阿倍王子神社 大阪府大阪市阿倍野区阿倍野元町 旧・郷社
現在の祭神 伊邪那岐命・伊弉那美命・速素戔嗚命
[合祀] 品陀別命(応神天皇)
本地 薬師如来

「平成祭データ」

阿倍王子神社 御由緒

「高津の南玉勝間のうしとら、あへの中州にあやしき雲あり、老松蓋をかたむけて波縁をあらふ。其梢に三足の霊鳥ありあへて人をおそれす、首は雪より白く眼は日よりも明くて、見てうたかふ所なしと」
◇◇これは「摂州東成郡阿倍権現縁起」にしるされている一節で、むかし仁徳天皇の御夢に熊野権現の神使が現れ、その場所を捜させると、阿倍島に三足の霊鳥がいたので、そこに神社を祭つたのが阿倍王子神社の始まりと伝えています。
もっとも、熊野信仰は、奈良時代に吉野から分け入った山林斗薮の道者達によって、開発紹介された新しい信仰であることから、仁徳天皇にかこつけるのはやや無理があるように思われます。 それよりも奈良時代に当地に居住して、阿部寺を建立した豪族阿部氏の氏神として祭られたのが、平安時代に入って熊野信仰の盛行にともない、街道筋に位置していたことから、熊野神を勸請合祀されて、熊野王子社になったものと考えられます。
さらに同じ「権現縁起」には、
「淳和帝天長三年の夏、空海師をして民の疫難をしつめさしめ給ふ。空海師当社に入て、御本地医王の尊像を一刀一礼して彫刻し、草堂に安置して神宮寺と号し[中略]叡信浅からず寺は改めて痾免寺と勅額をたまひ、(通阿倍)ながく御願寺と定め」
という記述があり、平安初期の天長三年(826年)、当社に神宮寺が出来たと伝えています。
この神宮寺も往時はかなりの大寺であったようで、相生通に御坊屋敷の小字名があり、またその南には西政所の小字名も見られます。 したがって、当時は神社もかなり大きかったと思われますが、阿部氏が他所へ移転し勢力を失うとともに、神社も小さくなり、熊野王子社へと転化したものと思われます。
幸い当社は住吉大社と四天王寺のちょうど中間に位置して、熊野参詣で賑わう街道筋の王子社として存続し、鎌倉初期建仁元年(1201年)の「後鳥羽院熊野御幸記」には、第四番目に阿倍野王子の名がみえています。
一番目が窪津王子、二番目が坂口王子、三番目がコウト王子、次に四天王寺に詣でて、四番目が当社です。 王子社とは、熊野神社の末社の事で、参詣者の遥拝と休憩を兼ねた神社でもあり、数が多いので九十九王子とも呼ばれました。 時代によって消長増減がありますが、合計すれば紀伊路に沿って約百社の王子社がありました。
阿倍野王子は第四番目ですが、後世になって第二王子とも呼ばれるのは、南北朝時代の戦乱で途中の王子社が焼失してしまい、安土桃山時代には第二王子社になっていたわけで、江戸時代の「蘆分船」等の書物でも、当社は熊野第二王子として見えています。