ストロンチウム原子と光格子時計
令和7年12月4日
令和7年12月6日追記
光格子時計に用いる原子の要件
ネット上で「なぜ光格子時計ではストロンチウム原子が使われるのか?」という疑問を目にしたのですが,これを一般向けに解説したものはあまり見当たらないので,自分なりに説明してみようと思います.
クロック遷移
光格子時計では原子を光格子(レーザ光の定在波による周期的ポテンシャル)にトラップし,周波数基準となる基底状態→励起状態の遷移(クロック遷移)の確率が最大になるようにクロックレーザを制御します.
クロック遷移周波数を
fc,線幅を
Δf とする時,
Q = fc/Δf
が大きい程,周波数安定度は良くなります.
線幅が広くなる原因は様々ですが,原子の熱運動によるドップラー広がりなどを取り除くと,究極的には励起状態の原子が光を自然放出して基底状態に遷移する寿命の逆数(自然幅)となります.
[要件1]クロック遷移では自然幅が非常に狭い(寿命が非常に長い)励起状態が必要
レーザ冷却
光格子に原子をトラップする前段階として,高温(速度が数百m/s)の原子をµKオーダまでレーザ冷却
[LINK]する必要があります(原子の温度が高いと光格子にトラップできません).
レーザ冷却では,最初にゼーマン減速を用いて原子ビームを減速させます.
原子ビームが十分に減速されたら,次に磁気光学トラップ(MOT: Magneto-Optical Trap)を用いて原子を更に冷却して原子を一箇所に閉じ込めます.
原子の進行方向から逆向きにレーザ光(原子の共鳴周波数より少し低く設定)を照射すると,原子はレーザ光を吸収して基底状態から励起状態に遷移し,吸収した光子の分だけ運動量が減少します.
その後,励起状態の原子は光を自然放出して基底状態に戻り,再びレーザ光を吸収します.
レーザ光の吸収と自然放出を何度も繰り返す事により原子は冷却されるので,寿命が短い励起状態への遷移を使えば,短時間で原子を冷却する事ができます.
一方,MOTを用いて原子を冷却できる限界(ドップラー冷却限界)は
TD = hΔfn/(2kB)
で与えられます.
ここで,
Δfn は自然幅,
h はプランク定数(6.62607015×10
-34 J・s),
kB はボルツマン定数(1.380649×10
-23 J/K)です.
この式を使って計算してみると,
Δfn = 1 MHz → TD = 24 µK
Δfn = 100 kHz → TD = 2.4 µK
Δfn = 10 kHz → TD = 240 nK
となるので,自然幅が狭い励起状態への遷移を使った方が原子をより冷却する事ができます.
そこで,光格子時計では2段階のレーザ冷却を組み合わせています.
1次レーザ冷却(ゼーマン減速およびMOT)では自然幅が広い励起状態への遷移を使って急速に冷却し,2次レーザ冷却(MOT)では自然幅が少し狭い励起状態への遷移を使って徐々にµKオーダまで冷却します.
[要件2]1次レーザ冷却では自然幅が広い(寿命が短い)励起状態が必要
[要件3]2次レーザ冷却では自然幅が少し狭い(寿命が少し長い)励起状態が必要
ストロンチウム原子
ストロンチウム(Sr)には4種類の安定同位体が有りますが,現在の光格子時計で用いられているのは原子核が38個の陽子と49個の中性子(合計87個の核子)から成る
87Srです.
陽子の数が偶数で中性子の数が奇数ならば,原子核のスピンは必ず半整数(奇数×1/2)になります.
87Srの場合,原子核はスピン
I(
I = 9/2)を有します.
これ以外の安定同位体(
84Sr,
86Sr,
88Sr)の原子核は陽子の数と中性子の数が両方とも偶数なので,スピンは 0 になります.
Sr原子は38個の電子を持っており,その内の36個は1s軌道から4p軌道までを占めています.
残りの2個の電子(価電子)は通常は5s軌道にあります.これは価電子のエネルギーが最も低い基底状態です.
これに対し,5p軌道より上は外部から何らかの形(たとえば光)でエネルギーを与えられた励起状態です.
Sr原子の電子配置
| 軌道 | 主量子数(n) | 方位量子数(l) | 電子の数 | |
| 5s | 5 | 0 | 2 | 価電子(基底状態) |
| 4p | 4 | 1 | 6 | |
| 4s | 4 | 0 | 2 | |
| 3d | 3 | 2 | 10 | |
| 3p | 3 | 1 | 6 | |
| 3s | 3 | 0 | 2 | |
| 2p | 2 | 1 | 6 | |
| 2s | 2 | 0 | 2 | |
| 1s | 1 | 0 | 2 | |
基底状態では2個の価電子は共に5s軌道にあり,「パウリの排他律」によりスピンは必ず逆向きなので,価電子の全スピンは
S = 0(1/2 - 1/2)となります.
この状態(
1S
0)はスピンの特定方向成分が1つの値(0)だけとなる一重項状態です.
一方,2個の価電子が5s軌道と5p起動にある励起状態では,スピンが逆向きの状態と同じ向きの状態が有るので,価電子の全スピンは
S = 0(1/2 - 1/2)または
S = 1(1/2 + 1/2)となります.
前者(
1P
0)は基底状態と同じく一重項状態,後者(
3P
J)はスピンの特定方向成分が3つの値(-1,0,+1)をとる三重項状態です.

Sr原子のエネルギー準位図
(長野重夫「光周波数標準の現状と将来展望」[LINK]より)
Sr原子のエネルギー準位図を上記の要件と照らし合わせると,以下の様になります.
- 1S0→1P1(λ = 461 nm)
ΔL = +1
ΔS = 0
ΔJ = +1
選択則を満足するので許容遷移.
1P1 は自然幅が広い(32 MHz)励起状態である([要件2]に適合).
- 1S0→3P1(λ = 689 nm)
ΔL = +1
ΔS = +1
ΔJ = +1
選択則を満足しない(ΔS ≠ 0)ので禁制遷移.
3P1 は自然幅が少し狭い(7.1 kHz)励起状態である([要件3]に適合).
- 1S0→3P0(λ = 698 nm)
ΔL = +1
ΔS = +1
ΔJ = 0(J = 0 → J = 0)
選択則を満足しない(ΔS ≠ 0 かつ J = 0 → J = 0)ので禁制遷移(二重禁制).
ただし,87Srでは核スピンとの超微細相互作用が有るので,わずかに遷移可能.
3P0 は自然幅が非常に狭い(〜 10 mHz)励起状態である([要件1]に適合).
魔法波長
光格子にトラップされた原子のエネルギー準位はレーザ光の強度と分極率の積に比例したシュタルクシフトを受けるので、通常は正確なクロック遷移周波数を求める事ができません.
ただし,分極率はレーザ光の波長に依存するので,クロック遷移に用いる励起状態と基底状態のシュタルクシフトが等しくなる波長(魔法波長)が存在すれば,正確なクロック遷移周波数を求める事ができます.
光格子を作るレーザ光の波長を λ = 813.428 nm にすれば,87Srの 1S0 と 3P0 のシュタルクシフトが等しくなる事が実験的に確認されています.
【参考】
主量子数
電子の軌道の大きさを表す量子数.
原子核に近い方から,1,2,3,4……の値をとる.
方位量子数
電子の軌道角運動量
L を表す量子数.
主量子数を
n とした場合,0,1,2,……,
n - 1 の値をとる.
軌道は小文字で s,p,d……と表記する.
例えば,
n = 5,
l = 0 ならば 5s と表記する.
スピン量子数
電子の内部角運動量
S を表す量子数.
電子1個のスピンは 1/2 の値をとる.
全角運動量量子数
電子の軌道角運動量とスピンを合成した全角運動量
J =
L +
S を表す量子数.
|
L -
S| から
L +
S までの値をとる.
例えば,
L = 1,
S = 1 ならば,
J は 0,1,2 の値をとる.
原子のエネルギー状態の表記法
2S + 1LJ と表記する.
L = 0,1,2……は大文字で S,P,D……と表記する.
左肩の 2
S + 1 はスピン多重度(スピンの特定方向成分が取り得る値の数)を示す.
許容遷移
以下の選択則を満足する場合,電気双極子遷移が許容される.
ΔL = 0,±1
ΔS = 0
ΔJ = 0,±1(ただし,J = 0 → J = 0 は禁止)
禁制遷移
選択則を満足しない場合,電気双極子遷移は禁止される.
ΔS ≠ 0 かつ
J = 0 →
J = 0 のような場合は特に「二重禁制」と呼ばれ,磁気双極子遷移や電気四重極遷移なども禁止される(核スピンとの超微細相互作用が有れば,わずかに遷移可能となる).
励起状態の寿命
励起状態の原子が光を自然放出して基底状態に遷移する確率が高いと寿命が短くなる.
励起状態→基底状態が許容遷移ならば,電気双極子遷移が起きる確率は高い(励起状態の寿命は短い).
励起状態→基底状態が禁制遷移ならば,磁気双極子遷移や電気四重極遷移などが起きるが,その確率は電気双極子遷移よりも低い(励起状態の寿命は長い).
励起状態→基底状態が禁制遷移(二重禁制)ならば,磁気双極子遷移や電気四重極遷移なども起きない(励起状態の寿命は非常に長い).