。蔦子さまはBLTサンド。
「スープもあるからどうぞ。インスタントだけど」
と言って蔦子さまはマグカップを差し出す。
「ありがとうございます!」
マッシュルームのスープだった。まだ熱いけど、おいしい。
笙子はあっという間にサンドイッチを食べてしまった。でも、まだ食べたりない感じ。
「もうひとつ食べていいですか?」
「もちろんいいわよ。わたしたちは朝ごはん抜きな訳だから」
「もうお昼ですもんね。それじゃ」
笙子はもう一つ、卵とツナの入ったサンドイッチを手にとる。蔦子さまも二つ目のサンドイッチを食べている。
二人ともあまり言葉を交わさずに、もっぱら食べているだけなのだが、笙子は満たされていた。文字通り幸せをかみしめていた。
「蔦子さま」
「なあに?」
「こうやって、大好きな人と次の日を迎えられるって、幸せなこ」
笙子はそこで、「蔦子さま」と言うべきところを「大好きな人」と言ってしまった事に気づき、両手で顔を隠す。
蔦子さまは食べかけのサンドイッチを置いて、笙子に体をくっつけて座り、
「大好きな人と次の日を迎えられるのは幸せなことだわ。わたしもね、今その幸せにひたっているの」
「蔦子さま・・・!」
蔦子さまは優しく笙子を抱いてくれる。蔦子さまは今、笙子と同じ思いでいてくれるのだ。笙子にとって、こんなにうれしいことはなかった。



「わたし、帰ります」
遅い朝食を終えてしばらく雑談した後、突然笙子ちゃんが言った。午後二時半。
「夜までいてもいいんだけど?」
「いえ、わたし」
笙子ちゃんはちょっと言葉を区切って、
「今の気持ちのまま、帰りたいんです。それに」
「それに?」
「夜までいたら、もう一晩泊まってしまいますから」
蔦子は笙子ちゃんの頭をくしゃくしゃとなでた。
「わかった。じゃこのへんでお開きね」
「はい」
笙子ちゃんはバッグから着替えを出して、なんのためらいもなくパジャマを脱いで下着姿になり、着替えていく。蔦子の視線を全く気にしていない。そんな姿を見て蔦子は思わず、
「新婚さんかあ」
とつぶやきをもらしてしまう。
「きっと新婚さんって、こんな感じなんだろうね」
「それはわたしも考えてました」
と笙子ちゃんは笑い、スカートのジッパーを上げる。
「蔦子さまも着替えてください。遅くなっちゃいますよ」
「ホント、こんな感じなんだろうねえ」
蔦子は苦笑しながらもトレーナーを脱ぎ、着替え始める。



「忘れ物ない?」
「はい。大丈夫です。」
蔦子は玄関の鍵を閉めると、門に向かって歩き出す。自然に笙子ちゃんと手をつないでいる。門を過ぎ、階段を下りる。ここから駅まで約十五分。いつもと同じ景色が、今日は違って見えるような気がする。なんかわたし、すっかり丸めこまれちゃったなあ。でもいいんだ。多分これで間違っていない。これからも女子高生の写真は撮るし、盗撮まがいだってやめない。でも、笙子ちゃんの写真も撮りたい。昨日お風呂で見たあの体形なら、何を着せても似合うだろう。いろんな服を着せて撮ってみたい。ちょっと妖しいやつとかも着せたりして。ふふふ。
「蔦子さま」
「なっ何笙子ちゃん」
「今顔がにやけてましたよ」
「えっ」
「蔦子さまもあんな顔するんですね」
「いっいやこれは」
「いいですよ別に気にしなくて。誰にも言いませんから」
笙子ちゃんはつないだ手をぶんぶんと振って歩く。
蔦子は思う。蔦子は祐巳さんのことが好きだったのかもしれない。猫のように表情が変わる祐巳さんが。心に隠し立てのない祐巳さんが。でも祐巳さん、わたし自由になれたよ。孤独から。寂しさから。これが本当の自由。
駅が見えてきた。
「もうすぐお別れですね」
「また明日会えるじゃない。でも笙子ちゃんがいいなら、このまま引き返してもいいけど」
「えへへ」
駅に着いた。笙子ちゃんは券売機で切符を買って戻ってきた。
「じゃ行こうか。ホームまで送るわ」
蔦子は定期券で駅に入る。笙子ちゃんも後をついて来る。
ホームに行って、適当なところに二人で立つ。ちょうど時刻表が見える。蔦子は時刻表を見て、
「あと五分で来るよ」
「ちょうど良かったですね」
吹き抜ける風が冷たいけれど心地よい。
「蔦子さま」
「なあに?」
「昨日、キスしてくれませんでしたね」
「寝る前にほっペにしたよ」
「ほっぺのことは、わたし覚えてないですから。そうじゃなくて、電話がかかってきて」
「ああ、あの時ね」
真美さんが電話をかけてきて、助かったと思ってたんだけど、覚えてたか。
蔦子はあたりを見回して、人が少なくて誰もこちらを見ていないのを確かめると、ふわりと笙子ちゃんを抱き寄せ、少しかがんで笙子ちゃんの目を真正面から見る。黒く澄んで、愛しい瞳。
「笙子ちゃん、愛してる」
そして蔦子は自分の唇を笙子ちゃんの唇に重ねる。ほんの一瞬だけ。
「蔦子さま・・・」
笙子ちゃんは少し驚いたみたいだったけれど、
「笙子ちゃん、ありがとう」
そう言って蔦子は笙子ちゃんを抱きしめる。笙子ちゃんも抱き返してくれる。電車がホームに入ってくる音が聞こえる。体を離すと、笙子ちゃんは笑っていた。いい笑顔だったけれど、涙が一筋落ちていた。
「蔦子さま、大好き!」
笙子ちゃんは蔦子に飛びついてくる。蔦子は笙子ちゃんを受け止め、抱きしめる。蔦子も一粒、涙を落した。電車が止まり、ドアが開く。
「さあ、乗って」
笙子ちゃんは泣いているんだか笑っているんだかわからない顔になっている。
「泣くんじゃないの。明日また学校で会えるんだから」
「蔦子さま!」
ドアが閉まる。電車が動き出す。次第に小さくなる笙子ちゃんの姿。笙子ちゃんが大きく手を振り出す。蔦子も大きく手を振る。笙子ちゃんは見えなくなるまで、ずっと、ずっと手を振りつづけていた。
さて。まだ日も高い。どうする。蔦子は涙を払い、つぶやいた。
「ロザリオ、買わなきゃね」



(おしまい)




あとがき

妄想大爆発!!

ごめんなさい。私の妄想ダダ漏れ話にお付き合いくださり、ありがとうございました。ヤバげなところもありますが、一応全年齢向けのお笑い話のつもりです。
個人的に書いてて楽しかったのは、電話で乱入する真美さん。真美さん書くの楽しいなあ。お風呂のシーンも楽しかった。笙子同盟から除名されるんじゃないかとヒヤヒヤしながら書きました。それから蔦子さんの心情で、祐巳に対する想いを吐露するところ。あとは、一箇所ずつだけど、「クローム」と「ウィンターミュート(冬寂)」の言葉を入れられたところかな。若い人にはわからないネタですね。
それでは、お読み下さりありがとうございました。ご意見ご感想お待ちしています。



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