菊池家のルーツを辿る旅中国名品を救った菊池惺堂の話
東家四代 長四郎 晋二 号惺堂
四代目長四郎惺堂は大橋陶庵の第二子で、母方に淡雅・訥庵の血を引き、父方に佐藤一斎・河田迪斎(孫の河田烈は大蔵大臣、その甥は吉田茂)の血を受け継ぐいわばサラブレッドであった。三代目経政に男子なく、その長女絲子と養子縁組して菊池東家に入った。近代資本家としての遺産を引き継ぐとともに、家業である「佐孝」の商売と菊池の名跡を継ぐことになる。
また、弟の正|(陶庵第四子)は、本所菊池家初代永之助政隆の養子に入り二代目永之助となる。菊池家に入ったこの二人がいずれも関東大震災の罹災によって、自らの運命と、家業の運命を大きく狂わせることとなった。
晋二は父方の曾祖父に佐藤一斎、母方の曾祖父に清水赤城と淡雅、祖父に訥庵という血を受け継いでいる。外務大臣、大蔵大臣を歴任した河田烈は従兄である。姻戚関係を辿ると大久保利通から牧野伸顕、吉田茂、麻生太郎まで広がる。以下はその関連系図である。

特別展「台北 國立故宮博物院−神品至宝−」
8月5日から展示される行書黄州寒食詩巻(ぎょうしょこうしゅうかんしょくしかん)蘇軾(そしょく)筆の数奇な運命とは?東京人8月号掲載。

「清朝の時代、「寒食帖」は紫禁城の皇帝コレクションの一部だった。それが清朝末期に民間に漏出し、中国人収蔵家の手を経て、1922年日本人の菊池惺堂という人が購入するに至った。菊池家は豪商の家系で、惺堂は東海銀行の創設者の一族でもあり、文物の収集家としても知られていた。
菊池が「寒食帖」を購入した翌年、関東大震災が起きる。菊池の厖大な収蔵品も火災で焼尽した。しかし、菊池は「寒食帖」だけは守ろうと炎の中に危険を冒して飛び込み、外に運び出したのである。(中略)第二次大戦後、「寒食帖」は再び中国に戻った。

関東大震災で甚大な損害を被った佐野屋日本橋佐孝店は、文化年間から4代に渡って続いてきた商売を閉じるのやむなきに至った。奇しくも震災の前年、大塚の地に分家出店した佐野屋は震災の被害を免れ、第二次大戦を経て現在も続いている。菊池家との因縁ある「寒食帖」の渡来公開にあたって、都市出版さんの取材を受けてこの逸話が「東京人」に掲載された。
蘇軾(1036-1101)、四川眉山の人、号は東坡。北宋の官人として頭角を現しましたが、文学を通じて朝政を風刺批判したために黄州に流罪となり不遇の生涯となりましたが、文学や書では公正に不朽の名声を得ています。「黄州寒食詩巻」(寒食帖かんじきじょう)は1082年の作で書はその後に書かれたものとされています。詩文は官界を追われ辺境に流された蘇軾の憤りや間悲しみが流麗な文章からにじみ出てくるようで深い感銘を受けます。

  自我來黄州  我の黄州に來りてより
  已過三寒食  已に三たびの寒食を過せり
  年年欲惜春  年年春を惜しまんと欲すれども
  春去不容惜  春去って惜しむを容れず
  今年又苦雨  今年又雨に苦しむ
  兩月秋蕭瑟  兩月 秋蕭瑟たり
  臥聞海棠花  臥して聞く海棠の花の
  泥汚燕脂雪  泥に燕脂の雪を汚(けが)すを
  暗中秘負去  暗中秘かに負ひ去る
  夜半真有力  夜半 真に力有り
  何殊病少年  何ぞ殊ならんや 病める少年の
  病起頭已白  病より起きれば頭已に白きに