安弘見神社 岐阜県中津川市蛭川 旧・村社
現在の祭神 建速須佐之男命
[配祀] 志那津彦命・志那津姫命・宇迦之御魂神
本地 薬師如来

「日本の神々 9 美濃・飛騨・信濃」

安弘見神社(佐野正隆)

 蛭川村は木曾川中流の恵那峡の北岸にあって周囲を岩山・笠置山・若山などに囲まれており、当社は村のほぼ中央の小高い丘の上に鎮座する。 祭神は素戔嗚命。 旧村社。
[中略]
 当社は明治維新までは「牛頭天王社」と称していたが、神仏分離に際し、明治二年に地元の郷名をとって現社名に改称した。 創建は不明であるが、最古の棟札には慶長十九年(1614)の記載がある。 『木曾古道記』は当社について「蛭川村、牛頭天王云、宮殿末社数多の大社也と、禰宜屋・祝部屋・上の坊・下の坊・古跡有り」と記している。 禰宜屋をはじめ四つの屋号はいずれも当社とかかわりがあるようである。 近世に当地を支配していた苗木藩は明治新政府が成立すると藩政改革に着手、その一環として徹底的な廃仏毀釈をおし進めた結果、仏教関係の施設・文化財はことごとく破壊・焼却され、村内の寺院は皆無となった。 当社もこの動きのなかで社名を変更するとともに、境内の右手にあった瑠璃光堂(薬師堂)を廃棄した。
 例祭は四月十六日に行われ「杵振踊」の奉納がある。 神仏分離以前は六月十五日を牛頭天王社の祭日として花馬を引き、八月十五日を薬師堂の祭日として獅子舞を奉納し、杵振踊はその獅子舞に付随したものにすぎなかった。 薬師堂の廃棄は祭の執行に混乱をきたしたが、結局、花馬も獅子舞も安弘見神社の祭礼と決まり、明治四十三年には年二回の祭が統一され、期日も現在のものに改められた。

岐阜県神社庁[LINK]より

安弘見神社[LINK]

由緒由来

正長元年四月十日創祀。 当社は元木曽道恵奈郡平流川庄奥野田にあり。 正長元年四月十日和田政通入道十回忌を供養するに当たり和田社を造営して和田一族の霊を祀ると共に日頃崇拝せる京都祇園社の神霊(牛頭天王)(須盞男命)を勧請して祀れり。 この社堂を建立せしときの供養塔銘。 「両代忠節を全ふし、高義世に知る莫し 深山幽谷の裡十稔日空しく移る 陰徳陽報有り祠を建てて祭儀を行ふ 落花堆り塚の裡 松老て影参差 神霊の在るを識らんと要せば 諸人眉を提起せよ」 正長元年四月十日相模國建長大禅寺同契比丘桂巌後北條の世に五万の兵に取り囲まれ、南朝の威信を滅する戦あり。 其時神霊仏霊を人知れず御かくまい給ひて一時難をのがれ給ふ。 後南朝の臣当郷に祀り其の記録は各其時の神官家に宝藏せり。 安弘見神社(阿弘見)は京都の祇園社牛頭天王を祀るが故祇園社とも称せり。 牛頭天王は印度の祇園精舎の守護天なり。 是を薬師如来の化身とも言ひ、或いは素盞鳴命の本地垂迹せしものとも言へり。 祇園社に於いて攘災会を行ひしことあり。 明治元年神社号を安弘見神社と改号す。 境内地にあった薬師堂は苗木藩の廃物令によって焼棄せられたのである。 当社は蛭川村社なれども、往古は美濃の国社であったから一切の祭礼儀式は國社の規格を行へり。 由て其の祭儀は頗る荘厳なりし故に各藩士及び京都より公卿鎌倉より僧等が来観せり。